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2013年10月の22件の記事

2013/10/31

イーグルス日本一に王手! 仙台で胴上げだ!

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 連日4時間を超える大接戦。先に王手をかけたのはイーグルス。今度の土曜日、先発は田中だろう。舞台は揃った。

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2013/10/28

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <35>おもちゃ曼陀羅

<34>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<35> おもちゃ曼陀羅

さて、ナニを書こうかな、と思ったところ、そう言えば、こちらのシリーズを書いていたことを思い出した。ましてや<to be continued>で中断していたのだった。そもそも、まだまだ続くぞ、という予感はあったのだろう。

 中断していた1年半の間、ナニもなかったはずはない。たくさんのことが起こった。大きいのは、やはり大事な友人を3人亡くしたこと。そして、それ以上に大きかったかもしれないのが、周囲に、次から次と、新生児が登場したことである。

 年齢的に、孫の世代が生まれる年回りである。友人知人親戚つながりで、なんと新生児たちのラッシュには驚くばかりである。そして、まだまだ続くであろう。

 私も、また「奇妙な生活」が始まった。奇妙と言えるかどうか、大家族の時代なら、よくよくあったことだろう。老妻と2人のところへ、孫が二人同居し、さらに、妊婦たち二人との共同生活が始まったのである。

 基本的に、子供が大好きな私にとって、大歓迎である。今のところ困ることはない。最初、スペースが間に合うか、ということが一番憂慮されたが、これが意外と我が家は拡張性があることが分かった。元事務所はキッズルームになり、ビルトイン車庫を改造した事務所も、キッズ連に次から次と侵される。

 仕事の必需品でも、キッズ連にとっては危険物や凶器になってしまうものは、改造事務所からも撤退しなければならない。

 しかし、これらのものを収容するスペースとして、新たにロフトが活躍し始めた。これが膨大な収容力を持っている。そしてなお、その一角には、瞑想スペースさえ出現し始めた。これがなかなかよい。

 撤退して広くなったスペースは、すぐに孫たちのおもちゃと入れ替わる。私の恐竜たちの曼陀羅を楽しんでいたのもつかの間、プラレールやらトミカやら、ありとあらゆるキッズ連の世界が現出する。

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 まぁ、嫌いじゃないから、それはそれでいいのだ。しかし、もっと考える。おもちゃはおもちゃワールドとして、曼陀羅化しているが、それ以上に、人間模様も、我が家の構造も、もっと曼陀羅化しているようなのである。

 中断前の状態では、0歳児、1歳児と、祖父の対話は成立するか、というテーマが厳然していたが、今や、2歳児と3歳児にならんとするキッズ連とは、明らかにコミュニケーションが成立する。いや、むしろそれを拒むことは難しい。

 生まれて間もなく、意識さえ不確かな新生児の時代から、茶目っけな目玉をしていたこいつらは、今や、明らかに、個性を発揮しつつある。言葉をしゃべり、自らを表現し、他者を観察する。自己主張をし、日々、情報を掻き集め、自らの世界を更新し続けている。

 これから数週間、あるいは数ヶ月は続くであろう、この「奇妙な生活」は、私にとっては、とても好ましい。痛くクリエイティビティを刺激される。日々、私もキッズになる。ひょっとすると、この生活が、数年に及ぶかもしれないのだ。それもよからん。

<36>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <34>to be continued

<33>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<34> to be continued
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<35>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <33>to be continued

<32>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<33> to be continued
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<34>につづく

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2013/10/25

だんボールでつくる「恐竜20」 滝口あきはる<4>

<3>よりつづく

「恐竜・20」 だんボールでつくる<4>

滝口あきはる(著) 1994/04 星の環会 ムック p88
★★★★★

 クロノサウルス。

Photo

 ティロサウルス。

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 イグアノドン。

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 パラサウロロフス。

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 エダフォサウルス。

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 ランベオサウルス。

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 ピナコサウルス。

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 タルボサウルス。

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 これで全部で20体。

 一つのボックスに納めると、ごらんのとおり。

Box

 これじゃぁ、いっぱいいっぱいだなぁ。

 広げてみると、こうなっちゃいます。

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2013/10/23

だんボールでつくる「恐竜20」 滝口あきはる<3>

<2>よりつづく


「恐竜・20」 だんボールでつくる<3>

滝口あきはる(著) 1994/04 星の環会 ムック p88
★★★★★

 4体追加。

 まずは、プロガノケリス。亀さんに似ているな。(どこが違うんだろう)

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 そして、ディアノドリマ。名前なんか、全然覚えられない。

4

  ちょっと、トリケラトプスに似ているモノクロニウス。鎧が特徴的。

3

 アロサウルスはかなり大きい。すでに廃材も数少なくなってきて、いよいよ寄木細工になてきた。でも、それでも、なかなか味があるよ。

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 これで合わせて8+4で12体。これから、さらに8体作る予定なのだが、気力と、廃材は最後まで残っているだろうか・・・・・・

<4>につづく

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2013/10/22

祝・CS突破 イーグルス日本シリーズ進出 

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2013/10/15

だんボールでつくる「恐竜20」 滝口あきはる<2>

<1>よりつづく


「恐竜・20」 だんボールでつくる<2>

滝口あきはる(著) 1994/04 星の環会 ムック p88
★★★★★

 チキンの骨で作った骨では、幼児たちにとっては興味があるが、リアルすぎて、いまいち足がすくむようだ。作ったこちらとて、ちょっと触られたら、すぐにバラバラになってしまうので、怖い。

 そこで見つけたのが、この本。段ボールで作るところを、木で作ることにした。床や天井階の造作をしたときの切れ端が残っている。普通ならすぐ捨ててしまうところだが、これを捨てられない、困った性分である。

 今回は、これを生かすのだ。

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 まず作ったのは、ティラノザウルス。ちょうど、木の節が目になっている。

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 T-Rexに対抗すべく、次に登場したのが、プテラノドン。でも、いまいち座りが悪く、いまだに修正中。

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 それならば、と対抗の本命、トリケラトプス。なんとなく小ぶりでかわいい子ブタちゃんみたい。

Bo9
 次なるは名前だけわかっていた、ステゴザウルス。背中の左右非対称な突起物が特長的。

Bo4
 一番大きいはずの、ブロントサウルス。首を後ろに曲げて、他の仲間と大きさを調整している。

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 背中の突起物では、こちらも負けていないアンキロサウルス。これでは、1~2歳児にとっては、どちらが頭か分からない。目をいれて顔を作ってやらなければ・・・・。尻尾には武器になるハンマーがついている。

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 背中の突起物ではこちらも忘れてはいけないディメトロドン。どうも足のあたりなど、まだまだ作り込み不足。

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 現在制作中なのは、二本足歩行のトラコドン。こちらも、見返り美人的なところが魅力。

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 これら8体が、一つのBOXに収まっている。

Bo1
 これから、予定でいくと、これが20体まで増量する予定。今のところ、子供たちと共存できているようだ。

<3>につづく

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2013/10/11

石川裕人作・演出『方丈の海』<5> 2013追悼公演編

<4>からつづく

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「方丈の海」 <5>
石川裕人 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.35  2013/10/11~14 せんだい演劇工房10-BOX box1 上演台本 152p 追悼公演編 

  会場はいつも行くお得意さんの、ほんのちょっと道を一本はさんだ向かい側だった。知らない場所ではないが、今まで知ろうとしないできた自分がいた。

 100ほどある観客席は満杯だった。真中に座って、ぐるりと見渡してみたが、観客の中に、私の知った人はいなかった。ニュートンの芝居と言えば、誰か彼か友達がいるもんだが、今日は、なぜか一人もいなかった。というか、いないことにして、回りを見渡すのをやめた。

 この人々、石川裕人の芝居を見に来ている。知っている劇団は、オクトパスと、せいぜい、その前の十月劇場くらいだ。十月劇場を知っている人だって限られているだろう。その前は洪洋社で、その前は劇団座敷童子で、その前は高校の文化祭で芝居をやって、・・・・なんてことは、誰も知らない(はずである)。小学校の3年の学芸会で、私から劇の主役を奪ったのは石川裕人だったなんて、誰も知らない、そして、もはや、そんなことは、どうでもいいことなのである。

 人々は、石川裕人の芝居を見に来ている。

 私は、石川裕人の芝居の「観客」としては、不幸だと思う。私は、彼を知りすぎている。彼は、人生を賭けて、せっせと虚構を作り続け、私は、その虚構を、次々、壊し続けた。もちろん、彼の芝居の手伝いをやったことこそあれ、邪魔したことはない。だが、彼が作ろうとする、私の中の虚構を、私はことごく、突き崩してきた。

 私にとっての彼の最期は、サキの治療院にいた時、彼が病院から電話をよこした時だった。手術をするから保証人になってほしいと言う。もちろん断れるはずがない電話である。じゃぁ、今からそちらに行くよ、と言う私を彼は制した。「代筆でいいらしい」。そうなのか、じゃぁ、ハンコだけでも持っていくよ。「いや、拇印でいいらしいから、オレが押しておく」。だから、私は、病院に駆けつけるチャンスを失った。

 私にとって、彼の最後の虚構は、彼自身が、私になり変わって、私の名前を署名し、私の指の代わりに、自らの拇印を押すことによって、すっかり私になりすましたことである。コンプライアンスかまびすしい昨今のこと、私なんぞは仕事柄、この行為はできない。

 上演台本を読んでから芝居を見に行くなんて、今までやったことはない。読み直した台本が、今日は、どんな風に変わっているだろう。私は注意深く観劇した。しかし、私の見る所、それは、ほとんど上演台本そのままに再演されたように思う。

 もちろん、噛んだり、セリフを忘れた(ふりをしたのかも?)役者のアドリブは2・3あったものの、石川裕人が書いたそのままが演じられた、と考えて、まず間違いはないだろう。

 しかしだ、音楽に詳しい人なら、あの五線譜を見ただけで頭の中にメロディーが聞こえてくるというが、上演台本を見ただけで、芝居の動きが見えるほどの才能は、私にはない。

 台本として、原稿用紙ならぬ、ワードか一太郎で書かれた文字たちに対してなら、いくつも突っ込みたくなる私ではあったが、実際に演劇空間で、役者たちが、自らの口から台詞を吐くとき、それはまったく別ものだった。当たり前と言えば当たり前だが、そのことを今日は、痛感した。

 そして、役者たちの仕草や表情、立ち位置、照明や、舞台効果など、予測はしていたものの、上演台本では察することのできない万華鏡が、そこには潜んでいた。

 俳優は「誉められたい」存在で、出来るならば、自分の認める人に誉められたい存在である。青森県立美術館舞台芸術総監督 長谷川孝治 会場で配られた「オクト・プレス」追悼公演特別号より

 私は、芝居や俳優を誉めることは上手ではなく、好きでもない。しかしまぁ、あの台本通りにやっていくとこうなるのか。あらためて、そのドラマツルギーに茫然とした。

小桜 じゃぁカイコーよりもグレードアップしたフリークスを用意しなきゃあ。

石持 龍だな。あの地震の時に日本海溝から天空へ飛翔したというドラゴンを見つけてくれ。

小桜 社長、そんな憎しみのテーマパークをこの東北に作ってなにが楽しいんですか? そして、津波でやられた名もない寂れた土地に観光客がやってきますか? 上演台本p104

 上演台本を読んでいた段階では、私は、このカイコーという生物のことをすっかり見落としていた。それは、もっと別なネーミングでもよかったはずなのだが、あえて作者は、カイコーという半魚人にした。そして、結局最後は、人へと戻す。

 しかしながら、他人の虚構崩しを趣味にしておきながら、私にとって、「龍」は真実なのだから、困ったものである。

 私は老婆を思う。老婆が二人して、一つ屋根に住んでいることを思う。一人は本当の老婆であり、一人は虚構の老婆である。

 私は、家族を全部失った青年を思う。虚構の津波の中で、お爺さんもお婆さんもお父さんもお母さんも失った青年と、3・11で本当に、お爺さんもお婆さんもお父さんもお母さんも失った青年。この二つの存在の差異はどこにあるだろう。

 老婆と、青年は、この芝居を見るだろう。初めて、石川裕人の芝居を見る。彼ら、彼女らは、私よりも、もっと激しく、虚構崩しにかかるだろう。しかしながら、彼らは、私よりはガッツはないはずだ。その虚構のほうが、上回るだろう。上回るが、本当に、真実は、虚構によって、癒されるだろうか。

 会場に行って、私は初めて、石川裕人にまつわるイベントがこの後もあることがわかった。

 ひとつは、10月26日の「石川裕人の言葉たち」という追悼ライブリーディングである。千賀ゆう子と、絵永けい、の二人によるものだ。

 もう一つは、石川裕人の門下(と言っていいだろう)である小畑次郎(他力舎)演出による特別公演「流星」である(11月8~9日)。これは、十月劇場の旗揚げ公演作品だ。もうすでに30有余年前の作品である。私もたぶん見たはずなのだが、忘れた。おびただしい数の石川作品は、私にとって、無選別のまま、乱舞している。

 しかし、十月劇場の旗揚げメンバーだった小畑にとっては、特に意味深い作品であることは、容易に察しがつく。

 虚構が虚構で在り続けることはできない。真実しか、真実足り得ない。観客は、いっときの虚構の中に、その虚構を味わう。そして、その虚構の中に、ふたたび自らの真実を見つめ直す時、演劇は演劇としての、真実の力を持ち始める。

<6>につづく

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OSHO 「Joy 喜び」 山川紘矢& 山川亜希子(翻訳)  角川書店刊<1>

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OSHO 2013/10  (著), 山川 紘矢 (翻訳), 山川 亜希子 (翻訳) 角川書店 単行本: 255p
Total No.3117★ <1>

 

 あとがき  山川 紘矢  山川 亜希子  

 本書はニューヨークのSt.Martin's Griffinから2009年2月に出版されたJOY(THE HAPPINESS THAT COMES FROM WITHIN)を翻訳したものです。  

 OSHOの本は世界的に膨大な数が出版されていますが、ウィキペディアで調べてみたところ、いままで29冊の講話録が1977年から2000年にかけて日本語に翻訳、出版されています。 

 今般、出版の運びになったのは、最近、アメリカでOSHOの人気が復活しているということで、出版エージェントからの働きかけがあったからです。私たちは精神世界の本の翻訳者ですが、特にOSHOと深い関係があるわけではありません。数年前、インドのプネーにあるOSHOの瞑想リゾートに1週間ほど滞在したことがあるぐらいです。その時、OSHOの膨大な蔵書を見せていただき、彼の興味の広さと深さに大いに驚きました。 

 OSHOは現代の意識の革命者であり、人々の意識変革に大きな役割を果たした人として、20世紀を作った1000人のうちの1人であるとも言われています。 

 この世の中が変わるためには多くのブッダ(覚者)つまり、覚醒した人が現われなければならないとOSHOは言っています。そのためには、私たちの従来の価値観を揺さぶる必要があり、人々にショックを与えなければならないとも言っています。そして今は、地球のエネルギーそのものが大きく変化し、それとともに人々の意識が大きく変化しつつある時なのでしょう。今やっと、OSHOの本が多くの人に読まれ、理解される時が来たのかもしれません。 

 最初、この本の翻訳の話をいただいた時は、少しとまどいがありました。私たちはOSHOの教えを受けたこともなければ、OSHOの特別なファンでもありません。日本にもOSHOの熱心なファンが数多くいらっしゃいます。彼について学びを重ねてきた方をさし置いて部外者の私たちが翻訳してもいいのだろうか、と思ったのです。しかし、多くの方に読んでいただくためには、そのほうがかえってこの本の翻訳者として適しているのかもしれません。 

 先にも述べたとおり、OSHOは自分の役割を人々にショックを与えて、覚醒を促すところにあるとしています。また彼は物事の真実をオブラートに包むようなことはせずに、そのままあからさまに語っています。そのために、日本では不適切とされている言葉も数多く使用していますが、翻訳にあたってはなるべくOSHOの意図を尊重したいと思い、不適切とされている用語もそのまま日本語に訳しました。著者の想いを汲んで、どうぞご容赦ください。また、いくつかの言葉は、OSHOの翻訳の慣用句をそのまま使用しているので、慣れるまでは多少の違和感があるかもしれません。

 最後にこの本のお話をもってきてくださったアウルズ・エージェンシーの下野誠一郎さん、角川書店の菅原哲也さんと藤田在希子さんにこころからの感謝をささげます。

2013年8月         p254

 <2>につづく

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石川裕人作・演出『方丈の海』<4> 

<3>からつづく 

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「方丈の海」 <4>
石川裕人 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.34 上演台本 p152

