中将藤原實方「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<16>
「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <16>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト
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「続日本紀」によると、天平神護2(西暦766)年、大和朝廷は名取の豪族・名取公龍麻呂(なとりのきみのたつまろ)へ「名取朝臣(なとりあそん)」の称号を授与している。この名取公龍麻呂の末裔が、平安時代、熊野信仰を広めた創始者・名取老女であろう。そして、この地に熊野信仰を呼びこんだのが、名取で死亡したと伝えられる、紀州熊野と不動の関係をもつ藤原實方(ふじわらのさねかた)であった。p168飯沼「歴史津波時代の津波終息期」
バイパスと並走して山際を貫いている、いわゆる東街道(あずまかいどう)を走っていると、大きな看板がある。
いつも見ている看板ではあるが、だから、どうした、といつも素通りである。貴族が左遷されてきて、落馬して死んで墓になって、だから、どうした、と、ちょっと醒めた気分ではあった。
しかしながら、ふと考える。もし、縄文時代に、東北ヒタカミは、言霊の栄える歌の国だったとして、ヲシテ文字が、五七調で書かれているのは、そもそもが、五七調なのは、オシテが先なのであって、短歌や詩歌の五七調は、そのオシテを真似たものではないのか。
そう考えると、いろいろなことがあてはまってくる。そもそもが中将藤原實方は、歌の名手なのだ。左遷されるにしても、歌心があったればこそ、歌の源であった、オシテ花咲くヒタカミへと呼ばれて行ったのではなかった。
本人は、そのことに実はぜんぜん気付いていなかった可能性さえある。ただ、歌を読む枕詞は、この東北=ヒタカミの地に多く残されていたのだ。
当時の東街道はぬかるみ道であったという。これもまた、仙台平野が歴史津波の常習地帯であったとするなら、なるほどうなづける話である。
落馬したのは、道祖神神社の前の坂道でだったという。道祖神もゆかりの深い古社ではあるが、本当の言われはよくわかっていない。道祖神の名前からして、アラハバキ=縄文神との繋がりを感じさせる。
落馬したのではなく、ヒタカミ側のゲリラ戦で命を落とした可能性もあるのではないか、と、歴史にはまったく疎いドシロートの私は想像してみる。、
この藤原實方を、歌読みの先輩として尊敬する芭蕉は、この墓参りをしている。言霊の華咲き誇るオシテの国、ヒタカミ=縄文の地を、二人は、それとも知らず、次第次第に呼びこまれていたのではなかったか。
農家の家屋敷林の裏にある實方の墓は、質素ではあるが、キチンと整理されている。ここは、多賀城のアラハバキ神社と違って、国有地だ。国が管理しているのである。
ほのぐらい参道の奥に、本当に静かに眠っている。墓とさえいえないような痕跡だ。
ここまで高貴な方が、こうまでして記録に残されているのはなぜなのであろうか。地元の地域おこしに、これ以上の素材がなかったのであろうか。
いやいや、そうばかりも言えないだろう。 藤原實方+西行法師+松尾芭蕉というビッグネームが、知ってか知らずか、その道の奥に目ざしたものは、五七調のオシテの歌の世界だったとしたら・・・・・
多くの人々の、意識や無意識に残っているデータは、どうしても、このランドマークを消すことは出来なかったのではないか。
この中将藤原實方の痕跡を、単に、ひとりの貴族が左遷されてきて殉死した地とだけ記憶するのは、筋違いというものかもしれない。
これは、この弧状列島に住まう人々の意識の奥深く秘められている、原風景を求める、スピリチュアルな旅の痕跡であったのではないだろうか。
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