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2013/12/03

「郡山遺跡」 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<7>

<6>よりつづく

長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p

 この書、飯沼勇義の新刊「解き明かされる日本最古の歴史津波」(2013/03 鳥影社)を読み進めるにあたって、ふたたびみたび再読することになった。再読というよりいまや常備本である。

 横穴墓や窯跡、土器、瓦などの研究成果の統合が必要であり、考古学の共同作業が今後も欠かすことができないと言える。本章は、発掘調査が開始されて30年をまもなく迎える時期に、これまで明らかになった成果を調査者の視点でまとめてみたものである。p159「郡山遺跡と多賀城」

 窯跡や土器、瓦などはともかくとして、横穴墓に、奇妙に惹かれた自分がいる。それは、2013年04月に仙台市・地底の森ミュージアムで開催された「名取川と広瀬川ぞいの横穴墓」ー黄泉国(よみのくに)からのメッセージ展で、まさに目から鱗が落ちるような感動とともに、大いなる直感に繋がった。

 しかし、この郡山国府跡が7世紀末の「仙台沿岸津波」で流出したとする飯沼史観と、学術的な考古学的調査とは、まだ直接には繋がっていない。

 郡山遺跡は地表から60センチから1メートル掘ると、黄褐色の粘土質シルト層が出てくる。すべての地点で同じではないが、6、7割はそのようである。p18「集落の形成」

 今年25年3月に隣接デパートのイベント会場で行われた「国史跡郡山遺跡-みちのくの源流を訪ねて-」 (被災ミュージアム再興事業)において、直接、その調査にあたった調査員に、飯沼史観や郡山遺跡終末の謎について、質問したことがあった。

 調査員は、津波終末説に対しては否定的であった。まず、第一に津波で運ばれてきた砂層がないこと。そして第Ⅰ期官衙の北辺がいまだに不明なのは、津波や洪水で流失したのではないか、という私の質問に対しては、そもそも北辺の調査が、住居問題などで進んでないことが第一の原因とした。そして、万が一、洪水や津波の可能性があるのであれば、大きな石などの散乱が見られるはずだが、それもまだ確認されていない、ということだった。

 また、遺跡と隣接する広瀬川南岸の土手についても、説明を受けたが、公演後の雑踏の中での立ち話だったので、詳しい説明を聴き損ねた。いずれにせよ、郡山遺跡についての飯沼史観は、今だ一般的でないことは、明確に留意しておかなければならない。

 660~690年 仙台沿岸津波 西暦724年多賀城国府建設。この国府建設の約50年前、名取、広瀬両河合流地点付近に国府と思われる仙台郡山官衙が造られた。しかし、大規模津波のため流出。ここで緊急の武隈館をつくる。飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」p41「歴史津波時代の仙台平野の歴史津波」

 ここにおいて飯沼は、第Ⅰ期と第Ⅱの間に、岩沼千貫地域に「武隈館」と設置したとするが、この信憑性もいかほどのものか。第Ⅰ期と第Ⅱ期の期間にわたって、建設の続いていた可能性のある郡山廃寺が、残っていたのだから、完璧にこの施設を津波が襲って流失させたとするには無理がありそうだ。

 ところで、この粘土質シルト層とは何か。一連の飯沼著書の中にもその表現があったような記憶があるのだが、今は見つからない。気になる部分を転記しておく。

 泥炭層、黒泥層は、次の「土壌の状態」で知ることができるが、別称、「スクモ」といわれ、その生成いついて次のように土壌分析している。「スクモ」は、芦、萱草類、菰(まこも)草類等の野性の草類が、、水溜り、沼、湖のような湿地帯などに生息し、それが枯れ、又繁茂・・・・という具合に、長い年月に亘って、次第に堆積され風化を伴って出来た土壌のことであるのです。飯沼勇義「知られざる中世の仙台地方」p18

 この文章は、ほぼ同内容が「仙台平野の歴史津波」p163にも書いてある。

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 ここまで書いてきて、今回再読して感じたことは、他にも沢山あって書ききれない。いずれ、順を追ってメモしていくことにする。とにかく、今回感じたことは、一連の飯沼史観、とりわけ、いわゆる「ホツマ」の神秘の世界に再再突入するにあたっては、つねに、こちらの書のように、科学的な視点での再検証が常に必要である、ということだ。

 しかしながら、余りにも旧態に遇するあまり、可能性の範囲を狭めてしまってはいけないのは勿論である。人間にそれぞれ与えられた自由な想像力は、大空を高く飛翔しなければならない。

 概説的な歴史を学ぶと足元の歴史もイコールに考えがちになる。しかし、それぞれの地に個性があり、概説的な歴史とは違った側面があるはずである。その多様性を探求していくのが歴史学であり、地方史あるいは郷土史の意義なのではないだろうか。p170長島榮一「ヴァリエーション 郡山遺跡からの問い」

 実に柔らかい感性で、時にはハードな遺跡発掘というフィールドワークに永年携わる著者の言には、常に説得力がある。

 発掘調査の現場では、ふと立ち止まることや、驚きとともに呆然と立ち尽くすことがある。ささやかな感動から、雄大な感動まで足を止めるのである。それが過去と向き合うことであり、過去を問うことに繋がる。そうなると自然に心も有意義な問というものができるのではないだろうか。決して無意味な休止ではない。問の闇を大切にしたい。 

 これは今を問う感性であり、未来を作る基礎となっていく。歴史と向き合うことから多くの人々が自らのヴァリエーションを奏じる道を歩んでほしいものである。p171長島榮一「同上」

 同感である。

<8>につづく

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