こころでからだの声を聴く<35>
「こころでからだの声を聴く」<35> ボディ・マインド・バランシング
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次
◆ゴール志向から祝祭へ
くつろぎとは、エネルギーが未来にも過去にも、どこにも動いていない状態のことだ---エネルギーはただそこに、あなたと共にある。あなたは、自分のエネルギーを湛えた静かな場所に包まれ、そのぬくもりに包まれている。この瞬間がすべてだ。他の瞬間は存在しない。時間が止まると、くつろぎがある。時間があるなら、くつろぎはない。ただ時計が止まり、そこには時間がない。この瞬間がすべてだ。あなたは他に何も求めない。ただ、それを楽しんでいる。ありふれた物事を楽しめるのは、それが美しいからだ。実のところ、何ひとつありふれたものはない---神が存在するなら、すべては特別だ。
ごくささやかな物事・・・・。まだ露の蒸発していない芝生を歩き、そしてその場を全面的に感じる---肌触り、芝生の触感、梅雨の冷たさ、朝の風、日の出。幸せになるために、さらに何が必要だろう? 幸せになるために、さらに何が必要だろう?
夜ベッドの冷えたシーツに横たわり、その肌触りを感じ、シーツがだんだん暖まっていくのを感じる。あなたは暗闇に包まれ、夜の静けさに包まれている。目を閉じ、ただ自分自身を感じる。これ以上何が必要だろう? あり余るほどだ---深い感謝が湧き起こる。これがくつろぎだ。
くつろぎとは、この瞬間は充分すぎるほどであり、求め期待し得る以上だという意味だ。求めるものは何もない、充分すぎるほど、望み得る以上だ---そのとき、エネルギーはどこにも動かない。それは静かな池となる。あなたは、自分自身のエネルギーの中に溶けてゆく。この瞬間がくつろぎだ。
くつろぎとは、身体やマインドに由来するものではない。くつろぎとは全面的なものだ。だから覚者たちは「無欲になれ」と言い続ける。彼らは、欲望があるとリラックスできないことを知っている。「死者を埋めよ」と、彼らは言い続ける。過去にとらわれ過ぎていると、リラックスできないからだ。彼らは、「まさにこの瞬間を楽しめ」と言い続ける。
イエスは言う、「ユリを見るがいい。野のユリをよく見るがいい---あくせくせず、いよいよ美しい。その輝きはソロモン王に勝る。ユリたちは、ソロモン王より芳しい香を漂わせて立ち並んでいる。ごらん、ユリをよく見てごらん!」
彼は何を言っているのだろう? 彼は言っている。「リラックスしなさい! あくせくする必要はない---実のところ、すべては与えられている」。イエスは言う、「彼が、空の鳥たち、動物たち、野性の動物たち、木々や植物たちの面倒を見てくれているのに、なぜあなたは心配するのだ? 彼があなたの面倒を見ないとでもいうのかね?」。
これがくつろぎだ。なぜあなたは、そんなに未来のことを心配しているのだろう? ユリをよく見てごらん、ユリを見つめてごらん、そしてユリのようになってごらん---そしてリラックスする。くつろぎとは、ある特定の姿勢ではない。くつろぎとは、あなたのエネルギーの全面的な変容だ。
エネルギーは二つの側面を取り得る。ひとつは動機づけられたもの、どこかへ行こうとすること、どこか目的地へ向かおうとするものだ。この瞬間は手段にすぎず、どこか別の場所に達成すべきゴールがある。これが、あなたのエネルギーのひとつの側面だ---活動、ゴール志向の側面、そのとき、すべては手段となっている。
何とかそれを為し遂げ、あなたはゴールに辿り着かねばならない。そうすればリラックスする。だが、この種のエネルギーにとって、ゴールは決して訪れない。なぜならこの種のエネルギーは、現在の瞬間をことごとく何か別のもののための手段や、未来に変え続けるからだ。ゴールは常に水平線上にある。あなたは走り続けるが、ゴールとの距離は同じままだ。
いや、エネルギーには別の側面がある。それは、動機づけのない祝祭だ。ゴールは今ここにある。どこか別の場所にあるわけではない。実のところ、あなたがゴールだ。実のところ、この瞬間をおいて他に達成はない---ユリをよく見てごらん。あなたがゴールであり、ゴルが未来にないとき、達成すべきものが何もないとき、むしろただそれを祝えばいいだけであるとき、あなたはすでにそれを達成している。それはそこにある。これがくつろぎであり、動機づけのないエネルギーだ。