 今日は子供時代からの友人である劇作家・石川裕人の命日である。早いもので、あれから一年が経過したのか。一年間で、石川裕人が亡くなり、私が唯一出演したことがあるひめんし劇場の伊東竜俊も、追うようにして亡くなった。伊東は石川の劇作家仲間でもあり、有力な「タニマチ」の1人でもあった。

 それから半年あまりして、石川の葬儀にも出席していた、10代からの友人にして仙台e人会の会長・沢田石信が亡くなった。e人会は、たんに古い友人たちの飲み会であるが、実はそれ以上に、参加者ひとりひとりにとっては意味深い集まりであった。

 だから、この一年で、私は身近で重要な友人を3人亡くしたことになる。あんまりと言えば、あんまりである。たしかに、還暦と言う60年ひとめぐりの時間は経過した。しかし平均寿命80歳とか90歳と言われる今日、100歳を超える超高齢者も決して珍しくはない時代である。おいおい、お前ら、なんとかもう少し生きていることは出来なかったのか、と一言愚痴もいいたくなる。

 思うに、これら三人は、酒飲みである。酒を愛し、酒とともにあることを喜びとしてきた。そのため、内蔵を痛めたか、あるいは凝縮された人生を早めにたくさん体験してしまったのか、とにかく、奴らはもういない。

 そして、思えば、今日11日は、大震災3・11の、2年7ヵ月目の命日でもある。震災直前に、10代からの友人ミー坊がなくなり、震災で中学校時代の部活の仲間が亡くなり、震災直後には、福島出身の加藤哲夫氏も亡くなった。

 海岸線で家もろとも海に消えた親戚もあるし、震災の片づけの心労の中、静かに人生を終えていった叔父もいる。思い立った時、なんども海岸線を訪れてみるが、そこはもう、私が3・11以前に知っていた世界ではない。あの一瞬を境に、世界は一変した。

 石川裕人の一周忌を期して、劇団オクトパスの追悼公演が、本日から4日間に渡って行われる。残された団員達は、一時的な放心状態から、また立ち上がり、この追悼公演に向かって稽古を積んできたと思われる。

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 私はこの公演を見逃すわけにはいかない。見逃したのでは、私の人生の中の何かが不足してしまう。

 昨年の、同タイトルの、石川裕人の最期の作品となった「方丈の海」を私は見なかった。見なかったことに、不思議と後悔の念はない。私は私なりの矜持で、意識的に見ないことを決めたのだ。

 しかし、今年は見ないわけにはいかない。見逃したら、何か絶対損したような気分になりそうだ。

 昨年と今年と、何が違うのだろうか。そう思いながら、手元のある「上演台本」に一通り目を通してみる。

 台本は稽古過程で修正をしていきます。この台本は上演までの過程の記録としてお考えください。p154

 こう明記してあるかぎり、今日演じられる内容が、昨年と同じかどうかなんてことはわからない。しかし、決定的な違いがある。それは、今日は、少なくとも作・演出者としての石川裕人は挨拶しない、ということだ。姿としては、もう現すことはない。

 それでもなお、そこに、ひょっとすると、私は石川裕人を見るかもしれない。

 私は、彼が亡くなったあと、あわてるようにして、彼の作品をみた。2013/2/10~11 宮城県大河原町えずこホールで行われた、石川裕人・作『THE RIVER STORY』~水鏡の中の不思議な世界~AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演。小学生や中学生が多数出演するミュージカル仕立ての作品に心洗われた。

 劇中にでてくる、科学少年「ユウジ」は、もともと台本にあったのか、あとから、今回の公園のためにつくられたのか。この役は、本当の石川の少年時代とは、ちょっと違っていたが、それでも、彼の少年時代をほうふつとさせた。

 うろ覚えだが、劇中で、ユウジ少年は、虫めがねを持っていたのではないだろうか。そして、探していたのは、恐竜の化石・・・・・。違ったかな・・・? でも、後から思い出すと、あの時、「恐竜」のことなんて、ちっとも興味がなかったのに、現在の私を思うと、なんだか、あの時から種は播かれていたのではないか、と思う。

 次に見たのは、2013年5月3日 宮城野区文化センター パトナシアター、石川裕人作 シニア劇団「まんざら」公演 「つれづれ叛乱物語」。こちらは還暦を過ぎたような高齢者たち向けに書かれた作品である。この作品もすばらしかった。「シロート」芝居という先入観があるのか、逆に登場人物たちの堂々ぶりには、度肝を抜かれた。

 上記二作品は、再演である。生前、再演を決して好まなかった石川裕人は、生涯で100本の作品を書いた。再演するくらいなら、新作を書く、いつもそういう勢いだった。だから、生前なら、これらの上演の機会があれば、きっと、どちらも新作が掛かったに違いないのだ。追悼公演とは言え、どちらの作品も、まったく湿っぽいところはなかった。コミカルで軽やかだった。

 まんざら公演が行なわれた劇場の地下には区民図書館がある。時間の合間を見て覗いて一冊だけ私が借りてきたのは、クリス・マクゴーワン 著「チキンの骨で恐竜を作ってみよう」 だった。当時、恐竜のことなど、まったく興味がなかった私だが、現在の私のあり様は、当ブログで展開中の通りになっている。

 AZナイン(アズナイン)の科学少年ユウジの恐竜の化石と言い、まんざらの時の「チキンの骨で・・・」といい、今となっては、石川裕人の置き土産ではないかな、と思うときがある。ましてや、石川のタニマチの1人、伊東竜俊の「竜」にさえ、何かの繋がりを感じてしまうのだ

 小桜 冗談でも法螺でもない。この世の中には我々の知らない神秘の世界がまだまだあるのだ。十年前の大地震で日本海溝に地殻変動が起こり、全長八百キロメートルに及び長々と寝そべっていた龍が天空に飛翔したという。 p45

 これは冗談でも法螺でもない。それは本当だと思う。この作品は、3・11の10年後の設定だから、2021年頃のお話である。私は、この部分については、大いに共感する。今日、私は、どんな芝居を見ることになるのだろうか・・・・?

 今晩、仕事が終わったら、何はともあれ、会場に足を向けてみよう。

<5>につづく

 

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Kindle関連リスト

Kindle関連リスト

「キンドルの衝撃」 Kindle Revolution メディアを変える 石川幸憲 2010/01 毎日新聞社

「iPad vs.キンドル」 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏 西田宗千佳 2010/03 エンターブレイン

「Kindle解体新書」 驚異の携帯端末活用法のすべて スティーブン・ウィンドウォーカー/倉骨彰 2010/05 日経BP社

「電子出版の構図」 実体のない書物の行方 植村八潮  2010/07 印刷学会出版部

「誰でも作れる電子書籍」 今すぐできる制作から販売まで 米光一成 2010/08 インプレスジャパン

「ルポ電子書籍大国アメリカ」 大原ケイ 2010/09 アスキー・メディアワークス

「電子書籍のつくり方・売り方」 小島孝治 2010/10 日本実業出版社

「できるAmazon Kindle スタート→活用 完全ガイド」山口 真弘 (著), できるシリーズ編集部 (著)  2012/12 インプレスジャパン

「Kindle 新・読書術 」すべての本好きに捧げる本 [Kindle版] 武井一巳 (著) 翔泳社 2013/01

「Kindleセルフパブリッシング入門」電子書籍でベストセラー作家になろう 小泉 俊昭  (著)2013/4/13 日本実業出版社

「Amazon Kindleダイレクト出版 完全ガイド」 無料ではじめる電子書籍セルフパブリッシング いしたにまさき 境祐司 宮崎綾子著 2013/5 インプレスジャパン

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2013/10/10

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<47>「46億年目の地球」カテゴリについて

<46>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<47>46億年目の地 球」カテゴリについて

 もうすでに終わったブログだった。いくつかのことが重なり、いくつかのリズムが収束した。すでに行くべきゴールはない。

 その思いの中にあっても、流れはある。流れのままに、OSHO「こころでからだの声を聴く」の転記がはじまった。それはただ転記にすぎず、時は流れて、そのまま続き、そのまま終わるはずだった。

 ところが、中ほどに来て、突如それは、また別の友人の「死」によって中断された。

 そしてまた、自分の中のなにか古代がうごめきだす。

 最初、名付けようのないまま、「46番目のカテゴリ」と名付けられたこのカテゴリは、やがて、「46億年目の地球」と改名された。46というヌメロジーが、何かを引っ張ってきたのかもしれない。

 次なるカテゴリも、特に意味をこめないでおく。意味的には「47番目のカテゴリ」だが、最近の流行らしい「AKB48」や、NHKテレビ小説「あまちゃん」の地元アイドルグループ「GMT47」にあやかって、「ESJ47」カテゴリ、と仮題をつけておく。ESJとは、当ブログのタイトルEarth Spirit Jurnalのことである。

 最初はそのように始め、やがて、必要であれば、カテゴリ自らタイトルを決めるであろう。 

「再読したいこのカテゴリこの3冊」は、本ではなく、三つのビデオやDVDなどの映像作品になった。すべて、キーワードは「恐竜」である。

ナショナル ジオグラフィック「24 HOURS AFTER」 恐竜絶滅の日
2010/03  日経ナショナル ジオグラフィック社

NHKスペシャル1994 「生命」 40億年はるかな旅
1994/04~1995/03放映 DVD

NHKスペシャル2004 「地球大進化」〜46億年・人類への旅
2004/04~2004/10放映 DVD

 

 ヨーガの姿勢は、可能なかぎり最高にリラックスした姿勢だ。それは睡眠よりも深いくつろぎを与えてくれる。寝ているとき、全身は重力に引っ張られている。水平になっているとき、全身はまったく別の形でくつろいでいる。なぜならその姿勢は、人間がまだ動物で、水平だった太古の日々へと、あなたを引き戻すからだ。くつろぎが訪れるのは退行するからであり、あなたが再び動物になるのを助けるからだ。 

 だから横たわった姿勢だと、あなたは明晰に考えることができない。考えるのは困難になる。やってごらん、夢を見るのは簡単だが、考えるのは難しい。考えるには座る必要がある。座るときにまっすぐになればなるほど、よく考えられるようになる。思考は後から現れたものだ。思考は、人が垂直になってから現れた。人が水平だった頃は夢見があり、思考はなかった。だから横たわると夢を見始め、思考は消え去る。それは一種のくつろぎだ。思考が停止し、あなたは退行する。 OSHO「こころでからだの声を聴く」 p222

 瞑想にいそしむというより、寝っ転がって本ばっかり読んでいたので、私の中の、「水平だった太古の日々」が「夢」をむさぼっていたのかもしれない。

 記事数は、Vol.4として001から再開するのではなく、1024×3Vol.=3072の後継として、Total No.3073から継続することにした。数字に意味はない。単に便宜的な目安である。Vol.1、Vol.2、Vol.3と、それなりに意味を込めたつもりであるが、今後はVol.4は存在せず、全体としてのみ、流れていくのを見つめることにする。

 とりあえず目標はTotal No.10000だが、それは、単にイチローの安打数とか、マーちゃんの連続勝利数にあやかろうという、ただそれだけのことで、そこに意味はない。

 震災後、近況を伝えるためにツイッターを多用したせいか、140文字で書くのがなんとなく習慣になり、ランダムで書くので、箇条書きに、1)、2)、3)、とナンバリングしていたが、いつの間にか、この習慣も、このカテゴリの後半で消えていた。

 書かれたのは、2013/06/22から2013/10/10まで。

<48>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「46億年後の地球」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「46億年後の地球」編

ナショナル ジオグラフィック〔DVD〕 24 HOURS AFTER 恐竜絶滅の日
ナショナル ジオグラフィック「24 HOURS AFTER」
恐竜絶滅の日
2010/03  日経ナショナル ジオグラフィック社 DVD

Photo
NHKスペシャル1994 「生命」 40億年はるかな旅
1994/04~1995/03放映 DVD

Daisi
NHKスペシャル2004 「地球大進化」〜46億年・人類への旅
2004/04~2004/10放映 DVD

 

後につづく

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こころでからだの声を聴く<35>

<34>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<35> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆ゴール志向から祝祭へ 

 くつろぎとは、エネルギーが未来にも過去にも、どこにも動いていない状態のことだ---エネルギーはただそこに、あなたと共にある。あなたは、自分のエネルギーを湛えた静かな場所に包まれ、そのぬくもりに包まれている。この瞬間がすべてだ。他の瞬間は存在しない。時間が止まると、くつろぎがある。時間があるなら、くつろぎはない。ただ時計が止まり、そこには時間がない。この瞬間がすべてだ。あなたは他に何も求めない。ただ、それを楽しんでいる。ありふれた物事を楽しめるのは、それが美しいからだ。実のところ、何ひとつありふれたものはない---神が存在するなら、すべては特別だ。 

 ごくささやかな物事・・・・。まだ露の蒸発していない芝生を歩き、そしてその場を全面的に感じる---肌触り、芝生の触感、梅雨の冷たさ、朝の風、日の出。幸せになるために、さらに何が必要だろう? 幸せになるために、さらに何が必要だろう?  

 夜ベッドの冷えたシーツに横たわり、その肌触りを感じ、シーツがだんだん暖まっていくのを感じる。あなたは暗闇に包まれ、夜の静けさに包まれている。目を閉じ、ただ自分自身を感じる。これ以上何が必要だろう? あり余るほどだ---深い感謝が湧き起こる。これがくつろぎだ。 

 くつろぎとは、この瞬間は充分すぎるほどであり、求め期待し得る以上だという意味だ。求めるものは何もない、充分すぎるほど、望み得る以上だ---そのとき、エネルギーはどこにも動かない。それは静かな池となる。あなたは、自分自身のエネルギーの中に溶けてゆく。この瞬間がくつろぎだ。 

 くつろぎとは、身体やマインドに由来するものではない。くつろぎとは全面的なものだ。だから覚者たちは「無欲になれ」と言い続ける。彼らは、欲望があるとリラックスできないことを知っている。「死者を埋めよ」と、彼らは言い続ける。過去にとらわれ過ぎていると、リラックスできないからだ。彼らは、「まさにこの瞬間を楽しめ」と言い続ける。 

 イエスは言う、「ユリを見るがいい。野のユリをよく見るがいい---あくせくせず、いよいよ美しい。その輝きはソロモン王に勝る。ユリたちは、ソロモン王より芳しい香を漂わせて立ち並んでいる。ごらん、ユリをよく見てごらん!」 

 彼は何を言っているのだろう? 彼は言っている。「リラックスしなさい! あくせくする必要はない---実のところ、すべては与えられている」。イエスは言う、「彼が、空の鳥たち、動物たち、野性の動物たち、木々や植物たちの面倒を見てくれているのに、なぜあなたは心配するのだ? 彼があなたの面倒を見ないとでもいうのかね?」。 

 これがくつろぎだ。なぜあなたは、そんなに未来のことを心配しているのだろう? ユリをよく見てごらん、ユリを見つめてごらん、そしてユリのようになってごらん---そしてリラックスする。くつろぎとは、ある特定の姿勢ではない。くつろぎとは、あなたのエネルギーの全面的な変容だ。 

 エネルギーは二つの側面を取り得る。ひとつは動機づけられたもの、どこかへ行こうとすること、どこか目的地へ向かおうとするものだ。この瞬間は手段にすぎず、どこか別の場所に達成すべきゴールがある。これが、あなたのエネルギーのひとつの側面だ---活動、ゴール志向の側面、そのとき、すべては手段となっている。 

 何とかそれを為し遂げ、あなたはゴールに辿り着かねばならない。そうすればリラックスする。だが、この種のエネルギーにとって、ゴールは決して訪れない。なぜならこの種のエネルギーは、現在の瞬間をことごとく何か別のもののための手段や、未来に変え続けるからだ。ゴールは常に水平線上にある。あなたは走り続けるが、ゴールとの距離は同じままだ。 

 いや、エネルギーには別の側面がある。それは、動機づけのない祝祭だ。ゴールは今ここにある。どこか別の場所にあるわけではない。実のところ、あなたがゴールだ。実のところ、この瞬間をおいて他に達成はない---ユリをよく見てごらん。あなたがゴールであり、ゴルが未来にないとき、達成すべきものが何もないとき、むしろただそれを祝えばいいだけであるとき、あなたはすでにそれを達成している。それはそこにある。これがくつろぎであり、動機づけのないエネルギーだ。 

 だから私にしてみると、人には二つのタイプがある---ゴールを追い求める人と祝祭の人だ。ゴール志向の人は気違いだ。やがて彼らは狂ってしまう。しかも、彼らは自分の狂気をつくり出している。すると、狂気にはそれ自体の勢いがあるため、彼らは次第に深みにはまっていく---そして完全に道を見失ってしまう。もう一方のタイプは、ゴールを追い求める人ではない---彼はまったく追い求める人ではなく、祝祭の人だ。 

 そして私は、これをあなたに教えたい。祝祭の人でありなさい! 祝いなさい! すでに充分すぎるほどある---花々は先、鳥たちは歌い、空には太陽がある。それを祝いなさい! すると突然、あなたはリラックスし、緊張も苦悩もなくなる。苦悩となっていたエネルギーは、すべて感謝になる。あなたのハート全体は、深い感謝の念で鼓動し続ける---それは祈りだ。それが祈りというものだ---深い感謝の念で鼓動するハート。 

 そのために何かをする必要はない。ただ、エネルギーの動きを理解すればいい。動機づけられていないエネルギーの動きを。それは流れる。だが、ゴールに向かってではなく、祝祭として流れる。それは動く。ゴールに向かってではなく、それ自身のあふれ出るエネルギーによって動く。 

 子供は踊り、飛び跳ね、駆け回る。子供に尋ねてごらん、「どこへ行くの?」と。子供は、どこにも行きはしない。子供はあなたのことを馬鹿だなと思う。子供はいつも、大人のことを馬鹿だと思っている。「どこへ行くの?」とは、何と間抜けな質問だろう?  

