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2014/01/02

「叛逆」―マルチチュードの民主主義宣言 アントニオ・ネグリ他<1>

「叛逆」―マルチチュードの民主主義宣言 <1>
アントニオ・ネグリ , マイケル・ハート (著), 水嶋 一憲 , 清水 知子 (翻訳) 2013/03 NHK出版 単行本 216ページTotal No.3157★★★★☆

 当ブログがスタートして以来、虚心坦懐に公立図書館の開架棚の前に歩いて行って、目についた本を、ランダムにめくってきた。ごく当たり前のありふれた図書館ではあっても、そこにある集合知や<共>が醸し出す雰囲気は、なかなか魅力的である。

 その中にあって、ずっと初期的な段階から当ブログを魅惑しつづけてきたのが、アントニオ・ネグリ等のいうところのマルチチュードという概念だった。その後、一連の書物をめくってきてはみたが、当ブログとしては、その「路線」とは異なる、と自己規定した以上、深入りするのは禁物と判断している。

 しかるに、また一連の本のタイトルが新たに目につけば、どうしてもページをめくりたくなるのは、それなりに、その概念に妥当性があり、今日性があるからだろうと思う。魅力的な概念だ。

 この書もまたNHKブックスからの刊行である。このような「危険」な書物が、NHKのような公共放送関連出版社からでるのは、どうしてなのだろう、といつも思う。翻訳陣や編集者たちの個人的なつながりによるものかもしれない。

 すくなくとも、このような「マルチチュード」的な視点を十分に組み入れた公共放送が、長期にわたって世界的な動きをレポートしたら、本当に「<帝国>」を打倒して、革命できるかもしれないとさえ思う。

 この本は、2010年末から2011年におきた一連の世界的な「マルチチュード」たちの「蜂起」に連動して、緊急的にキンドルで出版されたものの翻訳である。いわゆる一連の「アラブの春」やウォール街の占拠運動などが起きた2011年は、私の住んでいる日本は、そして特に東北は3・11という大震災に見舞われた。

 それでも、その後に起きた「脱」原発、原発ゼロを主張する動きなどを、「マルチチュード」的な動きと見ることは、できないわけではない。

 2011年の泊まり込み抗議運動と占拠は、コミュニケーションに関するこの真理を発見するものだった。フェイス・ブック、ツイッター、インターネット、その他のコミュニケーションのメカニズムはたしかに役立つが、これらのメディアはどれも、身体的に一緒にいることや、現場で交わされる身体的コミュニケーションにとって代わることはできない。

 そしてこうしたコミュニケーションこそが、集合的な政治的知性と行動の基盤なのである。アメリカ合衆国全域および世界各地---リオデジャネイロからリュブリャナへ、オークランドからアムステルダムにいたるまで---で起きたあらゆる占拠運動において、たとえわずかな期間しか継続しなかったとしても、占拠に参加した人びとは、そこに一緒に存在することをとおして新たな政治的情動を創出する力能を経験した。p39「危機が生みだした主体形象」

 これら、世界各地の動きが、自らを「マルチチュード」と名乗って活動しているわけではない。むしろ、自らをそう規定していた動きはゼロと言っていいだろう。ただ、世界同時的に発生した動きを、ネグリやその視点を共有する陣営が、その動きを「マルチチュード」たちととらえているだけのことである。

 あるいは、その運動の渦中にいる人々においては、外部から、全体像をもっていない自らの運動を、「マルチチュード」の中のひとつの動きと思いたい、という向きもあるだろう。でも、それはどうも、違う。池で泳いでいる魚たちを、これは僕の魚たちで、こっちからあっちは、他のやつの魚だ、と勝手に名前をつけているようなものであって、魚たちには、誰に所有されている、という意識はないだろう。

 この本の原題は「DECLARATION」である。一般には「宣言」と翻訳されてもおかしくはないが、この本の出だしから、「これはマニフェストではない」(p9)と語る以上、「宣言」と翻訳することはできないだろう。弁明とか声明あたりなのだろうか。

 日本語翻訳チームは、これを「叛逆」と「翻訳」した。字義的には、マルチチュードと「叛逆」は、相性がいいと思う。「マルチチュードの叛逆」は魅力あるシチュエーションである。それに、どれほどの真実性が伴うかは定かではないが、比喩や寓話としては楽しく、「美しい」。

