「屋久島―日常としての旅路」 日吉眞夫
日吉 眞夫 (著) 2005/08 麗沢大学出版会 単行本: 371ページ
Total No.3165★★★★★
日吉眞夫(ひよしまさお)。寡聞にしてこの方の名前を存じ上げなかった。多分、山尾三省の本のどこかには書いてあったのだろうが、とんと読み落としてしまっていたようである。ただ、それらしき存在はあっただろう、と想像していた。
74~75年に三省一家がインドを一年かけて旅した時の、旅費を半分半分負担したのが、唐牛健太郎とこの人だったということだが、唐牛の分をまずは著者が「立て替えた」ということだから、ほとんどがこの人のスポンサリングだったのかしらん、と文面からは読めてしまう。(p103~「屋久島移住までのこと---山尾三省 随想)
裏表紙見返しのプロフィールは、至って簡単に4行しか書かれていない。
日吉眞夫(ひよし・まさお)
昭和13年伊東市に生まれ、横須賀市・昭島市に育つ。
昭和38年東京大学経済学部卒業。
昭和50年屋久島へ移住。
昭和61年より季刊「生命の森」を編集発行。(表紙見返し)
これだけの紹介でも、分かる人にはピンとくるのだろうし、実際、本文を読めば、著者の「すべて」が分かってしまうような構成となっている。私なんぞの読み方をすれば、「60年安保の生き残り」ということになり、60年代中盤以降の「部族」の兄さん格、ということになろうかと思う。
とはいうものの三省とは同じ年に生まれており、実際には、「部族」との絡み合いもそうとう深そうだが、決してこの人は「部族」とは呼ばれない位置にいたようだ。いわゆるヒッピーネームもなさそうだ。
この人が三省に先んじて屋久島に移住したのは1975年のことであったが、わたし事ながら、おなじ1975年に、「ミルキーウェイキャラバン」があったとき、ミニコミ「星の遊行群」の発行に際して、私の書いた小文がトラブルを生んだことがあった。
経緯は省き、周囲のご理解もまったく無視した形でここにメモしておくが、あの私の文章は、「部族」への忌避感がもとになっていたのである。当時の「部族」は、私から見ると、三省+ナナオ+ポン、と見えていた。このトリニティが醸し出す魅力は大きかったが、絶対的なにかが、私にとっては欠けていた。
もし、あの時、著者が「部族」であろうとなかろうと、重要な位置に存在している、と分かっていたら、私の「部族」理解は、もっと別のものになっていただろうし、私はむしろもっと「部族」に吸い寄せられていったかもしれない。
著者にはほかに「常葉御前のこと」 (五曜書房 2007/10) という本があるようだが、いずれにせよ、一般的にはあまり知られた存在ではなさそうだ。地域の公立図書館にはまったく入っていない。
三省の1975年のインド旅行時に書かれた「インド巡礼日記」(2012野草社)2「ネパール巡礼日記」(2012野草社)もツンドクになったままであり、いずれ再読したいと思いつつ、そのままになっている。
この本には、たくさんのことが書いてある。前半は、彼の人生の前半生が書いてあり、後半は、屋久島での暮らしが日記風に書かれている。彼が出版していた季刊誌に書かれたものだから、一貫した論調ではあるが、テーマは多方面にわたる。
この本の中から、現在の私が抜き書きしておこうとすれば、ちょっと中心的話題ではないが、飯沼史観との関連から、次のところが、かなり気になった。
上屋久町の宮之浦・水洗尻に鎮座する益救(やく)神社は、日本最南端の式内社である。式内社というのは「延喜式」の「神名帳」に記載されている神社をいい、由緒ある古社でも載らないものは式外(しきげ)とよばれている。
延喜式が編まれたのは醍醐天皇(在位897~930)の時代だ。編纂開始は縁起5年(905)、今から1100年前である。
当時の政治的な力関係のなかで、すでに格式の高い神社として認められていたわけで、創立年代は不詳だが、当然、それ以前にさかのぼることになる。
ただし、神名帳には「大隅国馭謨(ごむ)郡一座名神小」とあるのみで、祭神の名前などはないので、現在主祭神とされている天津日高彦火火出見尊がどういう根拠にもとづいて祀られているのか、資料的な裏づけはない。古くから伝承されてきたというしかなさそうである。鎮座地も長い間に変遷したであろう。
天津日高彦火火出見尊は、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の子で、三つ子の兄弟の末弟に生れ、皇位を継いだかたである。母ハコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)。
天津日高はアマツ(天つ日子)、皇子の尊称。彦火日出見はヒコ・ホホデミ。この彦も意味は日子。つまり皇子で、ホホデミが呼び名。呼び名とは別に、生れたときにつけられた本名(いみな)はウツキネという。ウツキネはウ・ツ・キネで、ウは卯の花、ツは格助詞のノ、キネは杵で、男の名前に用いられる(父ニニギも本来はニニキネ)。「海彦山彦物語」の山幸彦で、このホホデミの孫にあたるのが、建国の祖とされる神武天皇である。
なぜ屋久島にホホデミノミコトが祀られているのか、非常に興味深いところだが、今のところ、そのあたりはまったく分からない。
それにしても、今から千百年前に屋久島にはすでにそのような神社が存在していた。
鹿児島からの定期船や、最近では二万トン級のクルーズ船が頻繁に接岸する港、宮之浦は、言うまでもなくお宮のある浦として古くからそう呼びなされてきたのであろうし、九州最高峰宮之浦岳も、船人たちによって、その宮のある浦への目印の山としてそう呼ばれていたにのに違いない。(二月十一日) p184「日常としての旅路」
これの日付は文脈からすると、2004/02/11のことである。
飯沼史観による角田市の熱日高彦が、屋久島の日高彦と繋がっていると考えてみるのは、楽しい。もし「東北」に生まれた「神々」が、東北沿岸津波、南海トラフ、東南海トラフの大地震大津波で、次第に南方に追われ、結局、九州の日向が国生みの地とされたとするなら、その流れに乗って、日高彦も日向よりさらに南方の屋久島に打ち上げられた、と考えてみるのは、想像であり、可能性であり、寓話でもあろう。ひとつの可能性として、今後、すこしづつ範囲を広げてみてみよう。著者には、他に「常葉御前のこと」( 2007/10 五曜書房)がある。
著者は2008/11に亡くなられたようだ。享年71歳。ご冥福をお祈りいたします。合掌
| 固定リンク
「24)無窮のアリア」カテゴリの記事
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>(2014.04.07)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>(2014.04.07)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<6>(2014.04.06)
- OSHO「存在の詩」第1号 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ(2014.04.05)
- 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<5>(2014.04.06)
コメント