「鳴子温泉郷物語」タルタロスの足湯 SENDAI座☆プロジェクト2013
「鳴子温泉郷物語」タルタロスの足湯
SENDAI座☆プロジェクト 作・演出/クマガイコウキ 出演/西塔亜利夫・他 2013/09/13~ 於・鳴子公民館、他
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鳴子で芝居をやるという。しかもタイトルは「鳴子温泉郷物語」。他にも、仙台や鶴岡、関西は尼崎などでも、順次公演するらしい。しかしだ、どうせ見るなら、タイトルどおり、鳴子温泉で見るに限るだろう。
ということで、日帰り温泉に浸かってきた。共同浴場の天井の高い浴槽に浸かりながら、まずはいろいろな想いにふけった。鳴子温泉かぁ・・・・・。いろいろな想い出があるなぁ、いろんな時に、いろんな形で鳴子にやってきた。
最初に来たのは、たしか母親と一緒だった。地域の婦人会のバス旅行だった。たぶん農作業が終わった慰安旅行だったのだろう。不思議とあの時は、子供は私ひとりだった。まだ5歳か、その前後だった。あのころ、鳴子は「都会」だった。とても華やかで、全てが輝いていた。
小学校や中学校の遠足でも確か来たはずだし、10代の終わりには、自分たちの合宿のために、長湯治したことがある。その名も「東北独立合宿」。カウンターカルチャー運動華やかしい頃、1970年代の前半だった。
場所は、鳴子よりちょっと上の中山平温泉「星の湯」。全国から仲間を集めて一週間の合宿をするため、流峰のバイクに二人乗りして下見にきたことを覚えている。電話帳で探して、県内で、一番安い宿を探したのだった。
当日は、雪が深く、ほとんど雪の中にポツンと自炊湯治宿があり、暖房は手を温める火鉢くらいなもの。みんな持ちこみの寝袋を体に掛けながら、いろいろ語り合ったなぁ。北海道のネズミ、盛岡のパクシー、仙台の雀の森の仲間たち、フクシマのもぐらグループ、東京練馬の都市コミューン「蘇生」のトモくんやキコリ、その他、みんないた。ニュートンやサキ、ジープやエッコ、山形からも来たような。みんなで夢を語り合ったな。
男女混浴の浴槽にみんなで使ってマントラを唱えた。炭火でご飯を炊き、破れ障子からの隙間風に凍えた。そういえば、近くに大きな温室の自然公園みたいなものがあり、そこにワニがいたことが思い出される。
その後、鳴子に来た時は、仕事だった。家庭回りの営業で、一軒一軒家庭を回るのだが、温泉街のこと、みんな温泉に関わる仕事を持っており、どこも暖かく迎えてくれた。いろいろ紹介してくれて、仕事の終わりにはいつも温泉に浸かった。ある時などは、家族や友人を車で連れて来て、彼らは、私が仕事する間、温泉で遊んでいた。
老いた母親が鳴子に来たい、紅葉を見たい、というので、何回か、また鳴子にきた。間欠泉を見たりした。あの時、鳴子に来て、わずかばかりの「孝行」ができたことは、今考えれば、とてもよかった。現在93歳の介護ベット上の老母を、鳴子に連れてくることは、ほとんど不可能になった。
あれからも何回も鳴子に来た。最近では、3・11後に、高速道路が無料になったという、それだけの理由で、鳴子や中山平に遊んだ。でも、よくよく、考えてみると、私の中での鳴子温泉郷は、バラバラだ。一連の物語とはなっていない。それぞれが断片なのだ。しかも、ひとつひとつに、つながりがなさすぎる。人生の、いろいろな場面で、いつも唐突に登場した鳴子温泉郷。
今回、この芝居を見に鳴子に来ようと思ったのは、紹介してくれたのが、出演者のひとりである西塔亜利夫だったからだ。彼は、もう還暦を迎え、職場を退職し、第二の就職を考える時期だが、その人生の仕上げとして、これからますます「芝居」に打ち込むことになった。
