シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その3 スピリット・オブ・プレイス資料「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」<7>
「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」 <7>
リズ・ダベンポ-ト/平石律子 2002/09 草思社 単行本 222p
シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その3 スピリット・オブ・プレイス資料
これでもだいぶ処分したのだ。処分してから、あれはしまったかな、と反省することもなかったわけではない。しかし、そもそも反省するかもしれないからこそ捨てられないのであって、そこを乗り越えていかないと、「ぐちゃぐちゃ」生活は延々と続いていく。
その中にあって、いまだに頑固に存在しつづけている資料集もある。国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台1991」(略称SPS)。すでに23年前の記録である。あえていうなら、一世代が経過してしまったのだ。あの時、まだ小学生だったわが家の子供たちも、成人して、それぞれに家庭をもち、それぞれに子供をもって生きている。
もはや不要とも思える資料集だが、これは捨てられずに今日まできた。段ボール箱ひとつ。もはや何が入っているかでさえ、自分でもよくわかっていない。当時の資料をぐちゃぐちゃにひとつにまとめていれているだけだ。すでに天井ロフトの固定席にうずくまっている状態だ。
でも、今回、これらを捨てるにしても、中身を確認してから捨てよう、と思い始めた。それにはいろいろな理由がある。
1)イベント後、きちんと総括しようとしていたが、その機会がなかなかこなかった。
2)あまりにも大きなイベントであったために、巨視的に捉えることができなかった。23年が経過して、いまこそ開いてみる価値はあるかもしれない。
3)現在当ブログが遡及しているホツマ世界も、実はこの時代の一部を形成しているものなのだ。
4)そもそも、このシンポジウムの提唱者であるジェームス・スワンの本に、序文を書いているのは誰あろうジェームス・ラブロックだった。ガイア思想の表現者。このヒトの存在をもう少し洗い直してみたい、と思っていた。
5)環境保護派と見られながら、実は原発推進、という、不思議な存在。ここは虚心坦懐に、脱やゼロばかりではなく、推進、という立場を、3・11を体験したあととして、もう一度捉え直してみたい、と思うのである。
6)そもそも、あれから一世代が経過したのである。半年間の生活を投げうって参加したあのシンポジウムの成果は、これだけの時間が経過したあと、実際には、どれだけの効果があったのか。
7)成果があったのか、なかったのか。
8)このシンポジウムについて、どこかで再燃するかな、とネット上を注視していたが、ほとんどその動きはない。中心人物であると目されていたK氏も3・11後にガンで亡くなった。その葬儀において友人代表として挨拶したヒトが、ネット上の私の書き込みを見て、感想を言ってくれた。その程度である。
9)3・11後をいかに生きるかにあたって、まずは、このSPSについて、すこしづつ再考する方向で考えてみたいと思う。
| 固定リンク
「24)無窮のアリア」カテゴリの記事
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>(2014.04.07)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>(2014.04.07)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<6>(2014.04.06)
- OSHO「存在の詩」第1号 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ(2014.04.05)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<5>(2014.04.06)
コメント