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2013/12/19

石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<13>

<12>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<13>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

 畏友ニュートンこと故・石川裕人のおもかげを求めて、当ブログはひとつの葦舟のもやいを解いた。過日、所要で彼の菩提寺を前をとおりすがり、車と停めて墓参した。父親とならぶ墓石には、「演雅一道居士」の法名があり、いまではその法名がすっかり板について、彼はもう、ニュートンでも、石川裕人でもない、のかもしれない。

 演雅一道居士。言い得て妙である。生前彼はそのブログにおいて、私を葬儀委員長に指名していた。なかば私の冗談から発したプランではあったが、それこそ委員長とまではいかなくても、もっと彼にしてやれることはなかったか、今にして悔やまれることもないではない。

 しかし、葬儀を前にして、あの若い僧侶は、私が話した彼の人生の中から、よくぞこの法名を付けてくれたと思う。もし、彼に、お寺の本堂に居並ぶ院や庵を寄進するほどの財力があれば、その法名の上に何とかの院号がついたことだろうが、それをいろいろ想像するよりも、それがない演雅一道居士が、むしろぴったりということになろう。河原者は河原者らしくこの世を去るのである。せめての「居士」が、彼の存在を忍ばせる。

 この戯曲三部作、第一部は未来編、AD2275年08月の、地球外のどこかに設定された廃墟である。地球にすでに生命体はない。タイトルは「絆の都」。3・11後に流行語にさえなった「絆」であるが、この絆が、主人公たち一家を、古代へ、そして現代へと、移動させる。移動の方法は「時の葦舟」である。

 第二部は古代編、BC2100年頃、地球上の大陸、王政が敷かれている時代のようだ。BC2100年などと言われてもピンとこないが、これは現在当ブログが進行している「ホツマ」の世界におけるヒタカミ「王朝」でもオーバラップしてイメージしていくことにしよう。

 タイトルは「無窮のアリア」である。無窮とは、無限のこと、アリアとは詠唱のことであるらしいから、古代における、広がりのある世界観、とでも理解しておこう。

 第三部はAD1995年7月、つまり現代である。1995年といえば、すでに20年近く前の過去ではあるが、半数近くの地球人は同じ時代を生きているので、2013年の今日、と捉えても差し支えないだろう。

 この7月、というのが微妙で、この戯曲第三部が上演された1994年8月には、まだ、1995年1月の阪神淡路大震災もなく、1995年3月20日の地下鉄サリン事件も起きていなかった。また1995年12月のウィンドウズ95発売も、まだまだ未確定だった。

 第三部のタイトルは、「さすらいの夏休み」。結局は、少年たちの1995年夏休みにおけるヴァーチャル・ゲームであり、未来の破滅劇と、古代の神話劇と、現代の電子劇が組み合わさって、この戯曲三部作が構成されている。

 最後の「さすらいの夏休み」でもって、少年たちの「夢」で終了させてしまうことに、どこか桐山靖雄の「一九九九年地球壊滅」(1988/12 平河出版社)を連想する。ヒマラヤの古僧の危惧が結局は「夢」であり、高山聖峰とやらの求聞持法とかを「壊滅」からの脱出法とするあの小説と比較すると、この「時の葦舟」での「解決法」は、「指輪」である。

 「映画『ロード・オブ・ザ・リング』の10年前に舞台化されていた戯曲」(本書腰巻)とはいうものの、「指輪物語」はすでに1900年代半ばに書きはじめられているのであり、巻末に三部作全巻の「引用作品」として「J・R・R・トールキン『指輪物語』」が明記してあれば、それを下敷きにした形で書かれていることは間違いない。

 未来に「廃墟」や「壊滅」を置くことによって、「古代」から続いてきた「法」や「指輪」で、「現代」の「危機」を切り抜けようとするストーリーは、ある意味陳腐ではある。この陳腐なドラマツルギーの中に、どれだけのリアリティを込めることができるかが鍵となろう。

 当ブログにおいても、同じようなストーリー仕立てを活用しようとしている。破滅の最も近い原因は、原子力発電であり、そのエネルギーに依存しなければならない現代地球人のライフスタイルの在りようである。あるいは、温暖化という相対的な危機感である。

 それに対する古代からの「解決法」は、当ブログとしては、物質化された「指輪」でもなく、巻物になどされた「法」でもない、と考える。それはどこか、造られて瞑想ドームにあるわけでもなく、古代遺跡から発掘されなければならないものでもない、と考える。

 第三部「さすらいの夏休み」では、「アポリア」というヴァーチャル・ゲームや、パワーマック9100/90ディファレンスエンジンなどと呼ばれるコンピュータが登場する。この戯曲が上演された1994年当時において、これらが存在したのかどうかはわからないが、2013年の今日、ここで語られることは、別に絵空事ではない。モバゲーを運営するDeNAがプロ野球チームを所有する時代である。

 さて、と思って、映画「ロード・オブ・ザ・リング」をもう一度みてみようかなと考えたが、過去の自分のこの映画に対するメモを見て、思いなおした。

 やっぱり私のロマンは、映画や戯曲のなかにはないなぁ。ないとは言わないまでも、どうも我慢ならぬ。「虚構」ではなく、「寓話」を通り越して、「事実」まで食い込まないと、どうも面白くない。

 こういう習癖が、飯沼史観に呼ばれるゆえんかもしれない。

<14>につづく

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