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2013/10/08

こころでからだの声を聴く<32>

<31>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<32> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆日々の瞑想 

 時間を見つけたらいつでも、呼吸を数分間リラックスさせてごらん。それだけでいい---全身をリラックスさせる必要はない。あなたは電車や飛行機や車の中に座っているが、あなたが何をしているか誰も気づかないだろう。ただ、呼吸のシステムをリラックスさせる。それが自然に機能しているときと同じ状態にする。そして目を閉じ、呼吸が出ていき、入ってきて、出ていく・・・・それを見つめなさい。 

 集中してはいけない。集中したら問題を引き起こす。集中すると、すべてが障害になるからだ。車の中で座っているときに集中すると、車の騒音が障害になり、側に座っている人が障害になる。 

 瞑想とは集中ではない。それは純粋な気づきだ。ただリラックスし、呼吸を見守る。その見守る行為の中では何ひとつ排除されない。車がブンブンと音をたてている---完全に申し分ない。それを受け入れなさい。車が行き交っている---それも構わない、生の一部だ。同乗の客が側でいびきをかいている---ただ、それを受け入れる。何ものも拒絶されない。意識を絞ってはいけない。 

 集中とは、意識を絞って一点にすることだ。しかし、他の一切が競合するものになる。その一点が失われるかもしれないと恐れるために、あなたは他のすべてと闘っている。気をそらされるかもしれない---それが障害となる。すると、人里離れた場所、ヒマラヤが必要だ。インドや、誰も決してあなたを邪魔することのない、静かに座れる部屋が必要になる。 

 いや、それは正しくない---それは生の過程にはなり得ない。あなたは孤立する。確かに良い結果がないわけではない---あなたは、より静寂や穏やかさを感じるだろう。しかし、こうした結果は一時的なものだ。その雰囲気は何度も失われる感じがする。ひとたび起り得る条件が揃わないと、それは失われてしまう。 

 一定の必要条件を必要とし、一定の条件が満たされる必要がある瞑想は、まったく瞑想などではない---なぜなら死に挑むとき、そんな瞑想はできないからだ。死はたいへんな動揺だ。生があなたを動揺させるなら、ちょっと死について考えてごらん。あなたは瞑想的に死ねないだろう。だとしたら、すべては無意味で無駄だ。あなたは再び苦悩や苦痛の中で、緊張し心配しながら死ぬ。そしてすぐに、同じような種類の次の生をつくり出す。 

 死を基準にするといい。死につつあるときでさえ行なうことができ、どこでも行なえることこそ本物だ。どこでも行なえ、必要条件がまったくないもの。ときたま良い条件があるなら、それはすばらしい。楽しむことだ。条件が悪くても問題はない。世間の中にあっても、それを行ないなさい。 

 それをコントロールしようとしないこと。あらゆるコントロールはマインドから来るものであり、瞑想は決してコントロールできないものだからだ。 

 マインドは瞑想できない。瞑想とはマインドを超えたもの、あるいはマインドに及ばないものだ。だが、瞑想は決してマインドの中にはない。だから、マインドが相変わらず見張りをし、コントロールしているとしたら、それは瞑想でなく集中だ。集中はマインドの努力だ。集中はマインドの質を最高まで持っていく。科学者は集中し、兵士は集中する。狩猟者や研究者や数学者もみな集中する。これらはマインドの活動だ。 

 好きな時を選ぶといい。時間を決める必要はない。時間があれば、どんな時間でも利用しなさい。バスルームで10分間の時間があったら、シャワーの下に座って瞑想しなさい。午前あるいは午後、4回か5回、短い間隔で瞑想しなさい。すると、それが絶えることのない滋養になるのがわかるだろう。二十四時間それを行なう必要はない。 

 ほんの一杯の瞑想でも効果がある。川全体を飲み干すには及ばない。ほんの一杯の紅茶で充分だ。また、それをできるだけ簡単なものにしなさい。簡単ならば正しい。それをできるだけ自然なものにしなさい。そして、追いかけてはいけない---時間が見つかったら行なえばいい。習慣にしないこと。あらゆる習慣はマインドのものであり、真の人は実のところ習慣を持たないのだから。 

