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2013年11月の26件の記事

2013/11/30

石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<11>

<10>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<11>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
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 三部作の未来編、古代編、現代編の、それぞれの年代は、AD2275年08月、BC2100年頃、AD1995年7月、 という設定である。1995年と言ってもすでに20年まえのこととなり、むしろ現代編より、未来編のほうが内容がフィットするほど、時代は経てしまった。

 都合4375年前後の、「長い年月」に渡る「時の葦舟」だが、実際には、生命誕生からの46億年に比してみれば、100万分の一。それほど、驚く程でもない時間移動なのだ。

 対する飯沼勇義提唱するところの「東北紀元前津波」はBC160~60年のこと。5代ヒタカミはBC1315年前後、9代ヒタカミの熱日高彦はBC1137年前後だとすると、現代からみれば3330年程の期間となる。初代となれば、更に時間は伸びる。

 もし石川「時の葦舟」の3~4千年の時間ロマンに遊ぶことができるとすれば、飯沼やホツマの3~4千年の時間ロマンに遊ぶことは、それほど難しいとは思えない。かたや演劇というフィクションであり、かたや伝説や神話ではあるが、ともに、そこに「真実」が隠されていない、とはいえない。

権十郎 (中略)すべての時代は続くものを夢見るばかりでなく、夢みながら覚醒をめざして進むものだと私は信じている。こんな星になってしまった地球だが、

南方 まったくその通り、最小限わしらは生きている。過去から未来へ、わしら自身が架け橋なのだよね。さて、と。そろそろ降りようかな、少年たちを探しにいかなければならない。(降りてくる)ところで、レプリ君、名前は?

ケンジ ケンジ

南方 ケンジ・・・、1896年ーー1933年。イーハトーボ・アジア。

ケンジ 俺の記憶の主か?

南方 そうだと思う。しかし、しかし、君は追われている身だ。こんなところにいては危険だぜ。わしと一緒に行かないか?

ケンジ ありがとう。(行く気はない) p74「ー未来編ー『絆の都』」

 ここでは、南方熊楠のひいひいひい孫として(p60)南方熊桜(くまおう)と、宮沢賢治の記憶を持つレプリカントとしてのハイパーケンジが登場する(p31)。数あるアイコンの中から、作者は、よくぞこの二人を並べたものだと思う。

 2011年3月の東日本大震災の直後に緊急出版された「大津波と原発」(2011/05 朝日新聞出版)の内田樹との対談の中で、中沢新一は語っている。

 そんなことを考える思想家が生まれ得たのは、東北だからです。東北はそういう可能性がある場所なんです。ぼくの考える「緑の党」の旗には、宮沢賢治と紀州の南方熊楠が描かれるんだ。中沢新一「大津波と原発」p88

 震災の20年前に、宮沢賢治と南方熊楠を両立させた東北の劇作家があったということを、時代の寵児を自認する中沢は、知っていただろうか。

 また、この演劇には、主人公としての一文字ピコ、電脳化した父(コンピュータ)として、一文字ナノ、が登場する。当ブログでは、このピコ・ナノについてはまったく読んでこなかったが、飯沼勇義の本の中にその文字を見つけて、ドキッとした。

 なぜこのフルボ酸鉄なのか。この物質は、ナノ、ピコの超微細な世界へ溶出できるから重要なのだ。これが歴史津波と関与して、富を生む原因を生成できる決め手となり、海水中の魚介類を繁殖させるプランクトンをつくり出し、さらに海水や土壌中の栄養分を超微粒子状に溶出してきて、このことが富を蓄積し古墳を集中的に築造させていった。

 そしてなんと、このフルボ酸鉄での日本古来の鉄の還元が、既にあったのだ。それが「薪焼火床の製鉄」である。飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」 p218

 震災後の生態系の変化や、その作用などについては、永幡嘉之「巨大津波は生態系をどう変えたか 生きものたちの日本大震災」( 講談社ブルーバックス2012/04) が参考になるに違いない。

 「時の葦舟」第一巻「絆の都」を再読してみて、著者が「畢竟の三部作」と自ら読んだこのシリーズが、著者にとっての一番やりたいことだったのだろう、と合点がいくようになってきた。

 実験的に劇団をスタートさせた「劇団座敷童子」や「劇団洪洋社」は、劇団や芝居そのものを成立させることにせいいっぱいだった。失望して一時芝居から離れたものの、「趣味でもいいから」とソロソロとゆっくり再スタートした「劇団・十月劇場」は、10年を経過して、著者いうところの「アングラ・サーカス」として、「完成」した。

 私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。それより衛氏の顔をつぶしてしまったわけでもある。しかし、この時もし間違って岸田戯曲賞などとっていたら私の人生は変わっていただろうか『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』 (第七回 人生は変わっていただろうか?)

 86年の「水都眩想」あたりでは、本人はまだまだ納得していたかったと見える。しかし、自らの芸術性において、やりたいことをやりやり終えた「十月劇場」ののち、本人は、「とにかく芝居で食いたい」と、あえて、その十月劇場を超えていくことを決意する。

 いわゆる社会派劇や、PLAY・KENJIとなずけた宮沢賢治を「モチーフにして「換骨奪胎」したシリーズ、あるいは子供向け「AZ9ジュニア・アクターズ」向けの一連のシリーズ、さらには、アラ還以上の年配者向けに書かれたシニア劇団「まんざら」向けのシリーズなど、いわゆる「アングラ・サーカス」からは遠ざかる。

 書き上げた100本の戯曲を記念して、この「時の葦舟」が刊行された直後、わずか一カ月で3・11東日本大震災がやってくる。演劇人として、何ができるのかを自ら問う中で、TheaterGroup“OCT/PASSは「人や銀河や修羅や海胆は」(石川裕人・作・構成・演出)を持って、約十カ所の被災地でボランティア上演する。

 さらには、遺作となった「方丈の海」を上梓し、かつての「時の葦舟」に繋がる情景を書き上げ、彼は逝った。見事な人生だったと思う。芸術家として、一巻のストーリーを生き切ったであろう友人に、私はいまあらためて、心から拍手を贈りたい。

<12>へつづく

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2013/11/29

「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義 <4>

<3>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <4>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

いよいよこちらの本も精読するタイミングが到達しただろうか。スケジュール通り「2013年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10」が作成されていたとすれば、まちがなく、ぶっちぎりのベスト1にノミネートされる一冊である。 

1)「知られざる中世の仙台地方」 1986/11 宝文堂

2)「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う! 1995/09 宝文堂

3)「3・11その日を忘れない。」 歴史上の大津波、未来への道しるべ 2011/6 鳥影社

4)「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!復刻版 2011/09 本田印刷出版部

5)「解き明かされる日本最古の歴史津波」 2013/03 鳥影社

と一連の著者の著書を読んでくると、内容には、大きくダブりがあるばかりか、同じ文章が校正されて再掲載されている部分もある。それもやむを得ない部分がある。1)は著者の前期的修作であろう。代表作と思われる2)以降、ほとんど「無視」されていた著者が、次回作として2010年末ごろまでにまとめ上げていたのが5)の原稿であった。ところが、2011年3月に大震災が起こり、緊急出版という形で5)の原稿の一部を含んで3)が、、と思える節があるからだ。

 震災を予言する形で4)が復刻版としてだされ、それから2年余りを経過してから5)が満を持して、ようやく発行された、という形になっている。ある意味、この「解き明かされる・・」は決定版と言える。

 しかし、在野の学者による研究ということであり、随所に非整合性が見られる。文脈、用語の統一、全体の配列。ことごとく、それぞれの専門家にかかれば、指摘されることも数々あるに違いない。

 しかるに、この本は、その非整合性がまた、大きな魅力となっている。体系化され、整合化され、正当化される中で、必ず落とされ削除されていく小さな分部がある。それを与えられ、読む側にしてみれば、極めて読みやすいのだが、それでは何か大事な部分を、完璧に読み落としてしまう。

 そもそもが、著者いうところの「歴史津波」は、言い伝えや伝説、神話の中の、読み落とされやすい部分の集大成であると言える。整合化、体系化、正当化されていくなかで、読み落とされてきた「バグ」を丁寧に拾いあげて、順列化し、再び編集しなおした。そこに現出したのは、大きなリアリティであり、それは見事に3・11という「証明」を得ることになってしまった。

 であるがゆえに、「バグ」の多いこの本に、私は大いに感謝したい。というのも、私は、この本の中の主旨に必ずしも沿ったかたちで「活用」しようと思ってはいないからだ。私の目下の関心は、西暦690年頃にあったとされる、著者が名付けるところの「仙台沿岸津波」の時代に、転生魂・多火手は、どう生きていたか、ということ。

 それには、郡山遺跡の情報と、熱日高彦神社、そして、アラハバキ、ヒタカミ、ホツマについての情報も必要になる。本書に紹介されている千葉富三氏の著書もおおいに参考になりそうだ。「日本の誕生 ホツマツタヱ-大和言葉で歌う建国叙事詩  甦る古代」(2009/07 文芸社)、「日本の真実 全訳秀真伝記紀対照-1300年の封印を解く 甦る古代」(2012/08 文芸社)など。

 660~690年 仙台沿岸津波 西暦724年多賀城国府建設。この国府建設の約50年前、名取、広瀬両河合流地点付近に国府と思われる仙台郡山官衙が造られた。しかし、大規模津波のため流出。ここで緊急の武隈館をつくる。p41「歴史津波時代の仙台平野の歴史津波」

 この仙台郡山官衙については、長島榮一「郡山遺跡 飛鳥時代の陸奥国府跡」(2009/02 同成社)の併読が必要である。さらには、2013年04月に仙台・地底の森ミュージアムで行われた「名取川と広瀬川ぞいの横穴墓」―黄泉国(よみのくに)からのメッセージで受けたインスピレーションが、重要となってくる。

 そして、その時代における、熱日高彦は、どうなっていただろう。

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 転生魂・多火手は、かの時代にあって、アラハバキ、ヒタカミ、ホツマと、 ヤマト、仏教、三論宗との対峙を目にしていたのではないだろうか。この本は、現生・多火手にとっても、極めて重要な情報の集まりである。特に、直径20~30mの円墳の集合体は、いずれ大きなキーワードとなるだろう。

<5>につづく

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2013/11/28

飯沼勇義「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」<6>

<5>からつづく

3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ
「3・11その日を忘れない。」 ―歴史上の大津波、未来への道しるべ <6>
飯沼 勇義 (著) 2011/6 鳥影社 単行本 208p

 今回の東日本大震災は、我々の生き方そのもの、世界観そのものを根本的に変えるほどの巨大な意味を担っている。もし、単に以前と同じような繁栄を復旧させることを目ざすのであれば、私たちはふたたびとんでもない間違いを犯すことになるだろう。

 何万もの尊い命と膨大な犠牲を本当に生かすものとするためにも、私たちは、ここで何が問われているのかを真摯な形で問い直すことが求められているだろう。p170「これからをどう生きるか、災害哲学の構築」

 「安心・安全」と符合したかのような形で、乱発される「復旧・復興」という掛け声だが、まさに、旧態依然の形の復旧・復興を夢見るのは、愚かな事である。実にそう思う。

 いま私たちに何よりも求められているのは繊細な感受性ではないだろうか。この母なる地球が傷ついていると感じられるかどうかは、繊細な感受性をもてるかどうかにかかわるだろう。そして現在の満足ではなく、時間の先を見据えた透明な意識と、自然や環境に対する深い配慮が必要なのである。わがままいっぱいの子供のような状態から、もっと思慮ある大人へと成熟すべき時期に差しかかっているのだと、この大震災を経験してみてつくづく思うのである。p160「これからをどう生きるか、災害哲学の構築」