 どこかへ行く必要があるのだろうか? 子供は、まったくあなたの質問に答えられない。なぜなら、その質問は的外れだからだ。彼はどこにも行きはしない。ただ、肩をすくめるだろう。「どこにも行かないよ」と言うだろう。するとゴール志向のマインドは訪ねる、「それなら、なぜ走っているんだい?」---私たちにとって行為とは、それが何かになってこそ意味をなすものであるからだ。 

 だから私はあなたに言う---行くべき場所はどこにもない、ここがすべてだ。存在全体は、この瞬間に最高潮に達し、この瞬間に集中している。存在全体は、すでにこの瞬間に注がれている。そこにあるすべてが、この瞬間に注がれている---それは今ここにある。 

 子供は、ただエネルギーを楽しんでいる。子供は充分すぎる手にしている。彼が走っているのは、どこかに辿り着かねばならないからではなく、あり余るほど持っているからだ。彼は走らずにはいられない。 

 動機を持たずに行動しなさい。ただ、エネルギーのあふれるままに、分かち合いなさい。でも取り引きをしてはいけない。駆け引きをしてはいけない。もっているがゆえに与える---見返りを得るために与えるのではない。そんなことをしたら、惨めになるだろう。 

 取り引きをする者はみな地獄へ行く。最高の商人や交渉人を見つけたかったら、地獄へ行くといい。彼らはそこにいるだろう。天国は商人のための場ではない。天国は祝祭の人のための場だ。 

 では、実際に何をすべきだろう? もっと気楽になること。もっと今ここに在ること。もっと空洞になり、空っぽになり、受動的になること。もっと観る人になること---無頓着で、何も期待せず、何も欲しがらない。あるがままの自分に満足すること。お祭り気分でいることだ。 

◆住人を思い出す 

 人は身体の中にいるが、身体ではない。身体はすばらしいものだ。身体は慈しみ敬われるべきだが、自分は身体ではなく、身体の住人であることを忘れてはならない。身体は寺院だ。あなたにとってそれは宿主だが、あなたはその一部ではない。身体は大地から寄与され、あなたは空から訪れている。肉体を持つあらゆる生き物と同様に、あなたの中では大地と空が出会っている。それは大地と空の恋愛だ。 

 あなたが死ぬ時、死ぬものは何もない。外側から見ると、死んだように見えるだけだ。身体は少し休息するために大地に帰り、魂は少し休息するために空に帰る。何度も何度も、出会いは起こる。無数の形で遊びは続く。それは永遠の出来事だ。 

 だが、すっかり身体になり切ってしまう人もいる。それが惨めさを生み出す。「自分は身体だ」と思い始めると、生は非常に耐えがたいものになる。すると、ちょっとしたことが気に障り、ちょっとした痛みが大仰なものになる。ほんのかすかな傷でも気になり、頭が混乱してしまう。 

 あなたとあなたの身体には、少しの距離が必要だ。その距離は、この事実に気づくことによって生み出される---「私は身体ではない。私は身体ではあり得ない。私は身体を意識している。だから、身体は私の意識の対象だ。そして、何であれ私の意識の対象は、私の意識には成り得ない。意識とは見守ることであり、観照することだ。そして観照されるものは、何であれ、別個のものだ」 

 この体験が深まるにつれ、苦悩は消えて蒸発し始める。すると、痛みと喜びはほとんど似通ったものとなり、成功と失敗は同じで、生と死に違いはなくなる。そのとき、選択肢はない。人は醒めた無選択の中に生きる。その醒めた無選択の中に、神が降りて来る。醒めた無選択---それは、あらゆる宗教が探究してきたものだ。インドではそれをサマーディと呼び、日本ではそれを悟りと呼ぶ。キリスト教の神秘家たちはそれを法悦(エクスタシー)と呼んだ。 

 「エクスタシー」という言葉は、非常に意味深い。それは際立っているものという意味だ。自分の身体から傑出すること、自分は身体とは別であると知ること、それがエクスタシーの意味だ。それが起こる瞬間、あなたは再び失われた楽園の一部となり、再び楽園を取り戻す。OSHO p227~233

第7章 心身への語りかけ---忘れ去られた言語を思い出す<OSHO瞑想セラピー>

 この誘導(ガイド)瞑想は、私たちの多くが忘れてしまった言語を思い出すプロセスです。それは自分自身の身体とコミュニケーションをとるための言語です。身体とコミュニケーションをとり、それに語りかけ、そのメッセージに耳を傾けることは、古代チベットの有名なプロセスです。

 現代医学は、聖者や神秘家たちがとっくに知っていたことを、今ようやく認識し始めています---マインドと身体は別個のものではなく、深く関連していると。体調がマインドに影響を及ぼすように、マインドは体調に影響を及ぼします。
 OSHOは特に現代の男女のために、多くの瞑想技法を編み出しました。
 このガイド瞑想は、彼のガイダンスによって開発されたものです。彼は言います---。

 ひとたび自分の身体とのコミュニケーションをとり始めたら、事はとても容易になる。身体に無理強いする必要はない。身体を説得するといい。身体と闘う必要はない---それは醜く、暴力的で、攻撃的だ。そして、あらゆる種類の葛藤は、ますます緊張を生み出す。だから、どんな葛藤の中にも留まらないこと---やすらぎを心がけなさい。

 また、身体は神からのとてもすばらしい贈り物だから、それと闘うことは神その人を否定することになる。身体は神殿だ・・・・私たちはその中に収まっている。身体は寺院だ。私たちはその中で生きており、全面的にその手入れをする必要がある---それは私たちの責任だ。

 そこで7日間・・・・はじめのうちは、少し馬鹿々々しく思うかもしれない。というのも、自分の身体に語りかけるだなんて、私たちは教わったないのだから---だが、それを通して奇跡が起こる。私たちが知らないうちに、奇跡はすでに起こっている。私が話すとき、話すにつれて私の手は仕草(ジェスチャー)をする。私はあなたに話している---何かを伝達しているのは、私のマインドだ。私の身体は、それに従う。身体はマインドと強調関係にある。

 手を挙げたければ、何かをする必要はない---ただ単純に手を挙げるだけだ。手を挙げたいと思うだけで、身体は従う---それは奇跡だ。ところが実のところ、生物学も生理学も、それがどんなふうに起こるのか、いまだに説明できていない。なぜなら、思いは思いだからだ。

手を挙げたいと思う---これは思いだ。この思いが、どんなふうに手への物理的なメッセージに変容されるのだろう? しかもまったく時間がかからない---ほんのわずかな間合か、ときにはまったく時間差(ギャップ)がない。

 たとえば、私が話すと私の手は一緒に動き続けている---時間差がない。身体は、まるでマインドと平行して動いているかのようだ。それはとても繊細なことだ---いかに自分の身体に語りかけるかを学ぶといい。すると多くのことがなされるだろう。---OSHO p235~237

以下「CDの使い方」(p238~241)省略

この項、転記 <完>

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2013/10/09

こころでからだの声を聴く<34>

<33>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<34> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆身体、マインド、魂の調和 

 あなたの身体はエネルギーであり、あなたのマインドはエネルギーであり、あなたの魂はエネルギーだ。では、その三つの違いは何か? 違いは、リズムの違い、波長の違いだけ---それがすべてだ。身体は粗い---エネルギーは粗い形、目に見える形で機能している。 

 マインドはもう少し細かいが、非常に細かいというほどではない。なぜなら、目を閉じれば思考の動きは見えるからだ。見ることができるといっても、身体と同じように目に見えるわけではない。あなたの身体は、他人の目に見える。衆人の目に見える。あなたの思考は目にだけ見える。他の人は誰も、あなたの思考を見ることはできない。見ることができるのは、あなただけ---あるいは、思考を見ることに深く専念してきた人だけだ。しかし普通、思考は他人の目には見えない。 

 そして三番目、あなたの内側の最後の層は意識だ。それは、あなたの目にすら見えない。それは対象化できないものであり、主観であり続ける。 

 この三つのエネルギーすべてが調和し機能するなら、あなたは健康であり全体だ。これらのエネルギーが調和と一致を保って機能しないなら、あなたは病気で不健康だ。もはや全体ではない。そして、全体(whole)であることは聖なる(holy)ことだ。 

 私の努力は、あなたの身体とマインドと意識が、すべてひとつのリズムで、共に深く調和して---まったく葛藤なく、協調しながら踊れるよう、あなたを助けることにある。 

 意識はエネルギーだ。もっとも純粋なエネルギーだ。マインドはあまり純粋ではない。身体はさらに純粋ではない。身体には、非常に多くのものが混在している。マインドも完全に純粋ではない。意識は完全に純粋なエネルギーだ。 

 しかし、あなたがこの意識というものを知るのは、この三つから、混沌(カオス)ではなく秩序(コスモス)を生み出した場合に限る。人々は混沌の中で生きている---身体はあることを言い、ある方向へ行きたいと望むが、マインドは身体のことなど一向に構わない。なぜなら何世紀にもわたって教えられてきたからだ---あなたは身体ではない、身体は敵だ、身体と闘い、それを滅ぼさなければならない、身体は罪であると。 

 こうした観念のせいで---それは愚かで馬鹿げており、有害で有毒だが。あまりにも長く教え込まれてきたため、あなたの集合的マインドの一部となって存在している---あなたは身体が自分とリズミカルにダンスするのを感じていない。 

 だから私は、ダンスや音楽を重視する。なぜならダンスの中でこそ、身体とマインドと自分が一緒に機能していると感じられるからだ。そしてこれらが共に機能しているとき、その喜びは量り知れず、その豊かさは途方もない。 

 意識はネルギーのもっとも高次な形だ。これら三つのエネルギーが共に機能すると、第四のものが訪れる。第四のものは、これらが三つが共に機能しているときは必ず存在する。これら三つが有機的まとまりとなって機能するとき、第四ののものは必ずそこにある。第四のものとは、その有機的なまとまりにほかならない。 

 東洋では、その四番目を単に「第四のもの」---トゥリヤと呼び、名前をつけなかった。三つには名前があるが、四番目には名前がない。第四のものを知ることは、神を知ることだ。いうならばこうだ---あなたが有機的でオーガズミックなまとまりとなっているとき、神が在る。あなたが混沌とし、バラバラで、葛藤していたら、神は居ない。あなたが諍(いさか)いをしている家のような状態でいるなら、神は居ない。 

 自分自身に途方もなく満足し、あるまがまで幸せで、あるがままで至福に満ち、あるがままで感謝にあふれ、あなたの全エネルギーが共に踊っているとき---あなたが自分の全エネルギーのオーケストラのようになっているとき、神が在る。その完全な一体感が、神というものだ。神はどこかに居る人物ではない。神とは、三つのものが完全に一体となって、第四のものが生まれる体験だ。そして、第四のものは部分の総和を超えている。 

 一枚の絵画を分析すると、キャンバスと絵の具になる。しかし絵画は、キャンバスと絵の具の単純な合計ではない。それ以上の何かだ。その「それ以上の何か」が、絵画、絵の具、キャンバス、芸術家によって表現されている。その「それ以上の何か」とは美しさだ。バラの花を分析すると、化学物質やその構成要素がすべて見つかるだろう。だが、その美しさは消えてしまう。それは単に部分の総和ではなく、それ以上のものだった。 

 全体は部分の総和を超えている。全体は部分を通して表現されているが、それ以上のものだ。それ以上のものを理解することは、神を理解することだ。神とは、その「それ以上」であり、「プラス」だ。それは宗教理念上の問題ではない。それは論理的な議論によって決定できるものではない。必要なのは、美を感じ、音楽を感じ、ダンスを感じることだ。そして究極的には、あなたの身体とマインドと魂の中に、ダンスを感じることだ。 

 この三つのエネルギーがオーケストラになるよう、それらを奏でる方法を学ぶといい。すると、神が在る。神が見えるわけではない、見えるものは何もない。神とは究極の見る者であり、観照だ。あなたの身体、マインド、魂を溶かす方法を学びなさい。自分がひとつのまとまりとして機能できる方法を見つけなさい。 

 それはたびたびランナーに起こる・・・・。あなたはランニングを瞑想とは捉えないだろうが、ランナーはときに途方もない瞑想の体験を感じることがある。それを期待していたわけではないから、彼らは驚く。ランナーが神を体験するなどと誰が思うだろう? だが、それは起こってきた。そして今やランニングは、ますます新しい種類の瞑想になりつつある。 

 ランニング中に、瞑想が起こることがある。走ったこと、ランニングを楽しんだことがある人なら・・・・・早朝、空気は爽やかで新鮮で、全世界は眠りから覚め、目覚めつつあった。あなたは走っていて、身体は美しく機能していた。空気は爽やかで、夜の暗闇中から再び新しい世界が生まれていた。 

 まわり中ですべてが歌い、あなたはとても生き生きした感じがしていた・・・・。ランナーが消え、ランニングだけが存在する瞬間が訪れる。身体とマインドと魂が共に機能し始め、突然、内なるオーガズムが解き放たれる。 

 ランナーたちは、ときに第四のもの、トゥリヤを偶然に発見してきた。だが、それを見逃してしまう。彼らはこう思うからだ---その瞬間が楽しかったのは、単にランニングによるものだった。すばらしい日だったし、身体は健康で、すべてが美しかった。それは単に、一種の気分だったのだと。 

 彼らはそれに気を留めない。しかし、それに注意を向けるなら、私自身の観察からすると、ランナーは誰よりも容易に瞑想に近づくことができる。ジョギングも大いに助けになり得るし、水泳も大いに助けになり得る。これらすべて、瞑想へと変容されるべきだ。 

 瞑想とは単にヨーガの姿勢をとって木の下に座ることだといった、瞑想への古い考えは捨てなさい。それはさまざまな方法の中のひとつにすぎない。数人には向いているかもしれないが、万人向きではない。幼い子供にとって、それは瞑想ではなく拷問だ。活発で元気な若者にとって、それは瞑想ではなく抑圧だ。人生を生きてきて、エネルギーが下降しつつある老人にとっては、おそらく瞑想かもしれない。 

 人はそれぞれ異なり、さまざまなタイプの人がいる。エネルギーの低い人にとっては、ヨーガの姿勢をとって木の下に座ることが、最良の瞑想かもしれない。ヨーガの姿勢は、もっともエネルギーの消費が少ない---最小だ。背骨がまっすぐになり、大地と90度の角度をなすとき、身体のエネルギーの消費は最小で済む。左や前方に上体を曲げると、身体はより多くのエネルギーを使い始める。 

 なぜなら、重力があなたを下へ引っ張り始めるのに対し、あなたは倒れないよう自分自身を保持し、支えなければならないからだ。これは消費となる。まっすぐな背骨は、エネルギーの消費が最小で済むことがわかっている。 

 エネルギーの低い人にとっては、手を重ねて座ることも非常に有効だ。なぜなら、両手が互いに触れあっていると、あなたの生体電気は円状に動き始めるからだ。生体電気は体外で出て行かず、内なる円となり、エネルギーはあなたの内側で動く。 

 知っておくといい---エネルギーは常に指から放たれる。エネルギーは、決して丸い形状のものからは放たれない。たとえば、頭はエネルギーを放出できない。頭はエネルギーを保っている。エネルギーは、指やつま先を手を通して放出される。あるヨーガの姿勢では足が合わさるため、一方の足が放出したエネルギーは、もう一方の足に入っていく。 

