OSHO「英知の辞典」 <33> 受容性 RECEPTIVITY
<32>からつづく
「英知の辞典」 <33>
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
受容性 RECEPTIVITY
神は探している・・・・・・私たちが神を探す必要はいっさいない。たとえ探したとしても、みつけることはできない。なぜなら、私たちは神がどこにいるのか、彼が誰なのか知らないからだ。たとえ神がすぐ目の前に現れたとしても、あなたは彼を見分けることができない。
なぜなら、何かを見分けるためには、前もってそれを知っていなければならないからだ。見分けるとは、誰かを前にも見たことがあるということだ---だが、これまでに神を見たことがないのだとしたら、どうやって探し、どうやって確認したらよいのか?
真理を探すことはできない---人はただ受容的になる、ただそれだけだ。扉を開けて待つことができる・・・・・それも祈りに満ちて待つ。人はただこう言うことしかできない。「あなたがいらっしゃるのなら、どうぞいらっしゃってください----歓迎します。
私はあなたがどなたなのか知らないし、あなたの住所を知らないし、招待状を送ることさえできません。でも、あなたが誰であれ、関係当事者が誰であれ、おいでになるのなら、私の扉は開かれています----それが閉じているのを目にすることはないでしょう」 探求者にできるのはそれだけだ・・・・・それがなされねばならないことのすべてだ。それ以上は可能ではないし、また必要もない。
だから、この姿勢をあなたの深い態度にしなさい。人は受容的にならなければいけない。真理の探究は男性的な探求ではない、と私が力説してやまないのはそのためだ。それは女性的な探求だ----女性的なエネルギーのように、受容的だ。男性のようでは----攻撃的ではない。
男性的な心(マインド)が科学をつくりだした。科学は攻撃的だ。それはほとんど自然に対する強姦だ。それは自然にその秘密の明け渡しを強いる暴力的な試みだ。それは優しくはない。そこには祈りがない。ただ闘争しかない。「自然の征服」「自然を征服する」ということが言われるのはそのためだ。
だが、これはばかげている! どうして自然を征服することができるだろう? ----あなたはその一部だ。この手が私を征服できるだろうか? 手は私の一部だ。木の葉が木を征服することができるだろうか? 愚かしい、まったく愚かしい!
この愚劣さから、私たちはあらゆるものを征服しようとするこの文明をつくりだした。それは男性が支配する世界だ。男性による支配と言うとき、私は攻撃的な心のことを言っている。攻撃的な心をもっていたら女性も男性であり、受容的な心を持っていたら男性も女性だ。科学は男性的であり、宗教は女性的だ。
宗教はただ深い受容性・・・・・受け容れる姿勢、開かれた扉だ。神が客人としてやって来るのなら、彼は拒まれない。ただそれだけのことだ。それも彼は大いなる感謝とともに迎えられる。彼は歓迎される客人だ。
だから瞑想し、歌い、そして踊り、だが内側深くには歓迎するハートを持ちつづけなさい。あらゆることは正しい時にやって来る・・・・・正しい時が来るまでは何ごとも起こらない。
それはいいことだ----正しい時が来るまではそれは起こるべきではない。早めに起こってしまったら、あなたはけっしてそれを理解し、それを消化することができないだろう。それはけっしてあなたの一部にはならないし、むしろ重荷にさえなるだろう----有害なものになってしまうだろう。 THE SHADOW OF THE WHIP OSHO p290
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