 著者の「歴史津波研究」から「津波」を取ってしまえば、残るのは、アラバキ、ヒタカミ、ホツマ、ということになろう。それは、意味じくも、仏教でいうところの、仏法僧に対応しているだろう。アラバキ=仏、ヒタカミ=僧、ホツマ=法、と見ればわかりやすい。

 これをOshoのガッチャーミに対応させれば、アラバキ=目覚めたる人、ヒタカミ=目覚めたる人を囲むコミューン、ホツマ=永遠の真実、ということになるだろう。

 ところで、著者の「歴史津波研究」から「津波」を取り去ることなど、実に無謀な作業であろう。津波あっての歴史観であり、真実性なのである。その津波についてのデータは、言い伝えや神話、伝説によっているところが多い。

 つまり著者自身の「ホツマ」は、厳然とした津波という地球レベルの現象に対する人間社会「ヒタカミ」における伝承によっているところが多い。

 ここにおいて、そもそもの目覚めたる人は、ヒタカヒコとかヒタカミ何代として語られることが多いが、結局は、それは「他者」の伝説を掘り起こす、という作業になってしまうことになる。

 もし人工的な水分解反応を起こすことができれば、光と水だけで電気エネルギーに変換できるという。実用化できれば従来の太陽光発電などをはるかに上回るエネルギー量が期待できるだろう。これに高性能のリチウム電池を加えた自家用発電システムを各家庭が設置するようにしたらどうだろう。

 電力は巨大な発電所が大掛かりな送電システムを使って得るのではなく、各家庭が自分で使う電力を自分でまかなうようにすべきなのである。高度な形態の自給自足こそがいま求められている。電気も、野菜も、自分が消費する分はできるだけ自分で賄(まかな)えるようにできたら、自然に優しくしかも経済的な生活ができるだろう。p199「これからをどう生きるか、災害哲学の構築」

 我が家でも、念願であった太陽光パネルをようやくこの秋に設置できた。その成果については、今後、当ブログにおいてもレポートを続けたいと思っているが、現在のシステムはまだまだだと言える。これに著者も言うところの高性能リチウム電池と、そして我が家のベーシックなハイブリッド車がつながれば、かなり実現に近づいた、と感じることができるだろう。

 東北はまったく新たに再出発するだろう。他の日本の地域とは歴然とした違いを明確に打ち出し、自然と一体でありながら、同時にもっとも高度な技術文明を維持できる、その規範となるべき東北州が誕生するだろう。その精神を導くものは、おそらく東北の詩人、宮沢賢治の理想ではないだろうか。

 彼ほど東北の人々を、東北の自然を愛した者もいない。彼は原体剣舞連やネブタに先住の蝦夷の民の屈折しつつも爆発的な初源のエネルギーを見ている。東北の農民に世界に連なる高い意識を求めている。

 彼は一介の詩人ではなく、宇宙銀河を探索する天文家であり、自然と人間の共生を模索した科学者であり、農民のために土壌を研究し、たくさんの時間を農民のために割いた農業指導者でもあった。

 宮沢賢治を愛する人は多い。たくさんの人が彼の「春と修羅」や「銀河鉄道の夜」を読むだ。だが、いま私たちに求められているのは、私たちもまた、彼のようにつましく、真摯に、ひたむきに、大地に頭をたれ、天の川の輝きに目をやり、一輪の花に無限の世界を想い、一匹の鳥にも愛情を注ぐ、そういう生き方をするということではないだろうか。p200「これからをどう生きるか、災害哲学の構築」

 同感である。ただし、宮沢賢治を愛するあまり、彼を蝦夷の民と見てしまうことには賛成できない。

 賢治の両親は、ともに姓を宮沢という。父方も母方も宮沢家である。祖先をたどってゆくと、一人の人物にで行き当たる。つまり遠縁の一族なのだ。その人物とは誰か。江戸中期の天和・元禄年間に京都から花巻にくだってきたといわれる、公家侍の藤井将監(しょうげん)である。この子孫が花巻付近で商工の業に励んで、宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった。(中略)

 いずれにしても、賢治の祖先は、京都からの移民である。つまり、賢治の中に流れている地は蝦夷以来の、みちのくの土着ではない。天皇を頂点とするクニに反逆する血ではないのだ。畑山博・他「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」p106「生涯」 

 ことさらに、東北やエミシを鼓舞することに、私は賛成しない。私は東北に棲み、400年以上に渡って、その祖先を遡れる生粋の東北人であり、両親ともにアベの流れではあり、そのルーツを喜びはするものの、それをいたずらに誇ったり(あるいは卑下したり)、他を良くも悪くも差別する所業は愚かしいことだと思う。

 東北もまた未来都市であれば、世界もまた、すべて未来都市であるべきであり、地震あるなしに関わらず、四季折々の自然が豊かであろうがなかろうが、未来は、地球上、どこにも咲き乱れてしかるべきだと思う。

 逆説ではあるが、古代津波に基づいた飯沼史観から津波を取り去ってしまうことこそ、飯沼史観の真髄であると思う。アラハバキ、ヒタカミ、ホツマ、これらの標章の中にある、言葉にならない、言葉にしてはならない、真実を生きることこそ、飯沼史観を学ぶ者の、全き姿勢であると、私は信ずる。

<7>につづく

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2013/11/27

飯沼勇義「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」<5>

<4>からつづく

3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ
「3・11その日を忘れない。」 ―歴史上の大津波、未来への道しるべ <5>
飯沼 勇義 (著) 2011/6 鳥影社 単行本 208p

 今回、この本を再読してみようと思ったのは、日高見、ホツマ、荒脛巾(アラハバキ)について、もうすこし明確にしておこう、と思ったからである。これらについては、他の文献や作者たちの、別な見解もいくつか目を通している。断片的ではあっても、なにごとかの真実がかくされている。

 そして、今回は、この著者における見解を、一通りもう一度、理解しようとしたのだ。

 ここで「荒脛巾(あらはばき)の神」について簡単に説明しよう。津波から話がそれるようだが、決して無関係ではない。
 この神は日本人祖霊の最古の神で縄文時代から継承されてきた日本古来の源神だった。
 荒脛巾は二つの神が一対となって初めて機能してきた。「荒」は荒神と言って男神であり、光と熱を大地へと送り届ける太陽が男神である。これがのちの「荒神信仰」だった。もうひとつ、地上にもたらされた太陽の恵みを大地に受容し、あらゆる生きものたちを生み、繁殖させる女神、それが「荒脛巾信仰」である。
 熱日高彦神社は「伊具郡衙(ぐんが)」があったころの鎮守神といわれてきた神社であるが、もっと古い時代には「伊久国造」がここにあった。それは縄文時代にあった世界で最も古いという由緒ある社である(今後の調査が期待される)。
p42「予言された津波」 

 2012/10/28 『熱日高彦神社創祀壱千九百年記念大祭』はすでに当ブログでもレポート済みだし、後日、ふたたびゆっくりと静まりかえったその境内を散策してきた。なかなか心躍る部分であるが、「世界で最も古い」とまで言われると、あれあれそこまで言っていいんですか? と気恥しくさえなる。

 しかし、自らの現在の活動圏や、転生魂・多火手の顛末を考慮する時、この見解は、きわめて感動的なバイオリージョンではある。多火手においては、ここをムーの火の神とさえ見なすことも可能に思えてくる。

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   (熱日高彦神社のアラハバキの痕跡か・・・・・)

 我々の高見産霊(たかみむすび)の神話構造を分類すると以下のような表にまとめることができる。
 そこには荒神(こうじん)信仰と脛巾神(はばきがみ)信仰が存在し、荒神は男神、脛巾神は女神といわれてきた。
 この神話構造は、一見すると奇妙である。恵みの神が横に男神と女神に分かれ、世界の生成と誕生をつかさどている。また一方で恵みの神と荒ぶる神が縦に分かれ、創造と破壊をつかさどっている。
 これは例えば、ヒンドゥー教の「リグ・ヴェーダ」に現れるルドラ神のように、単数であり、時に複数である神が、その凶悪な側面と温和な側面を併せ持つということを意味するのだろう。有名なシバは温和な側面を持ち、ハラ神(破壊神)はその恐ろしい側面を持つのと同じ構造であるといえるかもしれない。
 高見産霊の九代「日高彦」は、恵みの神と荒ぶる神を一元化した信仰をもち、この神を祭祀してきた。この九代「日高彦」は、現在、阿武隈川中流に熱日高彦神社に祭られている
。p184「これからどう生きるか、災害の哲学の構築」

 ここまで輻輳してくると、なにがなにやら訳がわからなくなる。ともあれ、熱日高彦神社は重要なスポットであり、そこに九代「日高彦」が祭られている、ということを押さえておけばいいだろう。

 アラハバキとは原理的なものであり、その原理にもとづいて建造されたのが、日高見国、ということになろうか。

 「日本書記」に出てくる日高見国は、現在の石巻市桃生町太田地区の高台にあった。すぐそばを流れる日高見川は、現在の北上川のことである。この北上川から南東北地方を視界とし、さらにここより北東北地方の蝦夷地を展望できる日高見国であった。
 また、この北上川の中流域には水沢(現・奥州市)があって、ここにも日高見水神を祀る日高見神社がある。この日高見国から北方東北を望み、ここから内陸の南方東北の前沢、平泉、一関、古川地方の蝦夷地を望む格好の情報を得るところであった。この日高見国には、縄文の神を司る「高見産(たかみむすび)の日高見国」が、初代から十四代まで続いたと伝えられている。
p40「予言された津波」

 ヒタカミがキタカミに変遷したとすれば、現在の北上川周辺に、アラハバキ原理に基づいた「国家」が成立していた、と想像することは難くない。そして、その「伝えて」いるものが、ホツマツタエということになろうか。

 石巻桃生町にあった日高見国の九代目に当たる紀元前1197年に、角田市島田地区に熱日高彦神社が誕生している。この神社は男の神であり、「熱」は太陽を象徴とする荒脛巾(アラハバキ)といって日本古来の神、荒神信仰のことを司る神を言っており、「彦」はまさに男神のことをいっている。脛巾神とは女の神のことを言い、その神の日高見国とは北上川にあるとしている日高見神社である。p41「予言された津波」

 ぐるりと一巡してしまったが、どうも輻輳していてわかりにくい。熱日高彦神社自身は、2012年に「創祀壱千九百年記念大祭」を挙行したわけだが、実際には、これでもかなり古く語りすぎているのではないか、と語る氏子たちもいる。

 もし著者がいうとおりにこの神社が誕生したとしたら、1197+2012=3209となり、神社自身が自覚しているより3209-19000=1309となり、1309年も古いことになる。で、あったとしても、「世界で最も古いという由緒ある社」というのは、あまりにも持ちあげすぎではないか、と思われてくる。

 この辺が、科学と神話の葛藤するところであるが、転生魂・多火手からすると、ここにおける著者の一連の歴史観は、「神話」としてはこれでいい、ということになる。神話であれば、「今後の調査」は、むしろマイナスに働く可能性もでてくるであろう。