 一方の手が放出したエネルギーは、もう一方の手に入っていく。あなたは自身のエネルギーを受け取り続け、エネルギーの内なる円となる。その状態は、深い休息とくつろぎに満ちている。 

 ヨーガの姿勢は、可能なかぎり最高にリラックスした姿勢だ。それは睡眠よりも深いくつろぎを与えてくれる。寝ているとき、全身は重力に引っ張られている。水平になっているとき、全身はまったく別の形でくつろいでいる。なぜならその姿勢は、人間がまだ動物で、水平だった太古の日々へと、あなたを引き戻すからだ。くつろぎが訪れるのは退行するからであり、あなたが再び動物になるのを助けるからだ。 

 だから横たわった姿勢だと、あなたは明晰に考えることができない。考えるのは困難になる。やってごらん、夢を見るのは簡単だが、考えるのは難しい。考えるには座る必要がある。座るときにまっすぐになればなるほど、よく考えられるようになる。思考は後から現れたものだ。思考は、人が垂直になってから現れた。人が水平だった頃は夢見があり、思考はなかった。だから横たわると夢を見始め、思考は消え去る。それは一種のくつろぎだ。思考が停止し、あなたは退行する。 

 エネルギーの低い人、病気の人、年老いた人、人生を生きて死が間近に迫りつつある人にとって、ヨーガの姿勢はよい瞑想となる。 

 数多くの仏教僧は、蓮華座で座りながら死んだ。死を受け入れる最良の方法は、蓮華座の中にあったからだ。蓮華座だと、あなたは完全に油断のない状態になる。エネルギーは消えてゆき、エネルギーは一瞬ごとに減ってゆく。死が近づいている。蓮華座だと、最後の最後まで油断のなさを保つことができる。死にゆくときに油断なくあることは、すばらしい体験のひとつであり、究極のオーガズムだ。 

 死にゆくときに目覚めているなら、あなたは完全に異なる種類の誕生を得る---あなたは目覚めて生まれる。無意識に死ぬ人は、無意識に生まれる。意識して死ぬ人は、自分にふさわしい子宮を選ぶことができる。彼には選択肢がある。それは彼が獲得したものだ。無意識に死ぬ人には、子宮を選ぶ権利がない。子宮は、無意識に偶然見つかる。 

 今生で完全に油断なく死ぬ人は、あと一回しか生まれない。次に生まれる必要がないからだ。残っている仕事はほんの僅か---最後の生が、その仕事をするだろう。気づきを持って死ぬ人には、今やたったひとつのことが残されるのみだ---彼には気づきを慈悲に向けて放つ時間がなかった。今度は、気づきを慈悲に向けて放つことができる。気づきが慈悲にならなければ、何かが未完のまま残り、何かが不完全なまま残ってしまう。 

 ランニングは瞑想になり得る---ジョギング、ダンス、水泳、何でも瞑想になり得る。私の瞑想の定義はこうだ---あなたの身体、マインド、魂が共にリズミカルに機能しているとき、それは常に瞑想だ。なぜなら、それは第四のものをもたらすからだ。 

 そして、自分がそれを瞑想として行っていることに油断なく気を配っているなら---オリンピックに参加するのではなく、瞑想として行っているなら、それは途方もなく美しい・・・・・。 

 ただし基本原則として、どんな瞑想であれ、身体、マインド、意識の三つが、すべてまとまって機能するという必要条件を満たさなければならない。するとある日、第四のものが訪れる---すなわち観照だ。呼びたければ、それを神と呼んでもいい。神、涅槃(ニルヴァーナ)、道(タオ)---何と呼んでも構わない。 

◆あなたは身体ではない 

 自分は身体であると思っている人は、常に急いでいる。だから西洋人は慌しく、スピードに取り憑かれているのだ。基本的に、それは身体との同化によるものだ。生は瞬く間に過ぎ、あなたの手をすり抜けて行く---何かを行ない、しかも即座に行ない、急がないといけない。さもないと生を逃してしまう。また、それを実行するより良い手段を見つけ、より速い手段を見つける必要がある。スピードが熱狂の対象になってしまった。 

 ある場所に、いかにより速く辿り着くか---それが唯一の関心事になっている。なぜそこに辿り着きたいかは、誰も関心を寄せない。そもそも、なぜそこに行きたいのか? それは重要ではない。そうではなくて、より速く辿り着くべきなのだ。そして、そこに辿り着いた瞬間、あなたは別の場所に到達しようと考え始める。 

 マインドは、常に焦燥に駆られた状態にある。これは基本的に、私たちが周辺に同化しているからだ。そして身体はいずれ死ぬものだから、人は死に悩まされる。西洋では、死は依然として禁忌(タブー)だ。ひとつのタブーは破られた---セックスに関するタブーだ。しかし、第二のタブーは第一のものよりも根が深く、まだ存在している。このタブーを破るには、再びフロイトのような人が必要だ。 

 人々は死の話をしない。もしくは、話すにしても遠まわしに話す---神のもとに召された、天国に召された、永遠の眠りについた、というように。しかし、身体の中に生きてきただけだとしたら、その人はどこへも行かなかったということだ。彼は死んでいる。ただ死んでいる---塵から塵に変えるようなものだ。別の身体へと去ってしまった者は、ここのこの身体にはいなかった。なぜなら、彼はこの身体にいたことに気づかなかったからだ。彼は、まったく気づかぬままだった。 

 別の道は、内なる意識に留意することだ。身体とは重量があり、よく目立ち、表に現れており、目に見え、触れることができ、形あるものだ。意識とは目に見えぬものであり、あまり表面に現れない。それを探し、深く進むといい。それには努力が必要だ。自分自身の実存を探索するために、たゆまず取り組まなければならない。それは旅だ。 

 しかし、ひとたび自分自身を意識として感じ始めたら、あなたは完全に違う世界に住んでいる。すると何も急ぐことはない---意識は永遠であるからだ。そして何の心配もない---意識には病も死も敗北もないからだ。すると、他のものを探す必要はない。身体は不足だらけだから、欲望につぐ欲望を生み出す。身体は乞食だ。しかし意識は皇帝だ---全世界を所有している。意識は主(あるじ)だ。 

 ひとたび自分の内なる実存の顔を知れば、あなたはリラックスする。すると生は、もはや欲望ではなく、祝祭となる。すべてはすでに与えられている。星、月、太陽、山、川、そして人---すべてが与えられている。それを生き始めることだ。 

 これをあなたの探究としなさい。意識の探究---生はこれに尽きる。意識はそこにある。だが、それは秘められた宝だ。そして当然、宝を持っていたら、それを誰にも盗まれないよう、奥深く隠しておくものだ。神は、あなたの実存のもっとも深い核の部分に意識を置いた。身体は玄関にすぎない。身体は、もっとも奥の部屋ではない。だが、多くの人々はただ玄関で暮らしており、それが人生だと思っている。人々は、まったく自分の実存の家に入ることがない。 

 生を自己へと向かう旅にしなさい。身体を利用し、身体を愛しなさい---それは美しいメカニズムであり、貴重な贈り物だ。その神秘はすばらしい。だが、それと同化してはいけない。身体はちょうど飛行機のようなものであり、パイロットはあなただ。飛行機はすばらしいもので非常に役立つが、パイロットは飛行機ではない。そしてパイロットは、自分が別個の存在であり、飛行機から距離をおき、超然とし、離れていて、遥か遠くにいることを覚えておく必要がある。彼は乗り物の主(マスター)だ。

 だから、身体を乗り物として利用しなさい。ただし、意識を王座に着かせることだ。OSHO p217~227

<35>につづく

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こころでからだの声を聴く<33>

<32>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<33> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

第6章 意識への扉 

 大勢の人が鏡に従って生きている。人々は、鏡の中に見えるものが自分の顔だと思っている---それが自分の名前であり、自分の自己証明(アイディンティティ)であり、すべてだと。 

 もう少し深く進み、目を閉じ、内側を見つめ、沈黙することだ。完全な沈黙の地点に至らぬうちは、自分とは誰かを知ることはないだろう。私がそれを教えることはできない。私が教えるすべはない。それは、一人一人みつけなければならない。 

 だが、あなたは在るといことは確かだ。唯一の問題は、あなたの最奥の核に到達し、自己を見出すことだ。そして、それこそが私が何年も説いてきたことだ。私が瞑想と呼ぶものは、自己を見出すための道具に他ならない。 

 私に尋ねてはいけない。誰かに尋ねてもいけない。あなたは自分の内側に、その答えを持っている。そして、それを見つけるには、自分自身の中に深く降りて行くことだ。だが、それはとても近くにある---180度向き直るだけで、それに直面するだろう。 

 すると驚くだろう---自分の名前も、自分の顔も、自分の身体も、自分のマインドすらも、自分ではないということに。 

 あなたは、この全存在の一部だ。その美しさ、壮麗さ、無上の喜び、その途方もない歓喜(エクスタシー)の一部だ。 

 自己を知ることこそ、意識が意味することのすべてだ。 

◆中心と周辺 

 身体そのものには何もない。身体が光輝くのは、身体を越えた何かによるものだ。身体の輝きは、身体そのものにはない。身体は主人であり、輝きは客人によるものだ。客人を忘れてしまったら、身体は耽溺以外の何ものでもない。客人のことを心に留めておくならば、身体を慈しみ、身体を祝うことは礼拝の一部だ。 

 現代の身体崇拝には意味がない。崇拝するがゆえに、人々は健康食品やマッサージやロルフィングを追い求め、ありとあらゆる方法で何とか人生に意味をつくり出そうとする。だが、その目を見てごらん---果てしない空虚さが存在している。あなたには、彼らが的を逸しているのがわかるだろう。そこには香りはなく、花は開かなかった。内側の深いところで、彼らはまさに砂漠のようであり、途方に暮れている。人々は身体のために様々なことをやり続けるが、的外れなことをしている。 

 こんな話を聞いたことがある。 

 ローゼンフィールドは満面の笑みを浮かべて帰宅した。
 「どんなお買い得品を手に入れたか、わからんだろうな」と彼は妻に言った。「ポリエステル製、スチールベルト付き、ラジアル・タイヤを四本買ったぞ! 接地面が広くて、ホワイト・ウォールで、頑丈なタイヤだ。まだ売っていたんだ!」
 「あなた、頭がどうかしてるんじゃないの?」ローゼンフィールド夫人は言った。「タイヤなんて買ってどうするのよ? 車を持っていないくせに」
 「そんなこと言うんだったら」とローゼンフィールド、「おまえでだってブラジャー買うだろ?」
 

 中心を見失うと、あなたは周辺を飾り立て続ける。それは他人を騙せるかもしれないが、あなたを満足させることはない。ときに、それは自分すらも欺くかもしれない。自分でつくり出した嘘も、頻繫に繰り返せば、本当のことのように見えてくるからだ。しかしそれは、あなたを満足させることも、充足感を与えることもできない。人々は懸命に人生を楽しもうとしているが、何の喜びもないようだ。 

 覚えておくといい---楽しもうとすれば必ず逃す。幸福を達成しようとすれば必ず逃す。幸福を達成しようとする、まさにその努力が無謀なことだ---なぜなら、幸福はここにあるからだ。それを達成するのは不可能だ。幸福を得るためには、何ひとつ為すべきではない。ただ、それを許せばいい。それは現に起こっていて、あなたのまわり中にある---内側にも外側にも、あるのは幸福ばかりだ。他のものは何ひとつ真実ではない。 

 見つめなさい、深く見つめてごらん---世界を、樹々を、鳥たちを、岩を。星々を、月を、そして太陽を。人々を、動物を。深く見つめてごらん。存在は、幸福や喜びからできている。存在は至福からできている。存在に関しては、何ひとつ為す必要はない。まさにあなたの行為が障害となり得る。リラックスすれば、それはあなたを満たしてくれる。リラックスすれば、それはあなたの中に勢いよく流れ込んで来る。リラックスすれば、それはあなたをあふれるほどに満たしてくれる。 

 人々は緊張している。緊張が生じるのは何かを追いかけているときであり、くつろぎが生まれるのは何かを許しているときだ。 

 人々は追いかけている。生から何かを得ようと、生を搾り取ろうと、懸命に追いかけている。何も出て来はしない。なぜなら、やり方が間違っているからだ。生を搾り取ることはできない。あなたは明け渡す必要がある。生は征服できない。あなたは生に負かされるだけの勇気を持たないといけない。そこでは負けることが勝つことだ。勝とうとすると努力は、決定的で完全な敗北に他ならないことがわかるだろう。 

 生は征服できない。なぜなら、部分は全体を征服できないからだ。それはまるで、小さな雫が海を征服しようとしているようなものだ。そう、小さな雫は海に落ちて海になる。だが、海を征服することはできない。征服するには、むしろ海に落ち、海にすべり込むことだ。 

 人々は幸福を見つけようとして、身体のことを気にし過ぎている。それは、ほとんど強迫観念になり、関心の限度を超え、身体への執着になってしまった。人々は身体を通して、何かしら幸福とつながろうと努力している。だが、それは不可能だ。 

 第二の問題は、マインドには競争心があるということだ。あなたは実のところ、身体を愛していないのかもしれない。ただ、人と競っているだけなのかもしれない。人がしているから、自分もする必要があるのだ。  

 アメリカ人のマインドは、いまだかつてないほど浅薄で野心的なマインドであり、非常に世俗的なマインドだ。だからアメリカでは、実業家が最高の存在になっている。他のすべては、その背後に姿を消してしまった。金をコントロールする人物である実業家こそが、最高の存在だ。 

 インドでは、神の探求者であるバラモンが最高の存在だ。ヨーロッパでは、貴族が最高の存在だ---洗練され、学があり、細やかで、人生の機微に通じている。たとえば音楽、芸術、詩、彫刻、建築、古典舞踊、ギリシャ語やラテン語などの言語に。共産主義のもとでは、プロレタリアート、虐げられた者、抑圧された者、労働者が最高の存在だ。資本主義のもとでは、実業家すなわち金をコントロールする者がそうだ。 

 金儲けは、もっとも競争の激しい分野だ。教養はいらない。ただ金を所有すればいい。音楽や詩について知る必要はない。古典文学や歴史や宗教や哲学について知る必要はない。そう、何も知らなくて構わない。預金残高が高ければ、あなたは重要人物だ。だから私は、アメリカ人のマインドは、いまだかつてないほど浅薄だと言うのだ。それは、すべてを商業活動に変えてしまった。それは常に競争している。 

 ヴァン・ゴッホやピカソの作品を購入するにしても、あなたはそれがピカソだから買うのではない。隣近所が購入したからだ。彼らがそれを客間に掛けているなら、あなたも買わないわけにはいかない。あなたもピカソの絵を持っているべきだ。あなたは、ピカソの絵の正しい掛け方すら知らないかもしれない。 

 というのもピカソの作品は、逆さまなのか正しい向きなのか、判別しにくいのだから。あなたは、それが本物のピカソの作品かどうかも、わかっていないかもしれない。よく見もしないで、人が持っているという理由で、あなたはそれを入手した。あなたは、金や財産をひけらかしたにすぎない。なぜなら、何であれ高価なものには意義があると思われているからだ。 

 金と隣人は、アメリカ的な成功を判断する唯一の基準であるようだ。あなたは隣人に負けないよう、見栄を張る必要がある。彼らのバスルームにサウナがあるなら、誰もがそれを手に入れて、仲間にならないといけない。そうでないと貧乏人に見えてしまう。誰もが丘に家を持っているなら、あなたも手に入れないといけない。 

 あなたは丘での楽しみ方を知らず、そこでは退屈するだけかもしれない。あるいは、テレビやラジオを持ちこみ、昔の家で聞いていた番組と同じものを聞くかもしれない。住む場所によって、何が変わるだろう? 答えは、他人にとって重要なものが重要になるということだ。こうした調子で見栄の張り合いは続く。 

 こんな話を聞いたことがある。 

 ルーク老婦人は、谷いちばんのケチとして知られていた。ルークが死んで2、3ヵ月後、彼の妻も死の床についていた。彼女は近所の人たちを呼び、弱弱しく言った、「ルーシー、私に黒い絹のドレスを着せて埋葬しておくれ。でもその前に、後ろ側を切り取って、それで新しいドレスを作ってくれないかい。いい生地だったから、無駄にしたくないんだよ」
 「そんなことできません」とルーシーは言った。「あなたとルークが黄金の階段を上るとき、あなたのドレスに後ろがなかったら、天使たちは何と言うでしょう?」
 「天使たちは、私の方なんて見やしないよ」と彼女は言った。「ルークにズボンを穿かせないで埋葬したからね」
 

