プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <39>冬タイヤ 履き替え時や 今日の空
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
<39> 冬タイヤ 履き替え時や 今日の空
秋深く 裏の山にも 花が咲く
歌心もなく、俳句なんぞ、まったくの門外漢なれど、失礼ながら、上手な俳句とは思われない。秋深く 裏の山にも 花が咲く。なんじゃいこれ、小学生の低学年でもつくれそうな俳句だな。秋深く、って、秋が深いことを、他の言葉で表現できないのかな。なんて、酷評してみる。
裏の山って、これも、またなんだか幼稚な表現だなぁ。住んでいるところの裏なんだろうか。田舎の方かな。花が咲くって、何の花が咲いてんじゃ。花が咲くのは春だろう。秋の山に行って、紅葉を見ないで、花が咲く、ってのはこれいかに。
これがまた、皮肉で名を売る中年のコピーライターの作となれば、どうにか、もっとならなかったのかな、と、溜め息をつく。
溜め息をつきながら、ふと考えた。ちょっと待てよ。俳句って、自然の中の時間と空間を切り取りながら、そこに自分の人生をダブらせる芸術ではなかっただろうか。とすると、この作品は、作者が人生上の何事かをうたっているのかも知れないぞ。
秋深く・・・・。人生の中の秋とはいつだろう。春は遠くなり、夏も過ぎ去り、秋が来た。そして、その秋さえも深まっている。彼は確か50代の半ば。なるほど、彼の人生も深まってきた、とは言える。この句を、小学生が歌うのとは意味が違ってくる。
還暦直前の私なぞは、もうすでに秋も終わって、冬に入ろうとしているのだ。でもなぁ、自分の人生を冬と表現するには、まだ未練がある。
裏の山にも・・・・。彼は、もとは田舎びとなれど、どこかハイカラ志向があり、いままでは、都びとのひとりたらんとしていた風情もある。3・11以降は、都おちして、田舎で暮らしているから、裏の山、と来たのかもしれん。すくなくとも、今の自分を、都に棲んでいるとは考えてはいなさそうだ。
花が咲く・・・・。花が咲いているのか。この句は、写真のオプションでつけられたものだ。なんのことはない。紅葉の画像じゃないか。この風景を、花、と読むのは、ちょっと無理がある。
いやいや、彼は、紅葉した枯れ葉たちを、花と、詠んでいるのだろう。なるほどね。だけど、これじゃぁ、写真の力を借りないと、一句が成り立たないことになりはすまいか。いろいろ、こころは動く。
よくよく見ると、この画像、私が知っているところかも。たしかに彼の住まいの、裏手の谷川に向かうあたりの風景かもな。あそこは、秋に限らず、ほっとするというか、ぎょっとするほど、急に風景の雰囲気が変わるところだ。
私も一句考えた。
彼が自分を、秋深く、と表現するなら、私なんぞは、もう冬の入り口だ。まさに、この季節のようなものだ。だが冬そのものとも言い難い。木枯らしに残せて、たしかに風花みたいなのは飛んだが、本格的な冬はまだやってこない。
冬は必ず来る。冬支度をしなければならない。となれば、一番思いつくのはタイヤの交換だ。いつ降ってくるかわからない初雪のために、早め早めに交換しておくのが、東北のドライバーの常識である。
本当は、今日、交換しようと思っていたのだが、まだまだ、今日の空模様では、雪になりそうにない。もうすこし今のままでいようか。この心境って、私の人生の現在そのものかもしれない。
本当に還暦を通り越したら、自分の冬を認めよう。それまでは、まだ秋だ。秋のままでいたい。冬になったら、自分のブログを、「バベ翁の独白」とでも改題して、静かに余生を送ろうではないか。
冬タイヤ 履き替え時や 今日の空
履き替え時ぞ とは言いたくない。まだでしょう。だけど、履き替えどきは、「今でしょう!」とまでは言えないが、すぐにもやってきそうだ。やはり履き替え時は気になる。
今日の空は、薄明るくも、力があって、まだまだこれから明るくもなりそうだ。いつまで持つかしらんが・・・。空、ってのがいいね。空を、東の空にかけて考えることもできるし、自らの心の澄み具合にも、読むことができる。
冬タイヤ 履き替え時や 今日の空 ばべし
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