石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<12>
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<12>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
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ついに当ブログ進行形のカテゴリ名にまで上り詰めてきた「時の葦舟」。さて、これからどんなストーリーを展開してくれるだろう。
三部作の未来編、古代編、現代編の、それぞれの年代は、AD2275年08月、BC2100年頃、AD1995年7月、 という設定である。1995年と言ってもすでに20年まえのこととなり、むしろ現代編より、未来編のほうが内容がフィットするほど、時代は経てしまった。前回書込み
現代編の時代背景の設定はともかくとして、未来編のAD2275年08月と、古代編のBC2100年頃、というのは、どんなものだろうか。
まず、未来編。西暦2275年と言えば、2013年の現在からすれば、252年後のことに過ぎない(と、つい思わず書いてしまった)。地球生命の46億年、恐竜が栄えた白亜紀、ジュラ紀、三畳紀などの数億年前、あるいは人類が誕生した数十万年前、などをスケールにしていると、わずか数千どころか、数百年など、あっという間なのではないか、という気になってくる。
数百年サイクルでやってくる津波、例えば、これから200年後に津波がやってくるとして、その時まで、人類は、原発問題を解決できているだろうか。一連の政府の対応や、広瀬隆の一連の「予言」、あるいは、桐山靖雄の小説などを、本当に人類は、もうダメなのではないか、とさえ思う。
これから約250年の間に、少なくとも巨大津波が襲うチャンスは沢山ある。そして、それまでに、海岸に林立する原発がなんら反省もされずに運転され続ければ、著者の描く、地球人の滅亡は当然の帰結となるだろう。
そして、その時、「電脳化した父」と、「霊的存在の母」とともに、時の旅をする「勇気の少年」というものは在り得る。
そこに、転生魂・多火手の未来を見ることができるだろうか。多火手は「勇気の少年」だろうか。あるいは「電脳化した父」だろうか。はたまた「霊的存在」となっているだろうか。それにしても、大猫「タクラマカン」とは一体なにか。
中国大陸の砂漠だが、この砂漠の地底から、アガルタ王朝を幻視することも、不可能ではないかもしれない。
一方、古代において、BC2100年頃、とはどんな時代であっただろう。一遍には思いつかないが、「ホツマツタエ」の歴史観を使うなら、それほどイメージできないわけではない。ヒタカミ王朝の亜種として見ることはかのうだろう。
いやいや亜種どころか、本家本流としてのヒタカミBC2100年をイメージしていくのが、これからの当ブログの主旨なのだ。登場人物たちのキャラがダブってこないこともない。
ギガ(サーカディアン国・幼皇帝)
ムーア(皇太后)
ゲラン(執政官)
宿阿(預言者) p96
などのリストを見ていると、これらをヒタカミ王朝のドラマの一つとして、見て見れないこともないかもしれない。苦肉の策だが・・・・・。この時、転生魂は、幼皇帝ギガなのか、あるは、執政官ゲランなのか、預言者としての宿阿だったのか。
そして、現代編。1995年となっている現代編は、考えようによって、この2013年とは地続きである。このふたつの時間を、ひとつの肉体で生きている人々は多い。
この二つの未来と過去をつなぐ「現代」に生きる、転生魂・多火手とはなにか。そもそも多火手はいま生きているのか、いないのか。そして、多火手の宿命とはなにか。多火手に可能性は残されているのか。
というような、とっかかりを作りながら、まぁ、この戯曲を解き明かしていくのも悪くあるまい。
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