こころでからだの声を聴く<33>
「こころでからだの声を聴く」<33> ボディ・マインド・バランシング
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次
第6章 意識への扉
大勢の人が鏡に従って生きている。人々は、鏡の中に見えるものが自分の顔だと思っている---それが自分の名前であり、自分の自己証明(アイディンティティ)であり、すべてだと。
もう少し深く進み、目を閉じ、内側を見つめ、沈黙することだ。完全な沈黙の地点に至らぬうちは、自分とは誰かを知ることはないだろう。私がそれを教えることはできない。私が教えるすべはない。それは、一人一人みつけなければならない。
だが、あなたは在るといことは確かだ。唯一の問題は、あなたの最奥の核に到達し、自己を見出すことだ。そして、それこそが私が何年も説いてきたことだ。私が瞑想と呼ぶものは、自己を見出すための道具に他ならない。
私に尋ねてはいけない。誰かに尋ねてもいけない。あなたは自分の内側に、その答えを持っている。そして、それを見つけるには、自分自身の中に深く降りて行くことだ。だが、それはとても近くにある---180度向き直るだけで、それに直面するだろう。
すると驚くだろう---自分の名前も、自分の顔も、自分の身体も、自分のマインドすらも、自分ではないということに。
あなたは、この全存在の一部だ。その美しさ、壮麗さ、無上の喜び、その途方もない歓喜(エクスタシー)の一部だ。
自己を知ることこそ、意識が意味することのすべてだ。
◆中心と周辺
身体そのものには何もない。身体が光輝くのは、身体を越えた何かによるものだ。身体の輝きは、身体そのものにはない。身体は主人であり、輝きは客人によるものだ。客人を忘れてしまったら、身体は耽溺以外の何ものでもない。客人のことを心に留めておくならば、身体を慈しみ、身体を祝うことは礼拝の一部だ。
現代の身体崇拝には意味がない。崇拝するがゆえに、人々は健康食品やマッサージやロルフィングを追い求め、ありとあらゆる方法で何とか人生に意味をつくり出そうとする。だが、その目を見てごらん---果てしない空虚さが存在している。あなたには、彼らが的を逸しているのがわかるだろう。そこには香りはなく、花は開かなかった。内側の深いところで、彼らはまさに砂漠のようであり、途方に暮れている。人々は身体のために様々なことをやり続けるが、的外れなことをしている。
こんな話を聞いたことがある。
ローゼンフィールドは満面の笑みを浮かべて帰宅した。
「どんなお買い得品を手に入れたか、わからんだろうな」と彼は妻に言った。「ポリエステル製、スチールベルト付き、ラジアル・タイヤを四本買ったぞ! 接地面が広くて、ホワイト・ウォールで、頑丈なタイヤだ。まだ売っていたんだ!」
「あなた、頭がどうかしてるんじゃないの?」ローゼンフィールド夫人は言った。「タイヤなんて買ってどうするのよ? 車を持っていないくせに」
「そんなこと言うんだったら」とローゼンフィールド、「おまえでだってブラジャー買うだろ?」
中心を見失うと、あなたは周辺を飾り立て続ける。それは他人を騙せるかもしれないが、あなたを満足させることはない。ときに、それは自分すらも欺くかもしれない。自分でつくり出した嘘も、頻繫に繰り返せば、本当のことのように見えてくるからだ。しかしそれは、あなたを満足させることも、充足感を与えることもできない。人々は懸命に人生を楽しもうとしているが、何の喜びもないようだ。
覚えておくといい---楽しもうとすれば必ず逃す。幸福を達成しようとすれば必ず逃す。幸福を達成しようとする、まさにその努力が無謀なことだ---なぜなら、幸福はここにあるからだ。それを達成するのは不可能だ。幸福を得るためには、何ひとつ為すべきではない。ただ、それを許せばいい。それは現に起こっていて、あなたのまわり中にある---内側にも外側にも、あるのは幸福ばかりだ。他のものは何ひとつ真実ではない。
見つめなさい、深く見つめてごらん---世界を、樹々を、鳥たちを、岩を。星々を、月を、そして太陽を。人々を、動物を。深く見つめてごらん。存在は、幸福や喜びからできている。存在は至福からできている。存在に関しては、何ひとつ為す必要はない。まさにあなたの行為が障害となり得る。リラックスすれば、それはあなたを満たしてくれる。リラックスすれば、それはあなたの中に勢いよく流れ込んで来る。リラックスすれば、それはあなたをあふれるほどに満たしてくれる。