 関心は常に他人にある---ルークはズボンを穿いていないから、誰もが彼を見るだろう。アメリカ人の関心は、常に他人にある。 

 子供が何の目的もなく走ったり、叫んだり、踊ったりしているのを見たことがあるかな? ---何の理由もなく。「なぜそんなに楽しいの?」と尋ねたら、子供は答えられないだろう。彼はきっと、あなたのことを頭がおかしいと思う。楽しくしているのに理由が必要だろうか? 「なぜ」と尋ねられることに、子供はただ驚く。 

 肩をすくめ、また好きなように歌ったり踊ったりし始めるだろう。子供は何も持っていない。まだ首相でもないし、合衆国大統領でもない。ロックフェラーのような人でもない。子供は何も所有していない。たぶん、浜辺で集めた貝殻や小石ぐらいは、いくつかあるかもしれない---でも、それだけだ。 

 アメリカ人の生は、生が終わると終わる。身体が終われば、アメリカ人はおしまいだ。だから、アメリカ人は非常に死を恐れる。死の恐れゆえに、アメリカ人はあらゆる手段を用いて、延命を試み続けている---ときには馬鹿げた長さまでだ。現在、病院や精神病院で、大勢のアメリカ人がただの植物状態になっている。彼らは生きていない---とっくの昔に死んでいる。医者や薬や近代的な器具によって、命を保っているだけだ。彼らは、かろうじて生にしがみついている。 

 死の恐怖は計り知れない---ひとたび死んでしまえば、永遠に死に、何ひとつ残らない。アメリカ人は身体しか知らず、他のものはいっさい知らない。身体しか知らないとしたら、あなたは非常に貧しくなるだろう。 

 第一に、あなたは常に死を恐れる。そして、死ぬことを恐れる人は、生きることを恐れる。生と死は密接に絡み合っているから、死ぬのを恐れると、生きるのが怖くなる。死をもたらすのは生だ。死を恐れるなら、どうして心から生を愛せるだろう? そこに恐れが生じる。死をもたらすのは生だ。あなたは生を全面的(トータル)に生きることができない。 

 死がすべてを終わらせるなら---それがあなたの信じることであり、理解であるなら---あなたの生は慌しい追いかけっこの人生だろう。なぜなら、死は常に近づいており、あなたは忍耐強くいられないからだ。だから、アメリカ人がスピード狂であるのも納得がいく。死が近づいているから、すべてを早く行なう必要がある。死ぬ前にできるだけ多くのことをこなし、死ぬ前に自分の実存をできるだけ多くの経験で満たすのだ。なぜなら、ひとたび死んでしまえば、おしまいなのだから。 

 これは途方もない虚無を生み出し、当然ながら苦悩や不安を生み出す。もし身体が何によっても生き長らえることがないなら、何をしようと深みは生まれない。すると、何をしても、あなたは満足できない。もし死が終わりであり、何も残らないのなら、生には何の意味も意義もない。すると生は、激怒と騒音に満ち、何の意味をなさない、愚か者が語る物語だ。 

 意識的な人であるバウルは、自分は身体の中にいるが、身体ではないと知っている。彼は身体を愛する。身体は彼の住居であり、住まいであり、我が家だ。彼は身体に背かない。我が家に背くのは愚かなことだからだ。しかし、彼は物質主義者ではない。世俗的だが、物質主義者ではない。彼は知っている---死において、死ぬものは何もないと、死は訪れるが、生は続いていく。 

 こんなことを聞いた。 

 葬儀が終わり、葬儀屋のデズモンドは老紳士が傍らに立っていることに気づいた。
 「ご親戚で?」と葬儀屋は尋ねた。
 「ええ、そうです」と年配者は答えた。
 「おいくつですか?」
 「94歳です」
 「うーむ」とデズモンド。「ご自宅にお帰りになるのは、割に合いませんな」
 

 あらゆる観念が、身体上の生に関するものだ。あなたが94歳なら、あなたは終わっている! 家に帰るのは割に合わないから、死んだ方がいい。帰宅するのに何の意味がある? また葬儀場に戻って来ないといけないのだ。それは割に合わない・・・・死が唯一の現実なら、あなたが94歳だろうと24歳だろうと、どれほどの違いがあるだろう。 

 数年の違いでししかない。すると幼い者も老いを感じ始め、子供も自分はすでに死んでいると感じ始める。この身体が唯一の生であると理解するなら、いったい生に何の意味があるだろう? なぜ生き続けるのか? 

 カミュは書いている---人間の根本的、形而上的な唯一の問題は自殺であると。私も同感だ。身体が唯一の現実であり、身体を越えたものが内側に何もないとしたら、自殺は考察し、熟考し、瞑想すべき、もっとも重要な問題だ。なぜ自殺しないのか? なぜ94歳まで待たねばならないのか? その途上で、あらゆる種類の問題や苦悩に苦しむのはなぜか? 死ぬことになっているのなら、なぜ今日死なないのか? なぜ明日の朝、再び起きるのか? それは無益なことであるように思える。 

 一方でアメリカ人は、何とか体験を自分のものにし、何とか体験を逃すまいと、常に走り回っている。アメリカ人は町から町へ、国から国へ、ホテルからホテルへと、世界中を駆け巡っている。導師(グル)から導師へ、教会から教会へと探し回っている---死が近づいているために。 

 片や絶えず気が狂ったように追いかけながら、心の奥底ではすべては無駄だとも思っている---死がすべてを終わらせてしまうのだから。恵まれた生を送ろうと恵まれない生を送ろうと、知性があろうとなかろうと、大いなる愛の人であろうと失意の人であろうと、何の違いがあるだろう。 

 最終的に死が訪れ、すべての人を等しくしてしまう。賢者と愚者、聖人と罪人、覚者と白痴、誰もが地中に消えてゆく。だとしたら、いったい何の意味があるだろう? 仏陀であろうと、イエスだろうと、ユダであろうと、何の違いもなりはしない。イエスは十字架の上で死に、ユダは翌日自殺した---二人とも地中に消えていった。 

 一方で、自分は逃すが他人は手に入れるかもしれないという恐れもある。あなたはよく承知している---たとえ手に入れたとしても何も得ていない、巡り着いたとしてもどこにも辿りついていないということを。なぜなら死が訪れ、すべてを破壊してしまうからだ。 

 意識的な人は身体の中で生き、身体を愛し、身体を祝うが、彼は身体ではない。彼は自分の内側に、あらゆる死の後も存続するものがあることを知っている。永遠で、時が破壊できぬものがあることを知っている。彼は瞑想や愛や祈りを通して、それを感じるに至った。自分自身の実存の中にそれを感じるようになった。 

 彼は恐れない。死を恐れない。なぜなら、生とは何かを知っているからだ。そして、彼は幸福を追いかけない。なぜなら、神が数限りない機会を与えてくれているのを知っているからだ。ただ、機会が与えられるのを受け入れればいいのだと。 

 大地に根を張っている木々が見えないだろうか? 木々はどこへも行けないが、それでも幸せだ。もちろん、幸福を追いかけることはできない---幸福を探しに行くkとはできない。木々は大地に根づいており、動けない。だが、木の幸福があなたには見えないだろうか? 雨が降っているときの喜び、嵐が四方八方から吹いているときの深い満足が見えないだろうか? そのダンスが感じられないだろうか? 木々は根を張っており、どこへも行かない。それでも生は、木々のもとにやって来る。 

 あらゆるものが、やって来る---あなたはただ、それを受容する力をつければいい。あらゆるものが、やって来る---あなたはただ、それを受け入れればいい。生はあなたに芽生える用意がある。あなたは障壁をつくり過ぎている。あなたがつくり出す最大の障壁は、追いかけることだ。 

 追いかけて走っているせいで、生が訪れてあなたの扉をノックしても、いつもあなたはそこにいない。あなたはいつもどこか別の場所にいる。あなたは生を追いかけ続け、生はあなたを追いかけ続けている。そして出会いは決して起こらない。 

 在りなさい・・・・・ただ、在りなさい。そして待つ。忍耐強くありなさい。 OSHO p205~216

<34>につづく

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2013/10/08

こころでからだの声を聴く<32>

<31>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<32> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆日々の瞑想 

 時間を見つけたらいつでも、呼吸を数分間リラックスさせてごらん。それだけでいい---全身をリラックスさせる必要はない。あなたは電車や飛行機や車の中に座っているが、あなたが何をしているか誰も気づかないだろう。ただ、呼吸のシステムをリラックスさせる。それが自然に機能しているときと同じ状態にする。そして目を閉じ、呼吸が出ていき、入ってきて、出ていく・・・・それを見つめなさい。 

 集中してはいけない。集中したら問題を引き起こす。集中すると、すべてが障害になるからだ。車の中で座っているときに集中すると、車の騒音が障害になり、側に座っている人が障害になる。 

 瞑想とは集中ではない。それは純粋な気づきだ。ただリラックスし、呼吸を見守る。その見守る行為の中では何ひとつ排除されない。車がブンブンと音をたてている---完全に申し分ない。それを受け入れなさい。車が行き交っている---それも構わない、生の一部だ。同乗の客が側でいびきをかいている---ただ、それを受け入れる。何ものも拒絶されない。意識を絞ってはいけない。 

 集中とは、意識を絞って一点にすることだ。しかし、他の一切が競合するものになる。その一点が失われるかもしれないと恐れるために、あなたは他のすべてと闘っている。気をそらされるかもしれない---それが障害となる。すると、人里離れた場所、ヒマラヤが必要だ。インドや、誰も決してあなたを邪魔することのない、静かに座れる部屋が必要になる。 

 いや、それは正しくない---それは生の過程にはなり得ない。あなたは孤立する。確かに良い結果がないわけではない---あなたは、より静寂や穏やかさを感じるだろう。しかし、こうした結果は一時的なものだ。その雰囲気は何度も失われる感じがする。ひとたび起り得る条件が揃わないと、それは失われてしまう。 

 一定の必要条件を必要とし、一定の条件が満たされる必要がある瞑想は、まったく瞑想などではない---なぜなら死に挑むとき、そんな瞑想はできないからだ。死はたいへんな動揺だ。生があなたを動揺させるなら、ちょっと死について考えてごらん。あなたは瞑想的に死ねないだろう。だとしたら、すべては無意味で無駄だ。あなたは再び苦悩や苦痛の中で、緊張し心配しながら死ぬ。そしてすぐに、同じような種類の次の生をつくり出す。 

 死を基準にするといい。死につつあるときでさえ行なうことができ、どこでも行なえることこそ本物だ。どこでも行なえ、必要条件がまったくないもの。ときたま良い条件があるなら、それはすばらしい。楽しむことだ。条件が悪くても問題はない。世間の中にあっても、それを行ないなさい。 

 それをコントロールしようとしないこと。あらゆるコントロールはマインドから来るものであり、瞑想は決してコントロールできないものだからだ。 

 マインドは瞑想できない。瞑想とはマインドを超えたもの、あるいはマインドに及ばないものだ。だが、瞑想は決してマインドの中にはない。だから、マインドが相変わらず見張りをし、コントロールしているとしたら、それは瞑想でなく集中だ。集中はマインドの努力だ。集中はマインドの質を最高まで持っていく。科学者は集中し、兵士は集中する。狩猟者や研究者や数学者もみな集中する。これらはマインドの活動だ。 

 好きな時を選ぶといい。時間を決める必要はない。時間があれば、どんな時間でも利用しなさい。バスルームで10分間の時間があったら、シャワーの下に座って瞑想しなさい。午前あるいは午後、4回か5回、短い間隔で瞑想しなさい。すると、それが絶えることのない滋養になるのがわかるだろう。二十四時間それを行なう必要はない。 

 ほんの一杯の瞑想でも効果がある。川全体を飲み干すには及ばない。ほんの一杯の紅茶で充分だ。また、それをできるだけ簡単なものにしなさい。簡単ならば正しい。それをできるだけ自然なものにしなさい。そして、追いかけてはいけない---時間が見つかったら行なえばいい。習慣にしないこと。あらゆる習慣はマインドのものであり、真の人は実のところ習慣を持たないのだから。 

◆リラックスして気楽に 

 くつろぐためには、存分に快適であることだ。だから、快適にしていなさい。椅子に座り、好きな姿勢をとる。目を閉じ、身体をリラックスさせる。つま先から頭まで、内側に緊張がある箇所を感じなさい。膝に緊張を感じるのであれば、膝をリラックスさせる。ちょっと膝に触り、「どうぞリラックスしてください」と膝に言う。肩に何らかの緊張を感じるなら、ちょっとその箇所に触り、「どうぞ、リラックスしてください」と言う。 

 椅子に座ってリラックスし、照明は好みで暗くするか、あるいはほの暗くする。ただし、明るくしない方がいい。この20分間は邪魔しないでくれ、電話も出ないし、まったく何もしないと皆に告げなさい---まるでその20分間は、その世界が存在しないかのように。ドアを閉め、ゆったりとした服装で、リラックスして椅子に座る。どこにも窮屈なところがないように。そして、緊張のある箇所を感じ始める。緊張している箇所は、たくさん見つかるだろう。それらをまずリラックスさせなさい。なぜなら、身体がリラックスしていないと、マインドもリラックスできないからだ。身体はマインドがリラックスする状況を生み出す。身体はくつろぎの乗り物となる。 

 何らかの緊張を感じる箇所があったら、深い愛と慈悲をもって身体に触れてごらん。身体はあなたの召使だが、あなたは報酬を支払ったことがない---身体は贈り物に他ならない。また、身体は非常に複雑で、途方もなく多くの部分から成っている。科学は、いまだに身体のようなものをつくれずにいる。でも、私たちはそんなことは考えない。私たちは身体を愛していない。逆に、身体に怒りを感じている。 

 いわゆる聖人は、人々に馬鹿げたことを数多く吹き込んできた---身体は敵であり、あなたを堕落させるものであり、あなたを引きずり下ろすものであり、罪である---身体はあくまでも罪なのだと。あなたが罪を犯したければ、身体は手助けをする。それは本当だ。だが、責任はあなたにあり、身体にあるわけではない。 

 あなたが瞑想したければ、身体は瞑想を助ける用意もある。あなたが下降したいなら、身体はあなたに従う。あなたが上昇したいなら、身体はあなたに従う。身体はまったく諸悪の根源などではない。全責任は、あなた自身の意識にある---だが、私たちは常に身代わり(スケープゴート)を見つけようとする。身体はもっとも古いスケープゴートのひとつだ。 

 あなたは何でも投げつけるが、身体はものを言わない。身体は報復できない、返事もできない、あなたが間違っているとも言えない。だから、あなたが何と言っても、身体はそれに逆らう反応をしない。 

 全身を隈なく巡り、愛情のこもった慈悲や、深い思いやり、いたわりの気持ちをもって身体を包み込みなさい。少なくとも5分間はかかるだろう。すると、あなたはすっかり力が抜け、リラックスし、眠気に近いものを感じ始める。そうしたら、意識を呼吸に持っていきなさい。呼吸をリラックスさせる。 

 身体は私たちの一番外側の部分、意識は一番内側の部分であり、呼吸はそれらを結ぶ掛け橋だ。だから、ひとたび呼吸が失われると人間は死ぬ---掛け橋が壊れるからだ。もはや身体は、あなたの家として、住まいとしては機能できない。 

 そこで、身体がリラックスしたら、目を閉じて呼吸を見なさい。そして呼吸もリラックスさせる。ちょっと呼吸に話しかけてごらん。「どうぞリラックスしてください。自然でいてください」と。「どうぞリラックスしてください」と言った瞬間、あなたは微かなカチッと言う音に気づくだろう。 

 普段、呼吸はとても不自然になっていて、私たちは呼吸をリラックスさせる方法を忘れてしまっている。というのも、私たちは絶え間なく緊張していて、呼吸を緊張させ続けるのがほとんど習慣になっているからだ。だから、呼吸にリラックスするよう2、3回言い、そしてただ沈黙しなさい。OSHO p198~203

<33>につづく

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2013/10/07

こころでからだの声を聴く<31>

<30>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<31> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆ゆだね(レットゴー)の状態 

 ゆだねの状態にあることは難しい。なぜなら、それは常に怠惰であると非難されるからだ。それは、死後中毒の社会では受け入れられない。ゆだねとは、あなたがより正常に生き始めることを意味する。あなたはもはや、狂ったように金を追い求めてはいなし、休みなく働き続けてもいない。あなたはただ、物質的な必要性(ニーズ)のためだけに働く。だが、精神的な必要性も存在する! 

