「フクシマの後で」 破局・技術・民主主義 ジャン=リュック・ナンシー <2>
ジャン=リュック・ナンシー (著), 渡名喜 庸哲 (翻訳) 2012/11 以文社 単行本: 208ページ
Total No.3162★★★☆☆
中央図書館は、建物の構造も好きだし、イベントの種類も面白そうだ。いつも関心があるのだが、ほとんど参加したことがない。原因は、交通の便。いや、別に市の中央部にあるのだし、地下鉄もある。行こうと思えばいつでもいけるのだが、その距離感が半端なのである。
どうも私は、プレタポルテのような気軽さで、オートクチュールを着たがっているようだ。中央図書館は、質が高いのだが、気軽さがすくない。よいしょ、と掛け声をかけないと、なかなか行けない。せめて、徒歩とか自転車ででかけたいのだ。
メールマガジンもあまり目を通していないのだが、以前から気になっているのは、「てつがくカフェ」という奴。なにやら、一つの話題に対して自由に発言し合う場らしい。
らしい、というのは、先日、たまたま人と待ち合わせの時に、オフの会場で番をしていた若いスタッフに声をかけた時のことが頭に残っているからだ。彼に「てつがくカフェ」について聞いたのだが、「わからない」という。
スタッフなのだから、わからない、ではすまないでしょう、と訊くと、何階か上階に行って、事務所で聞いてくれ、と来た。おいおい、それでは、キミがここで番をしている意味がないだろう。
そのイベントには参加したこともないし、そもそも彼はパートタイマ―だ、と来た。かたわらに、コミュニケーション(対話)の可能性について、とかなんとか書いてあった。あらら、対話の可能性もあったもんじゃない。と、私は、ひとりのモンスター来訪老人になりかけていたのだった。だから、まだ「てつがくカフェ」なるものの、本当の姿を知らない。
いつかは行ってみたいと思っていたこのイベントの今月のイベントは、ジャン=リュック・ナンシー のこの本を持って集まってほしいという。予約なしの自由参加だから、行ってみようと思う。
この手の本は得意ではないが、「てつがく」というからには、フランス現代哲学の系譜に位置づけられるこのような人の話題提起が必要となるのかもしれない。
では、この本はどれほど読まれているのか、というと、少なくとも、私はがリクエストした段階では、誰も予約していなかった。それどころか、6~7冊ある著者関連の本は、ほとんどすべて、誰も予約していなかった。これって、人気ないんじゃない?
とまぁ、早合点はしてみたが、本当に読む人は、キチンと購入して傍線でも引いて読むのかもしれない。
本としては、3・11後に、「破局」と「技術」と「民主主義」を「てつがく」する、という構成であり、正直言って、それをフランスまでいって聞かなくてはならない、という「てつがく」志向の人たちの気がしれない。3・11を「フクシマ」に限定してしまうところにも、当「被災地」にいる人間としては不満である。
テーマで言えば、マイケル・サンデル「大震災特別講義 私たちはどう生きるのか」(2011/05 NHK出版)にほぼ重なる。あるいは、3・11を体験した場合、他にテーマを見つけることは難しいとさえいえる。ほとんど共通の問題意識の前に、人は立たされるのである。
この中央図書館のイベントでは、飯沼勇義その人が講演をしたりしているらしい。残念ならが、そのニュースも見落とした。できれば、そちらも参加したかったが、いずれまたチャンスもくるだろう。
飯沼史観によれば、まずは「破局」は人類史に組み込まれているのであり、それを見ようとしてこなかっただけのことだ、ということになる。地震、津波、という「破局」は常にあり、少なくとも、3・11のメインの被災地においては、ほぼ200年サイクルで体験していることなのであった。
この「破局」を組みこめない世界観は、「死」を組みこめない人生観と同じであって、全体性がないばかりか、真実ではない。世界の反面に対して目を閉じ、盲目的に、ほとんど無意識的に暮らしていると同じ、ということになる。
したがって「技術」についても同じことが言える。人智を超えた「破局」の厳然を認めることができない、認知できない半端な文明技術は、単に未熟なのだ。原発のような未熟な「技術」は、単に、それに関わる文明が未熟であることを示しているに過ぎない、ということになる。
「民主主義」は、ある意味、もはや誰も本気で考えてはいないだろう。ただ、それを超える何かを提唱したり、実行したりすることができないでいるだけだ。絶対的な欠陥がある。だから、この「民主主義」を考えるにあたっては、前記の「破局」と「技術」を踏まえた上でないと、「民主主義」は語れない。
つまり「破局」は人智を超えているのであり、いくら人智を集積した「技術」であっても、究極的な「破局」は乗り越えることはできない。あるいは、最大多数の人智を集積した「民主主義」であっても、「破局」が人智を超えているかぎり、「民主主義」が「破局」を超えることはできないのだ。当然のことだ。
「技術」は、人智を超えた「破局」の前に頭を垂れて、その「技術」の限界を知るべきだ。あるいは、限界を知っている「技術」こそ、「破局」との親和性が保たれる、ということになる。
「民主主義」においても、最終的には「破局」に至ることを肝に据えながら、人智の限界性と、愚かさを、十二分に知りつつ、生かされている生命に気付いていく、というプロセスなしには、そもそもの「民主主義」など機能する筈がないのだ。
なにもこんなことは3・11で初めて分かったことでもなければ、世界で最初の体験でもない。いままで何度も何度も繰り返されてきたことなのだ。ただ、そのたびに、人は、目をふさぎ、意識を失い、忘れ、なかったことにしてきただけなのだ。
「破局」はあるのだ。常に「破局」しつづけている、とさえ言える。ここが見えないと、いくら「てつがく」しても、たんに「カフェ」の量が増えていくだけのことになろう。マイケル・サンデルの白熱教室も、同じことだ。
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コメント
bjさん
こちらこそよろしく。マイペースで、基本モノローグですが、たまに人恋しくなります。
投稿: bhavesh | 2014/01/13 22:07
311テロで頭でっかちな愛や平和の観念が砕け散り自分の非力さを思い知らされましたが、リチャード・コシミズ先生に 自然災害なら諦めるけどテロなら再発を阻止できる。と励まされ戦争屋の幼稚で卑劣な手口を世に知らしめれば金融ユダヤ人の金儲けと権力維持のための大戦を阻止できる。次世代に素晴らしい未来を贈れる。と思い情報拡散をしております。今後とも末永いお付き合いをお願いします。合掌。
投稿: bj | 2014/01/13 15:41