人々は緊張している。緊張が生じるのは何かを追いかけているときであり、くつろぎが生まれるのは何かを許しているときだ。
人々は追いかけている。生から何かを得ようと、生を搾り取ろうと、懸命に追いかけている。何も出て来はしない。なぜなら、やり方が間違っているからだ。生を搾り取ることはできない。あなたは明け渡す必要がある。生は征服できない。あなたは生に負かされるだけの勇気を持たないといけない。そこでは負けることが勝つことだ。勝とうとすると努力は、決定的で完全な敗北に他ならないことがわかるだろう。
生は征服できない。なぜなら、部分は全体を征服できないからだ。それはまるで、小さな雫が海を征服しようとしているようなものだ。そう、小さな雫は海に落ちて海になる。だが、海を征服することはできない。征服するには、むしろ海に落ち、海にすべり込むことだ。
人々は幸福を見つけようとして、身体のことを気にし過ぎている。それは、ほとんど強迫観念になり、関心の限度を超え、身体への執着になってしまった。人々は身体を通して、何かしら幸福とつながろうと努力している。だが、それは不可能だ。
第二の問題は、マインドには競争心があるということだ。あなたは実のところ、身体を愛していないのかもしれない。ただ、人と競っているだけなのかもしれない。人がしているから、自分もする必要があるのだ。
アメリカ人のマインドは、いまだかつてないほど浅薄で野心的なマインドであり、非常に世俗的なマインドだ。だからアメリカでは、実業家が最高の存在になっている。他のすべては、その背後に姿を消してしまった。金をコントロールする人物である実業家こそが、最高の存在だ。
インドでは、神の探求者であるバラモンが最高の存在だ。ヨーロッパでは、貴族が最高の存在だ---洗練され、学があり、細やかで、人生の機微に通じている。たとえば音楽、芸術、詩、彫刻、建築、古典舞踊、ギリシャ語やラテン語などの言語に。共産主義のもとでは、プロレタリアート、虐げられた者、抑圧された者、労働者が最高の存在だ。資本主義のもとでは、実業家すなわち金をコントロールする者がそうだ。
金儲けは、もっとも競争の激しい分野だ。教養はいらない。ただ金を所有すればいい。音楽や詩について知る必要はない。古典文学や歴史や宗教や哲学について知る必要はない。そう、何も知らなくて構わない。預金残高が高ければ、あなたは重要人物だ。だから私は、アメリカ人のマインドは、いまだかつてないほど浅薄だと言うのだ。それは、すべてを商業活動に変えてしまった。それは常に競争している。
ヴァン・ゴッホやピカソの作品を購入するにしても、あなたはそれがピカソだから買うのではない。隣近所が購入したからだ。彼らがそれを客間に掛けているなら、あなたも買わないわけにはいかない。あなたもピカソの絵を持っているべきだ。あなたは、ピカソの絵の正しい掛け方すら知らないかもしれない。
というのもピカソの作品は、逆さまなのか正しい向きなのか、判別しにくいのだから。あなたは、それが本物のピカソの作品かどうかも、わかっていないかもしれない。よく見もしないで、人が持っているという理由で、あなたはそれを入手した。あなたは、金や財産をひけらかしたにすぎない。なぜなら、何であれ高価なものには意義があると思われているからだ。
金と隣人は、アメリカ的な成功を判断する唯一の基準であるようだ。あなたは隣人に負けないよう、見栄を張る必要がある。彼らのバスルームにサウナがあるなら、誰もがそれを手に入れて、仲間にならないといけない。そうでないと貧乏人に見えてしまう。誰もが丘に家を持っているなら、あなたも手に入れないといけない。
あなたは丘での楽しみ方を知らず、そこでは退屈するだけかもしれない。あるいは、テレビやラジオを持ちこみ、昔の家で聞いていた番組と同じものを聞くかもしれない。住む場所によって、何が変わるだろう? 答えは、他人にとって重要なものが重要になるということだ。こうした調子で見栄の張り合いは続く。
こんな話を聞いたことがある。
ルーク老婦人は、谷いちばんのケチとして知られていた。ルークが死んで2、3ヵ月後、彼の妻も死の床についていた。彼女は近所の人たちを呼び、弱弱しく言った、「ルーシー、私に黒い絹のドレスを着せて埋葬しておくれ。でもその前に、後ろ側を切り取って、それで新しいドレスを作ってくれないかい。いい生地だったから、無駄にしたくないんだよ」
