こころでからだの声を聴く<30>
「こころでからだの声を聴く」<30> ボディ・マインド・バランシング
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次
第5章 瞑想---癒しの力
「瞑想(meditation)」という言葉は、「薬(medicine)」という言葉と同じ語源に由来している。薬は肉体を癒すものであり、瞑想は魂を癒すもの---両方とも癒しの力だ。
もうひとつ覚えておくといい。「癒し(healing)」という言葉と「全体(whole)」という言葉も同じ語源に由来する。癒されるとは、何も欠けることなく、全体になるということに他ならない。他に副次的な意味を持つ言葉として「神聖な(holy)」という言葉も、同じ語源に由来している。「癒し」「全体」「神聖な」の語源は同じだ。
瞑想はあなたを癒し、あなたを全体にする。そして全体になるとは、神聖になるということだ。神聖であることは、何らかの宗教や教会に属することは関係ない。内側において、あなたは全体であり完結している。何ひとつ欠けることなく満たされている、ということだ。あなたは存在が望んだとおりであり、自分の可能性を実現している。
◆OSHO活動的瞑想(アクティブ・メディテーション)テクニック
質問:あなたの活動的瞑想(アクティブ・メディテーション)は、はじめのうち筋肉をこわばらせ、あちこちが筋肉痛になります。それを乗り越える方法はありますか?
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続けることだ! あなたは乗り越えるだろう---理由は明白であり、理由はふたつある。まずひとつ、それは激しい運動なので、身体はそれに慣れる必要がある。だから3、4日は全身の痛みを感じる。何であれ新しい運動をすれば、そうなるものだ。しかし4日間が過ぎれば、あなたはそれを乗り越え、身体はこれまでよりも力強く感じられるだろう。
だが、これはあまり重要ではない。重要なことは、もっと深部に及ぶ。現代の心理学者は、それを知るに至った。あなたの身体は、単に肉体的なものだけにとどまらない。あなたの身体の中、筋肉の中、身体の構造の中には、抑圧によって多くの異物が入り込んでいる。
怒りを抑圧すれば、毒が身体に入り込む。毒は筋肉へ、血液へと入り込む。何を抑圧しても、それは精神的な抑圧ばかりではなく、肉体的な抑圧でもある。なぜなら、あなたは完全に分割されてはいないからだ。
あなたは身体と心ではなく、心身(ボディマインド)---つまり心身相関的だ。あなたは、心と身体が一緒になったものだと言える。だから、身体が行なったことはマインドに届き、マインドが行なったことは身体に届く。身体とマインドは、同じ実体の両端だ。
たとえば、怒ると身体に何が起こるだろう? 怒ると、必ず特定の毒素が血液中に放出される。その毒素がなければ、怒りに駆られることはない。体内には特定の分泌腺があり、それらはある種の化学物質を放出する。さて、これは科学的なことであって、哲学などではない。あなたの血液は毒される。
だから、怒ると普段は不可能なことができてしまう---なぜなら狂っているからだ。普段そんなことはできないのに、大きな岩を押し動かすことができる。後になってみると、その岩を押し動かしたり投げたり持ち上げたりできたとは、とても信じられない。正常に戻ったら、再び岩をを持ち上げることはできない。
なぜなら、あなたは同じ状態にないからだ。そのときは、特定の化学物質が血液中を巡っていた。あなたは緊急事態にあり、あなたの全エネルギーは活動的になっていた。
動物は、怒るときは怒る。動物は、怒りに関して道徳心や教訓など持ち合わせていない。動物は純粋に怒り、その怒りは放出される。あんたも動物と同じように怒る。だが、そのときそこには社会があり、道徳があり、エチケットがあり、その他さまざまなことがある。
あなたは怒りを静めなければならない。自分は怒っていないと見せなければならない。あなたは微笑む必要がある---絵に描いたような微笑で! あなたは微笑みをつくり出し、怒りを静める。身体には何が起こるだろう?
身体は闘う用意ができていた---闘うかあるいは危険を回避するために逃げるか、それに直面するか回避するか。身体には何らかの行動を起こす用意があった。怒りとは、何かを行う準備に他ならない。身体は暴力的、攻撃的になろうとしていた。
もしあなたが暴力的、攻撃的になれるなら、そのエネルギーは放出される。だが、それはできない---都合がよろしくない。そこで、あなたは怒りを静める。すると、攻撃的になる用意ができていた筋肉群はどうなるだろう?