 「記紀」の基となったと言われる「秀真伝(ホツマツタエ)」には、この文明の始源の場たるトコヨが天上の理想郷であるとともに、具体的な地上の国土でもあるという記述もある。それは陸奥国、ヒタカミと呼ばれる地域であった。このヒタカミが日高見であるとすると、日本は東北の一角から始まったということになる。
 大自然の背後には、はっきりとは目に見えない威力が存在していると、縄文人たちは感じ取っていた。万物を生み育てると共にすべてのものを破壊する恐るべき大自然の力。そこに私たちは寄り添って生きていくしか許されていないと蝦夷たちは感じ取っていたのである。
p181「これからどう生きるか、災害の哲学の構築」

 アラハバキ、ヒタカミ、ホツマ。これらにまつわる話を聞くことは、きわめて心躍る。ましてや、誰もなし得なかった巨大な歴史津波を「予言」し得た著者の言説ならば、なにを置いてでも耳を傾けてみたい。

 しかしながら、震災直後数カ月を経ずして緊急発行されたこの本においては、これらの一貫した姿勢を見つけるのは、なかなか難しい。以前より、それらについての識見を持った読者であるならば、それらを基礎として、著者が言わんとするところを推測することは可能であろう。しかし、決して「科学」的ではない部分も多い。

 これらについては、本書でも予告されている次なる書物、「解き明かされる日本最古の歴史津波」(2013/03 鳥影社)に読み継いでいくことにしよう。

<6>につづく

 

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飯沼勇義「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」<4>

<3>からつづく

3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ
「3・11その日を忘れない。」 ―歴史上の大津波、未来への道しるべ <4>
飯沼 勇義 (著) 2011/6 鳥影社 単行本 208p

 この本を前回読んでから、すでに2年が経過しているのか。この本に先立ち震災16年前に発行された「仙台平野の歴史津波--巨大津波が仙台平野を襲う!」(飯沼勇 1995 宝文堂)や、その復刻本(2011/09 本田印刷出版部)が、あまりにインパクトが強かったために、震災直後に緊急発行された、こちらの本を後回しにしがちになる。

 そして、「解き明かされる日本最古の歴史津波」(2013/03 鳥影社)が今年になって発行されるに至って、もういちど、こちらの本を再読する必要を感じた。要所要所に、新たなる発見がある。

 大震災の起きる四カ月前にまとめた「解き明かされる古代歴史津波」の概略を御紹介したい。この書は本書と同じく鳥影社から近々刊行予定である。詳しくはそちらをご覧いただきたいと思う。p29「予言された津波」

 「解き明かされる日本最古の歴史津波」は、震災から二年が経過してから刊行されたが、実際には、震災四か月前にすでにまとめ終わっていたものである。当然、実際の大震災を受けて、大幅加筆されたことは予想しうる。

 それにつけても、これら3冊は、ひとまとまりの書物として、理解、解読されて行く必要があろう。そして、さらにはすでに貴重本になっている「知られざる中世の仙台地方」(1986/11 宝文堂)の併読も重要となろう。絶版だが、図書館には蔵書されている。

 一般に3・11と言われている大震災に対して、当ブログでは、天災、地災、人災、の三つにわけて考えてきた。本来の天災と思われる地震は、この地球上にあってパンゲア大陸上の変動してきたことを考えれば、当たり前の日常的な出来事である。

 そして、地災と考える津波は、生命が誕生して46億年の中で、数えきれないほど繰り返されてきた事象であり、地球自然の営みと生命の繋がりを深く考えさせてくれる。古代歴史津波などは、この地災に属するものと考える。

 そして、今回新たに大災害を起している原発事故は、純粋な人災である。人間が自らの欲望のために、自らの命を断とうとするシステムを作ってしまったのである。

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 あらためて、震災直後に読んだ本の中に見つけた、「予言本」三冊、黒本、赤本、黄本のトリニティを思い出す。この三冊の「予言」は見事に的中してしまっている。地球の当たり前の仕組みとしての大地震、それに伴う津波と地球上の生命の関わり、そしておごった人間の愚かな間違い「原発」。

 今回、この「3・11その日を忘れない」を再読して、さらにいくつかのポイントについて、考えた。一番の問題は、ホツマであり、日高見国の存在であり、アラハバキのことである。この本においては、いくつかの側面が紹介されているが、それぞれに断片的であり、時には矛盾する表現も現れている。この本は、今後、著者の著作シリーズや関連本を頼りに、終生していく必要を感じる。

 この部分に今回あらたにこだわるのは、転生魂・多火手のストーリーに関わるからである。

<5>につづく

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2013/11/25

石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<10>

<9>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<10>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
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 彼の一周忌も過ぎ、この間、四つの彼に対する追悼公演を観劇し、私なりのニュートン観、演劇観が、少しづつ変動しつつある。

 一番の変動は、台本を読んだ時に、その字面だけをおっかけていた私が、いつの間にか、芝居を想定し、その舞台の、あの役者なら、こういう振付で、こういう声色で、こんな衣装で、と、イメージが広がってきたことだ。

 最初、台本だけ読んでいた時は、なんとも皮相なダジャレが飛び出したり、あまり高尚とは言えない屁理屈がまかり通ったりして、どうも、言葉そのものと格闘していたようである。ところが、このところ、何本か芝居を見続けてみると、いやいや、むしろ舞台での台詞というのは、この程度でいいのだ。難しいことを語ったって、どうなるものでもない、ということが少しづつわかってきた。

 そういう観点から、いま一度、ニュートンが書き残した「時の葦舟」を最初から通読してみた。未来、過去、現在、の三つの時代を書き分けた、筆者「畢竟の三部作」である。

 畢竟(ひっきょう)とは、[名](梵)atyantaの訳。「畢」も「竟」も終わる意》仏語。究極、至極、最終などの意。(goo辞書)とある。つまりは、石川裕人とは、こういう人だったのだと、ニュートン本人は、そう思ってほしいわけだ。その真髄が、この三部作、ということになる。

 もっとも、劇作家なのだから、台本を持って最終作品なのではなく、その作品が上演されて、おなじ空間を共有できればこそ、の畢竟の作品ということなろう。

 私は、かつて、この三部作を観て、その空間を、一観客として「共有」していたはずなのだが、その作品が、友人の畢竟という風には観ていなかった。逆に、この作品が上演された1991~1994年は、私にとっては、逆の意味でのどん底の時代でもある。

 あの時代に、彼は自らの「アングラ・サーカス」と名付けた演劇空間を「完成」させていたのだ。そう読み進めることにする。

 宮澤賢治や南方熊楠が、常連のようにでてくる。重要なキャラクターだ。当時の思想界の潮流とは言え、数あるアイコンの中から、この二つに絞り込んでいた、ということは注目しておくべきだろう。

 巻末には、トールキン「指輪物語」、賢治「無声慟哭」、四方田犬彦「GS」Vol.3巻頭言、デヴィッド・ビート「シンクロニシティ」が上げられている。これらのある部分は、いちどパラパラと追読したが、また、副読する必要があろう。

 巻頭言のノーバート・ウィナーについても同じこと。なにせ、ニュートンが最期に残した「畢竟」の言葉集である。これを理解せずして、ニュートンを理解したことにはならないだろう。

 この三部作は私の畢竟の戯曲だと自負できる、1991年から1994年まで書き継ぎ、上演してきた戯曲を再読したが、古びたところが無かった。p260「あとがき」

 とまで語っている。本当だろうか。

 時をテーマにした戯曲だからだろうか?時を旅する異能の家族の物語は戯曲の中で永遠性を勝ち取ったようだ。p260「同」

 とさえ、語っている。自画自賛とはこのことだ。ニュートンと対峙するには、このポイントをおいて他にない。

 未来編、過去編、現在編。この三部作の中で、未来編はまぁともかく、過去編は、数千年前という設定にしては、すこし甘いのではないだろうか。もっとプリミティブで、素朴な感じが私は欲しかった。未来編も、かなり悲劇的な風景で、SFによくありそうなテーマであると思えた。

 現代編は、まぁ、一番リアリティがあって、共感できる部分であったが、1994年当時、観劇した一観客の私としては、やはり、まだ「軽い」と感じられた。的外れなケチをつけているような気もするが、ひょっとすると、あれから20年が経過して、役者ひとりひとりの読み込みが進み、円熟した2013年現在の役者陣なら、もっと深みのある「意味合い」を演じるかも知れない。

 なにはともあれ、親友のひとりであるニュートンが、最後に残したのはこの本なのだから、ここを手掛かりに、一生、彼の姿を追いかけていく以外にない。

<11>につづく

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2013/11/24

東北楽天ゴールデンイーグルス優勝パレードの様子

ははは、なにはともあれ、晴れてよかった。

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <39>冬タイヤ 履き替え時や 今日の空

<38>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<39> 冬タイヤ 履き替え時や 今日の空

 秋深く 裏の山にも 花が咲く

 歌心もなく、俳句なんぞ、まったくの門外漢なれど、失礼ながら、上手な俳句とは思われない。秋深く 裏の山にも 花が咲く。なんじゃいこれ、小学生の低学年でもつくれそうな俳句だな。秋深く、って、秋が深いことを、他の言葉で表現できないのかな。なんて、酷評してみる。

 裏の山って、これも、またなんだか幼稚な表現だなぁ。住んでいるところの裏なんだろうか。田舎の方かな。花が咲くって、何の花が咲いてんじゃ。花が咲くのは春だろう。秋の山に行って、紅葉を見ないで、花が咲く、ってのはこれいかに。

 これがまた、皮肉で名を売る中年のコピーライターの作となれば、どうにか、もっとならなかったのかな、と、溜め息をつく。

 溜め息をつきながら、ふと考えた。ちょっと待てよ。俳句って、自然の中の時間と空間を切り取りながら、そこに自分の人生をダブらせる芸術ではなかっただろうか。とすると、この作品は、作者が人生上の何事かをうたっているのかも知れないぞ。

 秋深く・・・・。人生の中の秋とはいつだろう。春は遠くなり、夏も過ぎ去り、秋が来た。そして、その秋さえも深まっている。彼は確か50代の半ば。なるほど、彼の人生も深まってきた、とは言える。この句を、小学生が歌うのとは意味が違ってくる。

 還暦直前の私なぞは、もうすでに秋も終わって、冬に入ろうとしているのだ。でもなぁ、自分の人生を冬と表現するには、まだ未練がある。

 裏の山にも・・・・。彼は、もとは田舎びとなれど、どこかハイカラ志向があり、いままでは、都びとのひとりたらんとしていた風情もある。3・11以降は、都おちして、田舎で暮らしているから、裏の山、と来たのかもしれん。すくなくとも、今の自分を、都に棲んでいるとは考えてはいなさそうだ。

 花が咲く・・・・。花が咲いているのか。この句は、写真のオプションでつけられたものだ。なんのことはない。紅葉の画像じゃないか。この風景を、花、と読むのは、ちょっと無理がある。

 いやいや、彼は、紅葉した枯れ葉たちを、花と、詠んでいるのだろう。なるほどね。だけど、これじゃぁ、写真の力を借りないと、一句が成り立たないことになりはすまいか。いろいろ、こころは動く。

 よくよく見ると、この画像、私が知っているところかも。たしかに彼の住まいの、裏手の谷川に向かうあたりの風景かもな。あそこは、秋に限らず、ほっとするというか、ぎょっとするほど、急に風景の雰囲気が変わるところだ。

 私も一句考えた。

 彼が自分を、秋深く、と表現するなら、私なんぞは、もう冬の入り口だ。まさに、この季節のようなものだ。だが冬そのものとも言い難い。木枯らしに残せて、たしかに風花みたいなのは飛んだが、本格的な冬はまだやってこない。