「そんなことできません」とルーシーは言った。「あなたとルークが黄金の階段を上るとき、あなたのドレスに後ろがなかったら、天使たちは何と言うでしょう?」
「天使たちは、私の方なんて見やしないよ」と彼女は言った。「ルークにズボンを穿かせないで埋葬したからね」
関心は常に他人にある---ルークはズボンを穿いていないから、誰もが彼を見るだろう。アメリカ人の関心は、常に他人にある。
子供が何の目的もなく走ったり、叫んだり、踊ったりしているのを見たことがあるかな? ---何の理由もなく。「なぜそんなに楽しいの?」と尋ねたら、子供は答えられないだろう。彼はきっと、あなたのことを頭がおかしいと思う。楽しくしているのに理由が必要だろうか? 「なぜ」と尋ねられることに、子供はただ驚く。
肩をすくめ、また好きなように歌ったり踊ったりし始めるだろう。子供は何も持っていない。まだ首相でもないし、合衆国大統領でもない。ロックフェラーのような人でもない。子供は何も所有していない。たぶん、浜辺で集めた貝殻や小石ぐらいは、いくつかあるかもしれない---でも、それだけだ。
アメリカ人の生は、生が終わると終わる。身体が終われば、アメリカ人はおしまいだ。だから、アメリカ人は非常に死を恐れる。死の恐れゆえに、アメリカ人はあらゆる手段を用いて、延命を試み続けている---ときには馬鹿げた長さまでだ。現在、病院や精神病院で、大勢のアメリカ人がただの植物状態になっている。彼らは生きていない---とっくの昔に死んでいる。医者や薬や近代的な器具によって、命を保っているだけだ。彼らは、かろうじて生にしがみついている。
死の恐怖は計り知れない---ひとたび死んでしまえば、永遠に死に、何ひとつ残らない。アメリカ人は身体しか知らず、他のものはいっさい知らない。身体しか知らないとしたら、あなたは非常に貧しくなるだろう。
第一に、あなたは常に死を恐れる。そして、死ぬことを恐れる人は、生きることを恐れる。生と死は密接に絡み合っているから、死ぬのを恐れると、生きるのが怖くなる。死をもたらすのは生だ。死を恐れるなら、どうして心から生を愛せるだろう? そこに恐れが生じる。死をもたらすのは生だ。あなたは生を全面的(トータル)に生きることができない。
死がすべてを終わらせるなら---それがあなたの信じることであり、理解であるなら---あなたの生は慌しい追いかけっこの人生だろう。なぜなら、死は常に近づいており、あなたは忍耐強くいられないからだ。だから、アメリカ人がスピード狂であるのも納得がいく。死が近づいているから、すべてを早く行なう必要がある。死ぬ前にできるだけ多くのことをこなし、死ぬ前に自分の実存をできるだけ多くの経験で満たすのだ。なぜなら、ひとたび死んでしまえば、おしまいなのだから。
これは途方もない虚無を生み出し、当然ながら苦悩や不安を生み出す。もし身体が何によっても生き長らえることがないなら、何をしようと深みは生まれない。すると、何をしても、あなたは満足できない。もし死が終わりであり、何も残らないのなら、生には何の意味も意義もない。すると生は、激怒と騒音に満ち、何の意味をなさない、愚か者が語る物語だ。
意識的な人であるバウルは、自分は身体の中にいるが、身体ではないと知っている。彼は身体を愛する。身体は彼の住居であり、住まいであり、我が家だ。彼は身体に背かない。我が家に背くのは愚かなことだからだ。しかし、彼は物質主義者ではない。世俗的だが、物質主義者ではない。彼は知っている---死において、死ぬものは何もないと、死は訪れるが、生は続いていく。
こんなことを聞いた。
葬儀が終わり、葬儀屋のデズモンドは老紳士が傍らに立っていることに気づいた。
「ご親戚で?」と葬儀屋は尋ねた。
「ええ、そうです」と年配者は答えた。
「おいくつですか?」
「94歳です」
「うーむ」とデズモンド。「ご自宅にお帰りになるのは、割に合いませんな」
あらゆる観念が、身体上の生に関するものだ。あなたが94歳なら、あなたは終わっている! 家に帰るのは割に合わないから、死んだ方がいい。帰宅するのに何の意味がある? また葬儀場に戻って来ないといけないのだ。それは割に合わない・・・・死が唯一の現実なら、あなたが94歳だろうと24歳だろうと、どれほどの違いがあるだろう。
数年の違いでししかない。すると幼い者も老いを感じ始め、子供も自分はすでに死んでいると感じ始める。この身体が唯一の生であると理解するなら、いったい生に何の意味があるだろう? なぜ生き続けるのか?
