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2013/10/09

こころでからだの声を聴く<34>

<33>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<34> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆身体、マインド、魂の調和 

 あなたの身体はエネルギーであり、あなたのマインドはエネルギーであり、あなたの魂はエネルギーだ。では、その三つの違いは何か? 違いは、リズムの違い、波長の違いだけ---それがすべてだ。身体は粗い---エネルギーは粗い形、目に見える形で機能している。 

 マインドはもう少し細かいが、非常に細かいというほどではない。なぜなら、目を閉じれば思考の動きは見えるからだ。見ることができるといっても、身体と同じように目に見えるわけではない。あなたの身体は、他人の目に見える。衆人の目に見える。あなたの思考は目にだけ見える。他の人は誰も、あなたの思考を見ることはできない。見ることができるのは、あなただけ---あるいは、思考を見ることに深く専念してきた人だけだ。しかし普通、思考は他人の目には見えない。 

 そして三番目、あなたの内側の最後の層は意識だ。それは、あなたの目にすら見えない。それは対象化できないものであり、主観であり続ける。 

 この三つのエネルギーすべてが調和し機能するなら、あなたは健康であり全体だ。これらのエネルギーが調和と一致を保って機能しないなら、あなたは病気で不健康だ。もはや全体ではない。そして、全体(whole)であることは聖なる(holy)ことだ。 

 私の努力は、あなたの身体とマインドと意識が、すべてひとつのリズムで、共に深く調和して---まったく葛藤なく、協調しながら踊れるよう、あなたを助けることにある。 

 意識はエネルギーだ。もっとも純粋なエネルギーだ。マインドはあまり純粋ではない。身体はさらに純粋ではない。身体には、非常に多くのものが混在している。マインドも完全に純粋ではない。意識は完全に純粋なエネルギーだ。 

 しかし、あなたがこの意識というものを知るのは、この三つから、混沌(カオス)ではなく秩序(コスモス)を生み出した場合に限る。人々は混沌の中で生きている---身体はあることを言い、ある方向へ行きたいと望むが、マインドは身体のことなど一向に構わない。なぜなら何世紀にもわたって教えられてきたからだ---あなたは身体ではない、身体は敵だ、身体と闘い、それを滅ぼさなければならない、身体は罪であると。 

 こうした観念のせいで---それは愚かで馬鹿げており、有害で有毒だが。あまりにも長く教え込まれてきたため、あなたの集合的マインドの一部となって存在している---あなたは身体が自分とリズミカルにダンスするのを感じていない。 

 だから私は、ダンスや音楽を重視する。なぜならダンスの中でこそ、身体とマインドと自分が一緒に機能していると感じられるからだ。そしてこれらが共に機能しているとき、その喜びは量り知れず、その豊かさは途方もない。 

 意識はネルギーのもっとも高次な形だ。これら三つのエネルギーが共に機能すると、第四のものが訪れる。第四のものは、これらが三つが共に機能しているときは必ず存在する。これら三つが有機的まとまりとなって機能するとき、第四ののものは必ずそこにある。第四のものとは、その有機的なまとまりにほかならない。 

 東洋では、その四番目を単に「第四のもの」---トゥリヤと呼び、名前をつけなかった。三つには名前があるが、四番目には名前がない。第四のものを知ることは、神を知ることだ。いうならばこうだ---あなたが有機的でオーガズミックなまとまりとなっているとき、神が在る。あなたが混沌とし、バラバラで、葛藤していたら、神は居ない。あなたが諍(いさか)いをしている家のような状態でいるなら、神は居ない。 

 自分自身に途方もなく満足し、あるまがまで幸せで、あるがままで至福に満ち、あるがままで感謝にあふれ、あなたの全エネルギーが共に踊っているとき---あなたが自分の全エネルギーのオーケストラのようになっているとき、神が在る。その完全な一体感が、神というものだ。神はどこかに居る人物ではない。神とは、三つのものが完全に一体となって、第四のものが生まれる体験だ。そして、第四のものは部分の総和を超えている。 

