寺山修司「田園に死す 」Pastoral: To die in the country (1974)
Total No.3163★★★★★
自分のブログへの過去ログを見ていて、自分の過去の書込みを読み、なるほど、あの頃はこんなことを書いていたのか、と思いつつ、そこに今になってアクセスされていることの意味をいろいろ考えてみた。
そしてリンクをたどっているうちに、寺山修司に辿り着き、「田園に死す」がネット動画で全部見れることを知って感動した。1時間40分。あっと言う間にiPadで見てしまった。
寺山修司とは、本当に一期一会だ。高校を卒業した18才の時、数カ月のアルバイトで作った資金で、日本一周ヒッチハイクを企てた。バックパックには寺山の「書を捨てよ街にでよ」の文庫本が入っていた。
いま思えば因果だが、私のオン・ザ・ロードは、まずは仙台から海岸線に抜け、三陸海岸へと向かった。今回の3・11でのメインステージは、私の人生のメインステージでもあったのだ。
そのまま北海道に向かい、稚内、網走、利尻礼文と回ったあと、札幌からふたたび函館へ向かい、青森へ戻ったのだった。その時1972年の初夏、青森県民会館で天井桟敷の芝居を見た。
見たというより、行くあてのない私は、その公演看板を見て、昼の仕込みの間に会場へと忍び込み、代金も払わず芝居を見たのだった。そしてあろうことか、そのあとも会場に残り、スタッフと共に打ち上げへ。呑んで食べて、彼らの宿舎に一緒に泊ってしまったのだった。
もちろん、そこにシーザーや九条映子、佐々木英明、友川かずきなどとともに、御大・寺山修司もいた。1935年生まれの寺山、あの時、まだ37歳だったのか。この「田園に死す」もその後1974年に公開されている。
すでに寺山を失ってから30年。2014年において、飯沼史観からホツマにうつり、ヒタカミ+ツガル連合を思う時、初代ヒタカミとされる三内丸山に思いを馳せ、岩木山を思う時、ふと、寺山の世界が浮上してきた。
ホツマの世界は、五七調の歌の世界である。そのルーツは言霊のさきわう国ヒタカミにあったことを思うと、そこにいた歌人たちを思い出さずにはいられない。宮澤賢治にも歌はあるが、彼はむしろ自由詩や童話の世界にその裾野を広げた。石川啄木もまた五七の世界に生きた人だが、短命ゆえに悲劇が伴う。
いまにしてふと思う。寺山のあの五七の世界は、五七の世界を乗り越えていたのではないか。五七の世界にハマりきれないからこそ、演劇や芝居、執筆活動や評論活動へと雪崩れていったのだろう。
しかし、それにしても、その抱えきれない原風景が、伝統的な五七の世界へと転写される時、原東北などぶっ飛んでしまうような情念のただ中へと引っ張っていってしまうのが寺山ワールドであった。
そして、この映画でも、寺山は激しい懊悩の中から「私は誰か」を問いかけ続けた。演劇性と瞑想性、などと、たどたどしいリンクで当ブログは右往左往するのみだが、寺山は、決して長くはなかったその人生の中で、瞑想性の、どこまで突っ込んでいたのであっただろうか。
この次、青森を訪問する時は、岩木山と三内丸山と決めていたのだが、ちょっと離れているが、今度は三沢市にある寺山修司記念館もぜひ尋ねてみようと思う。
| 固定リンク
「24)無窮のアリア」カテゴリの記事
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>(2014.04.07)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>(2014.04.07)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<6>(2014.04.06)
- OSHO「存在の詩」第1号 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ(2014.04.05)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<5>(2014.04.06)
コメント
我がブログへの訪問者の足跡を追っかけて、また、この書き込みにたどり着いた、そして、この「 田園に死す」を、またまたみることになった。
鬼才・寺山修司、39才時の作品。すでに亡くなって幾星霜。その後を追った石川裕人も、すでにない。
夏の夜の、一時間数十分が、一気に駆け抜けていく。
投稿: Bhavesh | 2015/08/12 22:51