マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか
マイケル・サンデル著, NHKマイケル・サンデル究極の選択制作チーム編集 2011/05 NHK出版 単行本ソフトカバー 64ページ
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どういう訳でこの教授が、このようなスタイルの授業をするようになったのか知らないが、テレビなどでよく見る方である。そして、この小冊子は、3・11直後の5月に発行されている。
この特別講義でテーマになっているのは三つ。ひとつは日本人としての被災後の態度のことであり、二つ目は、人類にとって原発は必要不可欠なエネルギーなのか、ということであり、三つ目は、世界的なブローバルな民主主義は、今後どうなるのか、ということである。
震災後の被災地の日本人の態度が話題になっているが、実際には、被災地のひとりとして思うに、自分がどのような立場に置かれているのか分からない段階だった、ということができる。あらゆる情報源で、全体像を見ている世界の人びととは、まったく違った状況にあったということだ。
そして人間がいるところ、どこでもあり得るような軽犯罪はあった、ということは確実だ。決して立派な道徳的な態度に終始したわけではない。ごく当たり前の人間的社会が展開されていたにすぎない。
二つ目については、べつに3・11が起こる前から議論されてきている問題であり、また議論されてこなければならなかった問題である。個人的には、当たり前の答えしかでてこないが、異論がさまざまあることは知っているし、もはや現実を簡単に動かすことができなくなっていることも知っている。
三つめについても、問題だが、民主主義というシステムは、もはや機能しなくなっていて、共産主義という幻のシステムとともに、すでに古くなっているということだろう。
さて、この三つの、簡単には答えのでそうにない問題をサンデル教授は、さも真面目そうな顔で議論を吹っかけるわけだが、もちろん、簡単に答えはでるわけはない。ただ、両論ありそうなテーマを数点にしぼり、互いに議論させるわけだ。
私はこの風景を見ていて、小学校時代の学級会のことを思い出す。私は委員長としてクラスを引っ張っていくようなリーダーではなかったけれど、クラス会のような議長役には結構手をあげて立候補したし、推薦もされた。
私は両論を聞くのは好きだ。なるほどね、キミは、あいつは、そう考えているのか。でも、時間は45分の間だけだ。泣く奴もいるし、クラスを出ていく奴もいる。いつもいい子にしている女子もいれば、黙って下ばっかり向いている奴もいる。でも45分の時間がくれば、結論が出ようが出まいが、あとは遊び時間だ。
結論がでないからと言って、その時間が無駄だったわけでもなく、またクラス崩壊というふうにもならなかった。結局はいままでどおりか、教師のいうようになっていった。あるいは成り行きにまかせた。結論はでなかったが、前には進んでいったのだ。
私は、このサンデル教授のやっていることは、小学校のクラス会レベルだと思う。ただ、両論闘わせているだけで、結論は出ない。
小学校時代の議長役をしていた自分は、いつも自分の意見は決まっていたと思う。そんなこと当たり前じゃん、と覚めていた。だが、キミには反対意見があるんだね、とか、おや、あいつもオレと同じ意見かよ、などと思いながら、ポーカーフェイスで議長役をやっていた。割と、そういう役割は私は好きだった。
で、結局、この小冊子においての小学校レベルのクラス会は、それなりの結果しかでていない。だって、わざわざ結論のでないテーマを、結論のでないようなシステムで議論するのだから、当然のことなのだ。
私は、このような議論に耳を傾けつつ、サンデル教授になったような気分も味わいつつ、結局は、私の中では、結論はでている。議論なんてする必要もないし、議論したからといって、よい結果がでるわけではない。
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本日、この本の奥付をみていて、著者が1953年生まれであることを知った。なるほど、私と同学年生か。2014/01/13記
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