 だが、ネグリやその同調者が、共産主義的な革命や、新しい政権や権力(それが「構成的」であったとしても)を樹立することを幻視している限り、彼らのいうところの「マルチチュード」は、当ブログでいうところの「地球人スピリット」とは、依然として距離が残ってしまうことになる。

 その名も「がんばれマルチチュード」(2003/4 実践社 )の著書のある荒岱介を思い出す。同時的な<共>関係よりも、自らをマルチチュードと自覚する<個>の意識を考えてみたくなる。

 もし、瞑想するマルチチュード、という概念が存在するなら、それを当ブログなりに、地球人スピリットと名付けることにやぶさかではない。それでは、瞑想には、マルチチュード、という概念は必要であろうか。いや、不可欠とは言えない。

 しかしながら、当ブログが模索するところの地球人スピリットとして瞑想が深まるなら、マルチチュードの中の主要要素のほとんどは、自然に個人の中に湧き上がってくるものと、想像するに難くない。

 ネグリ&ハートの中に、特異性とかシンギュラリティという用語がたびたび登場する。アイディンティともオリジナリティとも違うと語られている。この用語はシングルが変形したものだ。マルチが強調されるがゆえに、あえて単一性を復権するためにこそ、このシングルをイメージするシンギュラリティが語られるのだろう。

 単一なものとしての個性が結晶化(クリスタライゼーション)されることを、特異性(シンギュラリティ)と名付けているのではないだろうか。

 情報提供に重点をおく政治的プロジェクトはたしかに重要だが、それはあっけなく失望と幻滅をもたらすものである。アメリカ合衆国の民衆が、政府の取り組んでいることや政府の犯した犯罪を知ってさえいれば、彼らはきっと立ち上がって変革するだろう、と考える者もいるかもしれない。

 けれども実際には、たとえノーム・チョムスキーの著作をすべて読み、ウィキリークスによって公開されたあらゆる資料に目を通したとしても、彼らは同じ政治家に投票し、同じ政治家を政権につけ、つまるところ同じ社会を再生産することだろう。情報だけでは不十分なのだ。p73「危機への叛逆」

 私の思うところ、老いたるネグリに鼓舞されて、さらにまた別なオルタナティブな道を選ぼうと、たぶん結局は「同じ社会を再生産」することになるに違いないのだ。社会の仕組みをより快適なものに改革改造(時には革命)していくことは、重要不可欠なものではあるが、「社会」の中には、「十分」な世界は、結局登場しないだろう。

 2011年に始まった諸々の闘争による宣言が明確に指し示しているのは、新たな社会を構成することに関する議論がすでに熟しており、また今日それが、もっとも重要で必要なものとなっているということだ。p180「<共>を構成する」

 ネグリが指し示す道を眺める限り、私は、道は遠いと思う。そして、それには、決定的ななにが欠如していると見る。

 2011年の闘争サイクルと、近年における他の無数の政治運動を活気づけたマルチチュードが、組織化を欠く、無秩序な存在ではなかったということは、改めて言うまでもない。じっさい、組織化の問題は、それらの闘争や運動において議論され、実験された、もっとも重要な主題だったのである---すなわち、どのようにして集会を運営するのか、どのようにして政治的な不一致を解決するのか、どのようにして民主的な仕方で政治的な意思決定を形づくるのか、というように。

 変わらぬ熱情と自由、平等、<共(コモン)>の原理を守りつづけている人びとにとって、今日もっとも重要な課題は、民主主義社会を構成することなのだ。p193「次なる闘争へ」

 これは、この本「叛逆」の結論である。ため息がでる。反逆は反逆である。どのような社会であろうと、それを「構成」することが重要な最終目標となってしまうなら、それは、反逆ではあるまい。

 多様性を受け入れつつ、自らを多様なリンクのなかに飛び込ませつつ、遂には、自らを個としてシンギュライズするには、常なる反逆が基本となるのだ。どのような社会であろうとも、その社会を構成することが、マルチチュードの最終目標であってはならない。

 共なるものの中に立ち、しかも自らを単一の自立した個として意識することこそ、マルチチュードのシンギュラリティであると、私は見る。

<2>につづく

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