「『からだ』と『ことば』のレッスン」 竹内 敏晴
竹内 敏晴 1990/11 講談社 新書: 216ページ
Total No.3100★★★★☆
竹内敏晴関連リスト
「ことばが劈(ひら)かれるとき 」 1975/08 思想の科学社
「『からだ』と『ことば』のレッスン」 1990/11 講談社
「<からだ>とことばのレッスン入門」 地球市民として自分を耕す 三好 哲司 1993/05 春秋社
「老いのイニシエーション」 1995/03 岩波書店
数多い著者の単行本だが、「ことばが劈(ひら)かれるとき 」、「『からだ』と『ことば』のレッスン」、「老いのイニシエーション」、の三冊にくさびを打ち込めば、まずは竹内敏晴という岩盤には割れ目が生まれ、一枚の岩石が剥がれてくるだろう。
私の試みているレッスンは、20年ばかりの間に次第に姿を現してきた実践の形であって、、いつのまにか「竹内レッスン」とか「からだとことばのレッスン」とか呼ばれるようになったけれども、完結した体系をもつものではない。時にそれは、肉体表現訓練とも健康法ともセラピーの一種ともみなされたことがあるが、それらとのつながりはもつけれども、実はそのいずれでもないだろう。p4「はじめに」
この「『からだ』と『ことば』のレッスン」には、さまざまな「メソッド」が紹介されているけれど、必ずしも他者のそれを発展展開させたものではない。そもそもが、著者のもつ身体的「障害」が開発の原点になっており、その発展の経緯は、著者の「体験」がひとつひとつの基本となっているのである。
であるからこそ、この「メソッド」にほれ込んだ「参加者」たちは、いつかその道の追随者となり、やがては著者を「師」と仰ぐほどの信頼感を持つようになる。そのメソッドは、何と名づけるべきなのかは不明瞭なれど、いみじくも「レッスン」と呼ばれるようになったのにも、まったく故なきことでもあるまい。
研究所のレッスンは、一応カリキュラムめいたものを組み、週三回、半年なり一年なりを一区切りにしえ、舞台上演に体当たりすることで何かを獲得する、あるいは新しい感覚へ身を開いてゆく、という方法をとっていたが、一方の集まりの方は、それぞれ、ことばがうまくしゃべれないとか、他人との対応がうまくいかず閉じこもってしまうとか、からだの問題に気づき始めてヨーガや整体術を学んでいるのだが、とか、独自の問題をもってきた人が雑多に集まっているわけだから、毎回のレッスンは、その人その人の、その時ぶつかっている悩みを、どう「からだ」の次元でとらえていくか、という試みから出発するわけで、順序も見透かしもない。ただ、からだや声が変わってゆくありさまだけが手掛かりであり、参加者たちのはげみでもあった。p5同上
著者の文章はどうかすると、かなりな長文になることがある。もう少し読みやすく、ぶつぶつと切ってくれればいいのだが、この独特のリズムが、なにかのフィールドを生み出している、とも言える。
途中で、たとえば「寝にょろ」の最中に、野口晴哉氏の「整体」で言えば「活元」が起こってきて、かなり激しい動きが持続したりすることもあるが、それも、ある集中の深さが達成されていた故だろう。このような意味での日常の「身構え」からの脱出が、深い集中に導かれ、ある「脱自」へと至る、のだ。
日常生活の中でこのように深い「安らぎ」を、しかも、他者と共に知ることはまずないことである。この「安らぎ」の感じから生活を眺め返す時、見える世界が変わってくると言っていいだろう。p116「『緊張』と『身構え』がほどける」
「活元」という単語はOshoは使わなかったけれど、その用語集から引っ張り出すなら「ラティハン」あたりが、その意味と対応するだろう。しかしながら、それぞれの「マスターたち」はそれぞれの意味を込めて使っているのであり、その「マスター」の存在、現存を抜きにして、技法やメソッド、レッスン、という部分だけを取り出すことは難しいだろう。
「脱自」という単語のしても、どこかで「トランスパーソナル」と連動してくるだろう。
これらの現象を、どこまでも独自のものであると主張することも可能であろうし、それぞれにすり寄っていって、互いの距離を詰め、同等の意味を持つものである、と結論づけることも、不可能ではないだろう。
さて、当ブログにおけるこの「46番目のカテゴリー」は、Oshoの「こころでからだの声を聴く」 を転写するところから始まった。竹内敏晴という人と当ブログがクロスし始めた時に、この「『からだ』と『ことば』のレッスン」のことが思い出され、どこかで連動し始めるかな、と期待した。
しかし、よくよく見ると、「からだ」は共通するものの、かたや「ことば」であり、かたや「声」っであった。そもそもOshoのほうの原題は「ボディ・マインド・バランシング」だから、「こころでからだの声を聴く」 という邦題は、むしろ竹内劇場にすり寄る形で、Osho邦訳スタッフが選びとったタイトルであったと言えるかもしれない。
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