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2014年1月の47件の記事

2014/01/31

「聖なる場所」  地球の呼び声  ジェームズ・A.スワン <2>

<1>からつづく 

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「聖なる場所」 地球の呼び声  ジェームズ・A.スワン /葛西賢太・訳 1996/05 春秋社 ハードカバー p296

 ずっと以前より、この本に取りかかろうとしているのだが、全然始まらない。この調子ではいつになるか分からないので、断片的なメモだけでも残しておくことにする。

 SPSの提唱者であるスワンのこの本の序文はジェイムズ・ラヴロックである。わざわざ表紙にも明記してあり、当時のスワンに対するラヴロックのネームバリューの大きさが知れるというものだ。

 ガイア仮説、ガイア理論のラヴロックがビッグネームであることは否定できない。20世紀後半の大きな指標となった仮説=理論である。しかるに、当ブログとしては、どうも納得いかないまま、この人物との距離をつめることができないでいる。

 一つには、いまだにガイア仮説を目下唯一の拠り所とするかのような論説を見かけるのだが、このラヴロックと言う人はバリバリの環境保護=エコロジストの先頭に立っているのか、というと、そうでもないところがありそうだ。

 どうかすると、むしろ、原発推進派だったりする。それは地球温暖化のほうに力を置いていて、放射線の害よりも、地球温暖化のほうが大変だ、ということになっているようだ。

 彼の影響を受けていると思われる「ホールアース・カタログ」のスチュアート・ブランドも、反原発から原発推進派へ「転向」してしまったかのように言われているからだ。実際に自分の本にもそう書いている。

 まぁ、よくよく考えてみれば、放射線で人類が住めなくなっても、地球そのものは残るだろう。温暖化の方が、環境の変化という意味では大きく影響する、と言われれば、そうかもしれない。

 いずれ人類は滅亡するのだし・・・・・・。

 でも、3・11の前後で、多くの識者が、自らの立場をひるがえしたり、あらためて問いなおしたりしている。これらの環境派的「推進派」の現在の心境を調べてみたいなぁ、と思いつつ、いまだに、着手できていない。

 そういう意味で、とにかく、今回は、この本をネタに、メモだけしておく。

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「一般意志2.0」 ルソー、フロイト、グーグル 東浩紀

東 浩紀 (著) 2011/11講談社 単行本: 266ページ
Total No.3171★★★☆☆

 てつがくカフェとやらに、ようやく参加してみようかな、と思ったのはごくごく最近のことである。タイトルも、使われる本も、私にとっては距離がある。敷居が高い、というより、距離感があるのである。

 先日、ジャン=リュック・ナンシー「フクシマの後で」 破局・技術・民主主義、とやらを話題とするてつがくカフェに参加してきたのだが、まぁ、あんなものかなぁ、というのが率直な感想。そもそも2時間で、約10人程度の「読書会」がそうそうまとまるわけもないのだが、ただ、その場の作り方のほうに関心があった、というのが本音かも知れない。

 ナンシー読書会はすでに8~9回続いているらしく、私の他にも新しい参加者がいたが、それでも、すでに議論は熟し始めているらしく、途中から入るのも、ちょっと怖気づくところがある。

 なにはともあれ、一通り目を通して行ったのだが、他のメンバーの話を聞いていると、いろいろな読み方があるのだなぁ、と感心するやら、困惑するやら・・・。でもやっぱりこの本は、七面倒だなぁ、と思っていた。

 ところが、他のメンバーも、そうそう易々と読んでいるわけでもなさそうで、次回からは、趣向を変えて、こちらの「一般意志2.0」を話題にするという。おやおや、あわてて、こちらも読んでみることにした。

 著者は1971年生まれの若い人である。あはは、若い人と言ってしまった。1970年というと、どうしても最近のように思ってしまう癖があるが、実際には、すでに40代に突入した立派な「中年」の方である(笑)。著者についてはどこかで名前を見かけたことがあるが、当ブログでは、「ネット社会の未来像 IT時代のジャーナリズム」(2006/1 春秋社 共著)で、一度ご登場願った程度である。

 いわゆる在野の哲学者、という分類であるようだが、諸説ある。この本は、2009年から2011年春までの1年半の間に雑誌に連載された文章をまとめたものであり、つまり、著者30代の総まとめ的位置にある本であろう。

 実際には3・11とほぼ同時に連載が終わり、その半年後に出版されたわけで、3・11を大きく取り込んだ本とはなっていない。また、出版されてから2年半経つので、彼が取り上げているネット社会の状況などは、すこし変化しているようである。

 この本のサブタイトルには、「ルソー、フロイト、グーグル」とあるように、いわゆる三大話し本であり、この三つの要素の位相を展開しているのだが、結局は、グーグルに象徴させている現代のネット社会のありようを考慮している、と言っていいだろう。

 要約するのは苦手だし、当ブログの任ではないので、極論すると、ルソーの「一般意志」を、フロイトの集合的「無意識」をくぐらせながら、現代社会のグーグルに代表される蠢きを、「民主主義」という下敷きに会わせながら、考慮している、ということであろう。

 いきなりルソーを持ってきたところに、どれほどの意味があるのかわからないが、「一般意志」という言葉を借りるには、ルソーを持ちださなければならないのはわかる。フロイトに関しては、古典的とはいうものの、コンシャスネスを語るなら、いまやフロイトでは古くて、意識、無意識論に加えて、超意識論まで持ってきていただかないと、本当に先端的とは言い難い。

 ネット社会については日進月歩、秒進分歩の発展途上であるので、3年前の論述ということを考慮しても、ミクシー民主主義、グーグル民主主義、の寓意は、やはりちょっと的外れになっているのではないか、と私は思う。

 いまでは、話題はフェイスブックはともかく、LINEとかより新しいトレンドに移りつつあるようで、なかなかこの手の話題の作り方は難しいな、と思う。

 とにかく一回読んだ。この本をテーマとしたてつがくカフェとやらに、私はあらたにまた行くのかどうか定かではない。行って見たい気分と、もうどうでもいいや、という気分が半々である。

 その原因は、結局は、この本にも書かれている「民主主義」という奴に、今後、もっともっとくっついて魅力をしゃぶりつくしてやろう、という気力が私にないのである。どうも、もう、諦めてしまっている、感じがする。どうにもならんな、という投げやりな気分があるのだ。

 しかし、いやいや、そうはいかんぞ、なんとかせにゃいけん、という気持ちもないではない。もし、この気分が大きくなれば、次回のてつがくカフェとやらに、参加することになるのだろうが、やっぱり、いまのところは、どうなるかわからない。

 

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居心地のいい「ミニハウス」---羨望の35軒 「可笑しな小屋」 ジェィン・フィールド=ルイス <1>

ジェィン・フィールド=ルイス (著), 松井 貴子 (翻訳)  2013/12 二見書房 単行本: 155ページ
Total No.3170

 ここに登場するのは、自分だけの私的な空間です。住むための住居とは別の建物で、好きなようにスタイリングし、飾りつけをし、気ままに仕事をしたり休息をとるための場所。どの小屋も、持ち主の願いをずばり叶えています。よくよく考えてつくられた空間は、アーティスト、文筆家、園芸家、ミュージシャン、環境運動家、職人、デザイナー、小さなビジネスを営む人など、持ち主が孤独な思索にふけり、創造力や成果を大きく育てる苗床なのです。

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 こうした小屋の魅力の一つは、ふつうの家の作り方ではなく、持ち主が個性的な方法で自分自身を自由に表現できることにあります。思いがけない美観を生み、流行やトレンドを追う必要もない、新しいスタイルを目に見える形にした小屋・・・・・。

 それが持ち主の個性、価値観や信念に根ざしていることは言うまでもありません。小屋をつくるのにしきたりに従う必要はなく、だれもが自分ならではの空間をつくっています。思いもしなかった斬新なデザインのアイディアが生まれることも少なくありません。p8ジェィン・フィールド=ルイス「はじめに」

 ガーデンハウス、ガレージオフィス、天井ロフト。それぞれに試行錯誤しながらも、なかなか楽しく、まぁ、だいたいこんなところかなぁ、と納得し始めていたところであった。そもそもは、土地があり、そこにエコビレッジを作ろう、と始まった「衝動」だったが、いまや完全に「個」的なものになっている。

 「共」的な縛りを考えるのも面白いのだが、結局、私の「衝動」は「個」へと打ち上げられてきた。だが、どうもいまいちである。何をどうするにしても、なにか「能書き」が必要となる体質が抜けきらないようだ。

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 ここに来て、寒さゆえもあって、どこか低調だった「創造」だが、意外や意外、この本にであって、やたらと刺激されまくりである。この「可笑しな・・・」ってやつのシリーズには色々な本があって、先日は、「可笑しなクルマの家」に痛くくすぐられたところであった。

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 でも、エコビレッジという縛りを外すと、その中を移動する必要もないし、防犯も厳しい自然環境も考えなくてもいい、自宅内の「小屋」づくりも、今後、もっとバージョンアップできることが分かってきた。

 収納されている自転車やバイクも、ちょっと考えれば、魅力的なオブジェとして飾ることもできる。先日、太陽光パネル工事の時に余った資材も、ただ軒下に積んでおくだけではなく、さっそく改築アップの材料になるのではないか。
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 考えればいろいろアイディアがでてくるものである。いままで制限枠としてあった部分が、実は、あらたなる創造源だったりする。旧暦、太陰暦では、正月も過ぎ、いよいよこれから日が長くなり、春に向かって暖かくなる。

 どこか縮ぢこまっていた体が、少しづつ、伸びを必要とし始めたようだ。この本には、作家バーナード・ショーのチャーミングな小屋も紹介されていて、目が釘付けになった。

<2>につづく

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2014/01/30

必見!2月10日まで 映画『100,000年後の安全』(日本語吹き替え版)本編 フィンランド オンカロ

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映画『100,000年後の安全』(日本語吹き替え版)本編
「Into Eternity」  監督 マイケル・マドセン(Michael Madsen) 2010/01 オランダ、フィンランド他 1時間18分
Total No.3169

 もう、みんな見ただろうか? 私は3回見た。もうすこし経ったら、またみてみたい。東京都知事選にあわせての無料公開だから、2月10日までという。もしまだ見ていない人がいたら、ぜひ見たらいいと思う。フィンランドのオンカロのドキュメンタリー映画である。

 このブログを始める直前ころだったか、7~8年前に、県立図書館をぶらぶらしていたら、正確なタイトルは忘れたけど、「人類の英知 核廃棄物の地層処分」というようなVHSビディオがあって、びっくりしたことがある。

 3・11前だったので、一般的な原発への関心は薄い時代だったが、推進派はちゃくちゃくと、このようなテープを大量に生産して、公立図書館に埋め込んでいるんだなぁ、と感心するやら、ゲップがでるやら、とんでもない心境になったことがある。

 当時も今も、核廃棄物の処分方法は、唯一、地層処分しか現実味がない。そして、その地層処分の、唯一の現実的な推進プロジェクトはオンカロしかない。しかも、その収容能力は、わずか原発2台分で、フィンランド国外のものは一切受け付けない計画という。

 この手のものを、国内で少なくとも数十個から数百個つくらなければ、日本の原発のトイレは確保できない、ということになる。金を出してシベリアに持っていけばいい、などという乱暴なことをいう政治家もいる。いずれにせよ、この地球に10万年後ですら無害にならない廃棄物を残さざるを得ないのが、現在の地球人のありかたなのである。

 すくなくとも、今、即原発ゼロになったところで、いままで作りあげてきた廃棄物のために、それだけの負担が残ってしまったのだ。この事実を直視するしかない。

 私なんぞの本音は、かなり絶望的で、ああ、やはり現在の地球人は、毒喰らわば皿までで、どこまでもいくつもりなんだなぁ、と、あきらめつつある。

 どっちみち、この地球が破滅する前には、私の個人的な寿命は尽きるから、いいけど・・・・・なんて、いい加減なことを考え始まる。

 でもさ、今朝も、まだ生まれたばかりの孫を湯船に浮かばせて、女房と二人で洗っている時、それは絶対できないと思った。おじいちゃん、その時、何をしたの? って聞かれたら、私は墓場に行っても、隠れるところがない、と思った。

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 初夏にはもうひとり孫が増える予定。孫たちと遊ぶのは大好き。孫たちが元気に育って、立派な地球人になって、有意義な人生を送ってほしい、と思う。だから、今、原発を考える。

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2014/01/29

エックハルト・トール わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます パワーオブナウ宣言 飯田史彦・責任翻訳


「 わたしは『いま、この瞬間』を大切に生きます」 
エックハルト・トール (著), 飯田 史彦 (責任翻訳)  2003/07 徳間書店 箪行本: 170ページ
Total No.3168★★★☆☆

エックハルト・トール。1948年ドイツ生まれ。本名はウルリッヒ・レオナルド・トール。いつの頃からか、エックハルトと自分で名前を変えたらしい。エックハルトと聞くと、マイスター・エックハルト「神の慰めの書」を連想する。

エックハルトは教育を受けなかった。多くの神秘家が無教育だったというのは不思議だ。教育はどこか間違っているに違いない。そして人が神秘家になるのを妨げている。確かに、教育は破壊する。幼稚園から大学院まで、25年間というもの、教育は人間の中の美しいもの、美的なものを破壊し続ける。蓮の華は学問によって押し潰される。薔薇はいわゆる教授、教師、総長というような人間たちに殺される・・・・なんともまた素晴らしい名前を自ら名乗るものかね。
 真の教育はまだ始まっていない。それは始まらければならない。それは頭の教育ではなく、心(ハート)の教育になる。男性的なものではなく、女性的なるものの教育だ。
OSHO「私が愛した本」p124

 Oshoは、13~14世紀のドイツに生きたエックハルトは、東洋で生まれるとよかっただろうに、と残念がる。

 多分、ウルリッヒ・レオナルド・トールは、自らの名前を変える時には、この8世紀前のドイツの先輩を、自らに重ねていたかもしれない。

 さて、この翻訳者の飯田史彦という名前だが、当ブログでも、何点か著書を読んだ気がする。「ソウルメイト」(2005/9 PHP研究所)。あとは検索できない。この人を検索すると、図書館には30冊以上あるにも関わらず、今だ深追いしなかったところを見ると、一読者としての当ブログは、必ずしも、自らの方向性と一になるものと見ていなかったのかもしれない。

 最近、クルマを運転中にカーラジオを聞いていたら、教養番組で講師がうまいことを言っていた。「よく言われることですが、翻訳という仕事はとても興味深い仕事で、それはまるで楽譜を見ながら、演奏するに似ているのです」ということであった。なるほど、うまいことを言うもんだな、と感心した。

 とするなら、エックハルト・トールを日本語で読むということは、その楽譜を飯田史彦という演奏家がどのように演奏するのか、という興味になってくるのかもしれない。

 もし、楽譜が完璧であっても、演奏者がドジを踏めば、聞けたものではない、ということになってしまいかねない。しかしながら、凡庸な楽譜であっても、演奏者の腕次第では、まれにみる名曲になる、ってことだって、あるかもしれないのだ。はて、この本においてや、どういうことになっているだろう。

 エックハルト・トールは、Youtubeに結構短いビディオがアップされていて、だいたいどのような人か、それを見ただけでわかる。ごく気さくな服装で、若干猫背、歯は虫歯があるのか、煙草の吸い過ぎか、ちょっと黒いように見える。そして、話しながら、ちょっとはにかむような笑みを浮かべる。なんともチャーミングな男だ。

 SNSでちょくちょく友人たちがアップしてくれているので、気にはなっているのだが、キチンと彼の本を読んだことはない。図書館にはこの本を含め数冊入っている。必ずしも多作な「作家」ではないようだ。

 「地球人」で検索すると、当ブログなんぞは、ずっとずっと末席のほうにしか登場しないが、まっさきに登場するのは、「地球人のためのスピリチュアル・レッスン」とかいう奴。あら、お先にやられたな、とは思うが、まぁ、「ジャーナル」と「レッスン」では、ちょっと矛先が違うから、いいか、と思っていた。

 でも最近気付いたことだけど、この「地球人のためのスピリチュアル・レッスン」とやらは、ひょっとすると、エックハルト・トールの「教え」を下敷きにした一連のセミナーやトレーニング、セラピーなのかもしれない。

 ところで、この本にある「飯田史彦=責任翻訳」とはどういう意味だろう。いままで無責任翻訳という単語も聞いたことがないが、責任編集とやらは聞いたことがある。むかし、「面白半分」という雑誌が、半年か一年に編集長を有名人でとっかえひっかえ変えていた時、責任編集という言葉を使った。実際は、もともとのスタッフが行ない、セールスプロモーションで有名人の名前を出していたように思う。

 となると、はてさて、飯田史彦は有名人なので、監修とかではなく、お飾りで、本当の素の翻訳は、別なスタッフがやったということだろうか。あるいは、内容を、キチンと、全うに翻訳したぜ、という翻訳者の粋がりが、このような表記にさせたのだろうか。出版社が、徳間書店、というのも、なんだかなぁ、と、ちらっと思う。

 本書は、2002年に徳間書店から出版された「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」(E・トール)の要点を、実践的に解説したものです。「つらい過去や未来への不安を手放し、『大いなる存在』とつながって『今』に生きよう」と述べた前作は、テロ攻撃で打撃を受けたアメリカの人々から、心の拠り所として大歓迎されました。一方、日本では、前作は一定の評価を受けた反面、疑問の声も多数あがりました。p168飯田「翻訳者の言葉」

 なるほど、楽譜どおり演奏してみましたが、聴衆が納得しなかったので、自分なりに編曲しなおしてみました、ってことなんだね。

 私が日本人の読者にご提案したいのは、本書の内容を鵜呑みにするのではなく、「本当にそれで良いのだろうか?」「自分にフィットしているだろうか?」と、懐疑的に読み進めてみることです。p170飯田「翻訳者の言葉」

 もとより当ブログは、物事は鵜呑みにしないで、すべて懐疑的にみるようにはしているが、これもまたワンパターンになるから、あの手この手といろいろ作戦は変えてみる。いずれにしても、アメリカほどは受けなかったので、日本人向けに味付けしなおしてみました、ってことだけど、このマーケティング、うまく行ったのかな?

 いずれ、この本よりは「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」のほうが、より楽譜には近い、ということになるのかしらん。

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楽しく快適! 40軒のライフスタイル「可笑しなクルマの家」 こんな「運べる家」で暮らしたい ジェィン・フィールド=ルイス他 

「可笑しなクルマの家」 こんな「運べる家」で暮らしたい
ジェィン・フィールド=ルイス (著), クリス・ハドン (著), 松井 貴子 (翻訳) 2013/10 二見書房
Total No.3167★★★★★

 新刊本コーナーでこの本を見つけて、ふと思い出した。そうそう、3・11の当日の午前中まで、私は、この本に書かれているようなことを夢みていたのだった。読んでいた本は、ビル・モリソン「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」。実際に土地の候補も見つかり、資材を運びつつあった。

 そして、その最初のベースキャンプにすべきキャンピングトレーラーの、手頃なモデルがネットオークションでみつかり、入札していたのだ。翌日3月12日が、落札日で、絶対落としてやろうと、手ぐすね引いて待っていたのだった。ところが、あの大震災。オークションどころか、電源も落ち、ネットさえ、完全に接続不能になってしまった。後で調べたら、やっぱり別の人に奪われてしまっていた(涙)。惜しかった。

 この事は私しか知らない。事前に奥さんに知らせたら、絶対に反対されたと思う。彼女ときたら、寒いところは嫌だというし、夏は蚊が嫌いだ、と来た。これではキャンピングなんてできるわけがない。私なんぞは、寒いからキャンプがいいのだし、蚊がいるからこそ対策を考えるのである。

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 根本的には、3・11前であろうと、3・11後であろうと、人間の生き方に大きな違いがあるわけではない。3・11を見て、反省して、原発推進派から脱原発派になった、という人はいるかもしれないが、推進の張本人である大政治家が、猛反省して、脱原発で政治活動を再開するなど、私には信じられない。必ず何処かで、また翻意するのではないか、と要らぬ疑心を持つに至る。

 なにはともあれ、私は、このような本が大好きなのだ、と自分ではっきり分かった。そして、それをどう生活に取り入れていくかだが、実際には、やはり今後もキャンピングトレーラーを購入する可能性は残っている。

 いま選ぶとすれば、すぐ近くにあるキャンピングカー専門店で中古車を選ぶか、米国発のALINERという奴だろう。

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 最小クラス新品で71万円。牽引システムや税金、オプションも付ければ100万弱になってしまうだろうが、まったく不可能な数字ではない。あるいは、ちょっと上級クラスのものを選んでも150万くらいに収まるのではないだろうか。

 でも、そう決意しかかると、またまた、鬼のような奥さんの顔が浮かんでくる。100万~150万もあるなら、もっと優先すべきことがあるのではないですか?! あ、はい、ごもっともでございます。

 やはり、3・11前も・3・11後も、私の生活は、それほど大きく変わってはいない。

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「福島原発事故 県民健康管理調査の闇」 日野 行介


「 福島原発事故 県民健康管理調査の闇」
日野 行介 (著) 2013/09 岩波書店 新書: 240ページ
Total No.3166★★★★★

 著者は1975年生まれの毎日新聞の記者。記者と書いて、あらためて「記す者」の意味を問うて見たくなる。それはジャーナリストという英語のまさに正確な訳語ではないだろうか。少なくとも、社会の共通事項について、誰かが自らを「記す者」として自覚しつつ、記録し続けなければならないのだ。その職務たるや重要である。

 福島原発事故にともなう、県民の健康管理はどうなっているのか、隣県に棲んでいながら、なかなかその実態が分かってくるものではない。分かったとして、どうしようもないのだが、そもそも、分からせないようにしている力があるとすれば、それは困ったもんだ、と非難したくなる。

 最近、年明けての昨年末であるが、福島の知人が胃ガンで、胃全撤手術をした。数週間前に小さなガンが見つかったからである。他に方法がなかったかどうか定かではないが、とにかく緊急の手術であったようである。

 三十代後半の女医さん。ご主人も医師。福島県内の病院に勤務している。3・11当時は、勤務地の南相馬郡に、家族で生活していた。ご本人の弟も外科医、伯父さんも公立病院の院長を務めた医師である。その医師ファミリーの決断だから、外部にいる私がどうのこうのいう必要はなにもなかろう。

