幻想の荒覇吐(アラハバキ)秘史―『東日流外三郡誌』の泥濘 原田 実
「幻想の荒覇吐秘史」『東日流外三郡誌』の泥濘
原田 実 1999/03 単行本 単行本 255ページ
Total No.3131★☆☆☆☆
ここで書かれていること、あるいは、その批評の対象になっていることどもの真贋について深く入り込むことは、当ブログの現在の進行にとっては、あまり意味のないことである。ここで書かれていることは、タイトルの陰に隠れてしまっているが、アラハバキそのものについてではなく、「東日流外三郡誌」という書物(?)の真贋についてである。
ニューヨーク州ペース大学心理学助教授のテレンス=ハインズは疑似科学と正統科学とを見分ける目安として、次の三つの特徴を挙げている。
1、反証不可能性
2、検証への消極的態度
3、立証責任の転嫁
さて、この三つの特徴に注意してみるならば、「東日流外三郡誌」真作説が疑似科学であることは疑問の余地もあるまい。p30「疑似科学の三大特徴」
対象や「真説」うんぬんはとやかく突っ込まないとして、とりあえず、この三大特徴とやらは、まずキホンとして頭に入れておこう。
当ブログは、現在、飯沼勇義の歴史津波研究のデータをもとに、当ブログの個的な探究を始めようとしている。いわゆるアラハバキ、ヒタカミ、ホツマ、の世界である。これらの世界に再突入するには、この三大特徴とやらは、ひとつの規範にはなってくれると思う。
あるいは、まずは当ブログにおいて、この原田実著の本をめくること自体、反証、検証への積極的態度、当事者責任、を全うしようとする態度である、としておこう。
キタニ ケンクワヤ ソショウガアレバ ツマラナイカラ ヤメロトイヒ 宮沢賢治
まさに、「北」にある、「喧嘩」や「訴訟」をとりあげている本書の主題は、個人的には私は「ツマラナイ」と思う。少なくとも、この本一冊を読んでも、得るところは少ない。
私がかつて昭和薬科大学の副手・助手(人文科学)として奉職していた当時、「東日流外三郡誌」をはじめとする和田家文書の調査に携わったことがある。
当初、その庁舎は和田家文書が真正の古文献であり、史料として貴重なものであることを証明しようという意図の下に始められたものだった。
和田家文書の稚拙な文体や矛盾した内容も、見ようによっては素朴さの顕れと解し得たのである。
ところが調査が進むに従って、当初の目的には不利な事実が判明してきたのである。p13「歴史偽造は許されるべきか」
著者がこの件に深く関わろうとした経緯が見えてきた。また、その立場であるなら、この件に関して関心のある向きには、この人にしか書けない貴重な意見となるだろう。
私が八幡書店に入社したのは1984年の春のことである。私の主な仕事は「ムー」に掲載する記事と広告を作成することだった。(その筆名の一つに「伊集院卿」があったといえば、古くからの「ムー」読者なら頷かれることだろう。p192原田 実「オウム真理教と現代日本の擬史運動」
まぁ、この辺りから推測するに、業界人たちの、目くそ鼻くそを笑うの類の一冊であろうと、うっちゃってしまうことは可能である。
ただ、この本が出版された1999年という年回りを考慮しなければならないだろう。1995年に発覚したオウム真理教事件の累々たるおぞましさは、すべての思想や思索に悪影響(あるいは反省)をもたらした。この時期にこのような本がだされること、あるいは、それに先立つこと、その対象の「偽証性」あるいは、いわゆる古代遺跡の偽証問題が度重なってみれば、その門外漢の私などは、さっさと、その場から足をひいてしまうのである。
だから、1990年前後からそれとなく興味をもってめくっていたいわゆる「ホツマ」本からは、さっさと手を引いてしまったのだった。それがよかったかどうかは、今となってはわからない。ただ、90年代後半はインターネットの脅威的な発展があり、そちらの動向に気を紛らわしていた、というべきかもしれない。
今回、飯沼史観によって、また「ホツマ」へ再突入しようとしている。そして、問題はいまだに、本質的には解決されていないだろうことを知る。
ガリレオ・ガリレイは「それでも地球は回っている」と言った。もし、飯沼勇義の生存中に3・11が起きなかったら、彼は、打ち首獄門に値する騙り屋として、ほおむり去られたことだろう。門外漢の私なんぞはその存在も知らずに一生を終えただろう。
しかし、時代は変わった。地軸が動いたのである。天動説が地動説になるほどの、大きな革命である。リ・ボルトだ。リボリューションである。
飯沼の技法は、「空白期」の研究である。なぜに「空白」が起きたのか。ここが検証も難しければ、反証も難しいところなのだ。しかし、彼は、立証責任感について、人一倍強かった。3・11をひとり「予言」し、「検証」に奔走し、万民の前に「立証」してしまった。私たちの時代のガリレオ・ガリレイだ。
何はともあれ、アラハバキ、ヒタカミ、ホツマ、の前には、検証も反証も立証も、かなり難しい面がある。その道は、必ずしも「正統科学」の道とばかりも言えない。時には、想像だったり、直感だったりする。そして、「真理」とは、かならずしも「正統科学」のみ立証できるものである、とは考えてならない。
もちろん、迷盲な偽りや騙りは最初から論外だが、立証不可能性、立証不必要性、そして、説明不可能性を、多く含んでいるのが、「真理」であると、まずは最初に肝に銘じておこう。そして、それを含み得るから偉大なる「科学」であるとさえ、言えるのである。
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