 仕事は、物質的な必要性をかなえるために不可欠だ。ゆだねは、精神的な必要性のために必要あものだ。しかし、人類の大多数は、精神的な成長から完全に疎外されてきた。 

 ゆだねはもっとも美しいスペースだ。あなたはただ存在し、何もせず、静かに座っている。すると、草はひとりでに生える。あなたは鳥たちのさえずりや、木々の緑や、花々の多次元で眩(まばゆ)いばかりの色彩をただ楽しむ。存在を感じるために、何かをする必要はない。やっていることをやめればいい。緊張も心配もない。完全に何事にも従事しない状態にあることだ。 

 この静寂の状態の中で、あなたは私たちを取り巻く音楽と波長が合うようになる。あなたは突然、太陽の美しさに気づく。日没をまったく楽しんだことのない人、日の出をまったく楽しんだことのない人は大勢いる。彼らは楽しむ余裕がない。人々は休むことなく働き、生産している---自分自身のためではなく、世の中を牛耳る狡猾な人々のために、彼らは権力を持つ人々であり、人類を操る才覚のある人々だ。 

 当然ながら、彼らはあなたに仕事はすばらしいものだと教える---それは彼らの利権のためだ。そして、その条件づけはとても根深くなってしまったため、なぜリラックスできないのか、あなたは自分でもわからない。 

 休日でも、人々はあれこれとやり続ける。海辺でリラックスし、海や爽やかな潮風をただ楽しみながら、休日を楽しく過ごすことができない。そうでなくて、何かが馬鹿げたことをする。何もすることがないと、冷蔵庫を分解するかもしれない---まったく問題なく働いていたのに。あるいは、何百年も働いていた古いお爺さんの時計を壊してしまうかもしれない。彼らは、それを改良しようとする。基本的に、人々は静かに座っていられない。それが問題だ。何かをしなければならないし、どこかへ行かなければならない。 

 休日のたびに、人々は保養地や海辺にいそいそと赴くが、休息にはならない---大勢の人が海辺に出かけるため、休息する暇がないのだ。町中の人が、こぞって海辺に出かけてしまう。だから、休日は家にとどまる絶好の機会だ。車は数珠つなぎになって渋滞する・・・・到着することには、海辺は人でごった返している。ちょっとした横たわるスペースすら見つけられない。私はそんな海辺の写真を見たことがある。海だって、人々の愚かさを笑っているに違いない。 

 彼らは数分間横になる。するとアイスクリームが必要になり、コカ・コーラが必要になる。また、彼らは携帯テレビを持ってきていて、それを見たり、ラジオを聞いたりしている。すると時間になり、帰宅のマラソンレースが始まる。 

 世界中で、休日は平日よりも多くの事故が起こる。多くの人が死に、多くの車が衝突する。奇妙なことだ! 休日前の5日間---仕事をしている日、人々は休日が来ることを願い、心待ちにしている。そして、その週末の2日間は、事務所や工場がまた始まるのを待ちわびる。 

 人々は、くつろぎという言葉をすっかり忘れてしまった---忘れるよう、仕向けられてしまった。 

 どの子供も、潜在能力を持って生まれる。子供にリラックスする方法を教える必要はない。ちょっと子供を見てごらん---子供はリラックして、ゆだねの状態にある。でも、あなたは子供がこの楽園(パラダイス)の状態を楽しむことを許さない。あなたはすぐに子供を文明化する。 

 すべての子供は原始的で、文明化されていない。しかし、両親や教師やその他あらゆる人が、子供を文明化し、社会の一部にしようとしている。社会が完全に狂っていることを、誰も気にしていないようだ。子供がありのままでいられて、社会やいわゆる文明に取り込まれることがないなら、それに越したことはない。 

 しかし両親は、親心から子供を独りにしておくことができない。両親は、子供に仕事をすることを教え、生産的であることを教え、競い合うことを教えなければならない。「おまえが一番でないと、私たちはがっかりだよ」と教えなければならない。 

 こうして、誰もが一番になろうと走っている。 

 リラックスなどできない。 

 はじめてインドに鉄道が敷かれたときの話を聞いたことがある。 

 進行中の仕事を監督していたイギリス人技師は、若いインド人の村人が毎日やって来ては大きな樹の陰に横になり、労働者たちが働いたり、技師たちが彼らに指示したりするのを見物しているのを見て驚いた。その技師は興味を抱いた。この奇妙な輩(やから)は、毎日のようにやって来た。彼は食事を携え、昼飯を食べて休息した。そして午後になると木陰で眠るのだった。 

 とうとう技師は興味を抑えきれなくなり、その村人に尋ねた。「働いてみてはどうかね? 君はともかく毎日来ている。でも、ただ横になって見物しながら時間を無駄にしているじゃないか」
 村人は尋ねた、「働くだって? でも、何のために?」
 技師は言った、「金を稼ぐのさ!」
 村人は尋ねた、「でも、金で何をするのか?」
 技師は言った、「馬鹿なやつだな、金で何ができるか知らないのかね? 金があればリラックスできるし、楽しめるぞ!」
 貧しい村人は言った、「そいつは変だ。だって、俺はとっくにリラックスして楽しんでいるよ! そんなことをしたら、ずいぶん回り道になりそうだ---一生懸命働いて、金を稼いで、それから楽しんでリラックスするなんて。俺はとっくにそうしているさ!」 

 子供たちは、直感的なゆだねの質を内在して生まれてくる。子供たちは完全にリラックスしている。だから子供はみな美しい。あなたは考えたことがあるかな? どの子供も例外なく、この上ない優美さ、溌剌(はつらつ)さ、美しさを備えている。だが、この子供たちが成長すると、その美しさや優美さはすべて消えてゆく。 

 同じ優美さ、同じ美しさ、同じ溌剌さの備わった大人を見つけるのは実に難しい。子供のような無垢とくつろぎを備えた人を見つけられたら、賢者を見つけたということだ。 

 それが、我々の東洋における賢者の定義だ。彼は再び子供時代に至った。人生のあらゆる浮き沈みを経験した末、その経験から彼は決意する---その決意は自ずと訪れる---死が訪れる前に、再び子供時代の自分になろうと。 

 私はあなたにゆだねを教える。なぜなら、それこそがあなたを賢者にできる唯一のものだからだ。教会も、進学も、宗教も助けにはならない。それらはどれも、あなたにゆだねを教えないからだ。それらはみな、働くことや労働の尊さを主張する。美しい言葉であなたを奴隷にし、搾取する。それらは社会の寄生虫と共謀している。 

 私は仕事には反対はしない。仕事には仕事の有用性がある---だが、有用性だけだ。仕事はあなたの人生のすべてにはなり得ない。衣食住の確保は、必要不可欠なことだ。働きなさい。ただし、仕事中毒になってはいけない。仕事を離れた瞬間、リラックスする方法を知るべきだ。そして、リラックスするのに大した知恵はいらない。それは単純な術(アート)だ。あなたは生まれたときからその方法を知っているから、とても単純なことだ。それを、眠っている状態から目覚めさせるだけでいい。要は刺激することだ。 

 あらゆる瞑想技法は、ゆだねの術(アート)をあなたが思い出す手助けをするための方法に他ならない。私は「思い出す」と言う。なぜなら、あなたはかつてそれを知っていたからだ。そして今でも知っている。だが、その知識は社会によって抑圧されている。 

 身体から始めるという簡単な原則を覚えておくように。ベッドに横になる---あなたは毎日そうしているから、何も特別なことは必要ない---そして眠りが訪れる前に、目を閉じてエネルギーを足から見つめ始める。そこから移動して、ただ内側を見つめる。どこかに緊張はないだろうか? 脚、腿、胃はどうだろう? 緊張はないだろうか? もしどこかに緊張を発見したら、それをただリラックスさせようとしてごらん。そして、くつろぎが訪れたと感じるまでは、その箇所から移動しないこと。 

 手を通っていきなさい---なぜなら、手はあなたのマインドだからだ。手はマインドとつながっている。右手が緊張しているなら、左脳が緊張するだろう。左手が緊張しているなら、右脳が緊張するだろう。だから、まず手を通っていきなさい---手は、ほとんどマインドが分岐したものだ。そして、最終的にはマインドへと至りなさい。 

 全身がリラックスしているとき、マインドの90%はすでにリラックスしている。というのも、身体はマインドの延長に他ならないからだ。次に、マインドの10パーセントの緊張をただ見つめなさい。すると、ただ見つめているだけで雲は消え去る。数日間かかるだろうが、コツを習得することだ。するとそれは、あなたの子供時代の体験を甦らせる---あなたがとてもリラックスしていた頃のことを。 

 子供たちは毎日のように転ぶが、怪我をしないし、めったに骨折をしない---それに気づいたことはないだろうか。試してごらん。子供を選び、その子が転ぶたびに、あなたも転ぶ。 

 ある精神分析医が実験をした。彼は新聞にこう公示した。「我が家に来て、一日中うちの子のまねをするだけで、いい報酬をお支払いします。子供が何をしようと、あなたにもそれをしていただきます」 

 若い格闘家が現れて言った、「まかせてください。お子さんはどこです?」 

 だが、昼までに格闘家はくたばってしまった。彼はすでに二箇所を骨折していた。というのも、子供のしたことを何でもやったからだ。子供はとてもはしゃいでいた。「変なの」と子供は思った。自分が意味もなくジャンプすると、格闘家もジャンプした。気に登ると、格闘家も気に登った。そして木から飛び降りると、格闘家もまねるのだった。そして、これは続いた。子供は完全に食事を忘れ、すべてを忘れた。子供は、格闘家が四苦八苦するのをとても楽しんでいた。 

 午後になると、格闘家は続けることをあっさり辞退した。彼は精神分析医に言った。「お金はいりません。一日が終わる頃には、あなたの子供に殺されてしまいますよ。私はもう病院行きです。この子は危険です。こんな実験を別の人でしちゃいけませんよ」 

 子供にはエネルギーがたくさんあるが、それでも緊張していない。子供が寝ているのを見たことがあるだろうか? 自分の親指をしゃぶり、それを楽しみ、すばらしい夢を見ているのを目にしたことはないだろうか? 子供の全身は、深いゆだねの状態にある。 

 毎日、世界中で酔っ払いが転ぶが、骨折はしない---これは、よく知られた事実だ。毎朝、彼らは溝にはまっているところを発見され、家に連れて行かれる。それにしても、彼らが転び続けるのは不思議なことだ。酔っ払いが怪我をしないのは、自分が転んでいることを知らず、そのため緊張しないからなのだ。彼は緊張せず、ただ転ぶ。骨折するのは緊張が原因だ。リラックスして転べば怪我はしない。酔っ払いはそれを知っているし、子供もそえを知っている。一体全体、どうしてあなたは忘れてしまったのだろう? 

 毎晩、ベッドの中で始めなさい。すると、数日の内にコツを習得するだろう。ひとたび秘密を知れば、日中どんな時でもリラックスできる---それは誰からも教わることのできないものであり、あなたは自分自身の身体の内側を探求しなければならない。そして、くつろぎの達人になることは、この世で一番すばらしい体験のひとつだ。それは精神性への偉大なる旅の始まりとなる。なぜなら、完全にゆだねの状態にあるとき、あなたはもはや身体ではないからだ。 

 あなたは、緊張やストレスや痛みがあってはじめて自分の身体に気づく---この単純な事実に気づいたことはあるかな? 頭痛がないのに、頭に気づいたことはあるかな? 

 全身がリラックスしたら、あなたは自分が身体であることをすっかり忘れる。そして、身体を忘れたら、身体の中に隠されている新しい現象---あなたの精神的な実存を想起することになる。 

 ゆだねは、自分が身体ではなく、永遠不滅のものであるこを知るための方法だ。 

 この世に他の宗教はいらない。ゆだねの単純な術(アート)こそ、すべての人間を宗教的な人に変えるだろう。宗教とは、神を信じることでも、教皇を信じることでも、イデオロギーの体系を信じることでもない。宗教とは、あなたの内側の永遠なるものを知ることであり、あなたの存在の真実を、あなたの神性を、あなたの美しさ、優美さ、輝きを知ることだ。 

 ゆだねの術(アート)とは、非物質的なもの、無限なるもの、すなわちあなたの真の実存を体験することと同じ意味だ。 

 気づかぬうちに、ゆだねの状態にある。だから笑いはとても健康にいい。幸せになるのに、笑い以上に効く薬はない。 

 しかし笑いは、ゆだねに対するあなたの気づきを妨げてきた陰謀者と、まさに同じ者たちによって妨げれてきた。全人類は、深刻で精神的に病んだ状態にさせられてきた。 

 幼い子供がクスクス笑うのを聞いたことがあるかな? 全身が笑いに参加している。でも、あなたが笑うとき、全身が笑うのはごく稀だ---たいていは、ただの知的で頭だけの笑いだ。 

 私自身の理解によると、笑いはどんな祈りよりも遥かに重要だ。なぜなら、祈りはあなたをリラックスさせないからだ。逆に、あなたをもっと緊張させる。笑いの中では、突然あらゆる条件づけ、あらゆる躾、あらゆる深刻さが忘れ去られる。あなたは突如として、それから一瞬抜け出ている。今度笑うとき、どれだけ自分がリラックスするか気をつけてごらん。そして、他にも自分がリラックスする機会をみつけてごらん。 

 愛を交わした後、あなたはリラックスする・・・・しかし同じ陰謀者たちの仲間が、愛を交わした後でさえ、あなたがリラックスするのを許さない。男性はくるりと向きを変え、眠ったふりをする。しかし心の底では、また罪を犯してしまったことに罪悪感を抱いている。女性は泣いている。なぜなら、自分は利用されたと感じるからだ。 

 人類に対するこれ以上の陰謀はあり得ない。男性は、すべてをできるだけ早く終わらせたいと思う。彼は内側に聖書やコーランやシュリマッド・バガヴァッドギータを携えていて、それらは彼の行為をこぞって非難する。彼もまた、自分は間違ったことをしていると思っている。だから当然、終えるのは早ければ早いほどいい。しかし、後で気が滅入る。これではリラックスのしようがない。彼はさらに緊張する。そして、男性があまりに性急なので、女性は決してピークに達することがない。女性が始まる頃には、彼は終わっている。当然ながら女性は、男性なんて動物みたいなものだと思い始める。 

 教会や寺院では女性ばかり、特に年老いた女性ばかりが目に付く。そして聖職者が罪について語るとき、女性たちはわかっている! それは完全に罪だった。なぜなら、何の喜びも得なかったからだ。女性たちは商品のように扱われた---性の対象として。 

 一方、罪から自由で、抑制から自由であるなら、愛はすばらしいゆだねの体験を与えてくれる。 

 自分の生活を見つめ、自然なゆだねの体験を見つけるといい。水泳はそのような瞬間を与えてくれるだろう。本当に泳げるなら、あなたは泳がずにただ浮いていられる。するとそのとき、途方もないゆだねを発見するだろう---あなたはただ川と共に進み、流れに逆らうどんな動きもせず、流れの一部になっている。 

 さまざまな源から、ゆだねの体験を集めるといい。すると間もなく、あなたはすべての秘密を手にするだろう。それは仕事中毒の条件づけから、あなたを自由にしてくれる。 

 それは、怠け者になるということではない。逆に、リラックスすればするほど、あなたはいっそう力強くなる。リラックスしているときは、より多くのエネルギーが集まってくる。あなたの仕事は、創造性の質を帯び始める---生産性ではなく。何をしても、あなたは全身全霊で、大いなる愛を込めて行うようになる。そして、それを行なう途方もないエネルギーを得る。だから、ゆだねは仕事に背くものではないことを理解しなさい。むしろ、ゆだねは仕事を創造的な体験へと変容させる。 

 あなたが全一(トータル)な笑いを楽しめるよう、ジョークをいくつか話そう。全一な笑いは、あなたの顔や身体や腹から、すべての緊張を取り去る。あなたは突然、完全に異なる種類のエネルギーを自分の内側に感じる。そうでもしないと、ほとんどの人は常に腹に緊張を感じている。 

 バディーの友人のジョーは、社会人教育の夜間コースをとっていた。
 「ロナルド・レーガンを知ってるか?」と彼はバディーに尋ねた。
 「知らねえよ」と答えるバディー。
 「彼は合衆国の大統領だ」とジョー。
 「じゃあ、マーガレット・サッチャーを知ってるか?」
 「いいや」とバディー。
 「彼女は英国の首相だ」とジョー。「なあ、おまえも俺みたいに夜間学校へ行った方がいいぞ」
 「今度は俺が質問するよ」とバディー。「ミック・オサリバンを知ってるか?」
 「知らないな」とジョー。
 「つまり、その」とバディー。「おまえが夜間学校に行っている間、お前の女房とやっている奴さ」
 