 小学生の上の子と、まだ幼稚園の下の子がいる。これからが子育て最重要時期にさしかかる時だった。家族は一時、最悪のことを考えたらしい。そこで、小さなガンのうちに全摘してしまおう、ということになったらしい。

 幸い手術は成功し、あとは転移が起こっているかどうかの精密検査があるらしい。「命だけでも助かってほしい」という家族の願いは今のところかなえられている、と思われる。

 身近なところで、こういう事例が起こると、私などはあらためて、この病気と3・11は関係なかったのだろうか、と大きな疑問に包まれる。その因果関係は分からない、というのが誰もの考えだろうし、誰もが、関係あるかも、という疑問に包まれるはずである。だが、その因果関係を「証明」することはできない。

 この本における表題のごときテーマについては、正直言って、本当の当事者ではない身の上では、そもそも留意してこなかったし、聞いてもピンとこないところがある。しかしながら、いずれ大事な情報ソースとなるに違いない。

 記者なのだから、自ら勤務する新聞に堂々と発表すればいいだろう、とは思うのだが、質、量とも、こういう形で新書としてまとめられることになったのだろう。

 年1ミリシーベルトの被ばく量、などと表示される科学データである。計算してみると、私の住んでいる「原発から90キロ地域」では、まずまずその範囲に留まっているようだ。まぁ、ここは人間が住んでてもいい地域か、と思う。

 しかしながら、フクシマに向かって近づき始めると、明らかにその濃度はあがる。県境までいくと、明らかにその数字は上がり、年換算すると、年数ミリシーベルトレベルまで上がるところが結構ある。晩年に移住して、私たち夫婦も土と混ざりたいなぁ、と思っていた農地も、このレベルにある。私たちのセカンドライフの計画は、それで頓挫しているようなものである。

 そもそも専門家たちには全幅の信頼を持ってお任せして、自分たちは安心して暮らしたい、というのが、ごくごく一般的な私などの考えである。専門家たちは、あまり「秘密」や「裏」や「闇」の世界をうごめかないで、正直に、正確に、適格に情報を流してもらいたいものだと思う。

 そういった意味において、記す者としての専門家である「記者」が、自らの職業的使命感のもとに、このような一冊を残しておいてくれることは、とても大切なことだと思う。現在の私には、この一冊ですら、スラスラと読める状況にはないが、しかし、あとあと考えれば、このようなジャーナリズムこそが、本当に必要だったのだ、と痛感する日が来るような予感がする。

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2014/01/28

「屋久島―日常としての旅路」 日吉眞夫


日吉 眞夫 (著) 2005/08 麗沢大学出版会 単行本: 371ページ
Total No.3165★★★★★

 日吉眞夫(ひよしまさお)。寡聞にしてこの方の名前を存じ上げなかった。多分、山尾三省の本のどこかには書いてあったのだろうが、とんと読み落としてしまっていたようである。ただ、それらしき存在はあっただろう、と想像していた。

 74~75年に三省一家がインドを一年かけて旅した時の、旅費を半分半分負担したのが、唐牛健太郎とこの人だったということだが、唐牛の分をまずは著者が「立て替えた」ということだから、ほとんどがこの人のスポンサリングだったのかしらん、と文面からは読めてしまう。(p103~「屋久島移住までのこと---山尾三省 随想)

 裏表紙見返しのプロフィールは、至って簡単に4行しか書かれていない。

日吉眞夫(ひよし・まさお)
昭和13年伊東市に生まれ、横須賀市・昭島市に育つ。
昭和38年東京大学経済学部卒業。
昭和50年屋久島へ移住。
昭和61年より季刊「生命の森」を編集発行。
(表紙見返し)

 これだけの紹介でも、分かる人にはピンとくるのだろうし、実際、本文を読めば、著者の「すべて」が分かってしまうような構成となっている。私なんぞの読み方をすれば、「60年安保の生き残り」ということになり、60年代中盤以降の「部族」の兄さん格、ということになろうかと思う。

 とはいうものの三省とは同じ年に生まれており、実際には、「部族」との絡み合いもそうとう深そうだが、決してこの人は「部族」とは呼ばれない位置にいたようだ。いわゆるヒッピーネームもなさそうだ。

 この人が三省に先んじて屋久島に移住したのは1975年のことであったが、わたし事ながら、おなじ1975年に、「ミルキーウェイキャラバン」があったとき、ミニコミ「星の遊行群」の発行に際して、私の書いた小文がトラブルを生んだことがあった。

 経緯は省き、周囲のご理解もまったく無視した形でここにメモしておくが、あの私の文章は、「部族」への忌避感がもとになっていたのである。当時の「部族」は、私から見ると、三省+ナナオ+ポン、と見えていた。このトリニティが醸し出す魅力は大きかったが、絶対的なにかが、私にとっては欠けていた。

 もし、あの時、著者が「部族」であろうとなかろうと、重要な位置に存在している、と分かっていたら、私の「部族」理解は、もっと別のものになっていただろうし、私はむしろもっと「部族」に吸い寄せられていったかもしれない。

 著者にはほかに常葉御前のこと」 (五曜書房 2007/10) という本があるようだが、いずれにせよ、一般的にはあまり知られた存在ではなさそうだ。地域の公立図書館にはまったく入っていない。

 三省の1975年のインド旅行時に書かれた「インド巡礼日記」(2012野草社)2「ネパール巡礼日記」(2012野草社)もツンドクになったままであり、いずれ再読したいと思いつつ、そのままになっている。

 この本には、たくさんのことが書いてある。前半は、彼の人生の前半生が書いてあり、後半は、屋久島での暮らしが日記風に書かれている。彼が出版していた季刊誌に書かれたものだから、一貫した論調ではあるが、テーマは多方面にわたる。

 この本の中から、現在の私が抜き書きしておこうとすれば、ちょっと中心的話題ではないが、飯沼史観との関連から、次のところが、かなり気になった。

 上屋久町の宮之浦・水洗尻に鎮座する益救(やく)神社は、日本最南端の式内社である。式内社というのは「延喜式」の「神名帳」に記載されている神社をいい、由緒ある古社でも載らないものは式外(しきげ)とよばれている。

 延喜式が編まれたのは醍醐天皇(在位897~930)の時代だ。編纂開始は縁起5年(905)、今から1100年前である。

 当時の政治的な力関係のなかで、すでに格式の高い神社として認められていたわけで、創立年代は不詳だが、当然、それ以前にさかのぼることになる。

 ただし、神名帳には「大隅国馭謨(ごむ)郡一座名神小」とあるのみで、祭神の名前などはないので、現在主祭神とされている天津日高彦火火出見尊がどういう根拠にもとづいて祀られているのか、資料的な裏づけはない。古くから伝承されてきたというしかなさそうである。鎮座地も長い間に変遷したであろう。

 天津日高彦火火出見尊は、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の子で、三つ子の兄弟の末弟に生れ、皇位を継いだかたである。母ハコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)。

 天津日高はアマツ(天つ日子)、皇子の尊称。彦火日出見はヒコ・ホホデミ。この彦も意味は日子。つまり皇子で、ホホデミが呼び名。呼び名とは別に、生れたときにつけられた本名(いみな)はウツキネという。ウツキネはウ・ツ・キネで、ウは卯の花、ツは格助詞のノ、キネは杵で、男の名前に用いられる(父ニニギも本来はニニキネ)。「海彦山彦物語」の山幸彦で、このホホデミの孫にあたるのが、建国の祖とされる神武天皇である。

 なぜ屋久島にホホデミノミコトが祀られているのか、非常に興味深いところだが、今のところ、そのあたりはまったく分からない。

 それにしても、今から千百年前に屋久島にはすでにそのような神社が存在していた。

 鹿児島からの定期船や、最近では二万トン級のクルーズ船が頻繁に接岸する港、宮之浦は、言うまでもなくお宮のある浦として古くからそう呼びなされてきたのであろうし、九州最高峰宮之浦岳も、船人たちによって、その宮のある浦への目印の山としてそう呼ばれていたにのに違いない。(二月十一日) p184「日常としての旅路」

 これの日付は文脈からすると、2004/02/11のことである。

 飯沼史観による角田市の熱日高彦が、屋久島の日高彦と繋がっていると考えてみるのは、楽しい。もし「東北」に生まれた「神々」が、東北沿岸津波、南海トラフ、東南海トラフの大地震大津波で、次第に南方に追われ、結局、九州の日向が国生みの地とされたとするなら、その流れに乗って、日高彦も日向よりさらに南方の屋久島に打ち上げられた、と考えてみるのは、想像であり、可能性であり、寓話でもあろう。ひとつの可能性として、今後、すこしづつ範囲を広げてみてみよう。著者には、他に「常葉御前のこと」( 2007/10 五曜書房)がある。

 著者は2008/11に亡くなられたようだ。享年71歳。ご冥福をお祈りいたします。合掌

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2014/01/26

月1万円の発電 「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」<8>  ニュートンムック

<7>からつづく

【送料無料】今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電
「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」 <8>NEWTON別冊
ニュートンムック 2011/08 ニュートンプレス ムック 159p

 おい、お前ら、脱原発・脱原発っていうけど、自分で一体、どれだけのことをしてんだよ。デモ行って、選挙やって負けて、そんだけかよ。すべて他人まかせで、原発ゼロなんて、よく言うよ・・・・・・

って、ちょっと啖呵を切りたかった、というのが、我が家で太陽光パネルを揚げた、最大の理由かもしれない(汗  あるいは、自分にそう問いかけた、というべきか。

 20年前にも自宅を改築する時にも太陽光パネルを考慮したが、手がとどかなかった。3・11後にも、夏にこの本を手に取った時、工事店何社も見積もりを取ってみた。しかし、なかなか予算の都合上、最優先課題にはならなかった。

 震災後を経て、ようやくその夢が実現したのが、二年後のことである。値段はどこも一緒。メーカーも、たぶん、大差ない。大きく違うと思われたのは工事店。我が家の場合は幸い、旧知の燃料店が、資格を取得して、工事できるようになったのが大きかった。

 設置までに、数カ月かかったけど、大きなトラブルはなかった。設置してすでに3ヵ月、いずれ、キチンとしたデータをここに提示するつもりだが、今のところ、まずまずの経過と言っていいだろう。

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 ざっくり言えば、我が家のシステムでは、今のところ月1万円の発電量である。年に12万円。これが10年だと120万円。我が家の設置価格は、これにちょっと毛が生えた程度のところだから、まずは10年で元を取る、ということは確実になった。

 しかし、これはあくまでも、この冬の期間の日照時間の短い時期のデータである。これから日が長くなり、日中の温度も暖かくなって、エアコンやファンヒーターを使わなくなれば、発電量はますます増える。これは完全に黒字である。

 しかもだ。これは、10年で廃棄するという計算でのこと。メーカー保障は20年だから、11年後以降はほとんどただで年間電気量を自家生産できることになる。(計算上)

 すでに設置していた人には笑われそうだが、ホント設置してよかったと思う。迷っている人がいるなら、まずは信頼できる工事店を見つけて、すぐプランを実行すべきだと、私は思う。

 うちで上げたのは、ソーラーフロンティアのCISという奴だが、このメーカーはもともとは九州の常夏の地方にあったのだが、最近になって、被災地であるこちらの県内に新しい工場を作ることを発表した。新しい雇用も100人ほど生み出すとか。私は大賛成である。

 ネット上では、どうやら、このメーカーの宣伝に、我が家の設置例が掲載されているらしい。どんどん使っていただいて構わない。

<9>につづく

 

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てつがくカフェ 「フクシマの後で」 破局・技術・民主主義 ジャン=リュック・ナンシー<2>

<1>からつづく

ジャン=リュック・ナンシー (著), 渡名喜 庸哲 (翻訳) 2012/11 以文社 単行本: 208ページ★★★☆☆

 どうしようかなぁ、と迷ったが、とにかく行ってみることにした。土曜日の夕方、5時から7時まで、まぁ、時間帯としては悪くない。場所はいまいちお手軽ではないが、土曜日の繁華街を突き抜けることもたまにはいいだろう。場所は中央図書館9階、オープンスペースに設置された一角のコーナーだった。

 てつがくカフェ、で検索してみたら、哲学カフェとして国内でも各地にあり、そもそもはフランス発のようである。最初はフランスの誰かが言いだして10人くらいのあつまりだったらしいが、次第に参加者は増えて200~300人の集まりになることもあったらしい。

 こちらでの集まりも、200~300人の集まりを想定していたので、まぁ、末席にでも座って、雰囲気をつかもうと思ったのだが、開場10分ほど前に会場に着いたところ、スタッフを除いては、私が最初の到着者だった。時間が到来しても、10人どころか、それ以下の参加人数だった。まぁ、それもよからん。

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 そう言えば、この建物に入る時に、一階入り口のところに大きな看板がかけてあった。「対話の可能性」。ふむふむ、なるほどね。

 そもそも、こちとら、無料・参加自由・直接開場へ、という言葉に誘われてきたのである。無知、準備不足はやむを得ない。ひらきなおっていこう。

■てつがくカフェの読書会「震災を読み解くために」
「読書会」は、1冊の本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。参加者同士が読みながら話しながら触発し合って、ひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで深く「読み解く」ことをめざす場です。みなさん、ぜひご参加ください。
◎開催概要 考えるテーブル てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会
「震災を読み解くために」
1月25日(土)17:00-19:00 無料・直接会場へ
課題図書 ジャン=リュック・ナンシー著『フクシマの後で 破局・技術・民主主義』(渡名喜庸哲訳、以文社)をお持ちください。
「せんだいメディアテーク・メールニュース 175」より

 要領を得ないまま、他の人の発言に耳を傾けてみる。どうやら、この企画はすでに何回も会を重ねていて、昨年2013年4月29日から始まっていたようだ。、その結果は毎回レポートされていて、今回は9回目の集まりになるらしい。本来であれば、このレポートを一応読んでくるべきだったのだ(といいつつ、帰宅後、目を通したが、頭が痛くなったw)。

 参加者も少なく、発言数もそう多くないので、間隙をぬって、自己紹介も兼ねて、とにかくナンシーの本のイメージについて話した。私は「破局」という言葉が一番気になったことを発言した。

 いろいろあって、所定の2時間はあっと言う間に過ぎた。私としては、今回ここに来て何か得たものがあった、ということではないが、すこし場の状況が分かった。司会者は学生さんということだったが、空気の読めない老人がひとり迷い込んできたなあ、というイメージをもったかもしれない(爆)。他の人の迷惑になっていたら、ごめんなさい。

 まずは、ひとつひとつお勉強。「破局」の英語はカタストロフィーだという。結婚が破局するとか、経済が破局するとか使う言葉のようにも思うが、ナンシーはナンシー流にこの言葉を使うので、それなりの背景を理解する必要があるのだろう(ああ、めんどくせ)。

 カタストロフィーの語源にはカタルシスも近い位置にあると思うが、まぁ、破局という日本語だけでは、ナンシーのいうところには、なかなか行けそうにない、というのが、まぁ、一般人としての私の感触。

 それと、「文明のフチ」という単語がでてきた。最初、話し言葉だったので、自分なりに「文明の淵」という風に理解しながら聞いていたのだが、それは大笑いで、実は、「文明の布置」という言葉使いらしい。

 みんなの説明を聞いていても、なかなか意味がわからないので、持っていったiPadをネットに繋ぎ、布置を調べてみた。どうやらそれはユング心理学などで使われる、布置-偶然とは思えない「めぐり合わせ」という意味らしい。

 ただし「文明の布置」という単語では、他で使われている風ではなく、この言葉で検索すれば、すぐにこのてつがくカフェのレポートページにつながる。他にはそのような言葉使いはなさそうなので、このカフェ独自の「地域言語」になっているのかもしれない。

 いずれにせよ、少人数の参加者でありながら、それぞれの言葉の使い方に個性があり、統一性がないようにも感じられた。そもそも、私の他にも、初めて参加した人もいたからね。

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  それと、最初から最後まで、いまいち参加者の統一感のなかった言葉に、一般等価性という言葉があった。

 マルクスは貨幣を「一般等価物」と名づけた。われわれがここで語りたいものもこの等価性についてである。ただし、これをそれ自体として考察するためではなく、一般的等価性という体制が、いまや潜在的に、貨幣や金融の領域をはるかに超えて、しかしこの領域のおかげで、またその領域をめざして、人間たちの存在領域、さらには存在するものすべての領域の全体を吸収していることを考察するためである。p25ナンシー「破局の等価性」

 3・11後の被災地を見ながら、マルクスを考えるのもどうかと思うが、まぁ、何事もこのように難しくして考えるのが「てつがく」とやらのやり方なのだろうと、まぁ、首をかしげながら帰宅した。

 次回、せっかくだから、続けて参加してみようと思うのだが、いざ出発する段になって、もう一度、迷うだろうな。

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追記2014/01/27
 この会に行って、最初奇妙だなと思ったのは、「日本人が原発を受け入れた時から」というような発言があったこと。日本人(一億すべて)が原発を受け入れたということはない。常に反対運動はあったし、反対を主張した個人はいつもいた。この「一般化」する習癖は、ちょっといかがなものかな、と、無償に腹が立った。反論するチャンスがなかったので、ここに書いておく。

 そして、原発が爆発したこと、そして、その後処理が悪かったことに対して、当時の管直人首相の対応が悪かった、というような意見が複数の参加者から出たこと。これには参った。私は、当時の管直人の対応が良かったとは思わないが、他のどんなことをしたら、原発は「早期に処理」できたであろうか。

 3・11におけるフクシマは、地震が起きたことですべては決まった。その後の誰がどうした、などというのは、それこそ後の祭りだ。現在のフクシマの現状の、そもそもの原因は、原発を作ったことによる。それを推進した勢力をこそ暴きだすべきだ。

 司会者から、誰の何に対してどう思うのかを話すように、という促しがあったが(全体に対して)、この原発論もまた発言のチャンスを失ったので、ここにメモしておく。

 私は十分に発言のチャンスを与えられたが、あの二時間の中で、あれだけのテーマが詰め込まれていたら、私なら、ひとりで二時間をもらって、独演してしまうかもしれない。すくなくとも、たくさんの腹の「煮えかえり」を持ち帰ったことだけは確かだ。

 次、あの会に行って、あのような発言があったら、司会者が持っていこうとする方向ではなく、まったく別な方向へ私が引っ張っていってしまいそうで、こわい。あの会はあの会で、貴重なものだから、そっとしておくのがいいのではないか、などと、ひとりごちる。

つづく

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2014/01/24

仙台市若林区 五柱神社 「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<20>

<19>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <20>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

仙台市若林区 五柱神社

 仙台の浪分神社、蛸薬師の伝説、そして、津波の伝承もいろいろな形で残る。名取市に残る閖上(ゆりあげ)浜の観音様の漂流伝説や、多賀城市の小佐治と猩猩(しょうじょう)の話など、人々は津波の事実を物語に変換して現代までその記憶を運んできたのだ。p3宮原育子「刊行によせて」

 閖上(ゆりあげ)・藤塚の伝説

 名取川河口の右岸にある閖上浜(名取市)と左岸の藤塚(仙台市若林区)に伝わる伝説は津波伝説であるということがわかってきました。
(中略)

 在る日のこと、波打ち際に何かゆり上げられたものがあるので、近ずいて見ると、藤の筏で、その上に金色の光を放つ御神体がのっていた。(中略)御神体は後に高館の那智山権現に納った(中略)

 ここに五柱神社があって、昔、閖上の浜にゆり上がった藤の筏を埋めた(後略)飯沼勇義「仙台平野の歴史津波」(宝文堂1995年)p101

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 また高館山に登ってきた。私には、近年できた那智が丘団地から入る整備された道よりも、採石場側から入る、昔からの参道のほうが入りやすい。ただネックは、採石場のトラックが、頻繁に通ることである。最近はとくに多いのではないか。多い時には一分に一台の割合でとおるような感じがする。

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 ちょうど前を走っているトラックのナンバープレートを見ると「福井」となっている。おや福井とは珍しい。しかも、国土交通省の堤防工事のシ―ルも貼ってある。いつもは厄介者をみるような目で(失礼)見てしまうのだが、今日はなんだか興味が湧いた。

 そんなことはしたことないのだが、このトラックについて行ってみようと思った。あの那智神社の隣の採石場から砂利を運び出して、どこに持っていくのだろう。いっぱしのストーカーかパパラッチのような気分である。

 トラックは、いったん採石場から那智神社遙拝所までさがり、そこから東街道を南に向かった。愛島の遺跡群をアップダウンしながら、道祖神を通り抜け、今度は、空港線に向かって東に舵を取った。

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 その後、さらに飛行場の手前で左折し、北上しながら、閖上大橋を渡り、まだまだ被災の爪跡が荒々しい田んぼ道を迂回し、ついに辿り着いたのは、名取川(広瀬川)河口の左岸(北側)の堤防工事の現場だった。

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 私はここで、あたためて、閖上浜にゆりあがり、高館山に祀られたという仏像の伝説を思い出した。森は海の恋人、とか言うが、高館山は閖上浜の恋人だったのか。トラックに引っ張られてきた奇縁を感じた。

Pict0039
 そこはもう海であった。3・11以降、何度も足を運んできた海岸線だが、私にはレンズを向ける勇気がついぞ湧いてこなかった。一枚もシャッターを押すことがなかった。でも、もうすでに3年が経過しようとしているのである。そろそろ直視し、記録を遺すほどの覚悟も必要だろう。

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 海も、浪もおだやかで、昔通りでなにも変わるものではない。爪跡も少しづつ復旧している。ちょっと見には穏やかな風景でしかない。ふと傍らをみると、なにやら神社らしき痕跡があった。

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 門前に位置するところに一対の狛犬が安置されているから、これは間違いなく神社であある。しかし、そこはもう、爪跡そのものと言っていいほど、3・11の痕跡をまざまざと残しているのだった。

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 単に地震で崩れたようにも見えるが、実際には、津波の直撃で、石組みとは言え、遠く流されてしまったに違いない。あちこちに散らばってしまった建物や石組のパーツパーツを、見つけた人たちが、これでもようやくここに集めてきた、ということではないだろうか。

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 震災後に据えられたのであろう小さな社の前には、3・11以前の神社風景を撮影した写真が紐でしばりつけられていた。

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 きっと、震災後に抱き起こされたのであろう石碑の痕跡から、あらためてこの神社が五柱神社であることが分かった。本殿は平成5年に2500万円で改築されたものであった。