 冬は必ず来る。冬支度をしなければならない。となれば、一番思いつくのはタイヤの交換だ。いつ降ってくるかわからない初雪のために、早め早めに交換しておくのが、東北のドライバーの常識である。

 本当は、今日、交換しようと思っていたのだが、まだまだ、今日の空模様では、雪になりそうにない。もうすこし今のままでいようか。この心境って、私の人生の現在そのものかもしれない。

 本当に還暦を通り越したら、自分の冬を認めよう。それまでは、まだ秋だ。秋のままでいたい。冬になったら、自分のブログを、「バベ翁の独白」とでも改題して、静かに余生を送ろうではないか。

 冬タイヤ 履き替え時や 今日の空

 履き替え時ぞ とは言いたくない。まだでしょう。だけど、履き替えどきは、「今でしょう!」とまでは言えないが、すぐにもやってきそうだ。やはり履き替え時は気になる。

 今日の空は、薄明るくも、力があって、まだまだこれから明るくもなりそうだ。いつまで持つかしらんが・・・。空、ってのがいいね。空を、東の空にかけて考えることもできるし、自らの心の澄み具合にも、読むことができる。

 冬タイヤ 履き替え時や 今日の空       ばべし

<40>につづく

 

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2013/11/23

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <38>雑感

<37>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<38> 雑感

 「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」「わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ」「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」。今日、なにごとかの日記をつけるとするなら、これら三つの現在進行形のテーマの中から、どれを選ぶだろう。

 実は、これら三つのテーマは同じことなのだ。三位一体として渾然とした固まりとなっている。どのテーマに書き継いでも、おんなじことになる。

 「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」のテーマでいってみようか。まず、古いパソコンやフロッピーを処分したことについて。近所の、私以上にパソコンオタクである近所のO君が言うには、パソコンは、どんなに古くても捨ててはいけない。使えなくても、あの固まりであることが貴重なのだと。

 だが、私は捨てた。バラバラにして、ゴミ箱に捨てた。半分はまだ残っている。わざと雨ざらしにしている。もう、すでに使い物にはならない。もちろんだ。だが、どこかに、罪悪感があることは確か。完全に捨てきるまでには時間が必要だ。しかしO君ではない私は、古いパソコンは捨てることにした。

 「わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ」で行ってみようか。今日、断熱剤を本格的に貼り始めた。なかなかいいね。いままで、貼り付ける位置に寄せかけておいて、どう張り付ければいいか、ずっと見ていたが、今日、体が動き出した。

 今は、天井の暗がりの単なる空間。でも、いつか、孫たちが高校生くらいになったら(もう、その頃は、私はこの世にいないかもしれない)、そのうちの一人ぐらいは、この空間を自分の部屋として使いたい、というくらい、その位のクオリティで作れたらいいな、と思う。

 「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」。あまりにバトルが長く続くので、それぞれの親が、まったく同じおもちゃをひとりひとりに買ってくれた。これならもうバトルは少なくなるだろう。そういう親たちの配慮である。

 それでも、どうかすると、どちらかの孫は、結局、この二つを独占しようとする。なかよくそれぞれに遊ぶんだよ、と言いくるめられても、結局は、人間は人間である。バトルはバトルで、結局、面白いんだよな。バトル賛成。バトル万歳。

 と、この三つが、今日の素朴な実感。

 古いパソコンはもうなくてもいい。私は実直なパソコンオタクではない。アルビン・トフラーの「第三の波」以来、ずっとパソコンを使った仕事で生きていたら、それでいいと思っていた。まがりなりにも、パソコンなくしてはできない仕事に就いてはいるし、ささやかなSOHO生活を満喫している。

 でも、私はパソコンを使った仕事をしているが、マックを使った仕事をしていない。もしマック派だったら、マックを使うような仕事をしたい、と思うだろう。幸か不幸か、私の選んだ業種では、マックは完全に排除されてきた。

 ここに来て、ようやくiPadでも仕事ができるようになった。私は意識的にマック派に転向してみようかと思う。ここがポイントだ。だから、私は、私の古いウィンドウズパソコンを、意識的に捨ててみようと思う。

 リナックスという選択肢もあるのだが、今は、問わない。すくなくとも、古いウィンドウズパソコンでは、最新のリナックスは動かないし、動かす意味がない。

 さて、天井ロフトアトリエのビジョンもいまいち一進一退だが、夢は広がる。なけなしの予算から、資材を買い集めては、夢を追う。

 広大な土地に広がるコミューン活動に比較したら、あんまりにも小さい夢だが、プラモデル作りのようなミニチュア世界に比べたら、原寸大の実用世界である。笑わば笑え。ここには、広大な夢が広がっている。

 はてさて、子どもとは言え、2歳や3歳とは言え、人間である。一個の人格が備わっている。表現に幼さがあろうと、未熟さ、弱さ、欠陥があろうと、人間は人間である。ひとつの生命体である。これらに私は道を譲ろうと思う。

 俺はお前たちが大好きだ。お前たちにはお前たちの道がある。人生がある。命がある。未来がある。それを生きていけ。

 まちがったっていい。まちがいだらけでいい。まちがいのままだって、構いやしない。そのままで、生きていけ。

 本当のところ、まちがいなんてないんだよ。生きていることの中に間違いなんてない。だって、生きているんだもの。生きているって、ことが正解なんだ。

<39>につづく

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2013/11/22

映画『スティーブ・ジョブズ』<1>


映画『スティーブ・ジョブズ』 <1>
2013/11
Total No.3122

 今日が最終日だ。毎日、孫と遊んでばかりもいられない。さっそくバイパス近くの郊外ムービー館に飛び込んだ。やっぱり映画館でみる映画はいいね。集中できるし、音響が素晴らしい。それにしても、客の入りはいまいちだった。

 ジョブズ関連の出版されている本は大体読んだので、永年アンチ・マック派だった私にも、極めて分かりやすい、最高に面白い映画だった。

 最初、かなり克明に青年時代やら、アップルⅡまでのプロセスをストーリー化しているので、2時間という上映時間に全部今日までの経緯を追いかけるのかな、と思ったが、やはり、iMacやiPadまでの時代で、あとは、最近の大きくなったアップルの会社を紹介して終わりになった。 

 わたし的には、これで大いに満足だ。あれだけの大きな人のうねりを作った人物だし、時代も40年という永きに渡る。それぞれの立場によって、それぞれの感想を持つことは当然だろう。特にアップルという会社の成り立ちについて関心ある人にはよくわからない部分もあるし、ごく最近の動きを知りたい人には不満だろう。

 でも、私は、こういう人物が、同時代的に生きていたのだ、ということを再確認できて、超ハッピーだった。カウンターカルチャーの流れにいたり、インドを旅したり、私のほうが若干年上ではあるが、同時代的で、ホントに共感して見ることができた。

 嫌な奴、という印象をジョブズは多くの人に持たれている。私も伝聞しか知らなかったが、まぁ「嫌な奴」というハードル越しに、ずっと彼を見てきたことは確かだ。この映画を見て、嫌な奴、と思った人もいたかもしれない。

 しかし、私は、この程度の「嫌な奴」なら、周囲にはいっぱいいたな、と思う。いやいや、私だって、誰かさんにとっては、嫌な奴だったかも知れないのだ。

 創業仲間をクリエイティブじゃないから、と首にしたり、妊娠したガールフレンドを、冷酷に放りだしたり、色々伝聞ではねじ曲がっているかもしれないし、また、これでさえ、少しオブラートをかけてあるかもしれない。だけど、こんくらいのことは、常にあったぜ。

 それを乗り越えての、スティーブ・ジョブズの56年7ヵ月の人生は、素晴らしいものだったと思う。かつてはジョブズの憧れだったゲーリー・スナイダーも、ジョブズを絶賛している。

 昨年逝去したスティーブ・ジョブズについては(スナイダーは)次のように語っている。

 「彼は生きていたら、コンピュータやiPadを超えて、発明しつづけていたと思います。たぶん、彼は多くの愚かな問題から世界を救うための道を見つけ出し、われわれみんなを掬ってくれたかもしれません。

 彼の偉大な才能は、ただ世界最良のコンピュータを製造することだけに使われたのです。われわれはそのような人々をもっと必要としているのです」

 このコメントには、カウンターカルチャーの中心人物として60年を経て、自らの文化的業績を見届けてきた自信が感じられる。 「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」「現代詩手帖」 2012年7月号特集p46 高橋綾子「カウンターカルチャーはどこにでもある」

 収束過程にある当ブログでは、科学、芸術、宗教、の三つのアイコンを、三人の人物に集約しようとしている。ひとりOSHOは最初から決まっていたが、芸術分野では我が竹馬の友・石川裕人が急上昇している。そして、今回、この映画を見て、当ブログにおける科学の分野のアイコンは、愛すべきスティーブ・ジョブズにしようと思い始めた。

 思えば、この三人、必ずしも、これら三つの分野のどれかに大きく偏っていたわけではない。それぞれに三つの要素を持っていた。そして、幾分かづつその配合は違った。そして、共通していることに、彼らは60歳前に亡くなった。OSHO58歳1ヵ月、石川裕人59歳1ヵ月、そしてジョブズ56歳と7ヵ月。彼らより、私のほうが長生きしてしまっている。

 1995年には、三つの出来ごとがあった。阪神淡路大震災とオウム真理教事件と、そしてウィンドウズ95の発売だった。それから16年経過した2011年にも三つの出来ごとがあった。東日本大震災と、フクシマ原発事故と、スティーブ・ジョブズの死亡、である。私には、この二つの年代が、妙に対応しているように感じられる。

 なにはともあれ、この映画を見て、あらためて、スティーブ・ジョブズと、その時代性や、ネット社会の在り方について、もう一度ゆっくり捉え直してみようと思った。

<2>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <37>福禄寿

<36>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<37> 福禄寿

Fukurokuju_3 

 福禄寿(ふくろくじゅ)は、七福神の一つ。道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。 福禄人(ふくろくじん)とも言われる。wikipediaより

 日々、まもなく2歳になる男の子と、まもなく3歳になる男の子の、稚戯あふれる遊びのパワーに振り回されて、自分の仕事などそこそこになってしまっている生活を、これもまた福のひとつ、と考えることもできなくもないだろう。

 ましてや、あとひとりふたり、新しい孫たちの誕生の予感があれば、それを福禄寿のひとつと勘定しても悪くはあるまい。友人たちの中にも、そう言ってくれる人もある。

 毎月毎月、月末になれば、帳尻合わせに四苦八苦するとは言え、老齢を控え、次から次と退職し始めている同輩たちの中にあって、すぐに退職を迫られているわけでもない仕事が与えられている。

 来月も再来月も、あるいは来年も再来年も、たいして大きくは変わらないだろう生活を維持する程度の収入が見込めるのであれば、これをまた福禄寿の禄と考えても悪くあるまい。

 毎年の健康診断ではいつもイエローカードだ。いつ、どこから破綻し始めるかわかったものではない。それでも要観察という診断なれど、治療の範囲ではない、という程度の健康の維持がされているならば、これもまた、福禄寿の寿と、良い方に捉えておこう。

 私たちの年代は今年が還暦である。すでに同級会では赤いモノを首に巻いて、神社でお祓いもしてもらった。同級生では一番誕生日が遅い私も、歳が明ければ、名実ともに還暦となる。

 自分ではまだまだ若い、と思う。人からも、お世辞半分で、還暦には見えない、などと冗談を言われる。それらもすべて良い方に受け止めておく。

 だが、日々、体の力は衰え、思考力も、交際力も、どんどん衰退していくことを感じる。還暦である。十二支が五回、つまり木火土金水で、ひとめぐりしたのだ。命は、生まれ変わって新しくなる必要がある。老いたるものは去っていくのだ。

