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2014/01/20

国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台 「報告書」<2>

<1>からつづく

Sps2_3_2 
SPIRIT OF PLACE SENDAI いのちのつながり、場の響きあい 
国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」報告書<2>
平成3年11月25日(月)~11月27日(水)仙台国際センター

1)実に断片的ではあるが、まったく記憶が消え去らないうちに、極私的なメモでしかないが、なんらかの足がかりを作っておく。

2)すでに「捨てるに捨てられないモノ」のひとつに成り下がっているSPS記録ではあるが、この20数年の「空白期」を埋めることが、現在の当ブログの進行にも、いささかの益ありとの直感がある。

3)天井ロフトの段ボール箱を開けて、まず目につくのは、製本版の「報告書」の原型となったものであろうか、ワープロ打ちコピー綴じのおよそ80p弱の印刷物がでてくる。経年劣化とともに、もともとの印刷が不鮮明のため、判読不能なところが少なからずある。しかしながら、同じ頁をあやまって複数綴じている場合もあるので、これよりもいささかスリムとなるだろう。

4)ワープロ綴り版には、オフセット製本版にない「収支決算書」がついている。実行委員会用だが、その多数性から見ればほぼ公開と同じことだから、あえてここに再掲することは問題ないだろう。

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5)当時までにおいて、私が個人的に関わったボランティア活動の中でも突出した経費内容だった。

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6)ご協力いただいた関係各位(製本版)に、あらためて、ごく一兵卒でしかないスタッフである私としても、心から篤く御礼を申し上げたい。会計監査は誰がやったのかは、現時点では定かではないが、当時の陣容からすると、おそらく過誤なく行なわれたものと信ずるに足る。

7)いささかふつつかではあるが、私もまた「ボランティアスタッフ」(製本版)の仲間の末席に加えてもらっていたことを付記しておく。ここに名前の出ない人々も多く関わっている。あらためて感謝申し上げます。

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8)順不同となるが、錚々たる実行委員会組織表も、製本版のトップを飾っている。ただし、この二年後、県知事や市長は、汚職にまみれ、逮捕され辞職している。当時、仙台市文化事業団理事長だったF氏が実行委員長を務めており、会議にも何度か出席されている。彼は次期市長となった。リストには顔を出しているが、まったく「お飾り」の方々も当然いる。ただし、企業献金をお願いする時に、これらの方々のリストが有効に働いていることは言うまでもない。

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9)さて、これで、当ブログで言わんとすることの100のうちの1にも達していないのだが、拙速ながら、今日、ここにメモしておきたいことを断片的に、以下メモしておく。

10)運営委員長としてSPSの顔ともなったK氏は、最初、自分の関わる(経営する)店で、SPSの予備ミィーティングが開かれる段階では、「私は話し合いの場として店を貸しただけだ」と、逃げ腰だった。機を見て敏なる彼らしい態度だった。

11)私は1990に喜納昌吉のコンサートに関わり、1991年には単独コンサートではなく、ぜひなんらかのイベントやシンポジウムの中に組み込みたいと模索していた。つまり、最初はほとんどシングルイッシューでこのイベントに関わったのである。

12)そのアンテナにSPSの情報は引っ掛かったのであり、コンサートができるのであれば、総体としてのシンポジウムは、規模や内容について、幅広く受け止めようと思っていた。しかし、その中でもSPSは、最適であったと思われる。

13)企画段階の春から、実行の初冬まで実に半年以上の時間が経過した。その中でシンポジウムの内容が拡大し変質した。その過程では、ついにK氏は秋口になって、私の持ち込み企画はかなり無理だ。来年もあるじゃないか」と言いだした。もちろん、これほど大きな企画は毎年できるわけがない。実質的な断念要求だったのである。

14)しかしシングルイッシューの私に、それは納得できなかった。集められた経費から、コンサート会場は手配してもらえなかった。断念せざるを得ないのか、と思いつめた時、ある友人が自らの会社が支援するとして、数十万円を会場費として寄付してくれた。この寄付で、私は直接国際センターに行って、まずは個人的な名前で会場を押さえ、以後談判して、企画全体に「押し込んだ」のであった。

15)私の持ち込みコンサートは、最後の最後までパージされた。チケットの販売、コンサート会場の入り口設定、はては「報告書」においても、本来の製本阪からはずされ、一枚だけワープロ打ちコピーでピラ一枚で織り込まれている。

16)もちろん最終的にはコンサートだけが目的ではなかったし、シンポジウムの中でのコンサートであったので、全体に対しての「ボランティアスタッフ」として、私がこの企画から得たものは大きかった。全体像を再考し、あらためて関わりを持っていただいた方々に「報告」するのは、これからの作業となる。

17)ここでただひとつ、ちょっと気になることがあるので、メモしておく。なぜにあのコンサートの企画がパージを受けたのか。いろいろ理由はありそうだ。それは薄々気がついている。

18)このシンポジウム企画はなかなか時機を得たものであった。多方面から注目され、協力を得られる立場にあった。実は地元テレビ局経由で、地元電力会社からほとんど「買い取り」の案も飛び出していたのである。だから、その立場から「整理」し「整合的」な企画としようとする動きもあったのだ。

19)しかし、このSPSのスタッフの一部は、その準備段階で1991年夏の六ヶ所村における「反原発コンサート」の参加者たちだった。そうそう簡単に「整理」「整合」されてしまうわけにはいかないのだ。

20)余談だが、この企画で進退きわまったとき、友人である劇作家IYに、劇団としての協力を依頼したことがある。しかし、それは電話一本で断られた。当時、彼の劇団もそうとうに激動していたらしい。

21)さて、今日のところ、ここまで書いてきて、その意味あることとはなにか。「スピリット・オブ・プレイス」という企画である。「スピリット」を冠したシンポジウムなのである。しかるに、それを、どこまで理解し、真に協力しようとしたのか。その勢力はどれほどあったのか。

22)あるいは、いくら「スピリット」を語っても、実行力、実現力がともなわければ、胡散無償してしまうことになる、ということだ。

23)そして、二十数年前のこの企画を今思い出すことの大事な点は、過去の整理というより、現在、3・11後におかれている、私たち、あるいは私は、どのように自らのスピリチュアリティを歩み、また、日々のなかでその現実性を得ているか、というところにある。

24)拡大し、錯綜する中において、本当に大事なことは何か、最後の最後まで残すべきこととは何か、そして、大きい事や立派なことに目くらましされずに、自分ひとりサイズに捉えなおすことが、とても重要である、と思える。ここを捉えなおす作業をもうすこし続けてみよう。

<3>につづく

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