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 現在は、プレハブの参集殿ができており、復興に向かう、地元の人々の心模様がうかがえる。

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 こちらも、3・11後に流されたであろう狛犬一対が、取り戻され、抱き起こされて、ここが聖地であることを示しつつ、何か、大事なものを守っている。

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 狛犬よ、泣くな。

<21>につづく

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2014/01/23

凧あげ プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <43>

<42>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<43> 凧あげ

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 名実ともに3歳になると、自称3歳や、実質2歳の時よりも、一段と知恵がつき始めていることを感じる。なぜなぜ攻撃が始まるし、指を使ったカウント、ジャンケンなどにも興味を示す。

 暖かい時期なら率先して公園に遊びにいくのだが、寒いと外出を嫌がるようになる。そこで、そのついた「知恵」を活用して、外でしか出来ない、寒いときしか出来ない遊びを提案することになる。

 うまくいけば、これに食いついてくる。新しい公園や、遊歩道など、新しい試みもいいろいろやったが、凧あげ、は最近のヒットアイディアである。

 爺さん自身は、すでに凧あげなど完全に卒業して忘れているわけだが、秋口に近くのイベントでもらってきたビニール製のアンパンマンが描いてある凧を近くの公園まで持っていく。孫のほうは、もうワクワクだ。

 ところが、風がない。風がなければ凧は飛ばないだろう、と思うのは爺さんだが、実際には、凧は微風でも飛ぶ。あるいは、糸を持って走れば、十分飛ぶのだ。むしろ、強風だったりすれば、むしろ凧は乱気流に巻き込まれ、狭い住宅地の児童公園などで遊べたものではない。それに、3歳の児童には寒すぎる。

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 実際にやってみて、凧あげってやつは結構ハマるかもしれない、と感じた。大人でも、爺さんでも夢中になりそうだ。去年の夏は、風力発電工作をして楽しんでいたわけだが、その風力について考えていたりすると、結構ハマる。なにしろ、糸の扱いかたが、難しい。とくに3歳児には、ちょっと難しすぎる。

 3歳児に戻りつつある爺さんの知能も、糸を手繰り寄せながら、すこしづつ活性化されていることに気付く。どこか、いままで使っていなかった、眠っていた脳細胞が起こされる感じだ。特に健康にもいい。

 近くの児童公園で、ジャンパーを着た爺さんが、喜んで奇声をあげる幼い孫連れて凧あげしている風景を、自分の脳裏に浮かべてみる。近くのマンションの窓から見ている住民たちは、幸せな爺さんだなぁ、と思うだろうな。自分でもそう思うもの。

 でも、爺さんに遊んでもらって、幸せな孫だなあ、とは、あまり思われないのではないだろうか。子どもは風の子、寒かろうが、雪が降ろうが、外で元気いっぱいに遊ぶのが、子どもの務めだ。子どもは寒さの中で、元気に走り回っているのが自然な風景なのだ。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ・・・

 元気に遊べ

<44>につづく

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2014/01/21

国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」 「報告書」<4>

<3>からつづく 
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SPIRIT OF PLACE SENDAI いのちのつながり、場の響きあい 
国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」報告書<4>
1991/11/25~11/27 仙台国際センター

 実行委員会組織表の中合計24人中、上から22番目、下から3番目に学校法人支倉学園副理事長となっている管野忠昭氏は名実ともに事務局長であり、そのスタッフの持てる力を最大限に発揮されたと思われる。感謝に堪えない。(以下尊称略)

 最初、須田文夫が、市内の三好耳鼻科医をつれて、自然食レストラン「ぐりんぴいす」に現れた時、1991の春のことだが、何が何やら、分からなかった。あのまま二人だけなら実行は不可能だったろうし、ミィーティングに参加した10名ほどのスタッフでは、最終的に実現した広がりはなかっただろう。

 ぐりんぴいすのオーナー(と言っていいのだろう)だった加藤哲夫については、以前書いたし、今後も、もうすこしおっかけてみよう。百歩譲って、この段階で企画拡大をストップさせて、そのスケールで最後まで実行したほうがよりテーマがはっきりしたものになっただろう。

 しかし、須田+三好ラインは、さらに関係筋をひろげ、石田名香雄・元東北大学総長あたりまでコネクトし始めたあたりから、まわりは「本気」になってきたように思う。ミィーティングのために「場を貸しただけ」の加藤も、このあたりから、かなり本気になったのではなかっただろうか。

 このあたりで、学校法人の創表現研究所が事務局として声を挙げ、実質的な事務をすべて取り仕切り、最後の最後までやり遂げたのだから、菅野事務局長以下、研究所のスタッフ全員が全稼働したことで、最終的なSPSの実現と成功につながった。

 この企画はあまりにも膨大で書きたいことも、どこから手をつけていいかわからないが、それでも、たった個人的な「勝手」な思い出に過ぎない。より多くの人々の体験が、いずれ聞けるようになるかもしれないが、このまま、私個人の極めて個的なブログは続行させていただく。

 これまで男性スタッフのことだけが登場しているが、実は、多くの女性が関わっている。順不同になるが、これから随時メモを残しておこうと思う。その中で、あの組織表の下から二番目にあるのが、24人中唯一の女性の名前である。

 吉田聡子さん。(株)デュエット代表取締役の肩書である。御主人は建築家であると聞いた記憶がある。街中で飲食店を経営し、時にコンサートなどを企画してはヒットしているようであった。決して具体性に富んだプランを提示されたとは記憶していないが、その存在感とオープンなご性格が、準備運営の段階で、大きな雰囲気を作った。

Sps8
 企画は春からスタートしていたが、ようやく企画がまとまってきたのは夏であり、マスコミなどが取り上げ始めたのは秋口になってからだった。

Photo_2   左から、加藤氏、私、吉田さん、菅野理事長。

 多くのスタッフが集まった中のスナップショットだが、私個人にとっては、誇らしい一枚である。

<5>へつづく 

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2014/01/20

国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」 「報告書」<3>

<2>からつづく

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SPIRIT OF PLACE SENDAI いのちのつながり、場の響きあい 
国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」報告書<3>
1991/11/25~11/27 仙台国際センター

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 何はともあれ、ジェームス・スワンがいたからあのシンポジウム(SPS)はあったのだろうから、この三冊は再読が必要であろう。もっとも、この三冊は、シンポジウムの後で邦訳されたのであって、当時は、英文の原書があっただけであった。

 それをカリフォルニアに住んでいた須田文夫氏が日本、特にご自身の出身地である仙台に持ちこんできたのだ。彼は建築家で、現在でもあちらで活躍中と思われる。youtubeでも、近作を拝見できる。

 迎えた仙台のスタッフは追々振り返るとして、特にあの実行委員会組織図の中から特に思い出すのは、二人の政治家。本間俊太郎・元宮城県知事と、石井亨・元仙台市長である。10

 この二人は、シンポジウムが終わった一年半後の同じ時期に収賄で逮捕され辞職している。早い話が二人とも、当時の日本のバブル景気を背景とした箱モノ行政で、建築業界と癒着してしまった、と見られている。細かいことは省く。

本間俊太郎(Wikipediaから) 
知事就任中の実績には、
帆船・サン・フアン・バウティスタ号の復元(石巻市)、
仙台空港と仙台港の国際化の推進、
県立大学(宮城大学)と
宮城県立がんセンターの設立、
宮城県立図書館、
東北歴史博物館の建設、
松島湾の浄化や貞山運河の復活、
七ツ森の自然公園化、
宮城県古川農業試験場の移転整備、
古川市立病院(現大崎市民病院)への救命救急センターの設置などがある。

石井亨(Wikipediaから)
1984年(昭和59年)12月就任
1986年(昭和61年)開館 「仙台市博物館」(建て替え)
1987年(昭和62年)開館 「141ビル(ファッションドーム141)」(新設)
1987年(昭和62年)開業 「仙台市営地下鉄南北線」(新設)
1987年(昭和62年)開催 『'87未来の東北博覧会』
1987年(昭和62年)開館 「仙台市泉文化創造センター」(新設)
1989年(平成元年)開催 『'89グリーンフェアせんだい』
1990年(平成2年)開館 「仙台市科学館」(移転・新設)
1990年(平成2年)開館 「仙台市青年文化センター」(新設)
1990年(平成2年)開館 「ミルポートS」(新設)
1990年(平成2年)開園 「七北田公園」(新設)
1991年(平成3年)開館 「仙台国際センター」(新設)
1991年(平成3年)開館 「仙台サンプラザ」(新設)
1992年(平成4年)開業 「仙台市営地下鉄南北線」八乙女駅~泉中央駅間延伸(新設) 1992年(平成4年)開館 「仙台市シルバーセンター」(新設)
1992年(平成4年)開館 「仙台健康増進センター」(新設)
1993年(平成5年)7月の辞任以降の完成
1994年(平成6年)開館 「仙台市福祉プラザ」(新設)
1998年(平成10年)開業 「アエル」(新設)
1999年(平成11年)開館 「仙台文学館」(新設)
2001年(平成13年)開館 「せんだいメディアテーク」(新設)
さらに、政令指定都市へ移行の後には、各区への仙台市図書館の整備を行った。また、在任中には仙台市営地下鉄東西線の建設計画にも携わった。

 この二人が「スピリチュアリティ」に関係するとはとても思えないが、ただ、当時のバブル期の背景の中で、今日機能している仙台や宮城の多くの「箱モノ」作りに関係したことは間違いなく、また、業界自体もこのような大きなうねりを作っていたのだ。

 そこにバブル崩壊があり、箱モノに魂を入れるような形で「SPS」が受け容れられることになった、と見ることもできる。

<4>につづく

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国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台 「報告書」<2>

<1>からつづく

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SPIRIT OF PLACE SENDAI いのちのつながり、場の響きあい 
国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」報告書<2>
平成3年11月25日(月)~11月27日(水)仙台国際センター

1)実に断片的ではあるが、まったく記憶が消え去らないうちに、極私的なメモでしかないが、なんらかの足がかりを作っておく。

2)すでに「捨てるに捨てられないモノ」のひとつに成り下がっているSPS記録ではあるが、この20数年の「空白期」を埋めることが、現在の当ブログの進行にも、いささかの益ありとの直感がある。

3)天井ロフトの段ボール箱を開けて、まず目につくのは、製本版の「報告書」の原型となったものであろうか、ワープロ打ちコピー綴じのおよそ80p弱の印刷物がでてくる。経年劣化とともに、もともとの印刷が不鮮明のため、判読不能なところが少なからずある。しかしながら、同じ頁をあやまって複数綴じている場合もあるので、これよりもいささかスリムとなるだろう。

4)ワープロ綴り版には、オフセット製本版にない「収支決算書」がついている。実行委員会用だが、その多数性から見ればほぼ公開と同じことだから、あえてここに再掲することは問題ないだろう。

01
5)当時までにおいて、私が個人的に関わったボランティア活動の中でも突出した経費内容だった。

02
6)ご協力いただいた関係各位(製本版)に、あらためて、ごく一兵卒でしかないスタッフである私としても、心から篤く御礼を申し上げたい。会計監査は誰がやったのかは、現時点では定かではないが、当時の陣容からすると、おそらく過誤なく行なわれたものと信ずるに足る。

7)いささかふつつかではあるが、私もまた「ボランティアスタッフ」(製本版)の仲間の末席に加えてもらっていたことを付記しておく。ここに名前の出ない人々も多く関わっている。あらためて感謝申し上げます。

03
8)順不同となるが、錚々たる実行委員会組織表も、製本版のトップを飾っている。ただし、この二年後、県知事や市長は、汚職にまみれ、逮捕され辞職している。当時、仙台市文化事業団理事長だったF氏が実行委員長を務めており、会議にも何度か出席されている。彼は次期市長となった。リストには顔を出しているが、まったく「お飾り」の方々も当然いる。ただし、企業献金をお願いする時に、これらの方々のリストが有効に働いていることは言うまでもない。

10

9)さて、これで、当ブログで言わんとすることの100のうちの1にも達していないのだが、拙速ながら、今日、ここにメモしておきたいことを断片的に、以下メモしておく。

10)運営委員長としてSPSの顔ともなったK氏は、最初、自分の関わる(経営する)店で、SPSの予備ミィーティングが開かれる段階では、「私は話し合いの場として店を貸しただけだ」と、逃げ腰だった。機を見て敏なる彼らしい態度だった。

11)私は1990に喜納昌吉のコンサートに関わり、1991年には単独コンサートではなく、ぜひなんらかのイベントやシンポジウムの中に組み込みたいと模索していた。つまり、最初はほとんどシングルイッシューでこのイベントに関わったのである。

12)そのアンテナにSPSの情報は引っ掛かったのであり、コンサートができるのであれば、総体としてのシンポジウムは、規模や内容について、幅広く受け止めようと思っていた。しかし、その中でもSPSは、最適であったと思われる。

13)企画段階の春から、実行の初冬まで実に半年以上の時間が経過した。その中でシンポジウムの内容が拡大し変質した。その過程では、ついにK氏は秋口になって、私の持ち込み企画はかなり無理だ。来年もあるじゃないか」と言いだした。もちろん、これほど大きな企画は毎年できるわけがない。実質的な断念要求だったのである。

14)しかしシングルイッシューの私に、それは納得できなかった。集められた経費から、コンサート会場は手配してもらえなかった。断念せざるを得ないのか、と思いつめた時、ある友人が自らの会社が支援するとして、数十万円を会場費として寄付してくれた。この寄付で、私は直接国際センターに行って、まずは個人的な名前で会場を押さえ、以後談判して、企画全体に「押し込んだ」のであった。

15)私の持ち込みコンサートは、最後の最後までパージされた。チケットの販売、コンサート会場の入り口設定、はては「報告書」においても、本来の製本阪からはずされ、一枚だけワープロ打ちコピーでピラ一枚で織り込まれている。

16)もちろん最終的にはコンサートだけが目的ではなかったし、シンポジウムの中でのコンサートであったので、全体に対しての「ボランティアスタッフ」として、私がこの企画から得たものは大きかった。全体像を再考し、あらためて関わりを持っていただいた方々に「報告」するのは、これからの作業となる。

17)ここでただひとつ、ちょっと気になることがあるので、メモしておく。なぜにあのコンサートの企画がパージを受けたのか。いろいろ理由はありそうだ。それは薄々気がついている。

18)このシンポジウム企画はなかなか時機を得たものであった。多方面から注目され、協力を得られる立場にあった。実は地元テレビ局経由で、地元電力会社からほとんど「買い取り」の案も飛び出していたのである。だから、その立場から「整理」し「整合的」な企画としようとする動きもあったのだ。

19)しかし、このSPSのスタッフの一部は、その準備段階で1991年夏の六ヶ所村における「反原発コンサート」の参加者たちだった。そうそう簡単に「整理」「整合」されてしまうわけにはいかないのだ。

20)余談だが、この企画で進退きわまったとき、友人である劇作家IYに、劇団としての協力を依頼したことがある。しかし、それは電話一本で断られた。当時、彼の劇団もそうとうに激動していたらしい。

21)さて、今日のところ、ここまで書いてきて、その意味あることとはなにか。「スピリット・オブ・プレイス」という企画である。「スピリット」を冠したシンポジウムなのである。しかるに、それを、どこまで理解し、真に協力しようとしたのか。その勢力はどれほどあったのか。

22)あるいは、いくら「スピリット」を語っても、実行力、実現力がともなわければ、胡散無償してしまうことになる、ということだ。

23)そして、二十数年前のこの企画を今思い出すことの大事な点は、過去の整理というより、現在、3・11後におかれている、私たち、あるいは私は、どのように自らのスピリチュアリティを歩み、また、日々のなかでその現実性を得ているか、というところにある。

24)拡大し、錯綜する中において、本当に大事なことは何か、最後の最後まで残すべきこととは何か、そして、大きい事や立派なことに目くらましされずに、自分ひとりサイズに捉えなおすことが、とても重要である、と思える。ここを捉えなおす作業をもうすこし続けてみよう。

<3>につづく

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2014/01/19

「史料仙台領内古城・館」<第四巻>紫桃 正隆

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「史料 仙台領内古城・館」<第四巻>宮城県南部
紫桃 正隆 1974/07 宝文堂出版 ハードカバー p657 正確には、飯沼史観に引用されているのは「第二巻」(1973/02 宝文堂)の848頁から849頁である。
Total No.3164★★★★★

 日高見国とは、宮城県石巻市桃生町太田地内にあった。
「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(
紫桃正隆 宝文堂)の848頁から849頁によると、・・・・・飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」 ( 2013/03 鳥影社) p53「縄文神『高見産霊・日高見国』と巨大地震の震源地との関係」

 いやはやとてつもない本である。二百数十の地元のお城や屋敷の痕跡が、写真とともに紹介してある。もし飯沼勇義著書にこの本が紹介されなかったら、このような本があること自体永遠に知らないでいたであろう。

 この手の本をなんと呼べばいいのだろう。郷土史でもなければ、マニア本でもない、しかも、一朝一夕にできあがるような本ではない。まさに、足と汗で作られた本である。しかも、これは第四巻、以前に三巻がでているのだ。

 溜め息が出る。さらに著者には、他にもたくさんの書があるようだ。職業的作家ではなく、他に公務員などの職をお持ちのようで、土日や夏休みを利用しての探索である。こういう方たちがいるのか。

 この本は、地元の出版社から多分自費出版のような形ででているのではないだろうか。千部限定、定価7000円である。決して安くはないが、その価値は十分にある。そして現在では、その希少性もあいまってか、ネット上ではかなりの高額になっているようだ。図書館から借りて読める私は幸せだ。

 飯沼勇義「仙台平野の歴史津波」(1995)もこの出版社からでたのであった。この地元の数少ない出版社・宝文堂は、もうすでに倒産してしまっている。貴重な地元の史料がこうして出版されていたことに感謝するとともに、ひとつの出版社ができる仕事の偉大さと、その出版社を失うことの痛みを、あらためて知ることとなった。

 引用部分の確認はともかく、この本を開いてまず驚いたのは、最初の見開きページに宮城県伊具郡丸森町の「金山城」がカラーで紹介されていることだ。史料のひとつひとつに写真はついているが、カラーで紹介されているのは金山城だけである。

 熱日高彦神社に関心を持ち、あの地域のことを知りたいなと思い始めた矢先だったので、虚をつかれたというべきか。そうか、あの金山城も、それなりに調べてみる必要があるのだなぁ。

 と、ぱらぱらめくっていると、先日散歩していた名取高舘山についても書いてあった。最初から神社とばかり思っていたが、実は、あそこにはお城もあったのだ。しかも高舘城だけではなく、地域には黒崎城や小舘城、川上大館城などと、「城」のつく建物跡があった、ということには驚いた。

 地元に生まれ育って、毎日生きているのに、何にも知らないでいる自分が、情けないというか、恥ずかしいというか、ひたすらその無知さ加減に呆れてしまった。

 この本、一朝一夕にできた本ではない。当然のごとく、この本も一朝一夕で読めるような本ではない。これからことあるごとに利用させていただこう。まずは感謝。

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 実はこの本、640pまでしかない。したがって「848頁から849頁」は存在しない。日高見神社近くにある「安倍館(あべのたち)」の説明なので、第二巻に所蔵されているのかもしれない。あるいは、この本にあったはずの「付録・参考資料」のことなのか・・? 今後、調査する予定。

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 やっぱり調べてみたら、これは「第二巻」(1973/02 宝文堂)の間違いだった。第二巻のp848~849になら、「安倍(あべ)館(舘山館)についての説明がある。せっかくだから、その頁を転載させていただきます。

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(独り言:飯沼史観はあまりにも独創的で断定的なので、こうして明らかな校正ミスらしきものを発見すると、いささか圧倒されてばかりもいられないな、と思うw)

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2014/01/18

refugee shelter「ECOシティ」 <3> 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて 丸尾直美他

<2>よりつづく

【送料無料】ECOシティ
「ECOシティ」 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて <3>
丸尾直美/三橋博巳他 2010/05 中央経済社 単行本 246p

 あすとナーガ。かつては、多賀城以前の国府とされていた仙台郡山遺跡は、貞観の大津波以前の660~690年頃におきた仙台沿岸地震津波によって、流出したと、飯沼勇義「仙台平野の歴史津波」によって指摘されている。

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このあすとナーガには、現在は、3・11東日本大震災における仙台市若林区の海岸線で被災した人々を中心とした被災者住宅が立ち並んでいる。

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 数日前、友人のFBのつぶやきつながりで、「未来住まい方会議」というページを見ていて、気にいったのがIKEAのrefugee shelterというプレハブハウス。5坪ほどの簡易住宅で、将来的に大量生産されれば、10万円ほどにコストダウンされるということだ。

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 これはいいな、一つほしいな、と思った。で、IKEAと聞いて、すぐ、あ、そういえば、あすとナーガにも今IKEAが店舗を建築中だったのだ、と思いだした。

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 現在、名だたるトップゼネコンによる大工事が進行中であった。

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 なんというバランス、あるいは、なんというアンバランスなのだろう。このあと、先日参拝した、名取熊野那智神社の裏手にある遊歩道に移動してみた。

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 あすとナーガが私にとっての一番近い商業地であるなら、私にとっての一番身近な自然豊かなエリアのひとつである。ここにたたずみ、ここに暮らすことを考えてみた。そして、あのIKEAのrefugee shelterを、イメージとして置いてみた。

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 このテントは、我が家愛用のロッジ型大型テントで、長いこと、私の中のイメージの原型だった。3・11を挟んだエコビレッジ・プロジェクトの中で「被災」し、現在は廃棄している。このあと、これまた同じ町内のアウトドア専門店に足を運んでみた。

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 スノーピークとやらのカタログをもらい、あちこち眺めてみる。ふーと溜め息がでる。現在の流行りはこの方向にあるのか。身の周りのすべてが繋がっているようでもあり、また、すべてがバラバラであるようにも思える。

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 名取高館山から太平洋を望むとき、結局、この大地と、そして人間、それらをつなぐものとは何であろうか、と考える。

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 何ひとつ、フィットしないまま、今の自分があることを考えるとき、結局は、この自分をありのまま生きていくこと、これしか残されていないのだ、と感じる。

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 今やりかけの天井ロフトの大工作業を楽しみ、手作りガレージオフィスで仕事にいそしむ。

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 そして、取り壊しになる被災住宅からもらいうけてきた資材で作った我が家のガーデンハウスを見ながら、これはこれで、自分にジャストサイズのrefugee shelter エコハウス、エコシティなのではないか、と、ふと思う。