◆リラックスして気楽に 

 くつろぐためには、存分に快適であることだ。だから、快適にしていなさい。椅子に座り、好きな姿勢をとる。目を閉じ、身体をリラックスさせる。つま先から頭まで、内側に緊張がある箇所を感じなさい。膝に緊張を感じるのであれば、膝をリラックスさせる。ちょっと膝に触り、「どうぞリラックスしてください」と膝に言う。肩に何らかの緊張を感じるなら、ちょっとその箇所に触り、「どうぞ、リラックスしてください」と言う。 

 椅子に座ってリラックスし、照明は好みで暗くするか、あるいはほの暗くする。ただし、明るくしない方がいい。この20分間は邪魔しないでくれ、電話も出ないし、まったく何もしないと皆に告げなさい---まるでその20分間は、その世界が存在しないかのように。ドアを閉め、ゆったりとした服装で、リラックスして椅子に座る。どこにも窮屈なところがないように。そして、緊張のある箇所を感じ始める。緊張している箇所は、たくさん見つかるだろう。それらをまずリラックスさせなさい。なぜなら、身体がリラックスしていないと、マインドもリラックスできないからだ。身体はマインドがリラックスする状況を生み出す。身体はくつろぎの乗り物となる。 

 何らかの緊張を感じる箇所があったら、深い愛と慈悲をもって身体に触れてごらん。身体はあなたの召使だが、あなたは報酬を支払ったことがない---身体は贈り物に他ならない。また、身体は非常に複雑で、途方もなく多くの部分から成っている。科学は、いまだに身体のようなものをつくれずにいる。でも、私たちはそんなことは考えない。私たちは身体を愛していない。逆に、身体に怒りを感じている。 

 いわゆる聖人は、人々に馬鹿げたことを数多く吹き込んできた---身体は敵であり、あなたを堕落させるものであり、あなたを引きずり下ろすものであり、罪である---身体はあくまでも罪なのだと。あなたが罪を犯したければ、身体は手助けをする。それは本当だ。だが、責任はあなたにあり、身体にあるわけではない。 

 あなたが瞑想したければ、身体は瞑想を助ける用意もある。あなたが下降したいなら、身体はあなたに従う。あなたが上昇したいなら、身体はあなたに従う。身体はまったく諸悪の根源などではない。全責任は、あなた自身の意識にある---だが、私たちは常に身代わり(スケープゴート)を見つけようとする。身体はもっとも古いスケープゴートのひとつだ。 

 あなたは何でも投げつけるが、身体はものを言わない。身体は報復できない、返事もできない、あなたが間違っているとも言えない。だから、あなたが何と言っても、身体はそれに逆らう反応をしない。 

 全身を隈なく巡り、愛情のこもった慈悲や、深い思いやり、いたわりの気持ちをもって身体を包み込みなさい。少なくとも5分間はかかるだろう。すると、あなたはすっかり力が抜け、リラックスし、眠気に近いものを感じ始める。そうしたら、意識を呼吸に持っていきなさい。呼吸をリラックスさせる。 

 身体は私たちの一番外側の部分、意識は一番内側の部分であり、呼吸はそれらを結ぶ掛け橋だ。だから、ひとたび呼吸が失われると人間は死ぬ---掛け橋が壊れるからだ。もはや身体は、あなたの家として、住まいとしては機能できない。 

 そこで、身体がリラックスしたら、目を閉じて呼吸を見なさい。そして呼吸もリラックスさせる。ちょっと呼吸に話しかけてごらん。「どうぞリラックスしてください。自然でいてください」と。「どうぞリラックスしてください」と言った瞬間、あなたは微かなカチッと言う音に気づくだろう。 

 普段、呼吸はとても不自然になっていて、私たちは呼吸をリラックスさせる方法を忘れてしまっている。というのも、私たちは絶え間なく緊張していて、呼吸を緊張させ続けるのがほとんど習慣になっているからだ。だから、呼吸にリラックスするよう2、3回言い、そしてただ沈黙しなさい。OSHO p198~203

<33>につづく

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