 ある土曜日の午後、イエスとモーゼはゴルフに出かけた。まずモーゼが打ち、ボールはまっすく飛んでフェアウェイに落ちた。イエスはクラブを構えた。だが、第一打はスライスして丈の高い草むらに入ってしまった。
 「やっちまったぜ!」イエスは叫んだ。モーゼは寛大にも、イエスにペナルティーなしでボールをフェアウェイに置いてもいいと言った。だがイエスは、頑固に申し出を断った。そこでモーゼは言った、「おいおいイエス、そんな丈の高い草むらの中では打てっこないよ」
 「アーノルド・パーマーにできるなら、私にもできるさ」とイエスは答えた。そしてボールを強打したが、ボールはポチャン!と池に落ちてしまった。次にモーゼが打った第二打は、まっすぐグリーンに落ちた。彼は振り返ってイエスを見た。イエスはジーンズの裾を捲り上げていた。
 「イエス、お願いだ!」モーゼは叫んだ。「後生だからフェアウェイにボールを置いてくれ。そんなショットを打つには奇跡が必要だよ!」
 「アーノルド・パーマーにできるなら、私にもできるさ」とイエスは答えた。そしてイエスは、水面を大またで歩いて渡っていった。その光景を見ていた庭師は、モーゼに近づいて言った。「あの人、自分のことをイエス・キリストだと思っているんじゃないでしょうか?」
 「とんでもない」とモーゼは答えた。「自分のことをアーノルド・パーマーだと思っているのさ!」
 OSHO p186~198

<32>につづく

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2013/10/06

こころでからだの声を聴く<30>

<29>よりつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<30> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

第5章 瞑想---癒しの力 

 「瞑想(meditation)」という言葉は、「薬(medicine)」という言葉と同じ語源に由来している。薬は肉体を癒すものであり、瞑想は魂を癒すもの---両方とも癒しの力だ。 

 もうひとつ覚えておくといい。「癒し(healing)」という言葉と「全体(whole)」という言葉も同じ語源に由来する。癒されるとは、何も欠けることなく、全体になるということに他ならない。他に副次的な意味を持つ言葉として「神聖な(holy)」という言葉も、同じ語源に由来している。「癒し」「全体」「神聖な」の語源は同じだ。 

 瞑想はあなたを癒し、あなたを全体にする。そして全体になるとは、神聖になるということだ。神聖であることは、何らかの宗教や教会に属することは関係ない。内側において、あなたは全体であり完結している。何ひとつ欠けることなく満たされている、ということだ。あなたは存在が望んだとおりであり、自分の可能性を実現している。 

◆OSHO活動的瞑想(アクティブ・メディテーション)テクニック 

質問:あなたの活動的瞑想(アクティブ・メディテーション)は、はじめのうち筋肉をこわばらせ、あちこちが筋肉痛になります。それを乗り越える方法はありますか?
-------------------------------
 

 続けることだ! あなたは乗り越えるだろう---理由は明白であり、理由はふたつある。まずひとつ、それは激しい運動なので、身体はそれに慣れる必要がある。だから3、4日は全身の痛みを感じる。何であれ新しい運動をすれば、そうなるものだ。しかし4日間が過ぎれば、あなたはそれを乗り越え、身体はこれまでよりも力強く感じられるだろう。 

 だが、これはあまり重要ではない。重要なことは、もっと深部に及ぶ。現代の心理学者は、それを知るに至った。あなたの身体は、単に肉体的なものだけにとどまらない。あなたの身体の中、筋肉の中、身体の構造の中には、抑圧によって多くの異物が入り込んでいる。 

 怒りを抑圧すれば、毒が身体に入り込む。毒は筋肉へ、血液へと入り込む。何を抑圧しても、それは精神的な抑圧ばかりではなく、肉体的な抑圧でもある。なぜなら、あなたは完全に分割されてはいないからだ。 

 あなたは身体と心ではなく、心身(ボディマインド)---つまり心身相関的だ。あなたは、心と身体が一緒になったものだと言える。だから、身体が行なったことはマインドに届き、マインドが行なったことは身体に届く。身体とマインドは、同じ実体の両端だ。 

 たとえば、怒ると身体に何が起こるだろう? 怒ると、必ず特定の毒素が血液中に放出される。その毒素がなければ、怒りに駆られることはない。体内には特定の分泌腺があり、それらはある種の化学物質を放出する。さて、これは科学的なことであって、哲学などではない。あなたの血液は毒される。 

 だから、怒ると普段は不可能なことができてしまう---なぜなら狂っているからだ。普段そんなことはできないのに、大きな岩を押し動かすことができる。後になってみると、その岩を押し動かしたり投げたり持ち上げたりできたとは、とても信じられない。正常に戻ったら、再び岩をを持ち上げることはできない。 

 なぜなら、あなたは同じ状態にないからだ。そのときは、特定の化学物質が血液中を巡っていた。あなたは緊急事態にあり、あなたの全エネルギーは活動的になっていた。 

 動物は、怒るときは怒る。動物は、怒りに関して道徳心や教訓など持ち合わせていない。動物は純粋に怒り、その怒りは放出される。あんたも動物と同じように怒る。だが、そのときそこには社会があり、道徳があり、エチケットがあり、その他さまざまなことがある。 

 あなたは怒りを静めなければならない。自分は怒っていないと見せなければならない。あなたは微笑む必要がある---絵に描いたような微笑で! あなたは微笑みをつくり出し、怒りを静める。身体には何が起こるだろう? 

 身体は闘う用意ができていた---闘うかあるいは危険を回避するために逃げるか、それに直面するか回避するか。身体には何らかの行動を起こす用意があった。怒りとは、何かを行う準備に他ならない。身体は暴力的、攻撃的になろうとしていた。 

 もしあなたが暴力的、攻撃的になれるなら、そのエネルギーは放出される。だが、それはできない---都合がよろしくない。そこで、あなたは怒りを静める。すると、攻撃的になる用意ができていた筋肉群はどうなるだろう? 

 それらは麻痺してしまう。怒りのエネルギーはそれらを攻撃的にするが、あなたはそれらを攻撃的にならないように引き戻している。そこに葛藤が生じる。あなたの筋肉の中、血液の中、細胞組織の中に葛藤が生じる。それらは何かを表現したいが、あなたは表現させないよう押さえ込み、抑圧している。すると身体は麻痺してしまう。 

 そして、あらゆる感情がこの麻痺を引き起こす。それが毎日のように何年も続く。するとあなたの身体は、いたるところで麻痺してしまう。神経も同様に、すべて麻痺してしまう。それらは流れていない。流体になっていない。生き生きしていない。それらは死に、毒されてしまった。そして、すっかり縺(もつ)れてしまった。それらは自然ではない。 

 動物を見てごらん。その身体の優美さを見てごらん。人間の身体はどうだろう? なぜ、あまり優美ではないのか? なぜ? どの動物も実に優美なのに、なぜ人間の身体は、あまり優美ではないのか? 何が起こってしまったのだろう? 

 あなたは身体に何かをした。あなたが身体を破壊したので、その自然で自発的な流れは失われてしまったのだ。身体は淀んでしまった。身体のあらゆる部分に毒がある。身体のすべての筋肉に、抑圧された怒り、抑圧された性欲、抑圧された欲望---あらゆるもの---抑圧された嫉妬や憎しみがある。そこでは、すべてが抑圧されている。あなたの身体は本当に病んでいる。 

 だから活動的瞑想をやり始めると、こうした毒がすべて放たれる。また、身体の中で淀んでいる箇所は、溶けて再び流体になる必要がある。これは大変な努力だ。40年も間違って生きてきて突然瞑想をすると、全身は激動する。身体ののいたるところが痛むだろう。しかし、この痛みは良いものだ。歓迎するといい。 

 ふたたび身体を流れさせない。身体は再び優美に、子供のようになるだろう。あなたは再び生き生きした感覚を得る。しかし、その生き生きした感覚が訪れる前に、死んだ部分を立て直す必要がある。それはすこし辛いものなるだろう。 

 心理学者によると、我々は身体の周りに鎧をつくり出していて、その鎧が問題なのだそうだ。怒ったときにすべてを表現することが許されたら、あなたは何をするかな? 怒ると、あなたは歯ぎしりする。爪や手で何かをしたくなる。それは、あんたの動物としての異物によるものだ。あなたは何かを壊そうと、手で何かをしたくなる。 

 何もしないとしたら、あなたの指は麻痺し、その優美さや美しさを失い、生きた手ではなくなる。そこには毒がある。だから、あなたが誰かと握手をするとき、そこには本当の感触も命もない。なぜなら、あなたの手は死んでいるからだ。 

 あなたはそれを感じられるだろう。子供の手に触れてごらん---そこには微妙な違いがある、子供が本当に自分の手をあなたにあずけるとしたら・・・・あずけようという気がないなら、それはそれでよいのだが---子供は手を引っ込める。 

 しかし、子供があなたに手をあずけたいと思っていたら、子供の手はあなたの手の中で、あたかも溶けていくような感じがするだろう。ぬくもり、流れ---まるで子供全体が手にそそぎ込まれたかのようだ。子供はまさにその接触の中に、表現し得るすべての愛を表現している。 

 しかし、その同じ子供が成長して握手をすると、その手はまるで生気のない道具のようだ。彼は手を通じて流れていない。これはブロックのせいで起こる。怒りがブロックされている。あなたの手が再び生き生きとして愛を表現するようになる前に、それは大きな苦しみを通り抜け、深い怒りの表現を通り抜けなくてはならない。怒りが解き放たれず、ブロックされているなら、そこから愛が生まれ出ることは不可能だ。 

 あなたは、手だけではなく全身がブロックされている。そのため、誰かを抱きしめたり、自分の胸の近くに引き寄せたりできても、それはハートの近くに引き寄せることとは意味が違う。それらは二つの異なることだ。あなたは誰かを自分の胸の近くに引き寄せることができる。これは身体の現象だ。 

 しかし、ハートのまわりに鎧、すなわちブロックされた感情をまとっていたら、これまで同様その人は遠い存在のままだ。親密さはあり得ない。しかし、あなたが本当に人を近くに引き寄せ、あなたと相手の間に鎧や壁がなければ、ハートは相手に溶けていく。そこには出会いがあり、合一がある。 

 あなたの身体は、毒をたくさん放出する必要がある。あなたは毒を抱えていて、そうした毒が溜まっているせいで痛みが生じる。今、私は再び混沌を生み出そうとしている。この瞑想は、あなたが再編成され、新たな編成が可能になるよう、あなたの内側に混沌を生み出すためのものだ。今のあなたは破壊されねばならない。そうしてはじめて、新しいものが生まれる。痛みがあるだろう。だが、この痛みには価値がある。 

 だから活動的瞑想を続け、身体が痛むのを受け入れなさい。身体に抵抗させないこと。身体をこの苦しみの中へ入っていかせなさい。この苦しみは、あなたの過去から来ている。だが、それは去るだろう。あなたに用意ができれば、それは去る。そしてそれが去るとき、そのときはじめて、あなたは身体を手にする。 

 今のところ、あなたは拘束され、カプセルに閉じ込められているだけだ。あなたは本質的に死んでいる。カプセルに封じ込められており、活発で生き生きした身体をしていない。動物でさえ、あなたより美しく生き生きした身体をしているのだ。 

 話はそれるが、そのために私たちは衣服を気にし過ぎるようになってしまった---というのも、身体は見せる価値がないからだ。裸で立てば、きっと自分の身体にしてしまったことがわかるだろう。衣服は、あなたの身体をあなたから隠し続ける。 

 この病の結果、悪循環が起こる。生き生きした身体をしていないと、あなたはそれを隠したいと思う。そして、隠せば身体はますます死んでいく---なぜなら、身体が生き生きしていることに、油断なく気を配る必要がなくなるからだ。 

 何世紀にもわたって衣服を身に付けてきたため、私たちは自分自身の身体との接触を失ってしまった。もし自分の頭が切り落とされ、頭のない自分の体に出会ったら、きっとそれが自分の身体だとは認識できないだろう---それとも認識できるかな? いや、あなたは認識できない。なぜなら、あなたは自分の身体を尻もしないからだ。あなたは、身体に何の感情も持っていない。身体に関心を持たず、ただその中で生きている。 

 私たちは、自分の身体に数多くの暴力をはたらいてきた。だから私は、この混沌とした瞑想の中で、無理やりあなたの身体を再び生き生きさせようとしている。多くのブロックが壊される。定着した多くのものが再び乱される。多くのシステムが再び流体になる。 

 痛みがあるだろうが、歓迎しなさい。それは祝福であり、あなたは乗り越えるだろう。続けることだ! どうしようかと考える必要はない。ただ瞑想を続ければいい。私は、無数の人々が同じプロセスを通過するのを見てきた。2、3日のうちに痛みは去る。そして痛みが去るとき、あなたは自分の身体のまわりに微かな喜びを感じるだろう。 

 いまは痛みがあるから、喜びは感じられない。あなたが知ると知らないとにかかわらず、痛みは全身にある。痛みは常に共にあったから、あなたはすっかり意識しなくなってしまった。何であれ、常にあるものに対しては無意識になるものだ。あなたは瞑想によって意識的になるが、するとマインドは「こんなことしちゃだめだ。全身が痛んでいる」という。マインドに耳を傾けてはいけない。瞑想を続けなさい。 

 あるいっての期間内に痛みはなくなるだろう。痛みがなくなったとき---身体が再び受容的になり、ブロックがなくなり、毒素もなくなったとき、あなたはきっと自分を取り巻く微かな喜びを感じるだろう。何かをしていてもいなくても、あなたは常に身体のまわりに微かな喜びの波動を感じるだろう。 

 喜びとは、まさにあなたの身体がシンフォニーを奏でていること---あなたの身体に音楽的なリズムがあることに他ならない。喜びと楽しみは違う。楽しみは、何か他のものから得なければならない。喜びとは、ただ自分自身であることだ---生き生きして、元気が漲(みなぎ)り、エネルギッシュな。身体のまわりの微かな音楽の感触、そして身体の内側のシンフォニー---それが喜びだ。身体が花開いているとき、身体が川のように流れているとき、あなたは喜びに満ちていられる。 

 それは訪れるが、まずあなたは苦しみを通り抜け、痛みを通り抜ける必要がある。それはあなたの運命の一部だ。自分がそれをつくり出したのだから。だが、それは消え去る。あなたが途中で止まらなければ消え去る。途中で止まると、再び古い滓(かす)が沈殿するだろう。4、5日のうちに問題はなくなる---これまで常にそうであたように。その問題のない状態に気づいていなさい。OSHO pp177~186

<31>につづく

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2013/10/05

こころでからだの声を聴く<29>

<28>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<29> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

20、断食と美食 

 ときどき断食が自然に訪れる感じがするなら---決まり事としてではなく、主義としてでもなく、従うべき思想としてでも、強制された訓練としてでもなく、あなたの自然な要求からであるなら、それは良いものだ。

 そのときは常に覚えておくといい。断食はご馳走を食べるために役立ち、またおいしく食べられるようになるのだと。断食をする目的は、手段であって到達点ではない。しかし、そうしたことが起こるのは稀だ。たまにしか起らない。食べている間に完全に目覚め、それを楽しんでいるなら、決して食べ過ぎることはないだろう。 

 私の強調する点は、食事制限ではなく気づきだ。おいしく食べなさい。お腹がいっぱいになるまで楽しみなさい。でもこの法則を覚えておくこと---食事を楽しんでいないなら、その埋め合わせのために、もっと食べなくてはならない。 

 食事を楽しめば、食べる量は減り、埋め合わせをする必要はなくなる。ゆっくりと一口ずつ味わい、よく噛んで食べるなら、あなたは完全にその中に没頭する。食事は瞑想であるべきだ。 

 私は味わうことに反対ではない。私は感覚に反対しないからだ。敏感であることは知性的であることであり、敏感であることは生き生きしていることだ。あなたがたのいわゆる宗教は、つとめてあなたの感覚を鈍らせ、あなたを鈍感にしてきた。 

 宗教は味わうことに異議を唱えている。宗教は、何も味わえないよう、あなたが自分の舌を完全に鈍らせることを望んでいる。しかし、それは健康な状態とは言えない。舌が鈍感になるのは病気のときだけだ。 

 熱があると舌は鈍感になる。健康であれば、舌は敏感で生き生きしている。舌はエネルギーで震え、脈動している。私は味わうことに反対ではなく、賛成する。おいしく食べ、よく味わうことだ。味わうことは神聖なことだ。 

 また、味わうこととちょうど同じように、美を見つめ、それを楽しみなさい。音楽を聴いて楽しむ。岩や葉や人に触れ---そのぬくもり、その手触りを楽しむ。すべての感覚を使い、それらを最大限に駆使してごらん。 