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2014/01/15

わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ 「Pen (ペン)」 <5>

<4>からつづく

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Pen (ペン) わがままに暮らしたい。こだわりの住まいとアトリエ <5>
2013年 11/15号 阪急コミュニケーションズ[雑誌]
★★★★★

 友人のFBを見ていたら「未来住まい方会議」 というページが紹介してあった。一言コメントをつけようと思ったが、どうも一言で終わりそうにないので、こちらに書いておこう。

 いろいろ紹介してあったが、結局私が一番気に入ったのは「10万円のスモールハウス?!IKEAが開発中のスマートシェルター『refugee shelters』」という奴。17.5㎡ということだから、約5坪ほどの空間である。坪単価2万円なら、買いでしょう。

 この値段は将来的な目標で、現在は75万円ほどというから、坪単価15万円。これではちょっと考えてしまう。坪単価15万円なら、ホームセンターから部材を買ってきてDIYすれば、結構いいモノが作れるよ。

 まずは将来的にこれが実現したとして、IKEAが開発中というところがいいかも。現在、近くのあすとナーガの商業地にIKEAが出店準備中である。ここにこのモデルハウスが出ていたら、ぜひ見に行きたい。Refugeeshelters_01620x465_3
 さて、ここからさらに細かく見ていくと、全体的に瑕疵なしとはしない。まずは窓が小さい。自分が実際にこの空間を使うとするなら、まずは窓を作るだろう。そして、この空間には、トイレも台所もない。まずはこれがないと家とは言えない。

 屋根や壁には断熱材が入るようだから暖かいだろうが、床が地べたに密着しているので、これでは多湿な日本では実用にならない。縁を上げることが必要だろう。耐用年数3年は短いか十分か。

 実際の被災者住宅は耐用年数2年で二百万円ほどの経費らしいから、実際には、現在作られている被災者住宅とほとんど何も変わらないということになる。ただ違うのは、単独の住宅か集合住宅か、というところ。

 わがままに暮らしたい、となれば、集合住宅型ではないだろう。単独型だ。となると、セキュリティも問題になる。この「未来住まい方会議」で紹介されているモデルハウスはほとんど単独型であるが、ほぼすべてにおいてセキュリティが不完全である。

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 森の中に単独で暮らすとして、窓が大きすぎたり、土台が不安定過ぎたり、明かりが外に漏れすぎるのは、危ない。昆虫や動物ばかりか、人間も迷いこんでくる。ひっそりと、自然と同調しすぎるのもどうかと思うが、あまりにも異物でも困ったことになる。

 当ブログでは、3・11を挟んで、一時期エコビレッジを模索していたわけだが、まず、森の中というロケーションは外せないとして、単独で暮らすのはとても怖いと思った。クマも出るし、イノシシも出る。畑なんぞを作れる環境はなかなか少ない。

 少なくとも、近くに仲間の住まいが必要だろう。お互いスープの冷めない距離に、せめて二家族くらいの友人家庭があって欲しい。そもそも森の中で暮らそうというのだから、おたがいワガママであろうから、あんまり干渉しすぎるのも問題である。

 こうして考えてみると、結局は現在の街の中の自分の住まいが、結果的には理想にやや遠くても、現実的で有効なモデルということになってくる。

 どうしても森の中に家が欲しいとなれば、現在の私なら、キャンピングカーのようなモバイルハウスを考える。短期的に森の中に移動し、ライフラインの基本が確保できるキャンピングカーなら、かなりお手軽に思える。

 しかしながら、キャンピングカーもかなりの値段である。新品なら4~5百万以上するから、これもちょっと困ったものである。牽引型の中古キャンピングカーなら安いし、実際の生活には、車と切り離して使えるので、これもなかなかいいと思う。ただし、使わない時の駐車スペースが問題となる。

 ここまで来ると、結局は、ワンボックスカーやステーションワゴン型の車がいいのではないか、ということで、現在、一般的にこれらの車が人気である理由がわかる気がする。

 ここからさらに現実的な話しとなれば、私なら、現在乗っているベーシックハイブリッド車に100ボルトを取れる電源をつけ、簡易テーブルになる装置を考え、スリーピングバッグでも積めば、これでもう、私のモバイルハウスは完成ということになりそうだ。

 台所やトイレはロードサイドの施設を使えばいいし、水くらいならタンクを積めばいい。カセットコンロを使えばお茶くらいは飲める。ニ・三日山の中の湖畔にでも滞在したいとなれば、ハウス型のテントを積んでいけばいいだろう。もちろん冬はダメだが。

 あとは、私の場合は、まずはモバイル環境が必要だ。週末は電話も電気も使わない、という暮らしは私にはできない。ネット環境が必要だから、結局は、人間界をそう遠く離れないところに車を泊めて、防犯上も問題なさそうなところで、楽しむというスタイルになるのかな。

 

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2014/01/14

名取熊野那智神社「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<19>

<18>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <19>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

名取熊野那智神社

 熊野信仰がこの名取の山岳丘陵一体に起こったという背景には、宮城県沖と海溝型と連動した一連の巨大地震による大規模津波(仙台・名取熊野堂津波)が、広域の仙台平野を海にしてしまったことがあったのだ。

 大規模津波による大量の無残な残酷死、生き残っても疫病に苦しむ・・・・熊野信仰はこうした地獄を見た人々にとっては打ってつけの信仰であった。地獄から極楽への回帰、災いを極楽浄土へ導いてくれるのが、この熊野信仰のご利益だった。

 広域の仙台平野は大被災地となり、人々は平野部での生活は全くできなくなり、仙台平野の西丘陵地へ、新天地をもとめて移住した。人々の恐怖は自然界への祈りとなり、神と仏の混交した多信仰が増幅され、人々の安住の地であるこの山岳丘陵地の山に対する敬虔の祈りが、自分たちを守護してくれると信じた。これがこの地方における熊野信仰の起こりである。p169

 高舘山。この山こそ、私が生まれてから、いつも見ていた山である。西方にあるこの山の向こうには、もっと広い世界があるのだろう、と小さい時は思っていた。この山に鎮座するのが名取熊野那智神社である。

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 この山に最初に昇ったのはいつだったか正確には覚えていないが、少なくとも小学校3年生の頃には、クラス仲間と自転車部隊をつくり、5~6人で山頂まで行った記憶がある。

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 ふもとには、山頂まで登らなくても参拝できるように遙拝神社があるが、ここで引き返す人はそういないだろう。車がなく、徒歩で昇らなくてはならない時代ならばこその遙拝所である。

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  しばらく砂利道を走っていくと、山道、坂道の向こうにかすかに看板が見えてくる。おお、そういえば、今日でお正月は終わり。年神様をお送りする、どんと祭の日であった。

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 山道は整備されておらず、昔のままだ。小学生時代に上った時よりかは巾が広がっているかもしれない。

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 ここは市のリクエーション散歩コースにもなっている。

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 ここから車を降り、3歳の孫と階段を昇る。

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 しばらく昇ると山門が見えてくる。この山門も、形は昔のままだが、老朽化したために、昨年秋に改築されたという。

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 おお、立派になっている。昔は、中学生時代や高校時代に、自分が書いた落書きを確認するためにここに昇っていたりしたのだが、新しく改築された今、ガキ時代の私のように落書きする参拝者はいないようだ。(よかったw)

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 ふもとからも高々と見える巨木を背にして見る展望が素晴らしい。

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 3・11後、考えてもみなかったが、ここからの眺めが一番、3・11の震源地全体像を見るに適したところだった。
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 前方に見えるのは太平洋であり、北には牡鹿半島、金華山が見える。中央の海岸線は閖上(ゆりあげ)の町であり、南は岩沼、亘理、山下方面まで見える。つまり、ここから3・11の震源地が丸見え、ということなのだ。

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 本堂は至って質素である。今日はどんと祭という祭日にあたっているために、神社内部が開放されていた。

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 立派な鐘突き堂もある。山岳一体に広がった霊場だけに、連絡用の必要も兼ねているのかも知れない。許可をもらって一突き。ゴ――――ン。山々に深く響く。
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 この名取熊野那智神社、実は、ここからが本番なのである。この地域一帯に広がった熊野ネットワークだけに、この神社の裏手には、那智神社にふさわしい霊場があるのである。

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 なにやら古びた社があるが、昔はこの脇に生活用の住居があり、行者たちは、ここに長逗留して行を重ねたものと思われる。

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 紀伊半島の本家、熊野那智神社に比すことはできないまでも、いつ行っても枯れずにひたひたと落ち続けるミニチュアの滝には、霊験あらたかな、おごそかな気分になる。

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 静かに、大自然の中で瞑目する。

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 久しぶりに訪れた。ああ、ここから、ずっとずっと見続けてきた存在があったのだなぁ。

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 散歩道もだいぶ整備されているようだ。暖かくなったら、またウォーキングも兼ねて、来てみよう。

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 先日は南側の砂利採石場のほうから入っていったが、現在は北側にできた那智が丘団地のほうからも入ることができる。それを確認した。

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 そうそう、いまや熊野は世界遺産なのである。

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 団地を抜けても、歩道はキチンと整備されている。

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 水道、トイレ、東屋、煮炊き用のカマド、遊歩道、そして池がある。ケータイは使えるが、EMモバイルは、3Gのアンテナが一本立つか立たないかくらいで、実用にはならない。

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 高舘熊野神社と、高舘城は違う場所だったことを、初めて知った(汗

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 次回散策のおり、場所を特定してみよう。

<20>へつづく

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寺山修司「田園に死す 」Pastoral: To die in the country (1974)

Total No.3163★★★★★

 自分のブログへの過去ログを見ていて、自分の過去の書込みを読み、なるほど、あの頃はこんなことを書いていたのか、と思いつつ、そこに今になってアクセスされていることの意味をいろいろ考えてみた。

 そしてリンクをたどっているうちに、寺山修司に辿り着き、「田園に死す」がネット動画で全部見れることを知って感動した。1時間40分。あっと言う間にiPadで見てしまった。

 寺山修司とは、本当に一期一会だ。高校を卒業した18才の時、数カ月のアルバイトで作った資金で、日本一周ヒッチハイクを企てた。バックパックには寺山の「書を捨てよ街にでよ」の文庫本が入っていた。

 いま思えば因果だが、私のオン・ザ・ロードは、まずは仙台から海岸線に抜け、三陸海岸へと向かった。今回の3・11でのメインステージは、私の人生のメインステージでもあったのだ。

 そのまま北海道に向かい、稚内、網走、利尻礼文と回ったあと、札幌からふたたび函館へ向かい、青森へ戻ったのだった。その時1972年の初夏、青森県民会館で天井桟敷の芝居を見た。

 見たというより、行くあてのない私は、その公演看板を見て、昼の仕込みの間に会場へと忍び込み、代金も払わず芝居を見たのだった。そしてあろうことか、そのあとも会場に残り、スタッフと共に打ち上げへ。呑んで食べて、彼らの宿舎に一緒に泊ってしまったのだった。

 もちろん、そこにシーザーや九条映子、佐々木英明、友川かずきなどとともに、御大・寺山修司もいた。1935年生まれの寺山、あの時、まだ37歳だったのか。この「田園に死す」もその後1974年に公開されている。

 すでに寺山を失ってから30年。2014年において、飯沼史観からホツマにうつり、ヒタカミ+ツガル連合を思う時、初代ヒタカミとされる三内丸山に思いを馳せ、岩木山を思う時、ふと、寺山の世界が浮上してきた。

 ホツマの世界は、五七調の歌の世界である。そのルーツは言霊のさきわう国ヒタカミにあったことを思うと、そこにいた歌人たちを思い出さずにはいられない。宮澤賢治にも歌はあるが、彼はむしろ自由詩や童話の世界にその裾野を広げた。石川啄木もまた五七の世界に生きた人だが、短命ゆえに悲劇が伴う。

 いまにしてふと思う。寺山のあの五七の世界は、五七の世界を乗り越えていたのではないか。五七の世界にハマりきれないからこそ、演劇や芝居、執筆活動や評論活動へと雪崩れていったのだろう。

 しかし、それにしても、その抱えきれない原風景が、伝統的な五七の世界へと転写される時、原東北などぶっ飛んでしまうような情念のただ中へと引っ張っていってしまうのが寺山ワールドであった。

 そして、この映画でも、寺山は激しい懊悩の中から「私は誰か」を問いかけ続けた。演劇性と瞑想性、などと、たどたどしいリンクで当ブログは右往左往するのみだが、寺山は、決して長くはなかったその人生の中で、瞑想性の、どこまで突っ込んでいたのであっただろうか。

 この次、青森を訪問する時は、岩木山と三内丸山と決めていたのだが、ちょっと離れているが、今度は三沢市にある寺山修司記念館もぜひ尋ねてみようと思う。

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2014/01/13

「フクシマの後で」 破局・技術・民主主義 ジャン=リュック・ナンシー <2>

ジャン=リュック・ナンシー (著), 渡名喜 庸哲 (翻訳) 2012/11 以文社 単行本: 208ページ
Total No.3162★★★☆☆

 中央図書館は、建物の構造も好きだし、イベントの種類も面白そうだ。いつも関心があるのだが、ほとんど参加したことがない。原因は、交通の便。いや、別に市の中央部にあるのだし、地下鉄もある。行こうと思えばいつでもいけるのだが、その距離感が半端なのである。

 どうも私は、プレタポルテのような気軽さで、オートクチュールを着たがっているようだ。中央図書館は、質が高いのだが、気軽さがすくない。よいしょ、と掛け声をかけないと、なかなか行けない。せめて、徒歩とか自転車ででかけたいのだ。

 メールマガジンもあまり目を通していないのだが、以前から気になっているのは、「てつがくカフェ」という奴。なにやら、一つの話題に対して自由に発言し合う場らしい。

 らしい、というのは、先日、たまたま人と待ち合わせの時に、オフの会場で番をしていた若いスタッフに声をかけた時のことが頭に残っているからだ。彼に「てつがくカフェ」について聞いたのだが、「わからない」という。

 スタッフなのだから、わからない、ではすまないでしょう、と訊くと、何階か上階に行って、事務所で聞いてくれ、と来た。おいおい、それでは、キミがここで番をしている意味がないだろう。

 そのイベントには参加したこともないし、そもそも彼はパートタイマ―だ、と来た。かたわらに、コミュニケーション(対話)の可能性について、とかなんとか書いてあった。あらら、対話の可能性もあったもんじゃない。と、私は、ひとりのモンスター来訪老人になりかけていたのだった。だから、まだ「てつがくカフェ」なるものの、本当の姿を知らない。

 いつかは行ってみたいと思っていたこのイベントの今月のイベントは、ジャン=リュック・ナンシー のこの本を持って集まってほしいという。予約なしの自由参加だから、行ってみようと思う。

 この手の本は得意ではないが、「てつがく」というからには、フランス現代哲学の系譜に位置づけられるこのような人の話題提起が必要となるのかもしれない。

 では、この本はどれほど読まれているのか、というと、少なくとも、私はがリクエストした段階では、誰も予約していなかった。それどころか、6~7冊ある著者関連の本は、ほとんどすべて、誰も予約していなかった。これって、人気ないんじゃない?

 とまぁ、早合点はしてみたが、本当に読む人は、キチンと購入して傍線でも引いて読むのかもしれない。

 本としては、3・11後に、「破局」と「技術」と「民主主義」を「てつがく」する、という構成であり、正直言って、それをフランスまでいって聞かなくてはならない、という「てつがく」志向の人たちの気がしれない。3・11を「フクシマ」に限定してしまうところにも、当「被災地」にいる人間としては不満である。

 テーマで言えば、マイケル・サンデル「大震災特別講義 私たちはどう生きるのか」(2011/05 NHK出版)にほぼ重なる。あるいは、3・11を体験した場合、他にテーマを見つけることは難しいとさえいえる。ほとんど共通の問題意識の前に、人は立たされるのである。

 この中央図書館のイベントでは、飯沼勇義その人が講演をしたりしているらしい。残念ならが、そのニュースも見落とした。できれば、そちらも参加したかったが、いずれまたチャンスもくるだろう。

 飯沼史観によれば、まずは「破局」は人類史に組み込まれているのであり、それを見ようとしてこなかっただけのことだ、ということになる。地震、津波、という「破局」は常にあり、少なくとも、3・11のメインの被災地においては、ほぼ200年サイクルで体験していることなのであった。

 この「破局」を組みこめない世界観は、「死」を組みこめない人生観と同じであって、全体性がないばかりか、真実ではない。世界の反面に対して目を閉じ、盲目的に、ほとんど無意識的に暮らしていると同じ、ということになる。

 したがって「技術」についても同じことが言える。人智を超えた「破局」の厳然を認めることができない、認知できない半端な文明技術は、単に未熟なのだ。原発のような未熟な「技術」は、単に、それに関わる文明が未熟であることを示しているに過ぎない、ということになる。

 「民主主義」は、ある意味、もはや誰も本気で考えてはいないだろう。ただ、それを超える何かを提唱したり、実行したりすることができないでいるだけだ。絶対的な欠陥がある。だから、この「民主主義」を考えるにあたっては、前記の「破局」と「技術」を踏まえた上でないと、「民主主義」は語れない。

 つまり「破局」は人智を超えているのであり、いくら人智を集積した「技術」であっても、究極的な「破局」は乗り越えることはできない。あるいは、最大多数の人智を集積した「民主主義」であっても、「破局」が人智を超えているかぎり、「民主主義」が「破局」を超えることはできないのだ。当然のことだ。

 「技術」は、人智を超えた「破局」の前に頭を垂れて、その「技術」の限界を知るべきだ。あるいは、限界を知っている「技術」こそ、「破局」との親和性が保たれる、ということになる。

 「民主主義」においても、最終的には「破局」に至ることを肝に据えながら、人智の限界性と、愚かさを、十二分に知りつつ、生かされている生命に気付いていく、というプロセスなしには、そもそもの「民主主義」など機能する筈がないのだ。

 なにもこんなことは3・11で初めて分かったことでもなければ、世界で最初の体験でもない。いままで何度も何度も繰り返されてきたことなのだ。ただ、そのたびに、人は、目をふさぎ、意識を失い、忘れ、なかったことにしてきただけなのだ。

 「破局」はあるのだ。常に「破局」しつづけている、とさえ言える。ここが見えないと、いくら「てつがく」しても、たんに「カフェ」の量が増えていくだけのことになろう。マイケル・サンデルの白熱教室も、同じことだ。

<2>につづく

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宮城・山元で東北最古級の木簡発見 大宝律令下の行政示す 宮城県・山元町歴史民俗資料館

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 何気なくみていたテレビニュースで「山元で東北最古級1300年前の木簡発見」を知って、山元町歴史民俗資料館を訪れたのは、その数日後だった。自宅から県北部の岩出山アラハバキ神を参拝したあと、Uターンで高速を県南部に走った。

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 地元民でありながら、結局あまり地元を知らない。そもそも、山元町歴史民俗資料館とは、どこにあるのだろう。モバイルで検索しても住所はでてくるが、はてどの辺りにあるのか検討もつかない。結局は車載ナビにおまかせで、とにかく走った。

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 そろそろ近づいて、分かった。なんだ、それは山元町役場の敷地にある建物だった。ましてや、親戚が3・11で家屋やイチゴハウスが全部流され、一家全員避難していた体育館の直ぐ隣にあったのだ。

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 そうか、そういえば、震災直後はこの施設も被災し、長らく閉鎖されていたのだった。ちょっと興味があったけど、中に入ることはできなかった。どうやら、震災後、一年程して再開されたらしい。

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 このニュース、もちろん東北最古級の1300年前の木簡が発見された、ということもニュースであっただろうが、被災地の、しかも福島原発からもっとも近い山元町で、こうして静かに文化活動も復興していますよ、という意味あいのニュースでもあったのだ。

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 山元町では、それほど活発に遺跡発掘がされてきたわけではないらしい。だから、多くの遺跡が発見されてきたわけではない。しかし、それは、もともとこの地に歴史が無かった、ということではない。

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 人口が1万にも満たない小さい町である。農業を中心とした温暖な地方であるが、開発行為が少ないために、遺跡発掘行為そのものが少ないのである。だから、遺跡が地下に沢山眠っていようと、発見されないことが多いという。

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 幸か不幸か、近年は高速道路のインターチェンジの工事のために遺跡発掘されることが多くなり、また、この3・11によるJR常磐線の路線変更工事にともなう発掘が増え、それによって遺跡が発見される、というのも、皮肉といえば皮肉である。

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 今回の山元町歴史民俗資料館の展示も、3・11以前から進んでいた商業施設の新設にともなう遺跡発掘による発見物の展示が中心だったが、その中に、今回ほんの数カ月前に発掘された1300年前の木簡も、緊急展示されていた。

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 木簡のニュースそのものは、当ブログにとっては、必ずしもメインテーマではない。しかしながら、1300年前にこの地に律令体制による中央権力の支配が及んでいたということは、少なからず、この地には、先行する前文明があっただろう、と推測することの根拠になる。

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 そしてそれは、角田市にある熱日高彦神社に鎮座していたとされるヒタカミ縄文文明の先がけが、この山元町沿岸にもあっただろうことを想像させる。

70

 飯沼史観は、数少ない歴史的痕跡を尋ねながらも、強いイマジネーションで、太古の世界を構成する、ロマンの世界である。今後、そのロマンを補強する痕跡や傍証を多く必要とするのであり、今回の「発見」は、飯沼史観にも少なからず影響を与えるだろう。

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2014/01/12

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その3 スピリット・オブ・プレイス資料「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」<7>

<6>よりつづく


「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」 <7>
リズ・ダベンポ-ト/平石律子 2002/09 草思社 単行本 222p

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その3 スピリット・オブ・プレイス資料

 これでもだいぶ処分したのだ。処分してから、あれはしまったかな、と反省することもなかったわけではない。しかし、そもそも反省するかもしれないからこそ捨てられないのであって、そこを乗り越えていかないと、「ぐちゃぐちゃ」生活は延々と続いていく。

 その中にあって、いまだに頑固に存在しつづけている資料集もある。国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台1991」(略称SPS)。すでに23年前の記録である。あえていうなら、一世代が経過してしまったのだ。あの時、まだ小学生だったわが家の子供たちも、成人して、それぞれに家庭をもち、それぞれに子供をもって生きている。