 といいつつ、去るにも、まだまだ時間がありそうだ。気の早い友人連中は、気軽にどんどん、あの世へとやら旅立ち始めている。おいおい、お前も早く来いよ、と言われてはいるのだが、まだまだ、命の脈がある限り、なんとかこの世に二本の足で立っていたいとは思う。

 福禄寿になぞらえてみたが、まぁ、その入り口に立てそうかな、という予感に留まっている。平均寿命だって、80歳を超えている時代である。あと2~30年は、なんとか初老、老年、高齢者、後期高齢者の時代を乗り越えていく必要がある。

 福だって、録だって、おいおいそんなものかよ、と笑われてしまうそうだが、まぁ、いいじゃないか。

 今日も孫たちと遊んで、一日が暮れる。

<38>につづく

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2013/11/19

「2013年上半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10」に代えて

2013年上半期よりつづく

「2013年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10」に代えて

 当ブログでは、例年、一年を夏至と冬至の時期に二分し、その間に読んだ新刊本をランク付けしている。新刊本だけが面白いわけではなく、その間の重要な本は他にあったりするのだが、このようなランクごっこでもしないと、意識的に新刊本を読むきっかけがないので、敢えて、そのようなランクを作ってきたのだ。

 そして、今年も、下半期のランク付けをしようと思い、ピックアップ作業をし始めたところ、今年の冬至まであとひと月なのに、この間に読んだ新刊本はわずかに5冊。そして、そのうちの2冊は復刻本や編集本であり、他の1冊は雑誌だった。

 残る2冊も、本当に新刊本といえるかどうかは微妙である。2冊とも、それぞれの作家のシリーズの中の1冊であり、旧本の内容を踏襲している本なので、純粋に新刊本とは言い難いのだ。

 この5冊の他に、カンニング的に、演劇やテレビ番組、美術館のイベントを入れて、ようやく、次点を含めた11作品を挙げることができるかな、というところである。最近は、このようなカンニングをよくやるようになった。それにしても、なんと、貧弱な状態であろうか。

 かつてなら、この残りの一か月で、盛んに新刊本を読み漁ってリスト作りをするのであるが、現在、そのような気力はない。今年後半分のリスト作りは、諦めた。

 ピックアップした、11項目を列記すると

「対決!恐竜展 ティラノサウルスとトリケラトプス」震災復興・国立科学博物館コラボミュージアムin会津若松

「恐竜せんせい」 NHK福井放送局開局80周年記念ドラマ  マイコ×高橋光臣

「鳥類学者 無謀にも恐竜を語る」 川上和人

「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義

「方丈の海」石川裕人作・演出2013追悼公演編

「流星」 追悼 石川裕人原作 石川裕人、演出 小畑次郎 他力舎 特別公演

「鳴子温泉郷物語」タルタロスの足湯 SENDAI座☆プロジェクト2013

「いい文章には型がある」 吉岡 友治

「Joy 喜び」 OSHO 山川紘矢& 山川亜希子(翻訳)  角川書店刊<1>

「究極の旅」  OSHO 禅の十牛図を語る

「Pen (ペン)」 わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ

となる。

 これらをランク付けすること自体、あまり意味はなく、また同列に語ることも、そうとうに無理がある。

 これらを眺めていて、気づくことは、おおよそ、三つのテーマに分けることができるということ。ひとつは「恐竜」であり、二つ目は「芝居(演劇)」であり、三つ目は「OSHO」だ。

 今期の、目立ったテーマは「恐竜」だったわけだが、これを「科学」ジャンルに対応させるとすると、当ブログの科学ジャンルとして以前からの定番だったネット関連が大きく姿を消した形になった。

 飯沼勇義の新刊も、敢えて、今回は、恐竜本に加えてしまった。いや、恐竜本を飯沼勇義の流れで読みなおす、と言ってもいいかもしれない。

 二つ目の芸術としての「演劇」は、当ブログの得意分野ではないのだが、避けては通れない所に、この演劇って奴が突出してきたような形になっている。友人の友人という二次のつながりだった吉岡友治も、元は演劇人であってみれば、演劇分野に入れることができるだろう。

 OSHOの「神秘」は、当ブログの定番であり、ある意味では、陳腐化している。いくら新刊本とは言え、OSHOを敢えて、何か目新しいものとしては捉えることはできない。 

 「『Pen (ペン)』 わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ」も、「プレムバベシュの孫たちとの対話」や、「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」などとのからまりで読み進めるとすると、ここでは敢えて、OSHO本ジャンルのひとつとしてしまいたい。

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 なんだか、敢えて敢えて敢えてが重なってしまったが、まずはそんな状態だ。

 このまま「ESJ47」カテゴリが進んでいくとするなら、このカテゴリの再読したいこのカテゴリこの3冊は、「方丈の海」「流星」「鳴子温泉郷物語」とあいなるだろう。これでは「3冊」とはいわず、三本のお芝居、ということになる。 

 最初、当ブログは単なる実験的ブログでスタートし、途中から意識して「読書ブログ」と銘打ってきたが、もう、ここいらで、完全に破たんしているかのようである。

 さてさて、このブログにまつわる個人的な作業の目的は、「読書ブログ」を続けていくことではなく、あくまで個的な心象をつづっておくことの方に主なる目的があるとすれば、それはそれでいいことになる。敢えて(また出た)ひとつの形態を保ち続けることに意味はない。崩れていくことは、それはそれで自然なことだろう。

 この辺で、この企画シリーズを <完>とする。ご協力いただいた皆様に感謝します。

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「究極の旅」  OSHO 禅の十牛図を語る <4>

<3>からつづく

究極の旅: OSHO 禅の十牛図を語る <4>
OSHO (著), スワミ・プレム・プラブッダ (翻訳)  2013/10/11 出版社: いまここ塾 河出書房新社 単行本(ソフトカバー): 484ページ ()
Total No.3121

Kyuu

 書店の店頭に、新刊本として、OSHOの「究極の旅」が平積みされているとすれば、これはこれで、めでたいことである。となりの「JOY」と並んでいれば、これはこれで、すばらしいと思う。

 OSHO本としては日本語二冊目に当たる。初版は1978年のことだった。私はインドで読んだ。あれから35年。いまや、OSHOの「リバイバル」なんて言われている。ずっと読んできた身にとっては、不思議な表現だが、世代もひとつふたつ経過したことを考えると、今、あらためてOSHOに触れる若い世代にとっても、すばらしいことであろう。

 今回、この本はめるくまーる社からではなく、河出書房新社から出る。これはこれでめでたい。出版社: いまここ塾、の文字も見える。発行者として阿部敏郎の名前も見える。「随(かんながら)神―意識の扉を開く鍵―」の著者であり、今売り出し中の方かとお見受けする。これはこれで、めでたい、ことであろう。

 この「本」については、あらためて書く事は、当ブログとしてはない。もはや、これは「本」ではないので、「読書」という範疇から、大きく外れる。なんと言っていいのかな。

 思いはいっぱいありすぎる。なにはともあれ、今期、当ブログでは新刊本をほとんど読んでいないので、新刊本ベスト10を作ることができない。この「究極の旅」を入れれば、なんとか10冊に到達するかも・・・・。

<5>につづく

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2013/11/18

わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ 「Pen (ペン)」 <4>

<3>からつづく

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Pen (ペン) わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ <4>
2013年 11/15号 阪急コミュニケーションズ[雑誌]

 エーと、こちらはどこまで書いていただろうか。進捗速度がその時々でまちまちなので、忘れてしまう。たまにはメモしておかなくてはならない。

 ちょっと中だるみ的になるのは、流行り風邪をひいているからである。体調がいまいちだ。急ぐこともない、日程なしの、のこぎりと電気ドリルの日々が、ほのかに、人知れず、続いてはいる。

 風邪をひいたのは、確かに温暖の差が激しい季節の変わり目のせいではあるが、基本的には、天井裏にいると、寒い。自然循環になるように、換気口がついているために、常時外気がはいる。これが、夏にはヒートハウス現象をおこすのであるが、秋から冬となれば、隙間風となり、体を芯から冷やす

 そもそも天井裏にスペースを確保することなど、最初はまったく考えていなかった。ただ、一軒の家としては、これだけの余裕が必要であるだろう、と、ちょっとした大きな心で眺めていた。

 しかしながら、次から次と侵略者(かわいい孫たちであるが)たちにわがスペースを奪われてみると、納戸や、ガレージやら、自転車止めやら、次々と活用できるものは活用しなくてはならなくなる。すでに開発すべきは開発済みで、いまや、残された新天地は、天井裏のみとなってしまったのである。

 かつては、たんに、最終処分場としての天井裏があったのだが、ここは活用せざるを得ない「遊休地」と見なされ始まった。無駄に遊ばしておくわけにはいかない。活かさなければならないのだ。

 天井裏に床を貼るという作業は、矛盾している。天井は、下向きに作られているので、基準線が下側にある。ところが、その上に床をはるとなると、実に基準線がまちまちで、一様な平面を作ることがなかなか難しい。これが、最近の発見である。

 かつては、たんにモノあげのために貼りつけた板も、強度や高さ、他の可動部分との接触関係などで、もう一度貼り直さなければならないところも多い。いや、別にそれはそれ、ひとつひとつ楽しい発見ではあるのだ。

 その床もとりあえずなんとか、この程度だろう、というところまで貼ってみると、次に気になるのは、本当に屋根の裏側の部分。ここには、的を外れた釘などが、無造作に突出している。普通なら家主が見るような場所ではない。大工がいちいち処理してくれたりしてくれていない。

 ここに今回は、断熱材を貼り渡す予定。これが簡単に、しかも安価で手には入るのだが、効果的な貼り方とか、材質の良しあしなどもあるらしい。ひとつひとつを、ネットで検索したりしながら、しかも、頭を何回も柱にぶつけながら、考えているところ。

 天井裏を縦横に走っている斜め板も気になる。本来倒壊防止のために重要な働きをしている斜め板だが、招かれざる開拓者(それは、れっきとした侵入者だろう)には、邪魔でしょうがない。

 大事なものだから、そのままの機能を保ちたいが、せっかくの僅かな空間を活用するには、それらをいちいち切り捨てていく必要がある。そして、事前にその斜め板の働き具合を補強するために、ホームセンターからL字金具類を大量に買ってきて、ひたすら、柱の接合部分に貼りつけてみる。

 シロートの計算上は、これで充分強度は取れているはずで、斜め板を切り取っても大丈夫、とは思うのだが、本当だろうか、という疑問もないわけではない。本当に小さな空間を作ったつもりで、今後なにかの拍子に、屋根がつぶれたりはしないかと、本当は、ひやひやしながらの作業の連続なのである。

 まぁ、ここまでは何とかやってきた。あとは明りである。本来であれば、天窓でもつけてもらえばそれで済むことではあるが、できれば、密かにどこまでも、シロート大工作業で完了したい。となると、ひと工夫が必要である。

 天井窓ではなく、床窓はどうであろうか。階下からは、しっかり光が漏れてくる。この光を利用して、光る床はどうであろうか。軒下の空気穴も、活用の仕方によっては、床窓の明り取りになる。下手な天井窓より、結構、幻想的でユニークな空間づくりを手伝ってくれるかも・・・・、なんて期待している今が花なのかもしれない。