だから私にしてみると、人には二つのタイプがある---ゴールを追い求める人と祝祭の人だ。ゴール志向の人は気違いだ。やがて彼らは狂ってしまう。しかも、彼らは自分の狂気をつくり出している。すると、狂気にはそれ自体の勢いがあるため、彼らは次第に深みにはまっていく---そして完全に道を見失ってしまう。もう一方のタイプは、ゴールを追い求める人ではない---彼はまったく追い求める人ではなく、祝祭の人だ。
そして私は、これをあなたに教えたい。祝祭の人でありなさい! 祝いなさい! すでに充分すぎるほどある---花々は先、鳥たちは歌い、空には太陽がある。それを祝いなさい! すると突然、あなたはリラックスし、緊張も苦悩もなくなる。苦悩となっていたエネルギーは、すべて感謝になる。あなたのハート全体は、深い感謝の念で鼓動し続ける---それは祈りだ。それが祈りというものだ---深い感謝の念で鼓動するハート。
そのために何かをする必要はない。ただ、エネルギーの動きを理解すればいい。動機づけられていないエネルギーの動きを。それは流れる。だが、ゴールに向かってではなく、祝祭として流れる。それは動く。ゴールに向かってではなく、それ自身のあふれ出るエネルギーによって動く。
子供は踊り、飛び跳ね、駆け回る。子供に尋ねてごらん、「どこへ行くの?」と。子供は、どこにも行きはしない。子供はあなたのことを馬鹿だなと思う。子供はいつも、大人のことを馬鹿だと思っている。「どこへ行くの?」とは、何と間抜けな質問だろう?
どこかへ行く必要があるのだろうか? 子供は、まったくあなたの質問に答えられない。なぜなら、その質問は的外れだからだ。彼はどこにも行きはしない。ただ、肩をすくめるだろう。「どこにも行かないよ」と言うだろう。するとゴール志向のマインドは訪ねる、「それなら、なぜ走っているんだい?」---私たちにとって行為とは、それが何かになってこそ意味をなすものであるからだ。
だから私はあなたに言う---行くべき場所はどこにもない、ここがすべてだ。存在全体は、この瞬間に最高潮に達し、この瞬間に集中している。存在全体は、すでにこの瞬間に注がれている。そこにあるすべてが、この瞬間に注がれている---それは今ここにある。
子供は、ただエネルギーを楽しんでいる。子供は充分すぎる手にしている。彼が走っているのは、どこかに辿り着かねばならないからではなく、あり余るほど持っているからだ。彼は走らずにはいられない。
動機を持たずに行動しなさい。ただ、エネルギーのあふれるままに、分かち合いなさい。でも取り引きをしてはいけない。駆け引きをしてはいけない。もっているがゆえに与える---見返りを得るために与えるのではない。そんなことをしたら、惨めになるだろう。
取り引きをする者はみな地獄へ行く。最高の商人や交渉人を見つけたかったら、地獄へ行くといい。彼らはそこにいるだろう。天国は商人のための場ではない。天国は祝祭の人のための場だ。
では、実際に何をすべきだろう? もっと気楽になること。もっと今ここに在ること。もっと空洞になり、空っぽになり、受動的になること。もっと観る人になること---無頓着で、何も期待せず、何も欲しがらない。あるがままの自分に満足すること。お祭り気分でいることだ。
◆住人を思い出す
人は身体の中にいるが、身体ではない。身体はすばらしいものだ。身体は慈しみ敬われるべきだが、自分は身体ではなく、身体の住人であることを忘れてはならない。身体は寺院だ。あなたにとってそれは宿主だが、あなたはその一部ではない。身体は大地から寄与され、あなたは空から訪れている。肉体を持つあらゆる生き物と同様に、あなたの中では大地と空が出会っている。それは大地と空の恋愛だ。
あなたが死ぬ時、死ぬものは何もない。外側から見ると、死んだように見えるだけだ。身体は少し休息するために大地に帰り、魂は少し休息するために空に帰る。何度も何度も、出会いは起こる。無数の形で遊びは続く。それは永遠の出来事だ。
だが、すっかり身体になり切ってしまう人もいる。それが惨めさを生み出す。「自分は身体だ」と思い始めると、生は非常に耐えがたいものになる。すると、ちょっとしたことが気に障り、ちょっとした痛みが大仰なものになる。ほんのかすかな傷でも気になり、頭が混乱してしまう。