 一枚の絵画を分析すると、キャンバスと絵の具になる。しかし絵画は、キャンバスと絵の具の単純な合計ではない。それ以上の何かだ。その「それ以上の何か」が、絵画、絵の具、キャンバス、芸術家によって表現されている。その「それ以上の何か」とは美しさだ。バラの花を分析すると、化学物質やその構成要素がすべて見つかるだろう。だが、その美しさは消えてしまう。それは単に部分の総和ではなく、それ以上のものだった。 

 全体は部分の総和を超えている。全体は部分を通して表現されているが、それ以上のものだ。それ以上のものを理解することは、神を理解することだ。神とは、その「それ以上」であり、「プラス」だ。それは宗教理念上の問題ではない。それは論理的な議論によって決定できるものではない。必要なのは、美を感じ、音楽を感じ、ダンスを感じることだ。そして究極的には、あなたの身体とマインドと魂の中に、ダンスを感じることだ。 

 この三つのエネルギーがオーケストラになるよう、それらを奏でる方法を学ぶといい。すると、神が在る。神が見えるわけではない、見えるものは何もない。神とは究極の見る者であり、観照だ。あなたの身体、マインド、魂を溶かす方法を学びなさい。自分がひとつのまとまりとして機能できる方法を見つけなさい。 

 それはたびたびランナーに起こる・・・・。あなたはランニングを瞑想とは捉えないだろうが、ランナーはときに途方もない瞑想の体験を感じることがある。それを期待していたわけではないから、彼らは驚く。ランナーが神を体験するなどと誰が思うだろう? だが、それは起こってきた。そして今やランニングは、ますます新しい種類の瞑想になりつつある。 

 ランニング中に、瞑想が起こることがある。走ったこと、ランニングを楽しんだことがある人なら・・・・・早朝、空気は爽やかで新鮮で、全世界は眠りから覚め、目覚めつつあった。あなたは走っていて、身体は美しく機能していた。空気は爽やかで、夜の暗闇中から再び新しい世界が生まれていた。 

 まわり中ですべてが歌い、あなたはとても生き生きした感じがしていた・・・・。ランナーが消え、ランニングだけが存在する瞬間が訪れる。身体とマインドと魂が共に機能し始め、突然、内なるオーガズムが解き放たれる。 

 ランナーたちは、ときに第四のもの、トゥリヤを偶然に発見してきた。だが、それを見逃してしまう。彼らはこう思うからだ---その瞬間が楽しかったのは、単にランニングによるものだった。すばらしい日だったし、身体は健康で、すべてが美しかった。それは単に、一種の気分だったのだと。 

 彼らはそれに気を留めない。しかし、それに注意を向けるなら、私自身の観察からすると、ランナーは誰よりも容易に瞑想に近づくことができる。ジョギングも大いに助けになり得るし、水泳も大いに助けになり得る。これらすべて、瞑想へと変容されるべきだ。 

 瞑想とは単にヨーガの姿勢をとって木の下に座ることだといった、瞑想への古い考えは捨てなさい。それはさまざまな方法の中のひとつにすぎない。数人には向いているかもしれないが、万人向きではない。幼い子供にとって、それは瞑想ではなく拷問だ。活発で元気な若者にとって、それは瞑想ではなく抑圧だ。人生を生きてきて、エネルギーが下降しつつある老人にとっては、おそらく瞑想かもしれない。 

 人はそれぞれ異なり、さまざまなタイプの人がいる。エネルギーの低い人にとっては、ヨーガの姿勢をとって木の下に座ることが、最良の瞑想かもしれない。ヨーガの姿勢は、もっともエネルギーの消費が少ない---最小だ。背骨がまっすぐになり、大地と90度の角度をなすとき、身体のエネルギーの消費は最小で済む。左や前方に上体を曲げると、身体はより多くのエネルギーを使い始める。 

 なぜなら、重力があなたを下へ引っ張り始めるのに対し、あなたは倒れないよう自分自身を保持し、支えなければならないからだ。これは消費となる。まっすぐな背骨は、エネルギーの消費が最小で済むことがわかっている。 