彼は若い時分から芝居一筋だった。立派に職業人として社会的仕事を持っていたのだから、「一筋」とは言い難いかも知れない。しかし、魂はいつも芝居と一緒にあった。
いつだっただろうか、1970年代の後半、私が、ちょっとだけ芝居に関わり、やがてインドに行こうとしている時だった。「ひめんし劇場」の打ち上げか、「洪洋舎」の稽古場で開いてくれた私の歓送会の時だったかもしれない。
いい加減酔ったあと、みんなで街にでた。広い大通りの横断歩道を渡りながら、クルクル回った西塔亜利夫は、大きな声で「俺は、30までは絶対芝居を止めない!」と宣言した。なぜ、そんなことを今ここで? と思ったが、まだ20代の前半だった、私たちには、「30」というのは、はるか未来のことだった。「30まで芝居をやめない」ということは、当時、かなり努力を要することだった。
その後の彼の人生について、私はあまり詳しくない。演劇仲間と結婚し、家を建て、子供を何人かもうけた。マイホームを持ったのだって、仲間内ではトップクラスに早かったのではないだろうか。背広とネクタイをしめた社会活動をキチンと務めながらも、語るのはいつも芝居の夢ばかりだった。私の知る所、彼は結局、それしか語っていなかったのではないだろうか。
現在、私たちはアラウンド60となり、私より一学年上の彼はすでに退職して「悠々自適」の芝居人生に突入したものと思われる。「30まで芝居をやるぞ」宣言どころか、結局、彼は、今回の人生すべてを芝居に賭けたことになる。
その彼がまずはこの芝居「鳴子温泉郷物語 タルタロスの足湯」に打ち込むことになった。3・11直後、「自分たちは震災の後、演劇人として何ができるのか」、そのことを真剣に考えていた。電話でも、そう語った。その後、どのような展開をしたのかは詳しくは知らない。でも、この芝居は、彼の思索の一連の中に重要な位置を占めていることは確かだろう。
芝居は「復活」の物語である。かつて華やかしかった「鳴子」がどう復活するか。そのことは、廃れたホテルがどう「復活」するか、でもあったし、交通事故で消えた有名女優が、どう「復活」するかでもある。また欧米で人気を博した若き天才シナリオライターが、帰国後落ちぶれて、いかに「復活」するかでもある。
あるいは、西塔扮する湯治宿の番頭さん、実は彼は気仙沼で3・11被災した自殺未遂男なのだったが、避難してきたこの「鳴子温泉郷」で、いかに「復活」していくのか、という物語でさえある。そして、それは3・11からの「復活」をも意味しているはずである。
私はラッキーにも、この「鳴子温泉郷物語」を鳴子で見ることができたが、どこか別の街で、この芝居を見て、「鳴子に行ってみよう」となるのもいいのではないだろうか。温泉に浸かってみよう、と考えるのもいいのではないか、と思う。
でも、私はやっぱり、この芝居を鳴子で見ることができてラッキーだった。私には私の鳴子への思い入れがある。実に書き切れないほどある。ひとつひとつがバラバラな、私の「鳴子温泉郷」。人生の端々で、いつも断片的に登場してきた鳴子。
今回、私はこの芝居を見て、自分の中の「鳴子温泉郷」を、時系列に、あるいは意味的に、あるいはめちゃくちゃに、それぞれ構成し直して「物語」にすることができるのだろうか、と思った。
私も今、私なりに「復活」を狙っているのかもしれない。人生の、震災の、そして、バブル崩壊の、さまざまな事件の中で、人々は、ひそかに「復活」を夢見ている。さまざま問題はあれど、2020年東京オリンピック開催も決まった。
この芝居、もうすこし時間が経過して熟成されていくと、もっと更なる復活劇を巻き込んだ、一大プロジェクトの契機になるかもしれない。そう強く期待した。
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