それらは麻痺してしまう。怒りのエネルギーはそれらを攻撃的にするが、あなたはそれらを攻撃的にならないように引き戻している。そこに葛藤が生じる。あなたの筋肉の中、血液の中、細胞組織の中に葛藤が生じる。それらは何かを表現したいが、あなたは表現させないよう押さえ込み、抑圧している。すると身体は麻痺してしまう。
そして、あらゆる感情がこの麻痺を引き起こす。それが毎日のように何年も続く。するとあなたの身体は、いたるところで麻痺してしまう。神経も同様に、すべて麻痺してしまう。それらは流れていない。流体になっていない。生き生きしていない。それらは死に、毒されてしまった。そして、すっかり縺(もつ)れてしまった。それらは自然ではない。
動物を見てごらん。その身体の優美さを見てごらん。人間の身体はどうだろう? なぜ、あまり優美ではないのか? なぜ? どの動物も実に優美なのに、なぜ人間の身体は、あまり優美ではないのか? 何が起こってしまったのだろう?
あなたは身体に何かをした。あなたが身体を破壊したので、その自然で自発的な流れは失われてしまったのだ。身体は淀んでしまった。身体のあらゆる部分に毒がある。身体のすべての筋肉に、抑圧された怒り、抑圧された性欲、抑圧された欲望---あらゆるもの---抑圧された嫉妬や憎しみがある。そこでは、すべてが抑圧されている。あなたの身体は本当に病んでいる。
だから活動的瞑想をやり始めると、こうした毒がすべて放たれる。また、身体の中で淀んでいる箇所は、溶けて再び流体になる必要がある。これは大変な努力だ。40年も間違って生きてきて突然瞑想をすると、全身は激動する。身体ののいたるところが痛むだろう。しかし、この痛みは良いものだ。歓迎するといい。
ふたたび身体を流れさせない。身体は再び優美に、子供のようになるだろう。あなたは再び生き生きした感覚を得る。しかし、その生き生きした感覚が訪れる前に、死んだ部分を立て直す必要がある。それはすこし辛いものなるだろう。
心理学者によると、我々は身体の周りに鎧をつくり出していて、その鎧が問題なのだそうだ。怒ったときにすべてを表現することが許されたら、あなたは何をするかな? 怒ると、あなたは歯ぎしりする。爪や手で何かをしたくなる。それは、あんたの動物としての異物によるものだ。あなたは何かを壊そうと、手で何かをしたくなる。
何もしないとしたら、あなたの指は麻痺し、その優美さや美しさを失い、生きた手ではなくなる。そこには毒がある。だから、あなたが誰かと握手をするとき、そこには本当の感触も命もない。なぜなら、あなたの手は死んでいるからだ。
あなたはそれを感じられるだろう。子供の手に触れてごらん---そこには微妙な違いがある、子供が本当に自分の手をあなたにあずけるとしたら・・・・あずけようという気がないなら、それはそれでよいのだが---子供は手を引っ込める。
しかし、子供があなたに手をあずけたいと思っていたら、子供の手はあなたの手の中で、あたかも溶けていくような感じがするだろう。ぬくもり、流れ---まるで子供全体が手にそそぎ込まれたかのようだ。子供はまさにその接触の中に、表現し得るすべての愛を表現している。
しかし、その同じ子供が成長して握手をすると、その手はまるで生気のない道具のようだ。彼は手を通じて流れていない。これはブロックのせいで起こる。怒りがブロックされている。あなたの手が再び生き生きとして愛を表現するようになる前に、それは大きな苦しみを通り抜け、深い怒りの表現を通り抜けなくてはならない。怒りが解き放たれず、ブロックされているなら、そこから愛が生まれ出ることは不可能だ。
あなたは、手だけではなく全身がブロックされている。そのため、誰かを抱きしめたり、自分の胸の近くに引き寄せたりできても、それはハートの近くに引き寄せることとは意味が違う。それらは二つの異なることだ。あなたは誰かを自分の胸の近くに引き寄せることができる。これは身体の現象だ。
しかし、ハートのまわりに鎧、すなわちブロックされた感情をまとっていたら、これまで同様その人は遠い存在のままだ。親密さはあり得ない。しかし、あなたが本当に人を近くに引き寄せ、あなたと相手の間に鎧や壁がなければ、ハートは相手に溶けていく。そこには出会いがあり、合一がある。
