プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <35>おもちゃ曼陀羅
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
<35> おもちゃ曼陀羅
さて、ナニを書こうかな、と思ったところ、そう言えば、こちらのシリーズを書いていたことを思い出した。ましてや<to be continued>で中断していたのだった。そもそも、まだまだ続くぞ、という予感はあったのだろう。
中断していた1年半の間、ナニもなかったはずはない。たくさんのことが起こった。大きいのは、やはり大事な友人を3人亡くしたこと。そして、それ以上に大きかったかもしれないのが、周囲に、次から次と、新生児が登場したことである。
年齢的に、孫の世代が生まれる年回りである。友人知人親戚つながりで、なんと新生児たちのラッシュには驚くばかりである。そして、まだまだ続くであろう。
私も、また「奇妙な生活」が始まった。奇妙と言えるかどうか、大家族の時代なら、よくよくあったことだろう。老妻と2人のところへ、孫が二人同居し、さらに、妊婦たち二人との共同生活が始まったのである。
基本的に、子供が大好きな私にとって、大歓迎である。今のところ困ることはない。最初、スペースが間に合うか、ということが一番憂慮されたが、これが意外と我が家は拡張性があることが分かった。元事務所はキッズルームになり、ビルトイン車庫を改造した事務所も、キッズ連に次から次と侵される。
仕事の必需品でも、キッズ連にとっては危険物や凶器になってしまうものは、改造事務所からも撤退しなければならない。
しかし、これらのものを収容するスペースとして、新たにロフトが活躍し始めた。これが膨大な収容力を持っている。そしてなお、その一角には、瞑想スペースさえ出現し始めた。これがなかなかよい。
撤退して広くなったスペースは、すぐに孫たちのおもちゃと入れ替わる。私の恐竜たちの曼陀羅を楽しんでいたのもつかの間、プラレールやらトミカやら、ありとあらゆるキッズ連の世界が現出する。
まぁ、嫌いじゃないから、それはそれでいいのだ。しかし、もっと考える。おもちゃはおもちゃワールドとして、曼陀羅化しているが、それ以上に、人間模様も、我が家の構造も、もっと曼陀羅化しているようなのである。
中断前の状態では、0歳児、1歳児と、祖父の対話は成立するか、というテーマが厳然していたが、今や、2歳児と3歳児にならんとするキッズ連とは、明らかにコミュニケーションが成立する。いや、むしろそれを拒むことは難しい。
生まれて間もなく、意識さえ不確かな新生児の時代から、茶目っけな目玉をしていたこいつらは、今や、明らかに、個性を発揮しつつある。言葉をしゃべり、自らを表現し、他者を観察する。自己主張をし、日々、情報を掻き集め、自らの世界を更新し続けている。
これから数週間、あるいは数ヶ月は続くであろう、この「奇妙な生活」は、私にとっては、とても好ましい。痛くクリエイティビティを刺激される。日々、私もキッズになる。ひょっとすると、この生活が、数年に及ぶかもしれないのだ。それもよからん。
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