 もはや不要とも思える資料集だが、これは捨てられずに今日まできた。段ボール箱ひとつ。もはや何が入っているかでさえ、自分でもよくわかっていない。当時の資料をぐちゃぐちゃにひとつにまとめていれているだけだ。すでに天井ロフトの固定席にうずくまっている状態だ。

Sps1

 でも、今回、これらを捨てるにしても、中身を確認してから捨てよう、と思い始めた。それにはいろいろな理由がある。

1)イベント後、きちんと総括しようとしていたが、その機会がなかなかこなかった。

2)あまりにも大きなイベントであったために、巨視的に捉えることができなかった。23年が経過して、いまこそ開いてみる価値はあるかもしれない。

3)現在当ブログが遡及しているホツマ世界も、実はこの時代の一部を形成しているものなのだ。

4)そもそも、このシンポジウムの提唱者であるジェームス・スワンの本に、序文を書いているのは誰あろうジェームス・ラブロックだった。ガイア思想の表現者。このヒトの存在をもう少し洗い直してみたい、と思っていた。

5)環境保護派と見られながら、実は原発推進、という、不思議な存在。ここは虚心坦懐に、脱やゼロばかりではなく、推進、という立場を、3・11を体験したあととして、もう一度捉え直してみたい、と思うのである。

6)そもそも、あれから一世代が経過したのである。半年間の生活を投げうって参加したあのシンポジウムの成果は、これだけの時間が経過したあと、実際には、どれだけの効果があったのか。

7)成果があったのか、なかったのか。

Sps2_3

8)このシンポジウムについて、どこかで再燃するかな、とネット上を注視していたが、ほとんどその動きはない。中心人物であると目されていたK氏も3・11後にガンで亡くなった。その葬儀において友人代表として挨拶したヒトが、ネット上の私の書き込みを見て、感想を言ってくれた。その程度である。

9)3・11後をいかに生きるかにあたって、まずは、このSPSについて、すこしづつ再考する方向で考えてみたいと思う。

シリーズ「捨てるにすてられないモノ」<4>につづく

<8>につづく

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2014/01/10

阿武隈水神「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<18>

<17>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <18>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

 阿武隈水神

 阿福河伯(あぶくがはく)神社 阿福痲水神・・・・阿武隈川と熱日高彦神社

 阿武隈川河口より亘理町逢隈の田沢(岩沼市南長谷北條の阿武隈川の対岸に位置)に阿(安)福伯神社があって、ここに「阿武隈水神」を祀っている。この神について「日本三代實録」では次のように記されている。

「阿福麻水神」   貞観五(注853)年十月二十九日条 (貞観五年以前の阿福河伯神社は、宮城県亘理郡亘理町田沢字宮原にあった。その祠が写真によって、場所が示されている)

 北辺の北上川流域の桃生には日高見神社。ここに日高見水神を祀り、さらに北上川内陸の中流域の水沢に日高見神社が祀られていたと同じように、もう一つの日高見国、阿武隈川河口よりの田沢には阿福麻河伯神社、ここに阿武隈水神を祀り、さらに阿武隈川を内陸へ遡り角田方面に「熱日高彦神社」が祀られている。宮城県伊具郡島田村字鳥内で現在の角田市島田地内である。

 北上川の日高見神社、阿武隈川の熱日高彦神社はいずれも「延喜式内社」である。 p107「歴史津波」

05
 20年以上前、このあたりを仕事で動いていたとき、たしかこの辺に石碑があったよなぁ、と覚えていた。あれが阿武隈水神なのかな、と漠然と思っていたが、今回来てみると、それは田沢磨崖仏という別な遺跡であった。
10
 いろいろな諸神諸仏が混淆されているのだろうが、石碑からだけでは判別できない。

15
 いずれにしても、この圧倒的な存在である阿武隈川に由来していることはまちがいない。

20
 岸辺に突出した岸壁に坐像が4体掘りこまれている。

25
 阿武隈水神のほうは、この岸辺の裏手にあり、形としては、お決まりの古式な神社つくりである。

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 地域の家並みに溶け込んで、住民の産土神の風情だ。

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 阿武隈水神の表記も様々で、時代の変遷を感じさせる。

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 いずれが本当というよりも、どれもが本当なのだろう。時間が圧縮されている。

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 参道は古式ゆかしい神社そのもの。

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 お正月とは言え、華々しく飾られているわけではない。

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 額もちょっと見には判別できない。

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 そもそも石碑だと思っていた阿武隈水神だが、きちんとした神社だった。

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 ゆかりが書かれている。
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 神社の裏手からかすかにふもとの川が見える。裏手はなだらかな丘陵になっていて、ドシロートの直観としては、この辺を掘ると、縄文遺跡がでてきそうな雰囲気ではある。

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 なにやら自然界のうごめきも確実にある。

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 磨崖仏から阿武隈川河口を見ると、本当に阿武隈川も広く、大きい。
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 対岸には、千貫神社がある千貫山が鎮座する。

90
<19>につづく

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2014/01/08

「3・11を読む」 千夜千冊番外録 松岡正剛著 <10>

<9>からつづく


「3・11を読む」 千夜千冊番外録<10>
松岡正剛 2012/07 平凡社 単行本 430p
★★★★★

 出版直後に、しかも震災後の読書リズムもあまり本調子にならない時期に、一読したこの「3・11を読む」だったが、飯沼史観を根底に据えたあとに、もういちど松岡正剛の視点から「東北」を見てみようと思って、再読モードにはいろうと思う。

 まず読みだしたのは「第五章 陸奥(みちのく)と東北を念(おも)う」。「大震災を受けとめる」、「原発問題の根底」、「フクシマとおいう問題作」、「事故とエコとエゴ」などの前四章も、避けては通れないところだが、まずは、ヒタカミに通じる「東北」あたりから、この本への再突入である。

 第五章は、梅原猛の「日本の深層」について語る「東北の歴史が押し寄せてくる」p328から始まる。わずか20ページのところだが、さまざまなアクセス点がありすぎ、一読しただけでは、ふーっとため息がでるばかり。

 そもそも松岡正剛の「千夜千冊」は、主だった本をダイジェストしてくれるところが、大きな魅力だ。その一冊ばかりではなく、著者の他書や類書を引用しながら、大体その本や著者を知った気分にさせてくれるところがいい。

 梅原「日本の深層」も、当ブログが始まる前に一度手にとってはいるが、今、ここで出会ったから梅原日本学を再読しようという気にはなれない。それではとてもテーマが大きすぎて、すぐに飽きが来そう。今は、東北学でもなく、ヒタカミ学でもなく、じつは「仙台平野学」を進行しているのが、当ブログなのである。

 当ブログは、自らを一時読書ブログとは言ってはみたものの、決してダイジェスト・ブログではない。むしろ敢えてダイジェストを避けてきたといえる。それは、個人の志向性や個性のなせる技でもあり、ダイジェストすること能力のなさを暴露しているともいえる。

 もし一冊の本のなかに、一行でも、読む者を惹きつける文章があれば、それで当ブログにおいてはレインボー評価にさえなる。それはそれで、書き手個人にとっては意味がある。この松岡流ダイジェストにおいては、梅原のおいたちから語られる。

 梅原猛の母親は石巻の渡波の人である。石川千代という。父親の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで北に移り住み、そのときに石川千代と出会い、梅原猛は仙台で生まれた。

 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母は悪化したまま一年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父の実家近くの知多の片田舎に送られ、そこで伯父の梅原半兵衛の子として育てられた。

 このことは長く伏せられていたらしい。梅原自身の仙台に生まれたことや、養父と養母以外に実父母がいることをずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。p328

 ここで梅原東北学に本格的に再突入する気はない。梅原東北学には、ルサンチマンはあっても、生活がない。地道に自らの足で歩き、なんども訪問を重ねては思索するという、地道さが少ない。

 飛行機で飛んできて、飛行場で有名教授たちに迎えられて、高速道路を車で回り、そのルポを発表すれば、すぐ多くの人の目にとまり、反響がある、という、ある種、独特な環境にあるのが、これらの人びとの東北学だ。

 だから、価値がない、とまでは言わないが、飯沼史観が成立してくる過程を考える時、比較しようがないほどの、重層な生活感を飯沼史観は代弁し、提示する。

 3・11後におけるゲーリー・スナイダーの東北訪問も、ごくごくありきたりなものだ。先見性やカウンターカルチャー性によってたつスナイダーではあるが、こと日本の東北学においては、本当の価値ある研究を残してはいない。

 だからと言って、梅原やスナイダーの価値がまるでないとは言えないが、飯沼史観の重層な歴史津波学に遭遇すると、それらの皮相さが、一層際だってしまう、ということだ。

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「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<17>

<16>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <17>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

 日本列島の歴史上、最も古いといわれる歴史津波のことを書きあらわした古書は何もない。

 本書では、平安時代以前の古代の歴史津波について書いた。そして、それらの歴史津波をベースに2011年3月11日の東日本大震災の巨大地震による大規模津波が、日本列島のどの辺まで崩壊するのか、精査研究することを目的としている。

 その結論は・・・・・

 その崩壊の終末となる特定の地とは、日向灘と沖縄諸島の八重山地方である。 

 その根拠は、ここに天孫降臨があったからだ。日本歴史の誕生時、国づくり神話の初めに登場する八百万の神々たちが、火明(ほのあかり)、斑鳩(いかるが)へ下る騎馬三十二、総勢八六四人が、山手宮、新治宮、鹿島宮、越国、香取宮、根国、秀真国、原宮、九十九、扶桑国、大和国、伊勢宮、葦原中国、斑鳩宮、飛鳥宮、紀志伊国、阿波宮、伊予阿波二名国、出雲宮、細矛国(ほそほこのくに)、筑紫宮におり、最後はこの日向国(九州の大分、宮崎県)に来て、日本神話がつくられていったのだ。p233「l巨大地震と大規模津波による日本列島崩壊と甦る日本誕生」

 期せずして、このページを読んでいて、身震いがきた。

 そして、それらの歴史津波をベースに2011年3月11日の東日本大震災の巨大地震による大規模津波が、日本列島のどの辺まで崩壊するのか、精査研究することを目的としている。

 これは予言の書である。3・11の影響がどこまで連動していくのか。飯沼史観によれば、今後、東海トラフ、東南海トラフと連動して、人々が住める地域ではなくなる、と言っているのである。そして、人々は、日向灘まで追われるとするのだ。

 それは日本神話に書かれていることで、それを、ふたたび確認することで、神話の中に含まれている真実性をあぶり出すとともに、それを検証しよう、と言っているのだ。これらについて書かれている古書は、これまで一冊もない、と言っている。

 その崩壊の終末となる特定の地とは、日向灘と沖縄諸島の八重山地方である。

 日向灘ばかりではなく沖縄諸島の八重山地方にまで言及している。決して、地域の郷土史家の視点ではない。郷土を精査する中で、大きくその視野は広がり、大きく列島をつつむ、地球全体へと拡大していく。

 日本神話を部分的に肯定しつつ、その権威の中に逃げ込もうとしている池田満ホツマのようなケツの穴の小ささはここにない。記紀日本神話は、他の伝説や言い伝えと、なんら変わることはない。その中に多少の真実が隠されていれば、それだけの価値があるのであり、まったくあてにならない、ということさえある。

 日本神話に依存しているわけでもなく、ホツマに依存しているわけでもない。何百年サイクル、あるいは何千年サイクルに起こるとされる歴史津波の現前性を確認することによって、かつての言い伝えである記紀日本神話やホツマツタエの真実性をも、検証してやろうじゃないか、という、とてつもない夜郎自大とさえ言えるような、前代未聞の科学心なのである。

 これを検証するのに、どれだけの時間が必要なのだろう。すでに80才を数歳超えた著者の生存中に、この検証が完了する、という、恐ろしい予言なのであろうか。あるいは、何百年、何千年かかろうと、それを検証するに足る、というほどの真実が、そこに隠れている、とでも言っているのであろうか。

 この予言は、ひょっとすれば、何百年、何千年も保存されて、その時代時代の科学者あるいは歴史津波学の徒によって、次から次と研究、検証されていく必要がある、と言っているのだろうか。

<18>につづく

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2014/01/07

三人目の孫 プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <42>

<41>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<42> 三人目の孫

 いつかいつかと、ちょっと待ちかねていたが、ようやく三人目の孫が生まれた。生まれて見なければ分からないということだけど、やっぱり、お医者さんの見立てどうり、女の子だった。男、男、と来たから、どうっちでもいいや、と言いつつ、やっぱり女の子もかわいいかなぁ、と楽しみにしていた。

Ba1
 案ずるより生むが易し、とはいうものの、出産は大事業である。なにはともあれ、母子ともども健康ということで、お里がえり出産を預かった身としては、ほっと一息。これから、この子とどんなドラマが始まるのかな、と、楽しみが、ひとつ増えた。

 ところで、生まれたばかりの孫の顔を見ていて、遮光器土偶を思い出した。ちょうど、大きさといい、いわゆるあの遮光器と言われる目の感じが、そっくりではないか。

Ba2
 見ればみるほど、そう見えてくるのは、最近、遮光器土偶の木彫りを始めたからかもしれない。なんでこういう土偶ができたのだろう、と不思議に思っていたのだが、これって、きっと、新生児のイメージがかなり影響しているのではないか、と直観した。

4

 <43>につづく

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2014/01/06

中将藤原實方「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<16>

<15>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <16>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

 「続日本紀」によると、天平神護2(西暦766)年、大和朝廷は名取の豪族・名取公龍麻呂(なとりのきみのたつまろ)へ「名取朝臣(なとりあそん)」の称号を授与している。この名取公龍麻呂の末裔が、平安時代、熊野信仰を広めた創始者・名取老女であろう。そして、この地に熊野信仰を呼びこんだのが、名取で死亡したと伝えられる、紀州熊野と不動の関係をもつ藤原實方(ふじわらのさねかた)であった。p168飯沼「歴史津波時代の津波終息期」

05

 バイパスと並走して山際を貫いている、いわゆる東街道(あずまかいどう)を走っていると、大きな看板がある。

10

 いつも見ている看板ではあるが、だから、どうした、といつも素通りである。貴族が左遷されてきて、落馬して死んで墓になって、だから、どうした、と、ちょっと醒めた気分ではあった。

15

 しかしながら、ふと考える。もし、縄文時代に、東北ヒタカミは、言霊の栄える歌の国だったとして、ヲシテ文字が、五七調で書かれているのは、そもそもが、五七調なのは、オシテが先なのであって、短歌や詩歌の五七調は、そのオシテを真似たものではないのか。

25

 そう考えると、いろいろなことがあてはまってくる。そもそもが中将藤原實方は、歌の名手なのだ。左遷されるにしても、歌心があったればこそ、歌の源であった、オシテ花咲くヒタカミへと呼ばれて行ったのではなかった。

35
 本人は、そのことに実はぜんぜん気付いていなかった可能性さえある。ただ、歌を読む枕詞は、この東北=ヒタカミの地に多く残されていたのだ。

40

 当時の東街道はぬかるみ道であったという。これもまた、仙台平野が歴史津波の常習地帯であったとするなら、なるほどうなづける話である。

45
 落馬したのは、道祖神神社の前の坂道でだったという。道祖神もゆかりの深い古社ではあるが、本当の言われはよくわかっていない。道祖神の名前からして、アラハバキ=縄文神との繋がりを感じさせる。

50

 落馬したのではなく、ヒタカミ側のゲリラ戦で命を落とした可能性もあるのではないか、と、歴史にはまったく疎いドシロートの私は想像してみる。、

55

 この藤原實方を、歌読みの先輩として尊敬する芭蕉は、この墓参りをしている。言霊の華咲き誇るオシテの国、ヒタカミ=縄文の地を、二人は、それとも知らず、次第次第に呼びこまれていたのではなかったか。

60

 農家の家屋敷林の裏にある實方の墓は、質素ではあるが、キチンと整理されている。ここは、多賀城のアラハバキ神社と違って、国有地だ。国が管理しているのである。

65
 ほのぐらい参道の奥に、本当に静かに眠っている。墓とさえいえないような痕跡だ。

70
 ここまで高貴な方が、こうまでして記録に残されているのはなぜなのであろうか。地元の地域おこしに、これ以上の素材がなかったのであろうか。

75

 いやいや、そうばかりも言えないだろう。 藤原實方+西行法師+松尾芭蕉というビッグネームが、知ってか知らずか、その道の奥に目ざしたものは、五七調のオシテの歌の世界だったとしたら・・・・・

80

 多くの人々の、意識や無意識に残っているデータは、どうしても、このランドマークを消すことは出来なかったのではないか。

85
 この中将藤原實方の痕跡を、単に、ひとりの貴族が左遷されてきて殉死した地とだけ記憶するのは、筋違いというものかもしれない。

90

 これは、この弧状列島に住まう人々の意識の奥深く秘められている、原風景を求める、スピリチュアルな旅の痕跡であったのではないだろうか。

99

<17>につづく 

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「ホツマ辞典」―漢字以前の世界へ 池田 満 <3>

<2>からつづく

池田 満 (著) 1999/06 ホツマ刊行会 単行本 306ページ
★★★★★

 ググッていたらYoutubeがあった。言いたいことはあるが、まずは視聴。

つづく

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2014/01/05

マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか


マイケル・サンデル著, NHKマイケル・サンデル究極の選択制作チーム編集 2011/05 NHK出版 単行本ソフトカバー 64ページ
Total No.3161★★★☆☆

 どういう訳でこの教授が、このようなスタイルの授業をするようになったのか知らないが、テレビなどでよく見る方である。そして、この小冊子は、3・11直後の5月に発行されている。

 この特別講義でテーマになっているのは三つ。ひとつは日本人としての被災後の態度のことであり、二つ目は、人類にとって原発は必要不可欠なエネルギーなのか、ということであり、三つ目は、世界的なブローバルな民主主義は、今後どうなるのか、ということである。

 震災後の被災地の日本人の態度が話題になっているが、実際には、被災地のひとりとして思うに、自分がどのような立場に置かれているのか分からない段階だった、ということができる。あらゆる情報源で、全体像を見ている世界の人びととは、まったく違った状況にあったということだ。

 そして人間がいるところ、どこでもあり得るような軽犯罪はあった、ということは確実だ。決して立派な道徳的な態度に終始したわけではない。ごく当たり前の人間的社会が展開されていたにすぎない。

 二つ目については、べつに3・11が起こる前から議論されてきている問題であり、また議論されてこなければならなかった問題である。個人的には、当たり前の答えしかでてこないが、異論がさまざまあることは知っているし、もはや現実を簡単に動かすことができなくなっていることも知っている。

 三つめについても、問題だが、民主主義というシステムは、もはや機能しなくなっていて、共産主義という幻のシステムとともに、すでに古くなっているということだろう。

 さて、この三つの、簡単には答えのでそうにない問題をサンデル教授は、さも真面目そうな顔で議論を吹っかけるわけだが、もちろん、簡単に答えはでるわけはない。ただ、両論ありそうなテーマを数点にしぼり、互いに議論させるわけだ。

 私はこの風景を見ていて、小学校時代の学級会のことを思い出す。私は委員長としてクラスを引っ張っていくようなリーダーではなかったけれど、クラス会のような議長役には結構手をあげて立候補したし、推薦もされた。

 私は両論を聞くのは好きだ。なるほどね、キミは、あいつは、そう考えているのか。でも、時間は45分の間だけだ。泣く奴もいるし、クラスを出ていく奴もいる。いつもいい子にしている女子もいれば、黙って下ばっかり向いている奴もいる。でも45分の時間がくれば、結論が出ようが出まいが、あとは遊び時間だ。

 結論がでないからと言って、その時間が無駄だったわけでもなく、またクラス崩壊というふうにもならなかった。結局はいままでどおりか、教師のいうようになっていった。あるいは成り行きにまかせた。結論はでなかったが、前には進んでいったのだ。

 私は、このサンデル教授のやっていることは、小学校のクラス会レベルだと思う。ただ、両論闘わせているだけで、結論は出ない。

 小学校時代の議長役をしていた自分は、いつも自分の意見は決まっていたと思う。そんなこと当たり前じゃん、と覚めていた。だが、キミには反対意見があるんだね、とか、おや、あいつもオレと同じ意見かよ、などと思いながら、ポーカーフェイスで議長役をやっていた。割と、そういう役割は私は好きだった。

 で、結局、この小冊子においての小学校レベルのクラス会は、それなりの結果しかでていない。だって、わざわざ結論のでないテーマを、結論のでないようなシステムで議論するのだから、当然のことなのだ。

 私は、このような議論に耳を傾けつつ、サンデル教授になったような気分も味わいつつ、結局は、私の中では、結論はでている。議論なんてする必要もないし、議論したからといって、よい結果がでるわけではない。

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 本日、この本の奥付をみていて、著者が1953年生まれであることを知った。なるほど、私と同学年生か。2014/01/13記

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「みちのく燦々」―消されていた東北の歴史 中津 攸子

中津 攸子   (著) 2005/11 新人物往来社 新訂版 206ページ
Total No.3160★★★★☆  

 「東北は国のまほろば 日高見国の面影」 (2013/07 時事通信出版局)というタイトルを新刊本リストに見つけ、さっそくブッキングしたのだが、どうも人気本らしく、私に順番がめぐってくるまで時間がある。そこで、同じ著者の一冊としてめくってみたのがこの本。

 そもそもは1999/01に出た本であるが、「新訂版」として2005/11にでている。今回の新刊本もたぶんこの延長にあるのだろう。もし違っているとすれば、3・11を大きく取り込んでいる点だろう。

 1935年生まれのこの方の本を読んでいると、いわゆる東北応援団としての身びいきのエールがてんこ盛りになっており、一東北人を自覚するわが身としても、ちょっと気恥ずかしくなるところがある。

 日高見国は仏教国でしたから、
---大仏に塗るためのものならその黄金を提供しましょう---
と申し出たのでしょう。
p96「世界を動かした東北の黄金」

 いきなりヒタカミ国を仏教国としてしまうあたり、この方、作家なのだし、考古学者でもなければ、歴史学者でもないのだから、と、割り引いて考えることにする。

 日田、飛田、日高などの地名は日高見国の名残りといわれていますので、稗田阿礼も「ひた」とその名を読めるところから私には日高見国と関わりがありそうに思えます。

 日高見国との関わりがあるにせよないにせよ、稗田阿礼が「古事記」の文章を全部暗記していたと教えられた子供のころ、その頭の良さに感嘆したことを覚えていますが、そうではなく日高見文字で書かれていたものを稗田阿礼が読んで聞かせ、その中から原則として大和朝廷に都合の良いものを取り上げ、または都合良く書き直して漢字仮名混じり文で太安万侶が「古事記」を書き上げたということではないでしょうか。

