てつがくカフェ 「フクシマの後で」 破局・技術・民主主義 ジャン=リュック・ナンシー<2>
ジャン=リュック・ナンシー (著), 渡名喜 庸哲 (翻訳) 2012/11 以文社 単行本: 208ページ★★★☆☆
どうしようかなぁ、と迷ったが、とにかく行ってみることにした。土曜日の夕方、5時から7時まで、まぁ、時間帯としては悪くない。場所はいまいちお手軽ではないが、土曜日の繁華街を突き抜けることもたまにはいいだろう。場所は中央図書館9階、オープンスペースに設置された一角のコーナーだった。
てつがくカフェ、で検索してみたら、哲学カフェとして国内でも各地にあり、そもそもはフランス発のようである。最初はフランスの誰かが言いだして10人くらいのあつまりだったらしいが、次第に参加者は増えて200~300人の集まりになることもあったらしい。
こちらでの集まりも、200~300人の集まりを想定していたので、まぁ、末席にでも座って、雰囲気をつかもうと思ったのだが、開場10分ほど前に会場に着いたところ、スタッフを除いては、私が最初の到着者だった。時間が到来しても、10人どころか、それ以下の参加人数だった。まぁ、それもよからん。
そう言えば、この建物に入る時に、一階入り口のところに大きな看板がかけてあった。「対話の可能性」。ふむふむ、なるほどね。
そもそも、こちとら、無料・参加自由・直接開場へ、という言葉に誘われてきたのである。無知、準備不足はやむを得ない。ひらきなおっていこう。
■てつがくカフェの読書会「震災を読み解くために」
「読書会」は、1冊の本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。参加者同士が読みながら話しながら触発し合って、ひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで深く「読み解く」ことをめざす場です。みなさん、ぜひご参加ください。
◎開催概要 考えるテーブル てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会
「震災を読み解くために」
1月25日(土)17:00-19:00 無料・直接会場へ
課題図書 ジャン=リュック・ナンシー著『フクシマの後で 破局・技術・民主主義』(渡名喜庸哲訳、以文社)をお持ちください。「せんだいメディアテーク・メールニュース 175」より
要領を得ないまま、他の人の発言に耳を傾けてみる。どうやら、この企画はすでに何回も会を重ねていて、昨年2013年4月29日から始まっていたようだ。、その結果は毎回レポートされていて、今回は9回目の集まりになるらしい。本来であれば、このレポートを一応読んでくるべきだったのだ(といいつつ、帰宅後、目を通したが、頭が痛くなったw)。
参加者も少なく、発言数もそう多くないので、間隙をぬって、自己紹介も兼ねて、とにかくナンシーの本のイメージについて話した。私は「破局」という言葉が一番気になったことを発言した。
いろいろあって、所定の2時間はあっと言う間に過ぎた。私としては、今回ここに来て何か得たものがあった、ということではないが、すこし場の状況が分かった。司会者は学生さんということだったが、空気の読めない老人がひとり迷い込んできたなあ、というイメージをもったかもしれない(爆)。他の人の迷惑になっていたら、ごめんなさい。
まずは、ひとつひとつお勉強。「破局」の英語はカタストロフィーだという。結婚が破局するとか、経済が破局するとか使う言葉のようにも思うが、ナンシーはナンシー流にこの言葉を使うので、それなりの背景を理解する必要があるのだろう(ああ、めんどくせ)。
カタストロフィーの語源にはカタルシスも近い位置にあると思うが、まぁ、破局という日本語だけでは、ナンシーのいうところには、なかなか行けそうにない、というのが、まぁ、一般人としての私の感触。
それと、「文明のフチ」という単語がでてきた。最初、話し言葉だったので、自分なりに「文明の淵」という風に理解しながら聞いていたのだが、それは大笑いで、実は、「文明の布置」という言葉使いらしい。
みんなの説明を聞いていても、なかなか意味がわからないので、持っていったiPadをネットに繋ぎ、布置を調べてみた。どうやらそれはユング心理学などで使われる、布置-偶然とは思えない「めぐり合わせ」という意味らしい。
ただし「文明の布置」という単語では、他で使われている風ではなく、この言葉で検索すれば、すぐにこのてつがくカフェのレポートページにつながる。他にはそのような言葉使いはなさそうなので、このカフェ独自の「地域言語」になっているのかもしれない。
いずれにせよ、少人数の参加者でありながら、それぞれの言葉の使い方に個性があり、統一性がないようにも感じられた。そもそも、私の他にも、初めて参加した人もいたからね。
それと、最初から最後まで、いまいち参加者の統一感のなかった言葉に、一般等価性という言葉があった。
マルクスは貨幣を「一般等価物」と名づけた。われわれがここで語りたいものもこの等価性についてである。ただし、これをそれ自体として考察するためではなく、一般的等価性という体制が、いまや潜在的に、貨幣や金融の領域をはるかに超えて、しかしこの領域のおかげで、またその領域をめざして、人間たちの存在領域、さらには存在するものすべての領域の全体を吸収していることを考察するためである。p25ナンシー「破局の等価性」
3・11後の被災地を見ながら、マルクスを考えるのもどうかと思うが、まぁ、何事もこのように難しくして考えるのが「てつがく」とやらのやり方なのだろうと、まぁ、首をかしげながら帰宅した。
次回、せっかくだから、続けて参加してみようと思うのだが、いざ出発する段になって、もう一度、迷うだろうな。
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追記2014/01/27
この会に行って、最初奇妙だなと思ったのは、「日本人が原発を受け入れた時から」というような発言があったこと。日本人(一億すべて)が原発を受け入れたということはない。常に反対運動はあったし、反対を主張した個人はいつもいた。この「一般化」する習癖は、ちょっといかがなものかな、と、無償に腹が立った。反論するチャンスがなかったので、ここに書いておく。
そして、原発が爆発したこと、そして、その後処理が悪かったことに対して、当時の管直人首相の対応が悪かった、というような意見が複数の参加者から出たこと。これには参った。私は、当時の管直人の対応が良かったとは思わないが、他のどんなことをしたら、原発は「早期に処理」できたであろうか。
3・11におけるフクシマは、地震が起きたことですべては決まった。その後の誰がどうした、などというのは、それこそ後の祭りだ。現在のフクシマの現状の、そもそもの原因は、原発を作ったことによる。それを推進した勢力をこそ暴きだすべきだ。
司会者から、誰の何に対してどう思うのかを話すように、という促しがあったが(全体に対して)、この原発論もまた発言のチャンスを失ったので、ここにメモしておく。
私は十分に発言のチャンスを与えられたが、あの二時間の中で、あれだけのテーマが詰め込まれていたら、私なら、ひとりで二時間をもらって、独演してしまうかもしれない。すくなくとも、たくさんの腹の「煮えかえり」を持ち帰ったことだけは確かだ。
次、あの会に行って、あのような発言があったら、司会者が持っていこうとする方向ではなく、まったく別な方向へ私が引っ張っていってしまいそうで、こわい。あの会はあの会で、貴重なものだから、そっとしておくのがいいのではないか、などと、ひとりごちる。
つづく
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