宮城・山元で東北最古級の木簡発見 大宝律令下の行政示す 宮城県・山元町歴史民俗資料館
何気なくみていたテレビニュースで「山元で東北最古級1300年前の木簡発見」を知って、山元町歴史民俗資料館を訪れたのは、その数日後だった。自宅から県北部の岩出山アラハバキ神を参拝したあと、Uターンで高速を県南部に走った。
地元民でありながら、結局あまり地元を知らない。そもそも、山元町歴史民俗資料館とは、どこにあるのだろう。モバイルで検索しても住所はでてくるが、はてどの辺りにあるのか検討もつかない。結局は車載ナビにおまかせで、とにかく走った。
そろそろ近づいて、分かった。なんだ、それは山元町役場の敷地にある建物だった。ましてや、親戚が3・11で家屋やイチゴハウスが全部流され、一家全員避難していた体育館の直ぐ隣にあったのだ。
そうか、そういえば、震災直後はこの施設も被災し、長らく閉鎖されていたのだった。ちょっと興味があったけど、中に入ることはできなかった。どうやら、震災後、一年程して再開されたらしい。
このニュース、もちろん東北最古級の1300年前の木簡が発見された、ということもニュースであっただろうが、被災地の、しかも福島原発からもっとも近い山元町で、こうして静かに文化活動も復興していますよ、という意味あいのニュースでもあったのだ。
山元町では、それほど活発に遺跡発掘がされてきたわけではないらしい。だから、多くの遺跡が発見されてきたわけではない。しかし、それは、もともとこの地に歴史が無かった、ということではない。
人口が1万にも満たない小さい町である。農業を中心とした温暖な地方であるが、開発行為が少ないために、遺跡発掘行為そのものが少ないのである。だから、遺跡が地下に沢山眠っていようと、発見されないことが多いという。
幸か不幸か、近年は高速道路のインターチェンジの工事のために遺跡発掘されることが多くなり、また、この3・11によるJR常磐線の路線変更工事にともなう発掘が増え、それによって遺跡が発見される、というのも、皮肉といえば皮肉である。
今回の山元町歴史民俗資料館の展示も、3・11以前から進んでいた商業施設の新設にともなう遺跡発掘による発見物の展示が中心だったが、その中に、今回ほんの数カ月前に発掘された1300年前の木簡も、緊急展示されていた。
木簡のニュースそのものは、当ブログにとっては、必ずしもメインテーマではない。しかしながら、1300年前にこの地に律令体制による中央権力の支配が及んでいたということは、少なからず、この地には、先行する前文明があっただろう、と推測することの根拠になる。
そしてそれは、角田市にある熱日高彦神社に鎮座していたとされるヒタカミ縄文文明の先がけが、この山元町沿岸にもあっただろうことを想像させる。
飯沼史観は、数少ない歴史的痕跡を尋ねながらも、強いイマジネーションで、太古の世界を構成する、ロマンの世界である。今後、そのロマンを補強する痕跡や傍証を多く必要とするのであり、今回の「発見」は、飯沼史観にも少なからず影響を与えるだろう。
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