 「ホツマツタヘ」を古事記の原典とする説もありますがすでに古代文字で記録されていたものを朝廷に都合良く書き直したのが「古事記」と考えられるのです。p124「奈良時代の日高見国と朝廷」

 ご高齢の方で、なおかつ女性作家ということだからかもしれないが、全文ですます調で書かれていて、読みやすい。しかも、作家らしい自由な発想と想像力が、読む者をぐいぐい引き込んでいく。

 縄文文化の流れをくむ日高見文化こそが和風文化の原点です。p179「和歌発祥の地・日高見国」

 この本は、いわゆる科学的な論理性、合理性から考えれば、めちゃくちゃな本ではあるが、それを知った上で、寓話として楽しむとすると、これはこれで、頭の体操にはなる。

 そもそも、ホツマが五七調の詩文体で書かれているというところに、まずは疑問符の?がついてしまうわけだが、実は逆だった、ということかもしれない。

 そもそもがホツマやオシテ文献が五七調で書かれていたために、あとから和歌や短歌(おなじことかな?)が五七調に倣ったのだ。そもそもが、東北=日高見の国に、歌の枕詞が多いというのも不思議な話である。

 芭蕉が東北を尋ねたのも、東北が道深くて、珍しかったからではなくて、そもそも俳句という歌読みが、そもそもの五七調の言葉が栄えていた東北=日高見に憧れて旅をしたのだ、と考えれば、納得がいく。

 藤原實方中将が平安時代に名取までやってきたのも、歌の歌い手だったからこそ、縁があったのだ、と思えば、いままで、まったく意味の薄かったこの人物の存在が、すこしづついとおしくなってくる。

 絶対平等社会が支配被支配の縦系列の社会を否定し、世界史上まれに見る高度な文化を持った平等社会を建設したのですが、その思想背景には古代からの万物平等思想を説く荒吐(あらはばき)信仰の上に受け入れられる仏教信仰がありました。

 前述しましたが、もしかすると釈迦以前に釈迦と同じことを考えついたアラハバキさんという人が日高見国に生まれていたのかもしれません。

 釈迦やキリスト、マホメットなどと並んでもひけをとらず、それらの宗教家よりもはるかに古えの宗教家が日高見国にいたのかも知れません。p201「日高見国賛歌」

 つい、ウフフと苦笑いしてしまいそうな一節ではあるが、まぁ、寓話として、私はこの一節は大賛成、大納得するところである。

 この調子でいくと、「東北は国のまほろば 日高見国の面影」は、一体どんなことになっていることだろう。楽しみである。

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OSHO : 人は長い巡礼の旅をしてきている。

Osho

 

OSHO : 人は長い巡礼の旅をしてきている。

新しい顔ぶれはここにはひとりもいない。

私たちはみな、ひじょうに古くからの巡礼者だ。

あなたがたは人間の意識の革命全体を見てきた。

あなたがたはずっと、その一部だったのだ。

 

私たちはつねにここにいつづけてきた——異なった形で、

異なった体で、違うことをやりながら。

とにかく、私たちはここにいつづけてきたのだ。

そして、私たちは永遠にここにいつづけることになる。

私たちが存在から消えてしまうことなど、けっしてない。

なにひとつ壊されることはありえないし、

なにひとつ存在に付け加えられることもありえない。

存在は常に、まったく同じだ。

 

この洞察があなたを時間の彼方に連れていってくれる——

そして、時間を超えることは、惨めさを超えることだ。

無時を知ることは、至福の世界に入ることだ。

あなたは古の人、無時の人、永遠の人だ。

だから、 些細なことを心配する必要はない。

ありふれたことを気にすることはない。

それらは来ては去っていく。あなたはとどまる。

いいかね、とどまるものは、それはけっしてやって来ないが、

行くこともけっしてない。

それが究極のものだ。

そして、それはあらゆる人の内にあるように、

あなたの内にある。

Facebook OSHO Japanese 2014/01/05より

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「巨大津波」  語りつぐー小さな町を呑みこんだ やまもと民話の会編集


やまもと民話の会編集  2013/03 小学館 単行本: 399ページ
Total No.3159★★★★★

 各図書館には、3・11コーナーや、被災証言シリーズの棚などができて、3・11アーカイブスもずいぶんと充実してきた。ひとつひとつを開くことなく、私は、ほとんど、そのコーナーに立ちつくすだけだ。圧倒的な巨大津波に遭遇し、足がすくんでいるのは、被災地の住民ではなく、私自身だ。

 このコーナーを通り過ぎながら、いつかはこの本たち(せいぜい数百冊だが・・)を読み切ってやろう、と決意するのだが、いまだにその作業は始まらない。

 それでも、その中の一冊をこうして引き出してみたのは、この「やまもと民話の会」がある、山元町は、飯沼史観でいうところの日本最後の縄文の神、ヒタカミ九代「熱日高彦」が、いまだに角田市島田地内にある高台から見つめている海のある地域だからだ。

 私はこの地域を、幾度となく、何十年にもわたって動いていたことがある。door to doorで一軒一軒を訪問しながらの営業は、深みはないが、広さはある。その広さの中には、この本で紹介されている人たちが含まれているのだ。

 そして、妻の母親の生家がこのエリアにあり、親戚が多い。つまり、私の孫たちにとって、自らのルーツを探し始めた場合、その何パーセントは、このエリアからのDNAが受け継がれている、ということになる。

 「俺ぁの祖父さん、明治35年生まれでなぁ、津波三回体験したんだぁって、ゆってだ。昔、防波堤なんてながったがらなぁ。昭和八年の津波も、ここらにあがって、にわとりが流さったり縁の下のじゃがいも流さったり。家も昔の家だがら、被害あったんだべ、そん時に、みんなで宅地ばつくりなおしたんだど。そんで、くじ引きできめだのが、今の磯の街並みなんだど。「磯浜きしぇどっぱ」って、聞いたことあっぺ。

 それから、ここの浜通り、部落ごとに「碑」建ってだの。『地震あったら・津波の用心』 って書いてたのね。見たことねぇのがぁ。この津波でとっくに流れっちまったげんとなぁ。昔の人の教訓だぁ」・・・・p91第一集「証言」

 この県南部の山本地域に、明治三陸大津波も、昭和三陸大津波も、明確な痕跡を残していたのだった。津波の恐ろしいところは、一瞬にやってきて、一瞬にすべてを押し流してしまうことだ。そしてさらに恐ろしいところは、すぐにいつもの優しい海の顔に戻ってしまうところだ。人間は、自分の人生サイクルの中では、その記憶を覚え続けることが難しい。

 人間は、辛いことや悲しいことを、忘れてしまうことができる。忘れてしまうことが有益でもあるし、また、あらたな悲劇を生むこともある。災害は忘れたことにやって来るとは名言だが、忘れることなく、語り継ぐこともまた、後世にとっては必要なこととなる。

 正直言って、この一冊を直視するだけの力量は、いまだに私の中からは生まれてこない。圧倒的な津波の力は、有無をいわさず私を押し流す。ただ、忘れることはできない。今は、視点を変え、山側から、遺跡や伝説、ホツマやヒタカミ神話を尋ねる「ふり」をして、そっと「海」を望むだけだ。

 地元の人たちが、被災し、仮設住宅に避難しながらも、こうして貴重な体験談を残しておこう、語り継ごうとしていることに、感謝せざるを得ない。当ブログも、いつかは、積極的にこの偉業を受け止められるまでに、成長してみたいものだと思う。

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2014/01/04

千葉富三編「遠野郷暮坪田植踊り」

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「遠野郷暮坪田植踊り」
千葉富三編 1972/08 暮坪田植踊保存会 タイプ印刷小冊子(一部オフセットモノクロ印刷) p156
Total No.3158★★★★★

 それでは千葉富三という人はどういう人なのだろう、と検索してみるのだが、ネット上の情報はそう多くはない。地元の遠野図書館には、その名を冠した文書は複数あるが、ほとんどが館外持ち出し禁止である。現地まで行かなければ目にすることができない。

 わが県内を探しても、そもそも千葉ホツマを代表するところの「甦る古代 日本の誕生」ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩(2009/07 文芸社)も、続刊である「甦る古代 日本の真実」 全訳秀真伝 記紀対照―1300年の封印を解く(2012/08 文芸社) も、多賀城市図書館に一冊づつ入っているだけである。

 ネット上では、安価に閲覧できるシステムがあるらしいが、当ブログはどうしても、現物の書物と対峙することを好みとしている。手にとれるのであれば、ぜひ手にとってみたいと思う。結局、千葉ホツマの二冊は私的に購入して手元に置くことにした。

 さて、著者の印刷物はまったくないかというと、わが県内には一冊だけ受け入れられている。しかもそれは著者本人の贈本という形になっている。著者の直筆サインも入っている1972年発行のものだが、いつ贈呈されたものかは定かではない。痕跡を見るとどうやらS47.10 の手書き文字があるから、発行直後に贈本されたものと考えてもいいようである。

 田植踊りとはいうものの、地域の農作業風景の一年を3時間ほどの演劇風にまとめたもので、70数戸の地域全体で一カ月ほどかけて行なう大行事である。それだけに地域にとっては負担も大きく、16年に一度くらいのペースで踊られたという。

 演じられたのは正月行事として、とくに家々の庭先であったという。座敷踊りではないのだ。写真もついて、歌も地元の校長先生が採譜した楽譜が巻末に添付されているまじめな本だ。この種の研究をしている人にとっては、きわめて貴重な資料となることだろう。

 当ブログでは現在、千葉ホツマに突入するところであり、その著者が、若くして30代後半にすでにこのような郷土史に関する研究を残していることに感服する。飯沼勇義という方が、若くして地域の歴史の記録を始めたことに匹敵するような、極めて重要な痕跡であると思われる。

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「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<15>

<14>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <15>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

 この本の中では、おびただしい回数で、「秀真伝」と千葉ホツマが紹介されている。しかし、それは、重複して単純に紹介されている「はじめに」と「むすび」を除けば、あとは50ページほどの「第一章」に限られているのだ。だから、この「第一章」の50ページ分をを読めば、「秀真伝」のこともわかってしまうだろう。

 そう思って読み込み、何度も読み直すのだが、どうも納得がいかない。これは基本的には、著者の本の書き方に理由がある。同じことを何度も語っているようで、どうも螺旋状に時代や地域をめぐっているような書きかたである。

 あるいは、テニヲハを含め(他人のことは言えないが)、どうも日本語として文脈が成立していない場合がある。だから、好意的に、または恣意的に、こちらの都合のいいように読み直してみるのだが、そこに原因があるかもしれない。

 あるいは、避難所生活の著者が、あちこちの小冊子などに依頼されて書き溜めた文章を、訂正しつつ細かに再構成しているのかな、と思わせる部分もある。とにかく、当ブログのようなそっそかしい読み方では、一通り目を通しただけでは、なんだかよくわからない部分が多い。

 このような輻輳する内容記述を、たとえば、池田満のようなホツマ原理主義に照らしてみると、含みはあるが、なんだか、これって、内容的に大丈夫? って不安になることになる。もちろん、ホツマ原理主義は、逆に面白くないことが多いのだが・・・・。

 とにかく漠然と何回も目を通しているのだが、だんだん、そうなのかなぁ?と思えてきたところをメモしておけば・・・・

1)記紀以前の古代を「秀真伝」に大きく依存していながら、飯沼史観は、決してホツマ原理主義には心を許していないようだ。

2)ホツマ原理主義は、記紀以前はホツマで決まりで、それ以前はないことになるが、飯沼史観は、ホツマの以前をも睨んでいる。飯沼史観に適合しなければ、ホツマ何ぞは吹き飛ばしてしまう勢いがある。

3)その証拠に、原理主義者は日本の神の始まりをクニトコタチとするわけだが、飯沼史観では、縄文時代の一神教アラハバキにしてしまうのだ。当然、今のところは、ホツマ原理主義にはアラハバキは登場してこない。

4)ヒタカミ初代をクニトコタチの子供とするホツマ原理主義に対して、飯沼史観は不明瞭にぼかしつつも、独自の発生と見ている。

5)そしてホツマ原理主義は、ヒタカミで使われていた暦は、もともとヤマトで使われていたものだから、返すようにとヒタカミに迫るわけだが、飯沼史観では、そもそもこの暦はヒタカミで作られたものであり、その暦を奪った、あるいは「譲られた」ヤマトの暦は、もともとルーツはヒタカミにあったのだから、ヤマト=日本のルーツはヒタカミにある、とさえ主張しているようだ。

6)この暦をこれから散歩していくわけだが、暦=カレンダーと言えば、エジプトの天文学を連想する。エジプトではナイル川の定期的な氾濫を予知するためにカレンダーが発達し、そこから独自の世界観や宇宙観が成立していった。

7)ところが、ヒタカミにおいては、一年というサイクルではなくて、200年サイクルの津波が基本になっている。いつ津波が来るのかという予測を立てるとともに、その津波災害を避けようとする世界観を打ちたてようとする一方、常に津波の被害に遭遇して、大きな空白期を作ってしまう可能性があった。

8)エジプトにおいては年々のカレンダーは高度に発達したが、ヒタカミにおける津波暦は、結局は十分に発達しきれなかったのではないか。

9)ホツマ原理主義においては、当然、ホツマありきである。ひたすらオシテ文献の解釈に終始し、結局は記紀神話の補完者に「なり下がって」いく。ホツマ解読に人生をかけた池田満のような人は、結局、三重県の伊勢に引っ張られて移住していく。

10)ところが、岩手県遠野に住む千葉ホツマなどは、地元ありきである。地元を解釈するにはホツマが有効であり、地元を理解するに、もしホツマに不都合なことがあれば、あらたなる解釈を試み、場合によって、それを改竄する。遠野を離れたりはしない。

11)千葉ホツマのようにオシテ文献を横書きにしたり、フトマニ図の一部を書き換えてしまうような行動は、ホツマ原理主義者にとっては、ご法度、もはや言語道断というべきだろう。

12)その地元原理主義に加えて、飯沼史観は、もっと極端な「津波」原理主義だ。津波を解くことが、世界を解くことになる。津波に関係なければ、ホツマなど関係ない。地元優先ではあるが、地元原理主義でもない。

13)飯沼「津波」原理主義においては、わざわざ「津波」のもっとも被害の可能性のあるところへ移住していって、自らの史観を証明しようとさえする。

14)津波原理主義である飯沼史観において、その世界観を樹立できる勝算はあるのか。現在、一読書子として当ブログが見る所、それは五分五分であろう。飯沼史観に瑕疵なしとはしない。しかしながら、3・11を独自の津波原理主義で予知し立証したかぎり、無視はできない。

15)ましてや、飯沼史観においては、人々を津波災害から救うことにその意義がある。2万人という津波被害者を生み出し、さらに多くの数十万人、数百万に影響を与えている3・11の予知を、十分に伝えきれなかったと自覚する飯沼史観においては、その予知能力を高めるために、さらなる精進が必要なのである。

16)いままでの古い国家観を、あらたに補強するかのようなホツマ原理主義、地元学の延長であるかのような千葉ホツマに対して、飯沼史観の津波原理主義は、過去の膨大なデータと時間の積み重ねの中から、未来の人間の生きる姿をあぶり出す力を生み出す可能性がある。

 と、まぁ、そのような視点から、もうすこし、飯沼史観を中心として、ホツマ原理主義や、千葉ホツマを、もうちょっと散歩してみよう。

<16>へつづく 

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OSHO「英知の辞典」 <33> 受容性 RECEPTIVITY

<32>からつづく
Eiti
「英知の辞典」 <33>
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本  579p

受容性 RECEPTIVITY

神は探している・・・・・・私たちが神を探す必要はいっさいない。たとえ探したとしても、みつけることはできない。なぜなら、私たちは神がどこにいるのか、彼が誰なのか知らないからだ。たとえ神がすぐ目の前に現れたとしても、あなたは彼を見分けることができない。

 なぜなら、何かを見分けるためには、前もってそれを知っていなければならないからだ。見分けるとは、誰かを前にも見たことがあるということだ---だが、これまでに神を見たことがないのだとしたら、どうやって探し、どうやって確認したらよいのか?

 真理を探すことはできない---人はただ受容的になる、ただそれだけだ。扉を開けて待つことができる・・・・・それも祈りに満ちて待つ。人はただこう言うことしかできない。「あなたがいらっしゃるのなら、どうぞいらっしゃってください----歓迎します。

 私はあなたがどなたなのか知らないし、あなたの住所を知らないし、招待状を送ることさえできません。でも、あなたが誰であれ、関係当事者が誰であれ、おいでになるのなら、私の扉は開かれています----それが閉じているのを目にすることはないでしょう」 探求者にできるのはそれだけだ・・・・・それがなされねばならないことのすべてだ。それ以上は可能ではないし、また必要もない。

 だから、この姿勢をあなたの深い態度にしなさい。人は受容的にならなければいけない。真理の探究は男性的な探求ではない、と私が力説してやまないのはそのためだ。それは女性的な探求だ----女性的なエネルギーのように、受容的だ。男性のようでは----攻撃的ではない。

 男性的な心(マインド)が科学をつくりだした。科学は攻撃的だ。それはほとんど自然に対する強姦だ。それは自然にその秘密の明け渡しを強いる暴力的な試みだ。それは優しくはない。そこには祈りがない。ただ闘争しかない。「自然の征服」「自然を征服する」ということが言われるのはそのためだ。

 だが、これはばかげている! どうして自然を征服することができるだろう? ----あなたはその一部だ。この手が私を征服できるだろうか? 手は私の一部だ。木の葉が木を征服することができるだろうか? 愚かしい、まったく愚かしい!

 この愚劣さから、私たちはあらゆるものを征服しようとするこの文明をつくりだした。それは男性が支配する世界だ。男性による支配と言うとき、私は攻撃的な心のことを言っている。攻撃的な心をもっていたら女性も男性であり、受容的な心を持っていたら男性も女性だ。科学は男性的であり、宗教は女性的だ。

 宗教はただ深い受容性・・・・・受け容れる姿勢、開かれた扉だ。神が客人としてやって来るのなら、彼は拒まれない。ただそれだけのことだ。それも彼は大いなる感謝とともに迎えられる。彼は歓迎される客人だ。

 だから瞑想し、歌い、そして踊り、だが内側深くには歓迎するハートを持ちつづけなさい。あらゆることは正しい時にやって来る・・・・・正しい時が来るまでは何ごとも起こらない。

 それはいいことだ----正しい時が来るまではそれは起こるべきではない。早めに起こってしまったら、あなたはけっしてそれを理解し、それを消化することができないだろう。それはけっしてあなたの一部にはならないし、むしろ重荷にさえなるだろう----有害なものになってしまうだろう。  THE SHADOW OF THE WHIP OSHO p290

<34>につづく

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2014/01/03

ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩「甦る古代 日本の誕生」 千葉 富三 <5>

<4>よりつづく

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「甦る古代 日本の誕生」ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩<5>
千葉 富三  2009/7/1 文芸社 ハードカバー 1227ページ
★★★★☆

 ということで、さっそくこちらのホツマ本文で、その「火水土(ひみつ)の祓い」とやらの一節をひも解いてみよう、とした。それは、「第22章 沖津彦火水土の祓い」の部分である。わずか本文で5ページの小さな部分だが、ところがどっこい、これがほとんど歯がたたない。

 それに、気になるのは、いきなりこんなコメントがあることだ。

注 この綾に限って、和仁估安聡は、ほつま文字は用いないでカタカナで古神語を記し、古語の通りに奉詠するようにと冒頭で注記しています。

 したがって、この綾でのほつま文字は、綾名以外は編著者による訳入りです。千葉注p257

 せっかく神妙な気分になって、オシテでも読むかな、と思った矢先に、この成り行きである。何が起きているのか、イロハのイもわからぬ初学の一見さんには、さっぱりわからぬが、なにかここでキモとなる出来事が起きているのかもしれない、と察するだけである。

 「綾」とは、文章の章のこと。ホツマは織物にたとえられている。和仁估安聡(わにこやすとし)は、江戸時代の安永4(1775)年にホツマツタエの写本を残したとされる人物である。

 千葉ホツマは、池田満などの「ホツマ原理主義者」から見れば、ちょっと道を外した試みに見えるかも知れない。ましてや、和仁估安聡がオシテを書かなかったのには、何か訳があるかもしれないのに、自分でオシテにしてしまうなんて、もってのほか(?)ということになってしまうのだろうか。

 脱線ついでに、この章のダイジェストを、佐治芳彦「謎の秀真伝」に見てみる。

 第二十二章「興津彦命火水土祓章(オキツヒコヒミツノハライノアヤ)」 

 ここでは、のち「竈(カマド)神とされた興津彦神が、ヒミツ(火水土)の祓いをしたこと、暦の「八将軍」の由来が述べられており、民俗学的に見ても興味ある章(あや)だ。 

 このオキツヒコノミコトとは、古事記に出てくる謎めいた神である大歳神(オオトシノカミ)の子である。大歳神は古事記ではスサノオノミコトの子の一人とあるが、一応「年穀の神」とされている。 

 さて、この年穀の神の御子オキツヒコがカマドの神とされたのは、ふつう、オキ=煨、それにオキツヒコの配偶神のオキツヒメの別名が大戸比売(オオヘヒメ)といい、そのへ=竃(カマド)という語の縁によるものとされている。 

 このオキツヒコがヒミツ(火水土)の祓いをしたというのは、もともとカマドは土でつくられ、火でもって煮焚きし、その煮焚きには水を用いるということからであった。 

 したがって、このヒミツの祓いは、べつに神秘的なものではなく、古代人的衛生管理、より簡単にいえば消毒作業であったと吾郷(清彦)氏は述べている。 

 なお、同氏によれば、もともと私たちの祖先の禊祓思想には、邪霊撃退という霊的な行為と、自他を清める(清浄化)という生理学的行為が含まれていたという。(後略)佐治芳彦「謎の秀真伝」p82「秀真伝はかく語りき」

 ここを読むだけにおいては、佐治ホツマは、飯沼史観ほど、この章に注意を払っているとは思えない。ただ、ここを読んでいてふと、自分の身の回りを見てみた。わが家の正月飾りに、この神々がキチンと登場されていることである。

