高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波「解き明かされる日本最古の歴史津波」<14>飯沼勇義
「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <14>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト
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それでは、「最古の歴史津波」とは何か。
今回、さらにわかった歴史津波があったことを加えたい。
・紀元前2500~1300年代 高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波
日本の歴史時代でもっとも古い、黎明期(縄文時代)に起こった最大級の津波である。
それは紀元前2500年代から紀元前1300年代(今より3313年前)の間に起こった津波であり、紀元前1300年代、歴史津波時代(縄文時代の2000年間)が終息期を迎えるが、この間、おそらく12回の歴史津波があったであろう。
最近、地質上の堆積物のボーリング調査を実施し、三千年以上前の津波堆積物の土砂が確認され、この歴史津波があったということの信頼度が非常に高まった。p8飯沼「18年前になぜ、巨大津波の襲来を予見することができたのか」
さて、高見産霊(たかみむすび)とは何だろう。このタカミムスビについては諸説あり、表記法も複数あるが、ホツマ辞典には次のようにある。
「タカミムスビ」(引用者注・原書ではオシテ文字)
初代天神のクニトコたちの子孫がヒタカミ(東北地方)に繁栄して、タカミムスビを代々名乗って七代まで続き、さらにその後にはヒタカミのカミとして十四代にも代を重ねて、感じ時代の到来を迎えた。本拠地の東北地方だけには止まらない、名家である。「ホツマ辞典」池田満著 p229
ではでは、クニトコとは誰か?
「クニトコタチ」
日本国のそもそもの創始者、トコタチともいう。立国の根拠にトノヲシテを据えて、文化立国或いは恵民立国としての日本の国柄の方向性を定めた。クニトコタチには、アマテルカミもトヨケカミも尊敬の念を常に抱き続けていたほどの偉人である。
クニトコタチの時代は、稲作以前であった。クニトコタチは、木の実の栽培を教え、住居の建て方を教え、暦を作って人々に生活の向上をもたらした。こうした、文化を授けることによって王権が成立してきた成り立ちは、ヲシテ文献の研究によって初めて明らかになった。
クニトコタチは、トノヲシテを建国の中心に定めて、クニ(国)の名をトコヨクニと名付けた。トコヨという名前は、日本国の最も初めの国号である。トコヨという語彙は、トノヲシテによって固まった(凝る)世の中の意で、トノヲシテに凝(こ)った世のことである。
クニトコタチの時代には、すでにオシテ文字が座右のものであったことが窺われる。トノヲシテを建国の要に据えたこと自体、ヲシテ文字がそれ以前に完成していたことを示す根拠といえる。「ホツマ辞典」池田満著 p133
こうして読み始めると、なんだかとてもホツマの世界が、人肌のように親しいものに見えてくる。この辞典では、「クニトコタチの本拠地はヲウミであったことが推定できる用例が『ミカサフミ』にある」(p133)と記されている。
さてさてさて、これらを踏まえて「高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波」とは、なんであったのであろうか。つまりは、このような神代の理想原始国家時代に起こった巨大地震であった、ということになろう。
ここでの著者の文脈を読むとこの2000年間の間に12回の巨大津波があっただろう、と推測している、ようである。
この「秀真伝」に、縄文時代を代表とする巨大地震と大規模津波は、紀元前1300年代、つまり縄文時代の後期から晩期の間に起こり、そして終息した---という記録が見られる。
紀元前1300年代、すなわち今を遡ること3313年前のこの地震津波のことを、「高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波」という。
それはこの古書の中の、「沖津彦火水土(ひみつ)の祓(はら)い」に書かれている。
地震のことを「国揺(くにゆり)」、津波は「龍濤(たつなみ)」と書いていて、縄文神の高見産霊・日高見国のことが克明に書かれている。
縄文神の高見産霊・日高見国が生存した聖地は、源流は青森県三内丸山遺跡、三代、四代は岩手県一戸御所の遺跡、五代豊受は北上川河口よりにある現在の宮城県石巻市桃生町太田地内と宮城県多賀城市の多賀城址地内、そして、阿武隈川の中流の宮城県角田市の島田地内である。
この高台から、縄文の神々が、初代から十四代道奥(みちのく)までの約一万年以上にわたって、縄文時代から西暦110年までの長い間、この巨大地震と津波の発生を歴史的に見届けてきた。
この高見産霊・日高見国の東方には牡鹿半島、さらにその東方の海域には宮城県沖とその周辺海溝があり、そこで起こった地震による大規模津波によって、広域の仙台地方は海になった、とある。飯沼 p29「はじめに」
ここまで書かれると、今年は、三内丸山遺跡と、一戸御所の遺跡を訪問見学参拝しなくてはならないのかな、と新年早々、そう思う。
さて、千葉ホツマのほうには、この「沖津彦火水土(ひみつ)の祓(はら)い」はどのように書いてあるのだろう。
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