カミュは書いている---人間の根本的、形而上的な唯一の問題は自殺であると。私も同感だ。身体が唯一の現実であり、身体を越えたものが内側に何もないとしたら、自殺は考察し、熟考し、瞑想すべき、もっとも重要な問題だ。なぜ自殺しないのか? なぜ94歳まで待たねばならないのか? その途上で、あらゆる種類の問題や苦悩に苦しむのはなぜか? 死ぬことになっているのなら、なぜ今日死なないのか? なぜ明日の朝、再び起きるのか? それは無益なことであるように思える。
一方でアメリカ人は、何とか体験を自分のものにし、何とか体験を逃すまいと、常に走り回っている。アメリカ人は町から町へ、国から国へ、ホテルからホテルへと、世界中を駆け巡っている。導師(グル)から導師へ、教会から教会へと探し回っている---死が近づいているために。
片や絶えず気が狂ったように追いかけながら、心の奥底ではすべては無駄だとも思っている---死がすべてを終わらせてしまうのだから。恵まれた生を送ろうと恵まれない生を送ろうと、知性があろうとなかろうと、大いなる愛の人であろうと失意の人であろうと、何の違いがあるだろう。
最終的に死が訪れ、すべての人を等しくしてしまう。賢者と愚者、聖人と罪人、覚者と白痴、誰もが地中に消えてゆく。だとしたら、いったい何の意味があるだろう? 仏陀であろうと、イエスだろうと、ユダであろうと、何の違いもなりはしない。イエスは十字架の上で死に、ユダは翌日自殺した---二人とも地中に消えていった。
一方で、自分は逃すが他人は手に入れるかもしれないという恐れもある。あなたはよく承知している---たとえ手に入れたとしても何も得ていない、巡り着いたとしてもどこにも辿りついていないということを。なぜなら死が訪れ、すべてを破壊してしまうからだ。
意識的な人は身体の中で生き、身体を愛し、身体を祝うが、彼は身体ではない。彼は自分の内側に、あらゆる死の後も存続するものがあることを知っている。永遠で、時が破壊できぬものがあることを知っている。彼は瞑想や愛や祈りを通して、それを感じるに至った。自分自身の実存の中にそれを感じるようになった。
彼は恐れない。死を恐れない。なぜなら、生とは何かを知っているからだ。そして、彼は幸福を追いかけない。なぜなら、神が数限りない機会を与えてくれているのを知っているからだ。ただ、機会が与えられるのを受け入れればいいのだと。
大地に根を張っている木々が見えないだろうか? 木々はどこへも行けないが、それでも幸せだ。もちろん、幸福を追いかけることはできない---幸福を探しに行くkとはできない。木々は大地に根づいており、動けない。だが、木の幸福があなたには見えないだろうか? 雨が降っているときの喜び、嵐が四方八方から吹いているときの深い満足が見えないだろうか? そのダンスが感じられないだろうか? 木々は根を張っており、どこへも行かない。それでも生は、木々のもとにやって来る。
あらゆるものが、やって来る---あなたはただ、それを受容する力をつければいい。あらゆるものが、やって来る---あなたはただ、それを受け入れればいい。生はあなたに芽生える用意がある。あなたは障壁をつくり過ぎている。あなたがつくり出す最大の障壁は、追いかけることだ。
追いかけて走っているせいで、生が訪れてあなたの扉をノックしても、いつもあなたはそこにいない。あなたはいつもどこか別の場所にいる。あなたは生を追いかけ続け、生はあなたを追いかけ続けている。そして出会いは決して起こらない。
在りなさい・・・・・ただ、在りなさい。そして待つ。忍耐強くありなさい。 OSHO p205~216
| 固定リンク
「26)46億年目の地球」カテゴリの記事
- こころでからだの声を聴く<35>(2013.10.10)
- こころでからだの声を聴く<34>(2013.10.09)
- こころでからだの声を聴く<33>(2013.10.09)
- こころでからだの声を聴く<31>(2013.10.07)
コメント