Tosi
 深いことはわからないまま、例年、我が家の神棚を飾る正月飾り。この中には、キチンと「大歳神」さまが鎮座されているし、興津彦神も、我が家の台所を守ってくれているのである。

Kama
 なんだか、正月早々、深淵なる神の道が、開かれ始まったのかしらん。

<6>につづく

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「ホツマ辞典」―漢字以前の世界へ 池田 満 <2>

<1>からつづく

池田 満   (著) 1999/06 ホツマ刊行会 単行本 306ページ
★★★★★

 「ホツマ」

 (1)東国の意。箱根から東、勿来から南をホツマクニといった。

 箱根はヲハシリの坂と呼ばれており、古来からの通行の難所であった。古い時代にホツマクニは、五代タカミミスビ・トヨケ(タマキネ)が治めることとなり、ヒカシノキミ(ホツマキミ)と称号が与えられる。即ち(2)の意味する所の原意である。

 (2)稲作農耕の時代に入ってから、古の理想のトノヲシテを具現することができた意味の讃意を込めた言葉。

 ホツマクニ(東国)は五代タカミムスビ・トヨケによって再建されたわけだが、この後十代アマカミの弟の方のニニキネによりさらにその理想へと近づくことができた。ニニキネの知性をもって、シワカミホツマと讃えられて、ホツマは称賛の言葉となる。語彙として、ホは秀でたこと、ツは強調の意、マはマコトの意、即ち、まことの中のまことの意味として用いられる。p172

 この辞典、使い方が分かると非常に便利。なるほど、と思わせらるところが多い。

 「ヒタカミ」

 日本の東北地方、奥羽諸国を総称してヒタカミという。初代アマカミ・クニトコタチの御子タノミコトがこの地に派遣されてより栄、暦の木であるマサカキも植えられて独自の文化が育っていった。 

 ヒタカミは、タノミコトから代々タカミムスビを名乗って七代まで続き、この後はヒタカミノカミとしてさらに十四代まで代を重ねつつ漢字時代にと突入していった。この間に排出した多くの偉人の数々のうち幾人かについて述べる。

 ヒタカミの開祖は、クニトコタチの御子タノミコトである。タノミコトはクニトコタチの教えを受けてキクサを土産(ツト 栽培に適した草や木の品種を持ってゆくこと)として生活の向上をヒタカミに齎(もたら)した。

 また長い年数を測る暦の木であるマサカキが、ヒタカミのミヤ(今の多賀城市付近)に植えられた。これは、全国でも朝廷とヒタカミだけであった。

 タノミコトの子アメカガミは、遥か遠方の九州の地を治めることになり、その三世の孫にあたるイサナギは、七代目のアマカミを継承することになる。

 一方、ヒタカミに残った宗家の方は、五代目のタカミムスビのトヨケという偉人が出る。トヨケの生まれ合った時代は、気候の変化によって食糧生産がひどく落ち込んだ困難な時代だった。トヨケは社会改革を行なうことによって国政を立て直した。そして、跡絶えそうになったアマカミの位をも立て直すことに成功する。この他、トヨケの偉業はトヨケの項を参照して貰いたい。

 トヨケは、八代アマカミとなるアマテルの教育も行なった。即ち、若かりしアマテルカミは、ヒタカミのトヨケの許に来て勉学にはげんだのであった。

 九代アマカミのオシホミミは、ヒタカミにミヤコ(都)を移す。つまり、ヒタカミは日本の首都であった歴史も存在していたことになる。九代アマカミ・オシホミミの時に、オホナムチがツガルに遷し国となって移住してくる。ツガルの地を開発したオホナムチは、ツガルキミ(カルキミともいう)と讃えられる。

 大きくヒタカミと総称するほか、その一地方のツガルを含むこともあり、含まない場合もある。九代アマカミ・オシホミミの没後は、ヒタカミと朝廷との間は疎遠になってゆき、お互いに誤解を抱くようになってくる。

 ヲシテ文献時代の末期にもなると、韓半島情勢の緊迫から、日本には挙国一致の必要性が迫られて、ヤマトタケ(日本建尊)のヒタカミ遠征がなされる。この時代にヒタカミには誤解からくる蔑称としてのエミシの名が起こった。

 しかしヒタカミこそ初代アマ神・クニトコタチの遺風が最も濃く残っているトコヨクニ(トノヲシテによってクニを治める政り事)であった。

 十一代スヘラギのイクメノキミ(垂仁)がヒタカミにタジマモリを遣わしたのは、クニトコタチを慕ってのことである。p105

 ふむふむ。そうなっていたのか。

 「エミシ」 

 東北地方や東国に暮らす人々のうち、朝廷を尊ばない者について呼ばれた名称。ヲシテ時代の最後期にだけ出典する。

 そもそも東北地方は、初代アマカミ・クニトコタチの心入れも深く、その御子タノクニサツチ(キノトコタチ)が遣わされた土地であった。暦の木のマサカキは、クニトコタチ本拠地の琵琶湖西岸の他には、タノクニサツチだけに与えられた。

 タノクニサツチはタカミムスビとも呼ばれていく。タカミムスビの家計はその尊さが他家とは際立ち過ぎたため、長い年月を経て、逆に朝廷に対して見下ろすようになってくる。タノクニサツチ以来、実に21代もの長世代の繁栄が続いていた。

 ホツマ時代の末期は、日本が諸外国の動乱に巻き込まれてしまおうとする、激動の受難の時代に遭遇したため、国内の上下関係を再確認する必要に迫られていた。しかし、そこに伝統と由緒を誇って、朝廷なにするものぞといってはばからない人々にについて、朝廷側からは「エミシ}と称することになってゆく。

 「エミシ」のエとは兄弟のエトの意で、上を意味する。エ即ち上を上と見ない人の意である。大きな国難が到来しつつある時、初代アマカミ・クニトコタチの精神に立ち帰ってみることが何よりも大切なことであるはずである。これが解らない指導者は「エミシ」と呼ばれても致し方ない。p208

 ふむ~~。一応、聞いておこう。ところで、この辞典には「アラハバキ」は書いてないが、類語らしき痕跡をおっかけてみると・・・・。

 「アラコ」

 現代の言葉で表すと、自然児の意。生まれたままで育ったこと。

 アラカネ(粗金)、アラハル(現・顕)、アラシホ(粗塩)のアラと同じ語源。p35

 「ハ・ハ・バ」

 (1)植物の葉や、言葉の意のコトノハのハ或いは音楽の曲であるなど、ひとつにまとまって出るものをハという。特殊ヲシテ表記としてのハと、通常のヲシテのハとは、用例数10例・8例と拮抗している。

 (2)地面のこと、地球のこと、ツチを指していう。

 アメツチ(天地)の意のアワの言葉のワは、クニタマ(地球)を指す。このワからの音便としてのハと、ハニツチのハが合わさって、地面やクニタマ(地球)を指すハが用いられるようになったのであろう。

 通常のヲシテ字形のハで殆ど記されている。またハの濁音バで特殊ヲシテ表記のバと記される場合は、清められていない地面との意で用いられている。(後略)p63

 「キ(ギ)」

 (1)樹木・材木の意。
 

 (2)東の別名をキという。(後略)

 (3)男性の意。(後略)

 (4)コカネ(黄金)の意。(後略)

 (5)黄色の色名。北の方角の色が黄とされていた。木の葉が冬に黄ばみ落ちることから由来している。

 (6)長さの単位で、漢字文献時代になってから寸と呼ばれてゆくのが、キである。人の平均身長の80分の1の長さが、ヒトキである。

 (7)こころ(心)・理念の意。     (後略) p96

 断片的な引用はどうかと思うが、アラ・ハ・バ・キ、とした場合、自然な大地の心、と読めないこともない。キには、東や北の意が含まれているのも、何か意味深い。

 ところで、この本にでていないとすれば、アラハバキは、ホツマの時代よりも、さらに深い、縄文初期からの神ということにも、なってくるかもしれない(あてずっぽうですが)。

<3>につづく

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高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波「解き明かされる日本最古の歴史津波」<14>飯沼勇義

<13>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <14>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

 それでは、「最古の歴史津波」とは何か。

 今回、さらにわかった歴史津波があったことを加えたい。 

 ・紀元前2500~1300年代 高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波

 日本の歴史時代でもっとも古い、黎明期(縄文時代)に起こった最大級の津波である。

 それは紀元前2500年代から紀元前1300年代(今より3313年前)の間に起こった津波であり、紀元前1300年代、歴史津波時代(縄文時代の2000年間)が終息期を迎えるが、この間、おそらく12回の歴史津波があったであろう。

 最近、地質上の堆積物のボーリング調査を実施し、三千年以上前の津波堆積物の土砂が確認され、この歴史津波があったということの信頼度が非常に高まった。p8飯沼「18年前になぜ、巨大津波の襲来を予見することができたのか」

 さて、高見産霊(たかみむすび)とは何だろう。このタカミムスビについては諸説あり、表記法も複数あるが、ホツマ辞典には次のようにある。

「タカミムスビ」(引用者注・原書ではオシテ文字)

 初代天神のクニトコたちの子孫がヒタカミ(東北地方)に繁栄して、タカミムスビを代々名乗って七代まで続き、さらにその後にはヒタカミのカミとして十四代にも代を重ねて、感じ時代の到来を迎えた。本拠地の東北地方だけには止まらない、名家である。「ホツマ辞典」池田満著 p229

 ではでは、クニトコとは誰か?

 「クニトコタチ」

 日本国のそもそもの創始者、トコタチともいう。立国の根拠にトノヲシテを据えて、文化立国或いは恵民立国としての日本の国柄の方向性を定めた。クニトコタチには、アマテルカミもトヨケカミも尊敬の念を常に抱き続けていたほどの偉人である。

 クニトコタチの時代は、稲作以前であった。クニトコタチは、木の実の栽培を教え、住居の建て方を教え、暦を作って人々に生活の向上をもたらした。こうした、文化を授けることによって王権が成立してきた成り立ちは、ヲシテ文献の研究によって初めて明らかになった。

 クニトコタチは、トノヲシテを建国の中心に定めて、クニ(国)の名をトコヨクニと名付けた。トコヨという名前は、日本国の最も初めの国号である。トコヨという語彙は、トノヲシテによって固まった(凝る)世の中の意で、トノヲシテに凝(こ)った世のことである。

 クニトコタチの時代には、すでにオシテ文字が座右のものであったことが窺われる。トノヲシテを建国の要に据えたこと自体、ヲシテ文字がそれ以前に完成していたことを示す根拠といえる。「ホツマ辞典」池田満著 p133

 こうして読み始めると、なんだかとてもホツマの世界が、人肌のように親しいものに見えてくる。この辞典では、「クニトコタチの本拠地はヲウミであったことが推定できる用例が『ミカサフミ』にある」(p133)と記されている。

 さてさてさて、これらを踏まえて「高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波」とは、なんであったのであろうか。つまりは、このような神代の理想原始国家時代に起こった巨大地震であった、ということになろう。

 ここでの著者の文脈を読むとこの2000年間の間に12回の巨大津波があっただろう、と推測している、ようである。

 この「秀真伝」に、縄文時代を代表とする巨大地震と大規模津波は、紀元前1300年代、つまり縄文時代の後期から晩期の間に起こり、そして終息した---という記録が見られる。 

 紀元前1300年代、すなわち今を遡ること3313年前のこの地震津波のことを、「高見産霊(たかみむすび)・日高見国(ひたかみのくに)の津波」という。 

 それはこの古書の中の、「沖津彦火水土(ひみつ)の祓(はら)い」に書かれている。 

 地震のことを「国揺(くにゆり)」、津波は「龍濤(たつなみ)」と書いていて、縄文神の高見産霊・日高見国のことが克明に書かれている。 

 縄文神の高見産霊・日高見国が生存した聖地は、源流は青森県三内丸山遺跡、三代、四代は岩手県一戸御所の遺跡、五代豊受は北上川河口よりにある現在の宮城県石巻市桃生町太田地内と宮城県多賀城市の多賀城址地内、そして、阿武隈川の中流の宮城県角田市の島田地内である。

 この高台から、縄文の神々が、初代から十四代道奥(みちのく)までの約一万年以上にわたって、縄文時代から西暦110年までの長い間、この巨大地震と津波の発生を歴史的に見届けてきた。

 この高見産霊・日高見国の東方には牡鹿半島、さらにその東方の海域には宮城県沖とその周辺海溝があり、そこで起こった地震による大規模津波によって、広域の仙台地方は海になった、とある。飯沼 p29「はじめに」

 ここまで書かれると、今年は、三内丸山遺跡と、一戸御所の遺跡を訪問見学参拝しなくてはならないのかな、と新年早々、そう思う。

 さて、千葉ホツマのほうには、この「沖津彦火水土(ひみつ)の祓(はら)い」はどのように書いてあるのだろう。

<15>につづく

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ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩「甦る古代 日本の誕生」 千葉 富三 <4>

<3>よりつづく

Tiba2
「甦る古代 日本の誕生」ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩<4>
千葉 富三  2009/7/1 文芸社 ハードカバー 1227ページ
★★★★☆

 飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」 (2013/03 鳥影社)を読み進めるにあたって、どうしてもぶつかってしまうのが、ホツマツタエであるし、その独特な年代の読み方である。このところが分からないと、何が「歴史津波」で、何が「日本」で、何が「最古」なのか、全然わからない、ということになる。いや、いまだに、よくわかっていないのだ(汗)。

 紀元前何千年という「歴史」を、年代を区切って「確定」してしまう作業は、ちょっと無謀ではないか、と思う。仮に虚構や寓話であったとしても、何年「頃」とほのめかすくらいならつきあうこともできないわけではないが、紀元前何千何百何十何年、と細かく読み込んでしまうのは、どうか。一般的に考えて、それは無理だろう。無理すぎる。

 「秀真伝」に限らず、言い伝え、伝説の中の真実をどのように掘り起こしてゆくか、これからの歴史学、そして防災対策にとって重要課題である。飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」p31

 ここを読む限り、飯沼史観においては、言い伝えや伝説と同じレベルで「秀真伝」を捉えていると考えていいだろう。言い伝えや伝説の中から「仙台平野の歴史津波」をあぶり出し、3・11を16年前から「明確」に予言していた飯沼史観である。仮に、秀真伝が、言い伝えや伝説の中に埋没してしまいかねない、一「偽書」であったとしても、仮にそうだったとしても、もしその「寓話」性の中に、真実の一片が隠されている可能性があるかもしれない、と指摘する。

 「秀真伝」が書かれた時代は、神武天皇が即位した時(紀元660年)といわれ、このとき、第一章から二十八章までが書かれた。

 そして十三代景行天皇の御代、子息の日本武尊(やまとたけるのみこと)の死去後、すなわち126年、景行天皇は「秀真伝」の第二十九章から四十章を書き加え、「秀真伝」第一章から第四十章までが完成に至ったのである。飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」p28

 このあたりの年代の明記の仕方も、はて、どれほどの妥当性があるのか、歴史音痴の当ブログには、なんとも言えない。さらに、もっと遡ると、もはや、それは「うそでしょう」と言いたくなるような記述さえ飛び出してくる(汗)

 日本最古の書「秀真伝」には、日本の歴史の夜明けともいうべき新時代の始まり、神々の登場が克明に書かれており、現在この古書の真実性が高まってきている。この「秀真伝」は、「甦る古代 日本の誕生」(千葉富三著 文芸社)によると、今を遡ること3730年、紀元前1718年に書かれた書である。飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」p47

 ガーン。第一章の書き出しからこの調子なのである。江戸時代に書かれた偽書である、という批判がある中で、いきなり「今を遡ること3730年、紀元前1718年に書かれた書である」と言い切ってしまっていいのか。そして、その根拠とされる千葉富三ホツマに、その根拠を示すだけの力量はあるのか。その任はあまりにも重すぎるのではないか。

 ところで、その根拠とされる千葉ホツマではどのように取り組んでいるのか。

 「年表」
(7)最後に年表を付けました。「秀真伝」の暦、特に真榊暦(まさかきこよみ)ともいう鈴暦(すずこよみ)は難解で、本書ではとりあえず、記述の中にある「一鈴60年」をそのままと仮定しました。

 これには編著者自身も実年との開きが大きいのではないかと疑念を抱き、60年の2分の1、つまり「1鈴30年」ぐらいであれば整合性があるのではと思いをめぐらしながらも、その裏付けを極めるに至らず、結局「1鈴60年」と仮定したまま、次に述べる天鈴暦(あすすこよみ)の始まりからの逆算による配置としました。

 したがってこれは絶対年表を表したものではなく、事柄の順序配置といった程度の参考と見ていただいきたいと思います。千葉 富三「甦る古代 日本の誕生」p49「序章」

 この落差は大きい。紀元前をこまく年代を区切ってしまう飯沼史観に対して、千葉ホツマは、あくまでも「順序配置といった程度」と前もってことわっているのである。そもそもが千葉ホツマは、かなり遠慮した自制心に富んだ書である。

 もちろん、これで「秀真伝」が、直ちに歴史資料になると言い切るつもりはありませんが、こうした続々の物証を前にしても、考古学、歴史学あるいは古典文学のそれぞれの分野において、要はそれぞれが権威とする既成固定観念が侵されるのではないかと固執するものであってはならない、文明には消長がある---という事実を、思い起こしたいものであります。千葉 富三「甦る古代 日本の誕生」p49「序章」 

 かなり抑えた調子ではあるが、千葉ホツマも、実に「まつろわぬ」人々の研究である。飯沼史観ほど大胆不敵ではないにせよ、千葉ホツマも、その懐にはそうとうに煮えたぎった反逆のスピリットを抱えているのである。

 仮に千葉ホツマにおける、鈴暦や天鈴暦の解読が、恣意的な試みであったとしても、ひょっとすると、その年代の解読に対して、飯沼「歴史津波」史観が、周期性をともなって現れた歴史津波とその「空白性」から、根拠を与える、ということもあり得るかもしれないのだ。

 当ブログにおいては、この千葉ホツマと飯沼史観が、激しく出会い、それぞれでは、か弱く、カゲロウのような存在でしかない二つが見事に絡みあい、まるで縄文の縄のように、ひとつの強力かつ強大なロープになるのではないか、と思えてくるのである。

 <5>につづく

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日高見国を訪ねて 「北上川散歩」鈴木 文男<2>

<1>からつづく

Kitasan 
「北上川散歩」日高見国を訪ねて <2>
鈴木文男1991/05 あづま書房 新書版 p153

 この本の魅力はどこから来るのだろうか。ネット上の情報によれば1920年生まれということだから、この本がでた1991年当時すでに71才の方であった。現在御存命であれば、すでに93才の方ということになる。

 出版されたのは、あづま書房という仙台市太白区のマイナーな出版社からだ。著者の出版物リストを見てみると、割と多くの書物があるが、この本のあとには1997年に一冊だけありそうだ。

 この本を読んでいて「秀真伝」が何度かでてきたなぁ、という印象だったが、再読してみると、二回だけだった。期待していないところに、突然「秀真伝」がでてきたので、強い感動をうけたのだろう。

 歴史時代に入って始まるヤマト征服王朝の正当性を主張する国造り神話や記紀などによって一方的に周辺部族は蒙昧邪悪な民とされて来たが、古事記が語る<高天原>の原郷についても、近年その所在をめぐって幾つも説が出て来て、南方説、大陸説、九州説、富士山麗説と賑やかであるがその一つの<秀真伝>では<日高見高天原>説をとなえていて、宮城県の中心部にあったと伝えて面白い。p47「幻の日高見国」

 いかにもヒタカミ人らしい抑えた表現だが、著者ご本人は、もちろん高天原は日高見国にあった、という説を支持している。ということは、その根拠は、「唯一」秀真伝のみ、ということになるのだろうか。

 それぞれの人種、それぞれの部族は、遠い先祖の物語の神話を持っている。常陸風土記は<常陸日高見>を誌し、秀真伝は<日高見高天原>が仙台周辺だったと示唆している。p137「平和日本の原郷”日高見国”」

 常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年に元明天皇の詔によって編纂が命じられた、ということだから、ライバルとしてはかなり強力だが、この常陸ヒタカミ説は、割とうまくホツマツタエの中にリンクされているようだ。

 当ブログは、自らの地元意識から、当然<日高見高天原>仙台中心説を支持したいわけだが、まぁ、そこはファナテッィクにならずに、そうだったらいいのにな、程度につきあっていくことにする。

 ホツマツタエの読み方にしても、複数あるようだから、総論併記を基準としながらも、最終的には我田引水(!)できなければ、ホツマさも、バッサリと切りおとしてしまうかもしれない(笑)。一読書子の気ままな地元散歩である。気楽に行こう。

<3>につづく

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2014/01/02

「叛逆」―マルチチュードの民主主義宣言 アントニオ・ネグリ他<1>

「叛逆」―マルチチュードの民主主義宣言 <1>
アントニオ・ネグリ , マイケル・ハート (著), 水嶋 一憲 , 清水 知子 (翻訳) 2013/03 NHK出版 単行本 216ページTotal No.3157★★★★☆

 当ブログがスタートして以来、虚心坦懐に公立図書館の開架棚の前に歩いて行って、目についた本を、ランダムにめくってきた。ごく当たり前のありふれた図書館ではあっても、そこにある集合知や<共>が醸し出す雰囲気は、なかなか魅力的である。

 その中にあって、ずっと初期的な段階から当ブログを魅惑しつづけてきたのが、アントニオ・ネグリ等のいうところのマルチチュードという概念だった。その後、一連の書物をめくってきてはみたが、当ブログとしては、その「路線」とは異なる、と自己規定した以上、深入りするのは禁物と判断している。

 しかるに、また一連の本のタイトルが新たに目につけば、どうしてもページをめくりたくなるのは、それなりに、その概念に妥当性があり、今日性があるからだろうと思う。魅力的な概念だ。

 この書もまたNHKブックスからの刊行である。このような「危険」な書物が、NHKのような公共放送関連出版社からでるのは、どうしてなのだろう、といつも思う。翻訳陣や編集者たちの個人的なつながりによるものかもしれない。

 すくなくとも、このような「マルチチュード」的な視点を十分に組み入れた公共放送が、長期にわたって世界的な動きをレポートしたら、本当に「<帝国>」を打倒して、革命できるかもしれないとさえ思う。

