「3・11を読む」 千夜千冊番外録 松岡正剛著 <10>
「3・11を読む」 千夜千冊番外録<10>
松岡正剛 2012/07 平凡社 単行本 430p
★★★★★
出版直後に、しかも震災後の読書リズムもあまり本調子にならない時期に、一読したこの「3・11を読む」だったが、飯沼史観を根底に据えたあとに、もういちど松岡正剛の視点から「東北」を見てみようと思って、再読モードにはいろうと思う。
まず読みだしたのは「第五章 陸奥(みちのく)と東北を念(おも)う」。「大震災を受けとめる」、「原発問題の根底」、「フクシマとおいう問題作」、「事故とエコとエゴ」などの前四章も、避けては通れないところだが、まずは、ヒタカミに通じる「東北」あたりから、この本への再突入である。
第五章は、梅原猛の「日本の深層」について語る「東北の歴史が押し寄せてくる」p328から始まる。わずか20ページのところだが、さまざまなアクセス点がありすぎ、一読しただけでは、ふーっとため息がでるばかり。
そもそも松岡正剛の「千夜千冊」は、主だった本をダイジェストしてくれるところが、大きな魅力だ。その一冊ばかりではなく、著者の他書や類書を引用しながら、大体その本や著者を知った気分にさせてくれるところがいい。
梅原「日本の深層」も、当ブログが始まる前に一度手にとってはいるが、今、ここで出会ったから梅原日本学を再読しようという気にはなれない。それではとてもテーマが大きすぎて、すぐに飽きが来そう。今は、東北学でもなく、ヒタカミ学でもなく、じつは「仙台平野学」を進行しているのが、当ブログなのである。
当ブログは、自らを一時読書ブログとは言ってはみたものの、決してダイジェスト・ブログではない。むしろ敢えてダイジェストを避けてきたといえる。それは、個人の志向性や個性のなせる技でもあり、ダイジェストすること能力のなさを暴露しているともいえる。
もし一冊の本のなかに、一行でも、読む者を惹きつける文章があれば、それで当ブログにおいてはレインボー評価にさえなる。それはそれで、書き手個人にとっては意味がある。この松岡流ダイジェストにおいては、梅原のおいたちから語られる。
梅原猛の母親は石巻の渡波の人である。石川千代という。父親の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで北に移り住み、そのときに石川千代と出会い、梅原猛は仙台で生まれた。
けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母は悪化したまま一年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父の実家近くの知多の片田舎に送られ、そこで伯父の梅原半兵衛の子として育てられた。
このことは長く伏せられていたらしい。梅原自身の仙台に生まれたことや、養父と養母以外に実父母がいることをずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。p328
ここで梅原東北学に本格的に再突入する気はない。梅原東北学には、ルサンチマンはあっても、生活がない。地道に自らの足で歩き、なんども訪問を重ねては思索するという、地道さが少ない。
飛行機で飛んできて、飛行場で有名教授たちに迎えられて、高速道路を車で回り、そのルポを発表すれば、すぐ多くの人の目にとまり、反響がある、という、ある種、独特な環境にあるのが、これらの人びとの東北学だ。
だから、価値がない、とまでは言わないが、飯沼史観が成立してくる過程を考える時、比較しようがないほどの、重層な生活感を飯沼史観は代弁し、提示する。
3・11後におけるゲーリー・スナイダーの東北訪問も、ごくごくありきたりなものだ。先見性やカウンターカルチャー性によってたつスナイダーではあるが、こと日本の東北学においては、本当の価値ある研究を残してはいない。
だからと言って、梅原やスナイダーの価値がまるでないとは言えないが、飯沼史観の重層な歴史津波学に遭遇すると、それらの皮相さが、一層際だってしまう、ということだ。
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