 エネルギーの低い人にとっては、手を重ねて座ることも非常に有効だ。なぜなら、両手が互いに触れあっていると、あなたの生体電気は円状に動き始めるからだ。生体電気は体外で出て行かず、内なる円となり、エネルギーはあなたの内側で動く。 

 知っておくといい---エネルギーは常に指から放たれる。エネルギーは、決して丸い形状のものからは放たれない。たとえば、頭はエネルギーを放出できない。頭はエネルギーを保っている。エネルギーは、指やつま先を手を通して放出される。あるヨーガの姿勢では足が合わさるため、一方の足が放出したエネルギーは、もう一方の足に入っていく。 

 一方の手が放出したエネルギーは、もう一方の手に入っていく。あなたは自身のエネルギーを受け取り続け、エネルギーの内なる円となる。その状態は、深い休息とくつろぎに満ちている。 

 ヨーガの姿勢は、可能なかぎり最高にリラックスした姿勢だ。それは睡眠よりも深いくつろぎを与えてくれる。寝ているとき、全身は重力に引っ張られている。水平になっているとき、全身はまったく別の形でくつろいでいる。なぜならその姿勢は、人間がまだ動物で、水平だった太古の日々へと、あなたを引き戻すからだ。くつろぎが訪れるのは退行するからであり、あなたが再び動物になるのを助けるからだ。 

 だから横たわった姿勢だと、あなたは明晰に考えることができない。考えるのは困難になる。やってごらん、夢を見るのは簡単だが、考えるのは難しい。考えるには座る必要がある。座るときにまっすぐになればなるほど、よく考えられるようになる。思考は後から現れたものだ。思考は、人が垂直になってから現れた。人が水平だった頃は夢見があり、思考はなかった。だから横たわると夢を見始め、思考は消え去る。それは一種のくつろぎだ。思考が停止し、あなたは退行する。 

 エネルギーの低い人、病気の人、年老いた人、人生を生きて死が間近に迫りつつある人にとって、ヨーガの姿勢はよい瞑想となる。 

 数多くの仏教僧は、蓮華座で座りながら死んだ。死を受け入れる最良の方法は、蓮華座の中にあったからだ。蓮華座だと、あなたは完全に油断のない状態になる。エネルギーは消えてゆき、エネルギーは一瞬ごとに減ってゆく。死が近づいている。蓮華座だと、最後の最後まで油断のなさを保つことができる。死にゆくときに油断なくあることは、すばらしい体験のひとつであり、究極のオーガズムだ。 

 死にゆくときに目覚めているなら、あなたは完全に異なる種類の誕生を得る---あなたは目覚めて生まれる。無意識に死ぬ人は、無意識に生まれる。意識して死ぬ人は、自分にふさわしい子宮を選ぶことができる。彼には選択肢がある。それは彼が獲得したものだ。無意識に死ぬ人には、子宮を選ぶ権利がない。子宮は、無意識に偶然見つかる。 

 今生で完全に油断なく死ぬ人は、あと一回しか生まれない。次に生まれる必要がないからだ。残っている仕事はほんの僅か---最後の生が、その仕事をするだろう。気づきを持って死ぬ人には、今やたったひとつのことが残されるのみだ---彼には気づきを慈悲に向けて放つ時間がなかった。今度は、気づきを慈悲に向けて放つことができる。気づきが慈悲にならなければ、何かが未完のまま残り、何かが不完全なまま残ってしまう。 

 ランニングは瞑想になり得る---ジョギング、ダンス、水泳、何でも瞑想になり得る。私の瞑想の定義はこうだ---あなたの身体、マインド、魂が共にリズミカルに機能しているとき、それは常に瞑想だ。なぜなら、それは第四のものをもたらすからだ。 

 そして、自分がそれを瞑想として行っていることに油断なく気を配っているなら---オリンピックに参加するのではなく、瞑想として行っているなら、それは途方もなく美しい・・・・・。 

 ただし基本原則として、どんな瞑想であれ、身体、マインド、意識の三つが、すべてまとまって機能するという必要条件を満たさなければならない。するとある日、第四のものが訪れる---すなわち観照だ。呼びたければ、それを神と呼んでもいい。神、涅槃(ニルヴァーナ)、道(タオ)---何と呼んでも構わない。 

