OSHO「英知の辞典」 <27>文明 CIVILIZATION
<26>からつづく
「英知の辞典」<27>
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
文明 CIVILIZATION
どこにも文明などというものはないのだから、私は文明に対して異議を唱えようがない。文明は存在しない。それはたんなる見かけ倒しだ。人間はその素朴な原始的無垢を失ったが、だからといって文明を開花させたわけではない---なぜなら、それはけっして文明を培う方法ではないからだ。文明を開花させる唯一の道は、自らの無垢を基盤とすること、自らの資源の無垢を礎として、そから成長してゆくことだ。
だからイエスは言う---あなたは生まれ変わらないかぎり、もう一度子どもにならないかぎり、真理がなんであるかを知ることはできない、と。
このいわゆる文明はまがいものであり、それは偽金だ。反対するとしても、私は文明に反対しているのではない---なぜなら、これは文明ではないからだ。文明ではありえないがゆえに、私はそれに反対する。これはまがいものだ。
こんな話を聞いたことがある---
ある人が前の英国皇太子に尋ねた。「文明についてどうお考えになりますか?」
「それはよい考えだ」と皇太子は応えた。「誰かが始めるべきだね」私はこの答えが好きだ。そう、誰かが始めるべきだ---まだ始まってもいないのだから。人間は文明を身についてはいない。ただそのふりをしているだけだ。
私はふりをするということには反対だ。私は欺瞞に反対する。人間は自分が文明人であるかのように見せかけているだけだ。彼をちょっとでもひっかいたら、そこには文明化されていない人間が見いだされる。彼をちょっとでもひっかけば、すべては善のはうわべばかりであり、ありとあらゆる悪が深く根を張っているのがわかる。
これは皮一枚の文明でしかない。すべてがうまくいっているとき、あなたがにこやかにほほ笑みを振りまいているとき、誰かがちょっとした言葉を、例えば侮辱の言葉を投げつけると、あなたは狂ったように怒りだして、いまにも相手を殺しそうになる。ほんの一瞬前までは、あなたはほほ笑んでいた。一瞬後には、相手につかみかからんばかりになり、殺人を犯しかねない顔が浮かびあがってくる。はたしてこれが文明だろうか?
人は真に瞑想的になって初めて文明を身につけることができる。世界に真の文明をもたらすことができるのは瞑想だけだ。ブッダたちがけが文明を開花させている。
これは逆説だ。ブッダは原始的なものに反対しているのではない---彼らは原始的なものを基礎として使い、子どもの無垢を礎として用いる。その基盤の上に大寺院が建立される。現在ある文明は子供の無垢を破壊して、それから偽金を与える。まずあなたの原始的無垢が破壊される。ひとたび原始的無垢が破壊されれば、あなたは狡猾に、ずる賢く、計算高くなる。そうして罠に捕えられたあなたを、この社会はどこまでも手なずけてゆく。
それはまずあなたを自分自身から疎外させる。いったん疎外されたら、次に偽金を与える---あなたはそれに頼らなければならない。真の文明はあなたの本性に対立しないし、あなたの子ども時代に対立しない。それはその上での成長になる。真の文明は原始的無垢にいかなる敵意も抱かず、むしろそれが花咲いたものとなる。それは高く高く昇ってゆくが、その根は原初的無垢に降ろされている。
この文明はまさに気違いざただ。地球全体が巨大な精神病院になっているのが見えないだろうか? 人々は自らの魂を失い、人々はもはや「人々」ではない---彼らは自己を失い、自らの個性を失っている。すべてを失っている! ただそのふりをしているだけだ。彼らは仮面をつけ、自分本来の顔を失っている。
私は文明に大賛成だが、これは文明ではない。だから私はそれに反対する。私は人間が真に文明を開花させ、文化を身につけることを望んでいるが、その文化はあなたのなかで育ってゆくしかない---外側から押しつけられるものではない。それは内側からのみ生まれてくる。
周辺にまで拡がってゆくだろうが、それは中心から起こってくるべきもの、起こってこなければならないものだ。
この文明はまさにその反対をやっている。ものごとを外側から押しつけている。世界中に非暴力の教えがある---マハヴィーラ、仏陀、イエス、彼らはみな非暴力を説いている。非暴力を説いたのは、彼らが非暴力を楽しんでいたからだ。だが、追従者たちはどうだろう?
---彼らはかたときも非暴力を楽しんだことがなかった。彼らは暴力しか知らない。だが、彼らは門人であるので、非暴力を装い、自らに非暴力を強い、品性を養っている。その品性は彼らの周辺部にあるだけだ。それは甲冑だ。深いところでは、いまにも噴火しそうな火山のように煮えたぎっている。そして表面には偽りの微笑み、プラスチックの微笑みを浮かべている。
これは文明ではない。それは極めて醜悪な現象だ。そう、私は非暴力が内側から生まれてくることを望んでいる。それは外側から強化されるものではなく、手助けされなければならない。それが「教育 education」という言葉の本来の意味だ。
それはちょうど井戸から水をくみ上げるのに似ている。教育とは引き出すことだ。それが「教育」という言葉が本来意味していることだ。だが、教育は何をやってきたか? それは何ものも引きださない---ただ詰めこむだけだ。それは子どもたちの頭にあれこれを詰めこみつづけている。子どものことは何ひとつ気にかけず、子どものことは考えていない。子どもはどんどん情報を詰めこんでゆく機械にされている。これは教育ではない!
子どもの魂が引きだされなければならない。子どものなかに隠れているものが引きだされなければならない。子どもは型にはめられるべきではないし、その自由は手づかずにされるべきであり、その意識が成長してゆけるように手助けがなされるべきだ。知識を増やすことは教育ではなない! <気づき>を増やすことが教育であり、愛情を豊かにすることが教育だ。そして教育が文明をつくりだす。
この文明は偽ものであり、その教育も偽ものだ。私が反対するのはそのためだ。私が文明に反対するのは、これが真の文明ではないからだ。OSHO THE TANTRA VISION, Vol1 「英知の辞典」p501
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