 ああ、それにしても、真夏には、サウナ風呂よりひどい体力消耗な空間にして、冬が近づけば、体が隅々まで冷えて、風邪ひきさんこんにちは、の天井裏の作業は、キビシーのひとことである。

 そろそろ、来春までお休みにするかな・・・。

<5>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <36>

<35>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<36> バトル

 狭いながらも楽しい我が家。それもまぁ、老妻と二人ならなんとか満足できる言葉である。子育て中であっても、次第に子供達が外にでていけば、それはそれなりに安住の地であった。

 しかしながら、この空間に、私と老妻、さらに孫が二人と、それに付随する家族がどーんと増えれば、さすがに、「我が家は狭い」と痛感せざるを得ない。週末ともなると、さらに近所の友人やら、遠くの親戚やらが来客するので、まぁ、我が家は、右へ左への、てんやわんやが続いている、ということになる。

 私自身は、もともと常時10数人の大家族の中で育ったので、家族が多いのは苦にならない。長じて、共同生活体やらコミューン活動に身をやつしたのだから、これはこれで、ある意味、理想形なのである。

 みんな楽しく笑いながらの共同生活なら、これはこれでユートピアなのであるが、そういう状態ばかりが永く続くとは限らない。時には、大家族ゆえの軋轢が生まれる。

 その最たるものが、子ども同士の、おもちゃの取り合いである。本当はまだ1歳10ヵ月だが、自称2歳の孫と、まもなく3歳の誕生月を迎える孫の、男同士の戦いは熾烈である。日々毎日行なわれる。

 その対象は、アンパンマン・グッツはすでに通り過ぎ、機関車トーマスもほぼ卒業し、今夢中なのは、トミカのプラレールである。ほう、いまどき、こういうおもちゃが主流なのか、と、ゆっくり眺めている暇さえなく、次から次と、子どもたちは、これらのミニカーやら、新幹線やらを取り合う。

 名前をいろいろ覚えていて、「ハヤブサとコマチの連結!」、などと、叫んでいる。こちとら乗り鉄でも撮り鉄でもないので、列車の名前など、ちんぷんかんぷんだが、2~3歳児の頭脳には、すぐ刷り込まれてしまうようだ。あれやこれやを、よく覚えているものだ。

 彼らには彼らのやり方があり、しかもそれぞれの理想形がある。そして、使ってもいないおもちゃを、他の子どもに触れられるのがイヤなようだ。だから、同じ部屋で、同じおもちゃで遊んでいると、常にバトルが始まる。

 キッズルームにいて(というか、我が家全体がすでにキッズルーム化しているが)、観察していると、まぁ、どちらが悪いとか良いとかいうこともなく、お互いにの主張にはそれなりの根拠はある。けんか両成敗といきたいところだが、ある程度までは、自治に任せている。これらのバトルの中で、学んでいくことも、彼らには大切であろう。

 てなわけで、爺さんは、自らの空間を明け渡し、退却しつつ、自らの新境地を開拓しようとしているわけである。

<37>につづく

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気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ<4> リズ・ダベンポ-ト

<3>よりつづく


「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」 <4>
リズ・ダベンポ-ト/平石律子 2002/09 草思社 単行本 222p

 今やこの本が頭の中でぐるぐる回っている。この本とともにあるのは、「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」「わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ」。この三つのトリニティがぐるぐると回り続けている。

 孫→かたづけ→自分のスペースの確保。侵略者と非侵略者、天津神と国津神、移住民と先住民の戦いにも似て、ひたすら気立てのやさしい先住民族は、すたこらさっさと、辺境最深部に向かって退却するのである。

 それにしても、退却するにも程がある。すでにいらなくなったゴミの山の処分にはほとほと手を焼く。もともと、処分するのに困っていたから、ゴミの山になっていたのだろうが、それにしても、溜めに溜めたものである。

 フロッピーディスクは、フォーマットできるものを百枚ほど残し、あとは物理的に破壊して、捨てることにした。これがまた大変な作業であった。一枚一枚の点検と、そしてデータの消去。業務上、データ漏えいは御法度である。

 フロッピーの物理的破壊を何百枚も繰り返しているうちに、その手順を覚えてしまい、効率的な方法を編み出してしまったのは、ちょっと悲しい成果である。フロッピーはすでに先代の技術ではあるが、わが業界ではまだ生き残っている。これはファックスと同じだ。

 マイクロカセットテープは、数が少ないが、これもまた、なかなか捨てられない。消去して、テープだけ残そうかなと思うが、実際に、これからこのマイクロカセットが役立つ時がくるだろうか、なんて考えているうちに、処分するのは、ちょっと待とう、てなことになる。

 ミュージックカセットテープは段ボール箱に満載となって、何箱も積み重なっている。ああ、これは駄目だ。後回し。思いっきり思いつめて始めてみるのだが、すぐ挫折する。ああ、これは、もうどうしようもない。

 ビデオテープの山もそのとおり。すでに見ないのに、捨てることができない。再生機さえ販売されなくなっているのに、捨てることができない。ほへ~~~~。

 それでも、今回思い切って捨てることができたのは、ノートパソコンの山。何度も何度も遊んだから、もういいかなと思えるのかも知れない。それでも、やはり心残りではある。もう、物理的にこわす。電源を取り去り、メモリーを外し、ハードディスクを外し、あちこちに貼りつけたメモ書きも外し、IDやら、製造番号などもはがしまくる。あとはふんづけたり、ハンマーで殴ったり。

 気持ちいいのやら、悪いのやら・・・・。

 コード類もぐちゃぐちゃある。電話線。LANコード。電源類。テレビアンテナ線やら、コネクタ類。おいおい、こんなの取っておいて、どうすんだよ、というものが山ほどある。しかしながら、過去何度か、このゴミの山から、貴重なお宝が発掘された実績があれば、なかなか思い切って捨て去ることができないのである。

 それでも、ようやく、これらハード類の約半分は片づけることができた。これから、さらに心を鬼にして、99%処分する必要がある。やるぞー~~~。

 そして、最後に残っているのは、書籍類である。これらは、実は今回は諦めている。すでに何回も挑戦しているし、すでに不要なものは捨てきっているのだ。さらに、これから峻別するなんて、無理だろう。

 しかし、バックパッキングの極意は、これは絶対必要というものだけを残し、さらにそれを3分の1にすることだった。ヒッチハイカー時代を思い返す。

 年末も近い。とにかく、時間を見つけては、この作業を繰り返すしかない。

 

<5>につづく

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2013/11/10

Funky Monkey Babys - あとひとつ

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2013/11/09

追悼 石川裕人 『流星』 原作 石川裕人、演出 小畑次郎 他力舎 特別公演

Ryusei
『流星』他力舎 特別公演/追悼 石川裕人
原作 石川裕人、演出 小畑次郎 2013/11/8 ~9 エル・パーク仙台 スタジオホール
Total No.3120

 文句なく★5でした、とアンケートに書いてきた。どうもありがとう。と私はお礼を言いたい。原作者も、脚本も、これだけ愛され、これだけの役者陣に、30年間も演じられてくれば、本望なのではないだろうか。

 本当に時の経つのは早く、石川裕人さんが他界されて一年になりました。この間、石川さんへの追悼の意を表して上演された演劇や朗読は、私の知るところでは5本。この「流星」がその5本目です。それほど石川さんと彼の作品は多くの人の心を動かす力があったということです。他力舎 会場でくばられた挨拶チラシより

 5本とは、

1)AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演 石川裕人・作THE RIVER STORY』~水鏡の中の不思議な世界~ 2013/2/10~11 宮城県大河原町えずこホール

2)シニア劇団「まんざら」公演 石川裕人作『つれづれ叛乱物語』宮城野区文化センター パトナシアター 2013/5/3

3)TheatreGroup“OCT/PASS” 石川裕人作・演出『方丈の海』 2013追悼公演編2013/10/11~14 せんだい演劇工房10-BOX box1

4)千賀ゆう子&絵永けい 『石川裕人の言葉たち』石川裕人ライヴリーディング2013/10/28  せんだい演劇工房10-BOX box1

5)他力舎 特別公演 『流星』 追悼 石川裕人 原作 石川裕人 演出 小畑次郎 他力舎 特別公演 2013/11/8~9 エル・パーク仙台スタジオホール

の5つのイベントのことであろうか。とするならば、私はそのうちの4本を見たことになる。残念ながら4)は、予定していたものの、急な家族の行事が入り参加できなかった。いずれも、心に残るイベントであった。

 この芝居、初演は1982年のことである。

 「十月劇場」旗揚げ。 「十月劇場」の旗揚げは1981年である。命名の由来は十月に十人で結成したというしごく単純なものだった。演劇の十月革命をなんていう大志はさらさらなかった。当時、とある会社に就職していた私を含め劇団員全員が社会人と学生だった。つまり芝居は趣味の領域にしておこうという発想だったので年1回公演できればいいというようなスタンスだった。

 それは劇団洪洋社の失敗からきている。私はそろそろと芝居の再スタートを切った。  メンバーは洪洋社の最後のめんつがそろった。みんな私の声がけを待っていてくれた。嬉しいことだった。まさか「十月劇場」がその後13年続き、仙台を代表する劇団のひとつになり、全国にも知れ渡る存在になるなんて誰も想像していなかった。それくらい地味な再スタートだった。

 旗揚げ公演は12本目の「流星」、ペンネームは石川邑人。新星を発見するという犬の実話をモチーフにしたコメディで実は宇宙的な出会いと別れをテーマにした壮大な戯曲である。この芝居は’07年に「十月劇場」の旗揚げメンバーでもあった小畑次郎氏の集団・他力舎で再演されている。 「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」2010.03.08 Monday

 この芝居は、確か、当時彼が勤めていたK食品の倉庫の二階をけいこ場にして、そのK食品が経営する仙台の繁華街・国分町にあった「丸田沢」とかいう居酒屋をステージとして演じられたのではなかっただろうか。

流星」を観る。

 愚生26年前の戯曲(初演は25年前)「流星」を他力舎の上演で観る。まかせっぱなしでテキレジの一つも出来なかったので恥ずかしくも心配な舞台でもあった。
 思い起こせば29歳の時、みんな若かった。そして芝居は趣味でいいやと思って旗揚げした「十月劇場」の第1回公演。これぞストレート芝居というくらいがむしゃらにやったことが記憶に残っている。お客の受けなど気にせず突っ走った。他力舎の舞台はほとんどベテランの域に達した役者を配して、おおように、気張らず、力の入れ方をコントロールしてやってるからこちらも構えずに観ることが出来た。笑えた。そうかこの年になってやるとこの戯曲も生き返るんだな。
 客席にはちらほらと「十月」旗揚げメンバーもいて同窓会ムード。なごやかないい芝居だった。
 喪歌魔多利相変わらずのドアングラ芝居に乾杯!!
 石川裕人劇作日記「時々好調」2007.11.03 Saturday

 石川本人は、劇団洪洋社を「失敗」と位置付けている。それを乗り越えての「十月劇場」だった。この80年前後のうごめきについては、同時代的に、私自身にとっても波瀾万丈の時代であった。

 石川亡きあとに、彼のブログや記録を見ながら、当時20代半ばの青春を、お互いがそれぞれ葛藤して生きていたのだ、ということを確認して、改めて、その時代背景を噛みしめた。この辺は、もっと書きたいが、いずれ別の機会にゆずる。

 なんであれ、今日、私はこの芝居を見て、面白いと思った。11月に入り、街中は、東北楽天イーグルスの日本一特別セールに沸き、クリスマス気分になりつつある。この師走間近な街中で、ひとつひとつの芝居がコツコツと演じられ続けている。