◆あなたは身体ではない 

 自分は身体であると思っている人は、常に急いでいる。だから西洋人は慌しく、スピードに取り憑かれているのだ。基本的に、それは身体との同化によるものだ。生は瞬く間に過ぎ、あなたの手をすり抜けて行く---何かを行ない、しかも即座に行ない、急がないといけない。さもないと生を逃してしまう。また、それを実行するより良い手段を見つけ、より速い手段を見つける必要がある。スピードが熱狂の対象になってしまった。 

 ある場所に、いかにより速く辿り着くか---それが唯一の関心事になっている。なぜそこに辿り着きたいかは、誰も関心を寄せない。そもそも、なぜそこに行きたいのか? それは重要ではない。そうではなくて、より速く辿り着くべきなのだ。そして、そこに辿り着いた瞬間、あなたは別の場所に到達しようと考え始める。 

 マインドは、常に焦燥に駆られた状態にある。これは基本的に、私たちが周辺に同化しているからだ。そして身体はいずれ死ぬものだから、人は死に悩まされる。西洋では、死は依然として禁忌(タブー)だ。ひとつのタブーは破られた---セックスに関するタブーだ。しかし、第二のタブーは第一のものよりも根が深く、まだ存在している。このタブーを破るには、再びフロイトのような人が必要だ。 

 人々は死の話をしない。もしくは、話すにしても遠まわしに話す---神のもとに召された、天国に召された、永遠の眠りについた、というように。しかし、身体の中に生きてきただけだとしたら、その人はどこへも行かなかったということだ。彼は死んでいる。ただ死んでいる---塵から塵に変えるようなものだ。別の身体へと去ってしまった者は、ここのこの身体にはいなかった。なぜなら、彼はこの身体にいたことに気づかなかったからだ。彼は、まったく気づかぬままだった。 

 別の道は、内なる意識に留意することだ。身体とは重量があり、よく目立ち、表に現れており、目に見え、触れることができ、形あるものだ。意識とは目に見えぬものであり、あまり表面に現れない。それを探し、深く進むといい。それには努力が必要だ。自分自身の実存を探索するために、たゆまず取り組まなければならない。それは旅だ。 

 しかし、ひとたび自分自身を意識として感じ始めたら、あなたは完全に違う世界に住んでいる。すると何も急ぐことはない---意識は永遠であるからだ。そして何の心配もない---意識には病も死も敗北もないからだ。すると、他のものを探す必要はない。身体は不足だらけだから、欲望につぐ欲望を生み出す。身体は乞食だ。しかし意識は皇帝だ---全世界を所有している。意識は主(あるじ)だ。 

 ひとたび自分の内なる実存の顔を知れば、あなたはリラックスする。すると生は、もはや欲望ではなく、祝祭となる。すべてはすでに与えられている。星、月、太陽、山、川、そして人---すべてが与えられている。それを生き始めることだ。 

 これをあなたの探究としなさい。意識の探究---生はこれに尽きる。意識はそこにある。だが、それは秘められた宝だ。そして当然、宝を持っていたら、それを誰にも盗まれないよう、奥深く隠しておくものだ。神は、あなたの実存のもっとも深い核の部分に意識を置いた。身体は玄関にすぎない。身体は、もっとも奥の部屋ではない。だが、多くの人々はただ玄関で暮らしており、それが人生だと思っている。人々は、まったく自分の実存の家に入ることがない。 

 生を自己へと向かう旅にしなさい。身体を利用し、身体を愛しなさい---それは美しいメカニズムであり、貴重な贈り物だ。その神秘はすばらしい。だが、それと同化してはいけない。身体はちょうど飛行機のようなものであり、パイロットはあなただ。飛行機はすばらしいもので非常に役立つが、パイロットは飛行機ではない。そしてパイロットは、自分が別個の存在であり、飛行機から距離をおき、超然とし、離れていて、遥か遠くにいることを覚えておく必要がある。彼は乗り物の主(マスター)だ。

 だから、身体を乗り物として利用しなさい。ただし、意識を王座に着かせることだ。OSHO p217~227

<35>につづく

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