あなたとあなたの身体には、少しの距離が必要だ。その距離は、この事実に気づくことによって生み出される---「私は身体ではない。私は身体ではあり得ない。私は身体を意識している。だから、身体は私の意識の対象だ。そして、何であれ私の意識の対象は、私の意識には成り得ない。意識とは見守ることであり、観照することだ。そして観照されるものは、何であれ、別個のものだ」
この体験が深まるにつれ、苦悩は消えて蒸発し始める。すると、痛みと喜びはほとんど似通ったものとなり、成功と失敗は同じで、生と死に違いはなくなる。そのとき、選択肢はない。人は醒めた無選択の中に生きる。その醒めた無選択の中に、神が降りて来る。醒めた無選択---それは、あらゆる宗教が探究してきたものだ。インドではそれをサマーディと呼び、日本ではそれを悟りと呼ぶ。キリスト教の神秘家たちはそれを法悦(エクスタシー)と呼んだ。
「エクスタシー」という言葉は、非常に意味深い。それは際立っているものという意味だ。自分の身体から傑出すること、自分は身体とは別であると知ること、それがエクスタシーの意味だ。それが起こる瞬間、あなたは再び失われた楽園の一部となり、再び楽園を取り戻す。OSHO p227~233
第7章 心身への語りかけ---忘れ去られた言語を思い出す<OSHO瞑想セラピー>
この誘導(ガイド)瞑想は、私たちの多くが忘れてしまった言語を思い出すプロセスです。それは自分自身の身体とコミュニケーションをとるための言語です。身体とコミュニケーションをとり、それに語りかけ、そのメッセージに耳を傾けることは、古代チベットの有名なプロセスです。
現代医学は、聖者や神秘家たちがとっくに知っていたことを、今ようやく認識し始めています---マインドと身体は別個のものではなく、深く関連していると。体調がマインドに影響を及ぼすように、マインドは体調に影響を及ぼします。
OSHOは特に現代の男女のために、多くの瞑想技法を編み出しました。
このガイド瞑想は、彼のガイダンスによって開発されたものです。彼は言います---。
ひとたび自分の身体とのコミュニケーションをとり始めたら、事はとても容易になる。身体に無理強いする必要はない。身体を説得するといい。身体と闘う必要はない---それは醜く、暴力的で、攻撃的だ。そして、あらゆる種類の葛藤は、ますます緊張を生み出す。だから、どんな葛藤の中にも留まらないこと---やすらぎを心がけなさい。
また、身体は神からのとてもすばらしい贈り物だから、それと闘うことは神その人を否定することになる。身体は神殿だ・・・・私たちはその中に収まっている。身体は寺院だ。私たちはその中で生きており、全面的にその手入れをする必要がある---それは私たちの責任だ。
そこで7日間・・・・はじめのうちは、少し馬鹿々々しく思うかもしれない。というのも、自分の身体に語りかけるだなんて、私たちは教わったないのだから---だが、それを通して奇跡が起こる。私たちが知らないうちに、奇跡はすでに起こっている。私が話すとき、話すにつれて私の手は仕草(ジェスチャー)をする。私はあなたに話している---何かを伝達しているのは、私のマインドだ。私の身体は、それに従う。身体はマインドと強調関係にある。
手を挙げたければ、何かをする必要はない---ただ単純に手を挙げるだけだ。手を挙げたいと思うだけで、身体は従う---それは奇跡だ。ところが実のところ、生物学も生理学も、それがどんなふうに起こるのか、いまだに説明できていない。なぜなら、思いは思いだからだ。
手を挙げたいと思う---これは思いだ。この思いが、どんなふうに手への物理的なメッセージに変容されるのだろう? しかもまったく時間がかからない---ほんのわずかな間合か、ときにはまったく時間差(ギャップ)がない。
たとえば、私が話すと私の手は一緒に動き続けている---時間差がない。身体は、まるでマインドと平行して動いているかのようだ。それはとても繊細なことだ---いかに自分の身体に語りかけるかを学ぶといい。すると多くのことがなされるだろう。---OSHO p235~237
以下「CDの使い方」(p238~241)省略
この項、転記 <完>
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