 正直なところ、役者陣はうますぎるのではないだろうか。シロートっぽさがまるでない。プロか、セミプロ級の役者たちなのだろう。体のこなし、セリフの言い回し、アドリブ、客席とのかけあい。仲間内が見に来ているというムードがあるからだろうが、それにしてもうますぎると思った。

 そもそも石川本人が最初は演劇人としてシロートだったわけだが、前駆的には、劇団座敷童子にしても劇団洪洋社にしても、石川本人の周りにいたシロート衆を巻き込んでのゲリラ的演劇手法だった。友人たちとしては、危なっかしくて見ていられないような振付や言い回しが、とても多かった、と今さらながらに思う。 

 そして時間は経過して、十月劇場になりTheatreGroup“OCT/PASS”に成長していく過程において、もともと芝居を目ざした演劇人が参加するようになり、また、役者陣もそれぞれに、洗練され、醸成されていった。

 役者の一人として登場していた演出の小畑次郎は1982年版、2007年版、そして2013年版と、三回この演目に関わっている。その間、私の見るところ、役者陣や制作陣は、原作を超えてしまったのではないだろうか。作品を自分のものとし、さらに磨きをかけてきた。そんな気がする。

 こんな役者陣なら、どんな(といったら語弊もあるが)台本でも、なんなりとこなしてしまうのではないだろうか。時代がかったジョークも、唄も、当時ではむしろ失笑を買うようなニュアンスだったかもしれないが、今となってみれば、時代を切り取る、見事な一幅の絵になっている。

 これらの役者陣の素晴らしさを感じながらも、逆に、これほどまでの役者陣や演劇人たちに愛された石川裕人という人も、それ相当にすごい人だったのだな、とあらためて痛感した。

 身近にいる人間は、なかなかその存在の真の価値に気付かないものである。私なんぞは、身近にいるつもりが、ちっとも知らなかった、と言っていいだろう。生前、あまり彼の芝居そのものに興味を寄せなかった彼のお母さんも、最近、家族に連れられて、『方丈の海』2013追悼公演編をみたようだ。「ホントに波が押し寄せるような気がしたよ。上手だったね。」と語っていた。

 彼の残した作品と、その人柄は、今後ますます愛され続けていくような予感がする。

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気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ<3> リズ・ダベンポ-ト

<2>よりつづく


「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」 <3>
リズ・ダベンポ-ト/平石律子 2002/09 草思社 単行本 222p

 またまたこの本を開きたくなった。この本、わがガレージオフィスにおける常備本である。他に大事な本は山ほどあれど、一貫してオフィスの片隅に置いてある本の中では、古い広辞苑や国語辞典に次いで、もっとも古参に属する一冊である。

 この本のおかげで、わがガレージオフィスは、実はかなり片付いている。気になれば、この本に書いてあった内容を思い出し、早め早めに整理する。手遅れになる時はあれど、基本が出来ているので、まぁ、毎度なんとかスタートラインに立つことができてきた。

 しかし、今回は、「捨てるに棄てられなかった」大事なものの一群が対象である。主に、パソコン関係。OSが古くなって使えなくなったパソコンの数々。それらに対応していたはずのプリンター。Linux関連。ISDNやら電話回線やらの接続機器やターミナルアダプター類。そして、CDやらフロッピーディスクやらの記憶媒体。

 とにかく沢山ある。よくぞこれだけ溜めこんだものだ。これらはもともとオフィスにあったものだが、捨てるに捨てられず、納戸、外のスチールハウス、ガレージハウスとタライ廻しされ、ついに、いつの間にか、天井裏の収納空間に押し込められていたモノたちである。

 通常であれば、ここが最終ステージで、私が死んだあとは、一山もろともゴミと化すのが当然であっただろう。しかしながら、我が天井裏の暗がりは、今や、ロフトアトリエと名前を変えて、開発の魔の手が伸び始めてきた。

 茶の間、納戸、オフィス、外部スチール物置、ガレージ、ガーデンハウスと、次々と孫たちの侵略にもろ手を挙げて撤退し続けているうちに、遂に辺境最深部へと退却せざるえお得なくなり、ついに自らの身の置き場を失った一群となり果てた。。

 WinXP機が完全に過去の遺物となった今、それら関係以前のものは、完全に廃棄処分の対象となった。かつてはLinuxを入れて楽しんだものではあるが、Linuxとて、旧々世代のハードで甘んじる時代ではなくなった。最新とまではいかなくても、ある程度のモダンな環境が必要なのである。

 これらを廃棄するあたって、一番困るのは記憶媒体。あちこちにさまざまなデータが残っている。これらの取捨選択がなかなか難しい。それぞれのパソコンのハードディスクの処分、メモリーやらメモ書きやら、マニュアル類の書込みの個人データを、キチンと削除したい。

 とにかく驚いたのは、フロッピーディスクの枚数。なんと数百枚に上る。もともと、フロッピーディスクは容量が小さいので、一つのソフトを数枚に分けて保存することも多かったが、フロッピーそのものの信頼性も薄かったのか、さらにバックアップを取ったりしていたのだ。

 OSだって、フロッピーで10枚以上に分けてインストールしていたことだってある。いやいや、これだって、昔々のテープレコーダーにデータを記憶していたことを考えれば、グッと現代的だったのだ。今思い出すと、フロッピーを使い始めの、あの画期的な喜びの感動が湧きあがる。

 当世では、断捨離というらしきものが流行っているらしい。内容はよく知らないが、語感からするに、リズ・ダベンボードのkの本と内容的には重なり合うことが多いにちがいない。断はともかく、捨、と、離は、今回、とにかく断行せざるを得ない。

 ほんとうは数年前、まだまだ使えるこれらの器具類をひとつひとつヤフオクで値踏みをしたことがある。売れればの話だが、数百円から数千円、時には万を超える値のつく製品もあることはあったのだ。

 特に、パソコン関係は、いつかは手放すことも考えて、マニュアル類はいうに及ばず、新品時の箱類までキチンと保存してきた。これらを完売することができれば、鬼のような奥さんがくれる、雀の涙のような月々の小遣いの、ほんの少しは足しになるのではないか、と、本当はすこし独りほくそ笑んでいた時も、あることはあったのだ。

 しかし、出品し、発送し、入金確認するという手間を、私は徹底的に惜しんだ。そんなことやってられるかよ。いつ落札されるかわからない前時代的な一群を、どこのモノ好きが注目してくれるだろう。ああ、メンドウくせ~~。

 ということで、完全に天井裏の暗がりで安楽死を待っていた彼らは、ついに今回、いよいよ安住の地を失ったのである。

 「あとで」を信じるのをやめる。決断は「いま」か「遅すぎる」かのどちらしかない。p161「いま! 決める」

 「いつやるの? 今でしょ!」 は、当世の流行語である。しかしながら、リズ・ダベンボードにおいては、昔から、基本中の基本であった。光が入り始めた、わが天井裏スペースは、「遅すぎる」決断に流浪を強いられてきた「ゴミ山の一団」に、いよいよ、引導が渡される日がきたのである。 

 合掌。 アーメン。 冥福を祈る。

<4>につづく

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2013/11/08

わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ 「Pen (ペン)」 <3>

<2>からつづく

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Pen (ペン) わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ <3>
2013年 11/15号 阪急コミュニケーションズ[雑誌]
★★★★★ 

 3・11を挟んで、密かに進行していた当ブログ・プロジェクト567において、他のステージは着々と進行していたものの、第一のステージにおける「森の生活」ターゲットは、いまいちはっきりとした着地点を見つけていない。

 今生において、大都会の超高層マンションの上階に棲まなかったことは、別に後悔はしないだろうが、明確な形で「森の生活」をしなかったことは、どこか心残りで終わるのではないだろうか。そんな予感がする。

 実際に与えられた土地は、かなりの基準を満たしてはいたものの、プロジェクトとしては機が熟しきっていなかった。そこに何の過不足があるのか。何が原因なのか、何の因縁なのか。それは、それで、いささか、手掛かりがないわけではない。

 秋の夕暮れは早い。つるべ落としだ。晴れた午後、ひょいと車に乗って山の方に走ってみる。見事な秋だ。森があり、山があり、川があり、湖がある。紅葉があり、澄み切った空気がある。

 森に住んだことがない、とは言え、巨視的に見れば、私なぞは、森に囲まれて暮らしているようなものだ。更に言えば、森から離れてなど暮らしたことなぞ、一度もなかったのだと、気付く。

 私自身の目が、森を直視する力をもっと必要とし、森を森としてなつかしみ、楽しむ、そのセンスこそが必要なのだ、と気付く。

 森はいい。山はいい。木々はいい。呼び掛けてくる。待っている。受入れてくれる。そして、静かに立っている。

 空はいい。空気はいい。雲はいい。そして、夕焼けもいい。陽だまり。影。空高く舞う鳥。

 プロジェクト567のプロセスの中において、そろえた道具たち。のこぎり、電動ドライバー、かんな、大きなトンカチ。集めた材料たち。木材、ネジ、L字金具に、板。

 そして、センスたち。あれも作りたい、これもやりたい、夢はいろいろあった。

 森の生活も、エコビレッジも、いまいち思ったような形にはならなかったが、私個人的には、その道具や材料、センスたちは、きっちりと形になり続けている。ガーデンハウス(実は、自転車停めに窓を付けただけだが)、ガレージオフィス(駐車場に机を持ち込んだだけだが)、そして天井アトリエ(屋根裏の暗がりでしかないのだが)。スペースは在り続けた。そして個的な表現なり活動は、留まることはない。 

 森の生活、エコビレッジと、天井裏の暗がりは、かなりかけ離れている。広々とした空間、自然を生かした木々との生活。人々との交わり、賑わい、去来する動物や季節。それらに比較すれば、ごくごく限られた狭い暗がりで、大工仕事をしていることの、矮小さに、呆れてしまうことも、確かにある。

 しかしながらである。私は森の生活をし、エコビレッジに暮らしたとして、やはり、そこでも同じことをしているのではないだろうか。家を建て、ガーデンをいじり、大工仕事をする。狭ければ狭いなりに、私なら、嬉々として改造しまくるだろう。

 いまあらためて、自分の生活を、森の生活として捉え直し、天井階アトリエ作りを、エコビレッジの中の一つの作業、と捉え直して見れば、これはこれで、私なりの「わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ」になるに違いない。

<4>につづく

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2013/11/04

わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ 「Pen (ペン)」 <2>

<1>からつづく

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Pen (ペン) わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ <2>
2013年 11/15号 阪急コミュニケーションズ[ 雑誌]
★★★★★ 

 久しぶりにショッピングモールの書店を覗いてみる。思えばこのところ、めっきり書店めぐりは減った。禁断症状のように、書店の各コーナーをうろついてみる。あれやこれやの新刊や、いつものベストセラーやらでごったがえしている。

 震災コーナー、楽天イーグルスコーナー、科学書コーナー、経済書コーナー、それぞれに、面白い本がないわけじゃないし、読んでおきたい本も数々ある。しかし、どれもこれも、いまいち、今読もう、という気になれない。

 でも、久しぶりだし、一冊くらいは本を買うのもいいのではないか。ふと気づくとポケットの中には、キーホルダーの中の小銭が千円程度しかはいっていない。よし、今日は、これで買える程度の本を一冊買おう。

 もともと、今日はアッシー君でモール街にやってきて、時間待ちで書店を覗いただけだ。お手軽に一冊選ぼう、と思っているうちに、呼び出しコール。えい、と選んだのが、この雑誌「pen」だった。