 この本は、2010年末から2011年におきた一連の世界的な「マルチチュード」たちの「蜂起」に連動して、緊急的にキンドルで出版されたものの翻訳である。いわゆる一連の「アラブの春」やウォール街の占拠運動などが起きた2011年は、私の住んでいる日本は、そして特に東北は3・11という大震災に見舞われた。

 それでも、その後に起きた「脱」原発、原発ゼロを主張する動きなどを、「マルチチュード」的な動きと見ることは、できないわけではない。

 2011年の泊まり込み抗議運動と占拠は、コミュニケーションに関するこの真理を発見するものだった。フェイス・ブック、ツイッター、インターネット、その他のコミュニケーションのメカニズムはたしかに役立つが、これらのメディアはどれも、身体的に一緒にいることや、現場で交わされる身体的コミュニケーションにとって代わることはできない。

 そしてこうしたコミュニケーションこそが、集合的な政治的知性と行動の基盤なのである。アメリカ合衆国全域および世界各地---リオデジャネイロからリュブリャナへ、オークランドからアムステルダムにいたるまで---で起きたあらゆる占拠運動において、たとえわずかな期間しか継続しなかったとしても、占拠に参加した人びとは、そこに一緒に存在することをとおして新たな政治的情動を創出する力能を経験した。p39「危機が生みだした主体形象」

 これら、世界各地の動きが、自らを「マルチチュード」と名乗って活動しているわけではない。むしろ、自らをそう規定していた動きはゼロと言っていいだろう。ただ、世界同時的に発生した動きを、ネグリやその視点を共有する陣営が、その動きを「マルチチュード」たちととらえているだけのことである。

 あるいは、その運動の渦中にいる人々においては、外部から、全体像をもっていない自らの運動を、「マルチチュード」の中のひとつの動きと思いたい、という向きもあるだろう。でも、それはどうも、違う。池で泳いでいる魚たちを、これは僕の魚たちで、こっちからあっちは、他のやつの魚だ、と勝手に名前をつけているようなものであって、魚たちには、誰に所有されている、という意識はないだろう。

 この本の原題は「DECLARATION」である。一般には「宣言」と翻訳されてもおかしくはないが、この本の出だしから、「これはマニフェストではない」(p9)と語る以上、「宣言」と翻訳することはできないだろう。弁明とか声明あたりなのだろうか。

 日本語翻訳チームは、これを「叛逆」と「翻訳」した。字義的には、マルチチュードと「叛逆」は、相性がいいと思う。「マルチチュードの叛逆」は魅力あるシチュエーションである。それに、どれほどの真実性が伴うかは定かではないが、比喩や寓話としては楽しく、「美しい」。

 だが、ネグリやその同調者が、共産主義的な革命や、新しい政権や権力(それが「構成的」であったとしても)を樹立することを幻視している限り、彼らのいうところの「マルチチュード」は、当ブログでいうところの「地球人スピリット」とは、依然として距離が残ってしまうことになる。

 その名も「がんばれマルチチュード」(2003/4 実践社 )の著書のある荒岱介を思い出す。同時的な<共>関係よりも、自らをマルチチュードと自覚する<個>の意識を考えてみたくなる。

 もし、瞑想するマルチチュード、という概念が存在するなら、それを当ブログなりに、地球人スピリットと名付けることにやぶさかではない。それでは、瞑想には、マルチチュード、という概念は必要であろうか。いや、不可欠とは言えない。

 しかしながら、当ブログが模索するところの地球人スピリットとして瞑想が深まるなら、マルチチュードの中の主要要素のほとんどは、自然に個人の中に湧き上がってくるものと、想像するに難くない。

 ネグリ&ハートの中に、特異性とかシンギュラリティという用語がたびたび登場する。アイディンティともオリジナリティとも違うと語られている。この用語はシングルが変形したものだ。マルチが強調されるがゆえに、あえて単一性を復権するためにこそ、このシングルをイメージするシンギュラリティが語られるのだろう。

 単一なものとしての個性が結晶化(クリスタライゼーション)されることを、特異性(シンギュラリティ)と名付けているのではないだろうか。

 情報提供に重点をおく政治的プロジェクトはたしかに重要だが、それはあっけなく失望と幻滅をもたらすものである。アメリカ合衆国の民衆が、政府の取り組んでいることや政府の犯した犯罪を知ってさえいれば、彼らはきっと立ち上がって変革するだろう、と考える者もいるかもしれない。

 けれども実際には、たとえノーム・チョムスキーの著作をすべて読み、ウィキリークスによって公開されたあらゆる資料に目を通したとしても、彼らは同じ政治家に投票し、同じ政治家を政権につけ、つまるところ同じ社会を再生産することだろう。情報だけでは不十分なのだ。p73「危機への叛逆」

 私の思うところ、老いたるネグリに鼓舞されて、さらにまた別なオルタナティブな道を選ぼうと、たぶん結局は「同じ社会を再生産」することになるに違いないのだ。社会の仕組みをより快適なものに改革改造(時には革命)していくことは、重要不可欠なものではあるが、「社会」の中には、「十分」な世界は、結局登場しないだろう。

 2011年に始まった諸々の闘争による宣言が明確に指し示しているのは、新たな社会を構成することに関する議論がすでに熟しており、また今日それが、もっとも重要で必要なものとなっているということだ。p180「<共>を構成する」

 ネグリが指し示す道を眺める限り、私は、道は遠いと思う。そして、それには、決定的ななにが欠如していると見る。

 2011年の闘争サイクルと、近年における他の無数の政治運動を活気づけたマルチチュードが、組織化を欠く、無秩序な存在ではなかったということは、改めて言うまでもない。じっさい、組織化の問題は、それらの闘争や運動において議論され、実験された、もっとも重要な主題だったのである---すなわち、どのようにして集会を運営するのか、どのようにして政治的な不一致を解決するのか、どのようにして民主的な仕方で政治的な意思決定を形づくるのか、というように。

 変わらぬ熱情と自由、平等、<共(コモン)>の原理を守りつづけている人びとにとって、今日もっとも重要な課題は、民主主義社会を構成することなのだ。p193「次なる闘争へ」

 これは、この本「叛逆」の結論である。ため息がでる。反逆は反逆である。どのような社会であろうと、それを「構成」することが重要な最終目標となってしまうなら、それは、反逆ではあるまい。

 多様性を受け入れつつ、自らを多様なリンクのなかに飛び込ませつつ、遂には、自らを個としてシンギュライズするには、常なる反逆が基本となるのだ。どのような社会であろうとも、その社会を構成することが、マルチチュードの最終目標であってはならない。

 共なるものの中に立ち、しかも自らを単一の自立した個として意識することこそ、マルチチュードのシンギュラリティであると、私は見る。

<2>につづく

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飯沼史観関連リスト「解き明かされる日本最古の歴史津波」<13>

<12>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <13>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

飯沼史観関連リスト  (編集中)

遺跡・史跡など----------------

40)金蛇水神社 New  2017/10/11 
39)竹駒神社
38)名取老女
37)秀麓禅齋(三・一一観音) 
36)淵上蛸薬師瑠璃光如来その3 
35)名取熊野本宮 
34)名取熊野新宮
33)紹楽寺 名取市高舘
32)熱日高彦神社黒須主計宮司インタビュー (動画)
31)閖上・日和山
30)金華山、日高見神社、松島、アラハバキ
29)多賀城廃寺跡  
28)淵上蛸薬師瑠璃光如来 仙台市太白区長町 
27)陸奥国分尼寺 仙台市宮城野
26)陸奥国分寺  仙台市宮城野
25)角田住吉神社 宮城県角田市 
24)遠見塚古墳 仙台市若林区 
23)道祖神(佐倍乃神社) 宮城県名取市
22)雷神山古墳 宮城県名取市
21)来たるべき地球人スピリット
20)五柱神社 仙台市若林区
19)名取熊野那智神社 宮城県名取市
18)阿福河伯(あぶくがはく)神社 宮城県亘理町逢隈
17)日向灘、沖縄列島 
16)中将藤原實方の墓 宮城県名取市塩手
15)ホツマツタエ
14)日高見国
13)飯沼史観関連リスト
12)日高見神社 宮城県石巻市桃生町太田
11)荒脛巾神社 宮城県大崎市岩出山 
10)秀真伝
09)荒脛巾神社 宮城県多賀城市
08)飯沼勇義著作リスト
07)長谷古館跡(武隈館?) 宮城県岩沼市南長谷
06)日高神社 岩手県奥州市水沢
05)千貫神社 宮城県岩沼市南長谷
04)仙台郡山官衙
03)熱日高彦神社 宮城県角田市島田 千九百年祭
02)清水峯神社 宮城県名取市 
01)飯沼勇義関連リスト  

郡山遺跡 仙台市太白区郡山 被災ミュージアム再興事業 
浪分神社 仙台市若林区   
蛸薬師神社 仙台市太白区  再訪 
柳生薬師神社(柳生かやの木) 仙台市太白区 保存会
七島観音 宮城県名取市  
角田郡山遺跡 宮城県角田市 
名取川と広瀬川ぞいの横穴墓   

参考文献------------------

「仙台近郊の歷史資料 第一報」 1953/04 地域社会研究会(東北大学教育教養部内)
「知られざる中世の仙台地方」 1986/11 宝文堂 
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う! 1995/09 宝文堂 
「3・11その日を忘れない。」 歴史上の大津波、未来への道しるべ 2011/6 鳥影社 
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!復刻版 2011/09 本田印刷出版部「解き明かされる日本最古の歴史津波」 2013/03 鳥影社
「日本の誕生」 千葉富三 
「日本の真実」 千葉富三 
「郡山遺跡」 長島榮一  2009/02 同成社 
「多賀城跡」―古代国家の東北支配の要衝 (日本の遺跡) 高倉 敏明 
「古代代東北統治の拠点 多賀城」 進藤秋輝 2010/02 新泉社

<14>へつづく

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2014/01/01

日高見国を訪ねて 「北上川散歩」鈴木 文男<1>

Kitasan  
「北上川散歩」日高見国を訪ねて <1>
鈴木文男 1991/05 あづま書房 新書版 p153
Total No.3156

 この本も永い間、枕元にありながら積ん読になってしまい、一度は天井ロフトに御蔵入りしてしまった一冊。小さい、コンパクトな新書だが、内容は鋭く、深い。

 どうしてこれだけインパクトがあるのだろう、と考えた。それは、たぶん、ご本人が東北人であり(つまりヒタカミ人)であり、実際に自分の足で「散歩」しながら書かれ本だからであろう、という結論に達した。

 この本もまた、1991年のスピリット・オブ・プレイスの準備のために稼集した一冊である。ホントにあの時は、仕事をぶん投げて、一年間、よく勉強したものだ。

 あの時、たくさんの本を読んだが、もしあの時、キミの基調意見はどんなものなのか、と問われたなら、この小さな新書一冊を提示するだけで、足りたのではなかっただろうか。

 でも、当時の私はそこまで理解がすすんでいなかった。今にしてようやく、この本があり、このようにして、すでに20数年前に書かれていたのだ、ということに感動するだけだ。

 もしこの本で残念だとするならば、この本で言われるところの「北上川」流域に、私は住んでいないことだ。また、その人々の、本当の意識とは、すこしずれた位置にある。

 たしかに、1988年の春に、北上川流域にコミューンの可能性を見つけて、家族ともども、住所を移して移住計画を実行したことがある。しかし、ここまでは理解できていなかった。

 もしあそこにキチンと移住出来て、この本に出会っていたら、私は、あのシンポジウムに参加する機会はなかっただろうし、また、参加する必要もなかったのではないか、とさえ思う。

 あの移住が成功しなかったからこそ、その代案としてのかのシンポジウムのスタッフとして参加したのではなかっただろうか。

 3・11後、「宮沢賢治祈りのことば」 悲しみから這い上がる希望の力(石寒太 2011/12 実業之日本社)を読んで、とても感動した。何度も読み直した。しかし、そもそも、それは3・11後に書かれたからなのであって、3・11以前に読むとしたら、こちらの「北上川散歩」のほうが数段すぐれていたのではないだろうか、こちらのほうが、より賢治を積極的に、普遍的に理解しているようにさえ感じる。

 汚い川のためにダンスをしたり、詩を読んだり、そして音楽を演奏したりもするんです。ちょっとしたことでいいんですよ。こういう活動をアーバン・バイオリージョナリズムと言いますが、いまアーバン・バイオリージョナリズムはたいへん活発です。ゲーリー・スナイダー「聖なる地球のつどいかな」 p121「バイオリージョナリズム---流域の思想

 アーバン・バイオリージョナリズム 生態地域主義(生命地域主義)は、行政的に分割された「地域」ではなく、生態系を基礎として分割されたバイオリージョン(生態地域/生命地域)を生活の中心に据えることを提唱する。このような意味では、都市もひとつのバイオリージョンであると見ることができる。p121同上注

 ここで山尾三省との対談で語っているスナイダーの思想そのものが、この「北上川散歩」に表出されていると、感じる。

 そして、残念なことに、私は、北上川流域には住んでいない。私には、私のバイオリージョンを感知する能力が必要なのである。

 1991年11月のスピリット・オブ・プレイスは、日本経済バブルの最後っ屁のタイミングであったし、建築業界からの多大な資金提供があった。また、アメリカ人の提唱者を迎えるということもあったし、仙台周辺のユース・カルチャーの総結集という意味もあった。

 だから、一概に評価し、総括することはできないが、少なくとも、1991年と、今年2014年におけるミッシングリンクを探ろうとするならば、まずは、1991年のこの「北上川散歩」をピックアップすることは可能だろう。あるいは、他の本には代えることのできない、貴重な価値をこの本は持っている。

 今日一月元旦、石巻市桃生町太田の、日高見神社に初もうでしてきた私は、つよくそう思うのである。正月そうそう、今年最初のレインボー評価の一冊だ。

<2>につづく

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「みちのく古代 蝦夷の世界」 大塚 初重他

Emisi1311
「みちのく古代 蝦夷の世界」
大塚 初重 、工藤 雅樹、 新野 直吉 、 岡田 茂弘、 佐原 真、 豊田 有恒 (著) 山川出版社1991/05 単行本 258ページ
Total No.3155★★★☆☆

 この本もまた、一度は天井裏の段ボールに入れられてしまった一冊だが、この度、また封印を解かれて下界に降りてきた(笑)。この本もまた1991年発行である。この時期、私は、スピリット・オブ・プレイスのスタッフとして、この手の本をだいぶ勉強したようである。

 今ググっていて、上田氏のツイートを見つけたので、メモしておく
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上田紀行‏@UedaNoriyuki 22年前の「スピリット・オブ・プレイス仙台」はほんとに画期的な催しだった。その内容が分かるリンクを見つけて読み直し、あんな大規模な催しをよくやったものだと感嘆。http://bit.ly/112Zeos
----------------------

 この本、朝日新聞社主催のシンポジウム(1990/10)をまとめたもので、新聞社らしくまとまっているが、当然1990年当時の情報までしか織り込まれていない。この後に三内丸山遺跡などの発掘があるのだから、ここで展開されている論旨には限界がある。

 逆に言うと、この地点ではこのような見方が大勢を占めていたのだ、という確認にはなる。結果的には、可もなく不可もなく、今読み直してみれば、特にぬきんでた本ではない。

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日高見神社 「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義 <12>

<11>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <12>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

日高見神社 宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73

 日高見国が最初に成立したのは日高見川の日高見神社、日高見水神であった。「日本三代實録」によると、その五年後に阿武隈川に「阿福麻水神」が祀られていることがわかる。

 ①日高見神社・・・・日高見水神・・・・・北上川
 この日高見神社は、宮城県石巻市桃生町太田の地内にあって、桃生の発祥の地といわれている。(中略) 

 日高見水神は、日高見川を祀る神で、日高見川は北上川のことである。この北上川から南東北地方を視界とし、さらにここより北東北地方の蝦夷地を展望できる日高見国であった。 

 また、この北上川の中流域には水沢(現・奥州市)があって、ここにも日高見神社が祀られている。この日高見国から東北を望み、ここから内陸の南方東北の前沢、平泉、一関、古川方面の蝦夷地を望む下降の情報を得るところであった。p106 飯沼勇義 「国づくり創世記の津波」

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 元旦そうそう、未明に目が覚めた。老人性とも云えるが、そもそも、紅白歌合戦もそこそこに床に入ったのだから、当然と言えば当然だ。今日は、正月元旦、どこに初詣しようか、と考え、このところずっと気になっていた石巻市の日高見神社を参拝することにした。
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 現地についたのは、まだ4時前、ひっそりと静まり返っている。初詣客でにぎわう社殿を予想していたので、ちょっと拍子抜け。門前には人っ子ひとりもなく、車さえない。ひとり参拝する勇気もなく、朝になるのを待った。

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 日の出は6時50分ということだったが、6時になると、町内の共同スピーカーからチャイムが流れた。まだ暗がりだが、朝が始まった。

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 ひっそりとしてはいるが、どこか奥深い。雰囲気としては、奥州市の日高神社より、角田市の熱日高彦神社の雰囲気に近い。

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 門前のいわれ書きの看板も、それなりに書いてはあるが、教育委員会の危なげない範囲の説明がしてある。
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 参道には、樹齢1000年と推定されるケヤキの木がある。

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 こちらの言われもそれなりである。
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 なだらかな砂利の参道を登っていくと、ほのかに明かりが見えてきた。

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 紅白の幕が横に張ってあり、一風、独特な雰囲気だ。初詣の準備であろうか。たいまつも焚いてある。

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 しかし、実はこれ、もう片付けなのだという。正月の行事は、大みそかのうちに獅子舞などが奉納され、すでに氏子たちは仮眠を終えて、片付けに入っていたのだ。これは古来そのようなやり方で進められてきたらしい。
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 この神社にも、南から北へと進む参道とは別に、西から東へと進む参道がある。現在の社殿こそは南向きに建てられているが、東向きの参道の存在は、角田市の熱日高彦神社や、多賀城の荒脛巾神社に通じるものがある。
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 片付け中にもかかわらず、氏子の役員の方に、社殿の中を案内してもらう。両脇のカラフルな立像があるものの、至って、質素な拝殿と言っていいのではないだろうか。

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 「実は、この次の間が奥殿になっていて」と、役員の方に扉を開けていただいたが、おそれ多くて、中には参拝できなかった。いえいえ、今日のところは、ここまで十分でございます。13
 外で雪は降ってはいなかったが、ごく最近降ったのであろう雪が、日高見の静けさを更に演出する。
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 境内も至って質素である。華美をひたすら戒めているようにさえ感じられる。社殿に向かって左側(西側)が水の神様であり、右の神様が「おんなの神様」であるという。詳しくは聞き損ねたが、ひょっとするとアラハバキに通じる何かがあるのではないか、と直観した。お社の中には、小さな祠があるだけで、それと分かるものは見ることはできなかった。
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 どこか力強く、どこかで、何かを抑えているような、神様である。そんな感じがする。

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 社殿の鰹木は6本。奇数の鰹木は男性、偶数の鰹木は女性の神様、とどこかで聞いた気がする。しかし、縄文の日高見まで戻るとするなら、それらのシンボルは、とうに超えられてしまうことだろう。
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 日高見が北上川になったのか、日高見川が北上になったのか。この地に、確かに日高見国があったのだと、人は言う。

<13>へつづく

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ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩「甦る古代 日本の誕生」 千葉 富三 <3>

<2>よりつづく

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「甦る古代 日本の誕生」ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩<3>
千葉 富三  2009/7/1 文芸社 ハードカバー 1227ページ
★★★★☆

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 今年は、この本からスタートすることになった。そして、48番目のカテゴリ名は「無窮のアリア」、こちらは石川裕人の劇作名からの引用である。こちらも新春にあわせてのスタートとなる。そして、軸となるのは、飯沼史観である。

 つまり、前カテゴリ「時の葦舟」の「再読したいこのカテゴリこの3冊」精読モードとなる。そして、そこにOSHOの「英知の辞典」がからむ。

 「英知の辞典」は今から5年前、「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」カテゴリにおけるこのカテゴリこの三冊の中の一冊である。他の二冊、OSHO「私が愛した本」と、「OSHO ZEN TAROT」は、すでに当ブログとしては読み込みを完了している。

 「英知の辞典」 は500ページ以上ある大冊である。当ブログで全部を読み込むことはかなり無理がある。しかるに、原本の英語では3冊に分冊されていて、内容は、日本語の10倍ある。だから、日本語、英語、ピックアップしたかたちで、ランダムに読みこんでいければいいと思っている。

 さて、直近の当ブログは、飯沼勇義「史観」と、千葉富三「ホツマ」の整合性へと、一歩突き進む、というところにある。ここにポスト3・11がからむ。ここにおよんで、当ブログは、「読書ブログ」から、「郷土史ブログ」、あるいはフィールド・ワーク・ブログへと変貌する可能性を持っている。いずれは、ゲーリー・スナイダー山尾三省のいうところの「バイオリージョナル」へと成熟していけばいいだろう。

 ところで、ホツマツタエは日本最古の叙事詩と言われているが、石川裕人いうところの「アリア」は叙情歌と言われている。当ぶろぐでは、石川の古代編は、どうやらアジアの大陸にあるようだが、これを日本の古代と読み、ホツマを叙事詩ではなく、叙情歌として読み込んでいこうと思うのである。

 当ブログのサービスはニフティのココログを利用している。このサービスのアクセスログ解析がお気に入りだったのだが、3月1日から大きく変わる。そこのところが、書き手としては、ちょっと気に入っていない。それをきっかけに他のブログサービスに移行するとか、の可能性もないでもない。

 そして、3月には、私は名実ともに60才になり、還暦となる。そして、長らく震災で修理していた近くのコミニティセンターがまた使えることになる。それを期に、また定例の瞑想会を復活しようと思う。

 年頭にあたり、いろいろ書いてしまったが、とにかく当ブログとしての最終点はOSHOなのであり、本当のことを言えば、もうすでにやりたいことはやり終えてしまっている。だから、付録の人生だ。まぁ、どこで終わってしまっても、悔いはない。

 現在、当ブログ1.0と2.0合わせてアクセス数はすでに90数万というところにある。カウント方法もまちまちだし、他の人気ブログと比較すれば、たんにこれだけのアクセス数ではあるが、当ブログとしては、これだけの人々に来ていただいて本望である。今年中には、百万に達するだろう。

 フェイスブックやツイッターが華やかなりし昨今ではあるが、当ブログは、当面ドンくさく、コツコツ、ブログを書いていくこととする。

 

 本年もよろしくお願いいたします。

<4>につづく

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