あなたの身体は、毒をたくさん放出する必要がある。あなたは毒を抱えていて、そうした毒が溜まっているせいで痛みが生じる。今、私は再び混沌を生み出そうとしている。この瞑想は、あなたが再編成され、新たな編成が可能になるよう、あなたの内側に混沌を生み出すためのものだ。今のあなたは破壊されねばならない。そうしてはじめて、新しいものが生まれる。痛みがあるだろう。だが、この痛みには価値がある。
だから活動的瞑想を続け、身体が痛むのを受け入れなさい。身体に抵抗させないこと。身体をこの苦しみの中へ入っていかせなさい。この苦しみは、あなたの過去から来ている。だが、それは去るだろう。あなたに用意ができれば、それは去る。そしてそれが去るとき、そのときはじめて、あなたは身体を手にする。
今のところ、あなたは拘束され、カプセルに閉じ込められているだけだ。あなたは本質的に死んでいる。カプセルに封じ込められており、活発で生き生きした身体をしていない。動物でさえ、あなたより美しく生き生きした身体をしているのだ。
話はそれるが、そのために私たちは衣服を気にし過ぎるようになってしまった---というのも、身体は見せる価値がないからだ。裸で立てば、きっと自分の身体にしてしまったことがわかるだろう。衣服は、あなたの身体をあなたから隠し続ける。
この病の結果、悪循環が起こる。生き生きした身体をしていないと、あなたはそれを隠したいと思う。そして、隠せば身体はますます死んでいく---なぜなら、身体が生き生きしていることに、油断なく気を配る必要がなくなるからだ。
何世紀にもわたって衣服を身に付けてきたため、私たちは自分自身の身体との接触を失ってしまった。もし自分の頭が切り落とされ、頭のない自分の体に出会ったら、きっとそれが自分の身体だとは認識できないだろう---それとも認識できるかな? いや、あなたは認識できない。なぜなら、あなたは自分の身体を尻もしないからだ。あなたは、身体に何の感情も持っていない。身体に関心を持たず、ただその中で生きている。
私たちは、自分の身体に数多くの暴力をはたらいてきた。だから私は、この混沌とした瞑想の中で、無理やりあなたの身体を再び生き生きさせようとしている。多くのブロックが壊される。定着した多くのものが再び乱される。多くのシステムが再び流体になる。
痛みがあるだろうが、歓迎しなさい。それは祝福であり、あなたは乗り越えるだろう。続けることだ! どうしようかと考える必要はない。ただ瞑想を続ければいい。私は、無数の人々が同じプロセスを通過するのを見てきた。2、3日のうちに痛みは去る。そして痛みが去るとき、あなたは自分の身体のまわりに微かな喜びを感じるだろう。
いまは痛みがあるから、喜びは感じられない。あなたが知ると知らないとにかかわらず、痛みは全身にある。痛みは常に共にあったから、あなたはすっかり意識しなくなってしまった。何であれ、常にあるものに対しては無意識になるものだ。あなたは瞑想によって意識的になるが、するとマインドは「こんなことしちゃだめだ。全身が痛んでいる」という。マインドに耳を傾けてはいけない。瞑想を続けなさい。
あるいっての期間内に痛みはなくなるだろう。痛みがなくなったとき---身体が再び受容的になり、ブロックがなくなり、毒素もなくなったとき、あなたはきっと自分を取り巻く微かな喜びを感じるだろう。何かをしていてもいなくても、あなたは常に身体のまわりに微かな喜びの波動を感じるだろう。
喜びとは、まさにあなたの身体がシンフォニーを奏でていること---あなたの身体に音楽的なリズムがあることに他ならない。喜びと楽しみは違う。楽しみは、何か他のものから得なければならない。喜びとは、ただ自分自身であることだ---生き生きして、元気が漲(みなぎ)り、エネルギッシュな。身体のまわりの微かな音楽の感触、そして身体の内側のシンフォニー---それが喜びだ。身体が花開いているとき、身体が川のように流れているとき、あなたは喜びに満ちていられる。
それは訪れるが、まずあなたは苦しみを通り抜け、痛みを通り抜ける必要がある。それはあなたの運命の一部だ。自分がそれをつくり出したのだから。だが、それは消え去る。あなたが途中で止まらなければ消え去る。途中で止まると、再び古い滓(かす)が沈殿するだろう。4、5日のうちに問題はなくなる---これまで常にそうであたように。その問題のない状態に気づいていなさい。OSHO pp177~186
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