 すると、あなたは本当に生き、あなたの生は燃え上がる。あなたの生は鈍くなく、エネルギーと活力で燃え立つだろう。私は、感覚を殺すよう、あなたに説いてきた人たちに賛成しない。彼らは身体に背いている。 

 また、身体はあなたの寺院であり、身体は神からの贈り物であることも覚えておきなさい。身体は実に繊細で、実に美しく、実に驚異的だ---それを殺すのは、神に対して失礼だ。神はあなたに味覚を授けてくれた。味覚を生み出したのはあなたではない。 

 それは、あなたとは何の関係もない。神はあなたに目を授け、このサイケデリックな世界を色彩豊かなものにした。そして、あなたに目を授けた。目とこの世界の色彩との間に、偉大なる合一をもたらしなさい。神はすべてをつくった。そこにはこの上もない調和がある。この調和を乱してはいけない。 

 身体に耳を傾けなさい。身体はあなたの敵ではない。身体が何かを言っているときは、あの通りにしなさい。なぜなら、身体には独自の英知があるからだ。それを妨げてはいけない。マインドのトリップを続けてはいけない。だから私は、食事制限を教えるのではなく、ただ気づきのみを説く。 

 十全な気づきを持って食べなさい。瞑想的に食べなさい。すると、食べ過ぎることもないし、食べるのが少な過ぎることもない。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。これらは極端なことだ。自然派望んでいる---あなたがバランスをとること、ある種の均衡を保つこと、中庸にあること、過不足のないことを。極端に走ってはならない。極端に走ることは、神経症になることだ。 

 食べ物に関する神経症は、ふたつのタイプがある。身体に耳を傾けず、食べ続ける人々、身体は泣き続け、「やめて!」と叫んでいるのに、彼らは食べ続ける。そして、別の種類の人々もいる。身体は「お腹が空いた!」と叫んでいるのに、彼らは断食を続ける。 

 両者とも神経質で、両者とも異常だ。全員治療が必要であり、全員入院が必要だ。健康な人とは、バランスのとれた人だ。何をしていても、彼は常に中庸にある。決して極端に走らない。なぜなら、極端なものはどれも緊張と不安を生み出すからだ。 

 過食すると、身体に不可がかかるため不安が生じる。充分に食べないと、身体は空腹なため不安が生じる。健康な人は、やめ時を知っている人だ。そして、それは特定の教えからではなく、気づきから生まれるべきだ。 

 もし私が、あなたに食べるべき量を教えたら、危険なことになるだろう。なぜなら、それは平均にすぎないからだ。とても痩せている人もいれば、とても太っている人もいる。もし私が、食べる量は「チャパティ3枚」と教えるとしたら、ある人にとっては多すぎるかもしれないし、ある人にとっては充分でないかもしれない。だから私は、厳格な規則を教えない。ただ、気づきの感覚をあなたに授ける。 

 自分の身体に耳を傾けなさい。あなたには、ふたつとない身体がある。また、覚えておきなさい。エネルギーには異なったタイプがあり、物事への取り組み方にも異なったタイプがある。 

 ある人は大学の教員で、身体に関するかぎり、さほど多くのエネルギーを使わない。たっぷりとした食事は必要なく、別の種類の種類の食事が必要だ。ある人は肉体労働者で、たっぷりとした食事、別の種類の食事が必要だ。食べることに関する厳しい原則は危険だと言える。通則はないということを、普通的な決まりにするといいだろう。 

 ジョージ・バーナード・ショウは言った---唯一の黄金律は、黄金律などないということだと。黄金律はないと覚えておきなさい。それはあり得ない。なぜなら、人はそれぞれ実にユニークで、誰一人として規定できないからだ。だから私は、あなたに感覚(センス)だけを授ける。そして、私のセンスは原則や規則から来るものではない。私のアプローチは気づきに基づく。 

 今日あなたは、ボリュームのある食事が必要かもしれない。でも明日は、それほど必要ないかもしれない。あなたは他の人と違っているだけでなく、あなたの日々の生活も日毎に異なる。今日あなたは丸一日休息し、あまり食事が必要ないかもしれない。また別の日は、庭で一日中穴掘りをし、ボリュームのある食事が必要かもしれない。ただ注意深くあり、身体の言うことに耳を傾けることだ。身体に従いなさい。 

 身体は主人ではないし、奴隷でもない。身体はあなたの友人だ。身体と友達になりなさい。過食をする人、ダイエットをする人は、どちらも同じ罠にはまっている。両方とも耳が聞こえない---身体が言っていることを聞いていない。 

 舌の楽しみのために食べることは罪である、というのはナンセンスだ。だとしたら、あなたは何のために食べるのだろう? 見ることが目の罪であるなら、あなたは何のために見るのだろう? 聞くことが耳の罪であるなら、あなたは何のために聞くのだろう? そうなると、あなたには何も残されていない---自殺するしかない。 

 というのも、正全体は感覚から成り立っているからだ。何もをしても感覚は関わってくる。感覚を通してこそ、あなたは流れ、生と関わる。あなたが味わって食べるときは、内なる神が満たされ、満足する。また味わって食べるときは、食べ物の内なる神が敬われる。 

 しかし、あなたがたのマハトマたち、いわゆる宗教的導師たちは、自己を苛めることを説いてきた。宗教の名のもとに、彼らは単なるマゾヒズムを説いてきただけだ。「自分自身を苛みなさい。苛めば苛むほど、あなたはいっそう神の目にかなうだろう。不幸であればあるほど、あなたはより多くの徳を積むだろう。幸福であるなら、あなたは罪を犯している。幸福は罪だ。不幸でいることにこそ徳がある」。これが彼らの論理だ。  

 いったい何を言っているのだろう。あまりにも馬鹿げていて、不合理で、明らかにどうかしている。神は幸せだ。神と波長を合わせたければ、幸せになることだ。これが私の教えだ---神は幸せであり、神と波長を合わせたければ幸せになること。 

 なぜなら、あなたが幸せなときは神と足並みを合わせているが、不幸せなときは足並みが乱れているからだ。苦悩する人は、宗教的な人間になれない。 

 私に罪とは何かと問うのなら、罪はひとつしかないと言おう---苦悩することが罪人になることだ。幸せでいること、心から幸せでいることが、聖人になることだ。いかに歌い、いかに踊り、いかに生を喜ぶかを説く宗教を、あなたの宗教にしなさい。 

 肯定的な宗教、イエスと言う宗教、幸せと喜びと至福の宗教を、あなたの宗教にしなさい。何百年も抱えてきたナンセンス、全人類を不自由にさせてきたナンセンスを、すべて捨て去りなさい。このナンセンスは、人々を実に醜く、不幸に、悲惨にしてしまった。それは病的な人---自分自身を苦しめる人だけを惹きつける。なぜなら、それは彼らに言い訳を与えてくれるからだ。 

 自分自身を苛む、もしくは他人を苛むことは、両方とも病気だ---苛むという考えそのものが病的だ。アドルフ・ヒットラーのような人は、他人を苛む。マハトマ・ガンディーのような人は、自分自身を苛む。両者とも同じ船に乗っている---背中合わせに立っているかもしれないが、それでも同じ船に立っている。 

 アドルフ・ヒットラーの喜びは他人を苛むことにあり、マハトマ・ガンディーの喜びは自分を苛むことにあった。両者とも暴力的だ。理屈は同じ---彼らの喜びは苛むことにあった。方向性は異なるが、方向性は問題ではない。彼らのマインドの姿勢は同じ---すなわち苛むことだった。 

 あなたは自分自身を苛む人を尊敬するが、それはからくりを理解していないからだ。アドルフ・ヒットラーは世界中で非難され、ガンディーは崇拝されている。私は当惑するばかりだ。どうしてそんなことがあり得るだろう?---理屈は同じなのだから。 

 ガンディーは言う、「味わうために食べてはいけない。味わうことは許されてはならない。喜びとしてではなく、義務として食べなさい。生きるために食べなさい。それだけだ」。彼派食べる喜びを、ありふれた仕事の世界に貶めてしまった---「娯楽として食べてはいけない」と。 

 覚えておくといい、動物はそんなふうに食べる。彼らはただ食べるため、ただ存在するため、生き延びるために食べる。動物が食事を楽しんでいるのを見たことがあるかな? まったくないだろう。動物たちが宴会やパーティーを催したり、歌い踊ったりすることはない。人間だけが、食べることを大がかりな祝宴にする。 

 また、他の事柄につてもガンディーの態度は同じだ。ガンディーは言う、「子供が欲しいときだけ愛を交わしなさい。さもなければ愛を交わさないこと。愛を生物的なものにしなさい。食べることは生き延びるため、愛することは種を残すために限定すべきだ。楽しみとして愛を交わしてはいけない」 

 それが動物たちのしていることだ。イヌが愛を交わしているのを見たことがあるかな? イヌの顔を見てごらん。ちっとも楽しそうに見えない・・・・・一種の義務感だけだ。イヌはそうしなければならない。何かが内側から彼に強要する---生物的な衝動が。愛を交わす瞬間、犬は愛する相手を忘れる。彼はわが道を行き、礼すら言わない。終わった、仕事はおしまいだ!  

 人間だけが、楽しみのために愛を交わす。その点で、人類は動物よりも高い位置にある---人間だけが、楽しみのために愛を交わす。ひとえに、その喜びのために、その美しさのために、その音楽と詩情のために。 

 だから、ピルはこの世でもっとも偉大な革命のひとつだと私は言う。なぜなら、それは愛の概念全体を完全に変えたからだ。今や、ただ喜びのために人は愛することができる。生物的な隷属のもとにいる必要はない。子供が欲しいときだけ愛を交わす必要もない。今やセックスと愛は完全に分離している。ピルは大きな革命をもたらした。 

 今やセックスはセックス、愛は愛だ。生物的であるとき、それはセックスだ。ふたつの身体が出逢う美しい音楽があるとき、互いに巻き込まれ、互いの中へ消え去り、互いの中に失われ、まったく新しい次元のリズムとハーモニーに落ちてゆく・・・・オーガズミックな体験があるとき、それは愛だ。子供の問題も、生物的な力に左右されることもなにもない。 

 今、その行為そのものが美しい。それはもはや、いかなる目的のための手段でもない---これが愛とセックスの違いだ。何らかの目的の手段であるとき、それは遊びだ。手段そのものが目的と手段が一緒になっているとき、それは遊びだ。手段そのものが目的であるとき、それは遊びだ---遊びには目的がない。 

 食べる楽しみのために食べなさい。そうすれば、あなたは人間であり、より高次の存在だ。愛の喜びのために愛しなさい。そうすれば、あなたはより高次な存在だ。聞く喜びのために聞きなさい。そうすれば、あなたは本能という檻から解放される。 

 私は幸福に反対しない、幸福には大賛成だ。私は快楽主義者だ。私の理解によると、世界のすぐれた霊的(スピリチュアル)な人々は、みな常に快楽主義者だった。快楽主義者でないのに霊的なふりをしている人は、霊的ではない---彼は精神病だ。 

 なぜなら幸福こそ、あらゆる物事の終着点であり、源泉であり、目的に他ならなkからだ。神はあなたを通して、無数の形の幸福を探している。可能なすべての幸福を神に許し、幸福のより高い頂、おり高い到達点に神が至るのを助けなさい。 

 そのとき、あなたは宗教的だ。そのとき、あなたの寺院は祝祭の場となる。あなたの教会は、墓場のように悲しく、醜く、陰鬱で、活気のない場所になることはない。そのとき、そこには笑いがあり、歌があり、踊りがあり、大いなる歓喜があるだろう。 

 宗教の本質とは、喜びに他ならない。だから何であれ、あなたに喜びを与えてくれるものには徳がある。何であれ、あなたを悲しくし、不幸にし、苦しめるものは罪だ。そえを基準にするといい。 

 私が厳格な決まりを与えないのは、人間のマインドがどのように動くかを知っているからだ。ひとたび厳格な決まりが与えられると、あなたは気づきを忘れ、決まりに従い始める。問題なのは、厳格な決まりではない---決まりに従うせいで、あなたが決して成長しないことだ。 

 いくつかの逸話を披露しよう。 

 ペニーが帰宅すると、台所には割れた陶器が散乱していた。
 「何があったんだ?」彼は妻に尋ねた。
 「この料理本がいけないのよ」と妻は説明した。「持ち手のない古いカップが計量カップ代わりになるって書いてあるんだけど---カップを割らずに持ち手を取るのに、11個もダメにしちゃったわ」
 

 さて、料理本に書いてあるなら、そうしないといけない。人間のマインドは愚かだ---それを覚えておきなさい。ひとたび厳格な決まりを手にすると、あなたはそれに従う。 

 マフィアの首領(ボス)が子分たちとミーティングしていた。首領の言うことは絶対だった。ブザーが鳴り、首領の使用人が応対に出た。彼は扉の隙間から外を窺い、訪問者を確認し、扉を閉めた。
 「傘を扉のところに置け」子分は訪問者に言った。
 「そんなもん持ってねぇよ」と答える訪問者。
 「それなら家に帰って持ってこい。傘は扉のところに置けとボスは言っているんだ。そうでなきゃ、あんたを入れられねえ」
 

 決まりは決まりだ。 

 警察の車は銀行強盗を捕まえようと、猛烈な追跡をしていたが、突然、脇にそれてガソリンスタンドに入った。運転していた警官は、そこから署長に電話をした。
 「捕まえたか?」署長は興奮して尋ねた。
 「奴らはラッキーですよ」と答える警官。「あとほんの半マイルというところまで差は縮まっていました。でも、そのとき気づいたんです。我々の車は5百マイルを超えていて、止まってオイル交換が必要だと」
 

 5百マイルごとにオイル交換が必要な場合、5百マイルを超えたらどうする? まずはオイル交換をしないといけない。 

 私が決して厳格な決まりを与えないのは、人間のマインドがいかに愚かであるか、いかに愚かになり得るかを知っているからだ。私はただ、あなたに感覚を、方向感覚を授ける。気づいていなさい。そして気づきを通して生きなさい。 

 聞いた話だが・・・・・。 

 マイクがパットに通夜に行くことを告げると、パットは一緒についていこうと申し出た。道すがら、パットは酒をちょっと飲まないかと持ちかけ、二人はすっかり酔っ払ってしまった。そのあげく、マイクは通夜のある場所の住所が思い出せなくなった。「友達の家はどこさ?」とパットは尋ねた。
 「番地はわすれちまった。でも、この通りだってことは確かだ」
 数分歩き、マイクはこれだと家を、目を凝らして見つめた。そして彼らはよろめきながら中に入ったが、ホールは暗かった。ドアを開け、居間を見つけたが、ピアノの上に置かれているロウソクの微かでぼんやりした明かりを除けば居間も暗かった。
 二人はピアノの前に近づき、○いて祈った。パットはピアノを見つめたまま、長いこと身じろぎもしなかった。「マイク」彼は言った、「君の友人のことは知らないが、さそかし立派な歯並びをしてたんだろうな」
 

 これが現状だ。これが人間というものだ。私があなたに授けたいものは、気づきの体験だ。それは、あなたの人生を変えるだろう。あなたに規律を与えることではなく、あなたを内側から輝かせることこそ要点なのだ。OSHO p163~p175

<30>へつづく

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2013/10/03

今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電<6>  ニュートンムック

<5>からつづく 

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「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」 <6>NEWTON別冊
ニュートンムック 2011/08 ニュートンプレス ムック 159p

 ようやく我が家の屋根にも太陽光パネルが上がった。

Ta1 足場を組み、

Ta2 架台を設置し、

Ta3 パネルを一枚づつ張っていった。新しい工法とかで、設置そのものは架台に嵌めるだけで、あとは配線を間違えないように接続する。

Ta4
 設置が完了してしまえば、いたってシンプルである。日常的に視覚にはいることはほとんどない。

Ta5 パネルで作られた直流の電流は、天井裏でひとまとめにされる。
Ta6
 室内の、配電盤まで配線されて

Ta7 パワーボックスで、直流から交流に変換される。停電時に、日中の発電中であれば最大1500w電気が使える。冷蔵庫を使いながら(日中だけだが)、電気釜でご飯も炊ける。

Ta8 電力会社の外電と接続し、これで常時、自動的に買電・売電ができるようになる。メーターが一つ増えた。
Ta9 発電状況は無線LANでも飛ばされ、

Ta10 常時、室内モニターで、発電状況、売電状況、節電状況を確認できる。

Ta11
 インターネットにもつながっていて、常時システムの状況が管理されていて、万が一の故障などの早期発見につながる。データはホストコンピュータに蓄積され、細かい分析は、我が家のパソコンでも毎日確認できる、というわけである。

<7>につづく

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