 どうして今、これ、なのか。それはそれなりに意味がある。帰宅してからそう思った。penは嫌いな雑誌ではない。かと言って毎号チェックしているわけでもない。でも、どこかチクリとこちらのセンスを刺激してくることがある。

 1997年創刊の月刊誌ギリーがその翌年にリニューアルされ、月刊Penとして新創刊された。デジタルが急速に普及するなか、手書きの温かみを大切にしたいというコンセプトからこの誌名がつけられた。wikipedia

 なるほど、そういうことなのか。1997年といえば、私なんぞはインターネットに夢中になって、すっかりデジタル小僧になっていた。そんな時代なら、いわゆる「アナログ」を標榜するような潮流には、一切目をくれなかったはずだ。この本の創刊に気づくはずはなかった。

 しかし、要所要所で、気になる特集を組んではいる。特に当ブログでは、「男のロフト主義。」 Pen (ペン) 2004年 4/15号は、愛蔵版として精読している。DIYのビルトイン駐車場改造のオフィス作りには、イメージリーダーになってくれたのだ。そのオフィス作りも、とりあえず一段落した。

 そして、そのpenつながりも今や、オフィスから、天井階のアトリエ(と称しておこう)作りへと移行しつつある。そのイメージリーダーに、ひょっとすると、この号がなってくれるかもしれない。そういう期待が、とっさにこの雑誌を選ばせたのだろう。

 天井階アトリエとは、実は名ばかりで、木造切妻の我が家には、実は天井裏には、暗がりがあるよ、というだけであった。新築当初から気にはなっていたのだが、どうも手をつける気にはならなかった。だって他にやることがいっぱいあったし、手を入れるところはあちこち山ほどあった。

 あれから20年近く経過し、いよいよ「未開拓」エリアとして残されているのは天井裏のみとなった。この数年、気付いたときに、ロフト用の折りたたみはしごを設置し、床を張り、縦横斜めに走っている柱群を適当にカットしたり延長したりして、なんとか人間が移動できる程度の空間を確保してきた。

 そこは、住居スペースから溢れてでたガラクタ類を押し込んでおくにはちょうどいいスペースだった。ダンボール、古本、衣類、季節物器具。これらを押し込んでおくには、十分すぎるほどの広さを確保できたのだ。

 しかして、今となってみれば、茶の間もオフィスも駐車場も、かわいい孫たちに占領されてみると、結構人口密度が高くなり、たまには爺さんもひとりじっくりひきこもりたくなる。楽しく賑やかな茶の間と、ちょっと静かな瞑想スペースの対比も悪いものではない。

 そういう目でみると、天井階も、実に「アトリエ」へと変貌する可能性を十分残していることがわかった。まず広さ。面積だけでいえば、かなり広い。ここを独り占めできるのかと思うと、ワクワクしてくるのである。ただ、高さはない。ここは大いにネックなのだが、最初からそうなのだと思えば、活用の仕方も工夫できるはずだ。

 この数年、その希望を大きく拒絶してきたのは、「熱気」だった。冬の寒さはともかくとして、夏の厚さは半端じゃない。下の階の住居スペースより数度、ときには10度近く高い。夏の午後などはサウナ状態である。この空間にいるだけで、体力を消耗する。ああ、これはダメだなぁ、とすっかりあきらめていた。

 そんな時、大工さんからいいことを聞いた。安い断熱材でも、天井裏にはると、かなり効果があるよ、というのである。あらあら、これはいいことを聞いた。ムクムクと内なる開拓者魂が目を覚ます。

 いずれにせよ、夏の間は作業ができない。秋口でも、まだまだ暑い。そろそろ寒くなってきたかな、というこの季節になって、ようやく作業を開始したのである。

<3>につづく

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わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ 「Pen (ペン)」 <1>

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Pen (ペン) わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ <1>
2013年 11/15号 阪急コミュニケーションズ[ 雑誌]
Total No.3119★★★★★ 

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<2>につづく

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2013/11/03

おめでとう!! イーグルス日本一!!

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2013/11/02

OSHO 「Joy 喜び」 山川紘矢& 山川亜希子(翻訳)  角川書店刊<2>

<1>よりつづく

Joy2


OSHO 2013/10  (著), 山川 紘矢 (翻訳), 山川 亜希子 (翻訳) 角川書店 単行本: 255p

この本、ちょっとだけ読んで、一休み。

----------------

 とこちらも、書きかけておいて、すすまなかった。薄い本ではあるが、私にとっては、Oshoの本は「読書」ではない。一気に読み進む時もあれば、そうでない時もある。ちょっと止まれば、あと再開するのはいつになるのか、自分でもわからない。

 前回は、出版のタイミングで、翻訳者のあとがきだけを抜き書きしておいた。いちど目を通してから雑感をメモしようとしていたのだが、いつになるかわからない。なにはともあれ、今の心境をメモしておく。

 まず、この本の内容よりも、出版自体がニュースとなっている。私の周囲での感想もまちまちである。本屋で平積みをされていることに喜びを感じる人もあれば、この人たちに翻訳されること自体を嫌うような書き込みもある。若い翻訳者たちにチャンスを与えよ、という言葉さえ聞いた。

 さて、私は概して歓迎的である。山川夫妻と、角川と、Osho、の三つ巴は面白いと思う。この取り合わせで、あと確か5~6巻でるらしいので、それら全部が順調に出てほしいと思う。そして、感想は、その後でもいいと思う。

 そもそも、彼らの翻訳が気に食わなければ、英語で読めばいいのだし、ネットなら無料で読める。英語が自由じゃない私は、やはり翻訳は歓迎する。

 もっとも、誰の翻訳であったとしても、十全なものはない。もっというなら、どんな講話録も、講話そのものにはかなわない。そして、講話は、その現前には及ばない。そしてその現前は・・・・・・。

 だから、どんなものであっても不完全なのであり、不完全だから不要だ、と決めつけてしまうのはどうかとも思う。

 「『ザ・シークレット』の山川夫妻大絶賛」という腰巻のコピーは、どうかと思うし、「セレブを中心に欧米に熱狂的なファンを持つOSHO」という紹介も、はてはてどうしたものか、と思う。でも、私ならこれよりもっとすごいコピーを書ける、とも思えない。

 Osho自体は、このようなポピリズムは割と好きなのではないかな・・・・? ワールドツアーで資金が枯渇していた時に、「コカ・コーラのコマーシャルに出る」とまで冗談を言ったOshoである。笑って歓迎しているのではないだろうか。

<3>につづく

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「毒舌日本史」 今 東光


今 東光 (著) 1996/08 文藝春秋 文庫: 411ページ 初出単行本 1972/07
Total No.3118★★★★☆ 

今東光は、天台宗だけでなく、三論法禅宗という殆ど知られていない法系にもつながってます。これはブッダからマハーカシャッパではなく、マンジュシュリを経て伝わった隠された禅の流れで、聖徳太子経由のものとされていますが、もしかしたらこの流れも瀬戸内寂聴さんまで伝わってるかな?   

 これ、某友人Vのスレッドに現れたM氏の書き込み。さっそく三論法禅宗なるものをググってみると、何も出てこない。三論宗ならでてくる。同じことを意味しているかいないのかは、今のところ、不問、としておこう。  

  三論宗(さんろんしゅう)は、仏教の宗派の1つで、インドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)である。空を唱える事から、空宗とも言う。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もある。wikipedia

 なんとなく、近い。

 

中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成した。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論である。唐代には、天台宗や華厳宗、法相宗の隆盛の陰に隠れ、宗風が振るわなくなり、学問としてのみ存在するようになった。寓宗として成実宗があった。 日本への伝来には、
1.625年(推古33年)に高句麗の僧の慧灌が伝え、(元興寺流)
2.智蔵(慧灌の弟子)が入唐して伝えた、法隆寺の空宗
3.701年(大宝元年)、道慈(智蔵の弟子)が伝えた、(大安寺流)
の3系統がある。
 元興寺・大安寺の2流は、日本三論の2流と称し、奈良時代には南都六宗の1つとして栄えた。
 三論宗の中興の祖とされる聖宝832年 - 909年)は、元興寺流の出身である。 
wikipedia

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 とここまで書きかけておいて、アップできないまま、ストップしていた。つまりこの書き込みで言いたいことは、この大安寺が、三論宗のポイントであり、今東光もまたこの寺で修行したことがあると、この「毒舌日本史」に書いてあったということ。

 訳あって本を早めに返却してしまったため、記述のページをメモし忘れた。本自体は、極めて多岐にわたるので、別途メモし直さなければならないだろう。

 つまり、ここでの要点は、今東光にはなく、「三論宗」にある。そして、転生魂多火手の7世紀の軌跡による。もし、多賀城以前の国府であった郡山遺跡時代に、寺院跡が検知されたとして、そこにおいてどのような「仏教」が展開されていたのだろうか、ということ。これにつきる。

 その「仏教」は、「ホツマ」ともろに対峙したはずなのであり、その葛藤の中で、多火手はどのような青年時代を送ったのだろうか、ということだ。

 この項はきわめて重要なことである。次回に期す。

 なお、別所に、「中論」から学び直せ、という書き込みがあった。ありがたくそのアドバイスを頂戴する。三論のなかのまさに第一論は「中論」である。

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今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電<7>  ニュートンムック

<6>からつづく

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 我が家の太陽光発電もちょうど一カ月が経過した。他の雑用もあり、まとまってはいないのだが、とりあえず一ヶ月後の雑感を書いておく。

 システム自体はきわめて順調に運用できている。リアルタイムの発電などをディスプレイやネット上の端末から確認できるというのは、極めて良好である。故障や支障はまったくない。

 端末で確認できる発電量と、実際に電力会社からくる伝票では、時間差があるので、まだ確認できていない。もっとも、電力会社の検針日は月半ばなので、一か月単位としても、電力料金の発生の仕方がちがう。これは、今後、どうちがうのか、見ていく必要がある。

10oct_1

 もっとも気になる発電量と消費量だが、結論から言えば、我が家のシステムでは、この一カ月の消費量は、自家発電はまかないきれなかった、ということになる。

 老妻と私の二人暮らしなら、ほぼ自給自足が可能な計算だったが、月当初から、家族が増えて、なんと幼児も含めて6人家族となってしまったため、消費量の方が圧倒的に多くなってしまった。日中の在宅率も極めて高くなったし、寒くなってきたので灯油ストーブの代わりに室内エアコンも使う。

 自家発電でまかなえたのは、消費電力のおよそ80%。そして、発電した電気量の1.4倍を電力会社から購入したことになる。もっとも、売電価格と、購入価格では差額があるので、金額的には、むしろ自家発電でまかなえた部分はもっと多い計算なる。

 削減できたco2量は約90kg-co2ということだが、この単位の意味するところと、その効果のほどは、今後、ゆっくり吟味する必要がある。

 ローンの支払いと、電気量の支払い、そして補助金の関係はどうなっているのかも、気になるところであるが、まだ順当な計算ができない。特に、補助金は思ったより以上に出たが、入金されるのは数ヶ月先ということだから、もらってみたあとじゃないと計算できない。

 なにはともあれスタートした。自家発電した電気で動いている間は、やっぱり気分はいい。使用感はなにも変わるものではないが、リアルタイムの皮膚感覚で電気を感じることができるようになったのはよかった。節電意識も、より鋭敏になっているようだ。

 今後も随時レポートを継続していこう。

<8>につづく

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