「福島原発事故 県民健康管理調査の闇」 日野 行介
「 福島原発事故 県民健康管理調査の闇」
日野 行介 (著) 2013/09 岩波書店 新書: 240ページ
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著者は1975年生まれの毎日新聞の記者。記者と書いて、あらためて「記す者」の意味を問うて見たくなる。それはジャーナリストという英語のまさに正確な訳語ではないだろうか。少なくとも、社会の共通事項について、誰かが自らを「記す者」として自覚しつつ、記録し続けなければならないのだ。その職務たるや重要である。
福島原発事故にともなう、県民の健康管理はどうなっているのか、隣県に棲んでいながら、なかなかその実態が分かってくるものではない。分かったとして、どうしようもないのだが、そもそも、分からせないようにしている力があるとすれば、それは困ったもんだ、と非難したくなる。
最近、年明けての昨年末であるが、福島の知人が胃ガンで、胃全撤手術をした。数週間前に小さなガンが見つかったからである。他に方法がなかったかどうか定かではないが、とにかく緊急の手術であったようである。
三十代後半の女医さん。ご主人も医師。福島県内の病院に勤務している。3・11当時は、勤務地の南相馬郡に、家族で生活していた。ご本人の弟も外科医、伯父さんも公立病院の院長を務めた医師である。その医師ファミリーの決断だから、外部にいる私がどうのこうのいう必要はなにもなかろう。
小学生の上の子と、まだ幼稚園の下の子がいる。これからが子育て最重要時期にさしかかる時だった。家族は一時、最悪のことを考えたらしい。そこで、小さなガンのうちに全摘してしまおう、ということになったらしい。
幸い手術は成功し、あとは転移が起こっているかどうかの精密検査があるらしい。「命だけでも助かってほしい」という家族の願いは今のところかなえられている、と思われる。
身近なところで、こういう事例が起こると、私などはあらためて、この病気と3・11は関係なかったのだろうか、と大きな疑問に包まれる。その因果関係は分からない、というのが誰もの考えだろうし、誰もが、関係あるかも、という疑問に包まれるはずである。だが、その因果関係を「証明」することはできない。
この本における表題のごときテーマについては、正直言って、本当の当事者ではない身の上では、そもそも留意してこなかったし、聞いてもピンとこないところがある。しかしながら、いずれ大事な情報ソースとなるに違いない。
記者なのだから、自ら勤務する新聞に堂々と発表すればいいだろう、とは思うのだが、質、量とも、こういう形で新書としてまとめられることになったのだろう。
年1ミリシーベルトの被ばく量、などと表示される科学データである。計算してみると、私の住んでいる「原発から90キロ地域」では、まずまずその範囲に留まっているようだ。まぁ、ここは人間が住んでてもいい地域か、と思う。
しかしながら、フクシマに向かって近づき始めると、明らかにその濃度はあがる。県境までいくと、明らかにその数字は上がり、年換算すると、年数ミリシーベルトレベルまで上がるところが結構ある。晩年に移住して、私たち夫婦も土と混ざりたいなぁ、と思っていた農地も、このレベルにある。私たちのセカンドライフの計画は、それで頓挫しているようなものである。
そもそも専門家たちには全幅の信頼を持ってお任せして、自分たちは安心して暮らしたい、というのが、ごくごく一般的な私などの考えである。専門家たちは、あまり「秘密」や「裏」や「闇」の世界をうごめかないで、正直に、正確に、適格に情報を流してもらいたいものだと思う。
そういった意味において、記す者としての専門家である「記者」が、自らの職業的使命感のもとに、このような一冊を残しておいてくれることは、とても大切なことだと思う。現在の私には、この一冊ですら、スラスラと読める状況にはないが、しかし、あとあと考えれば、このようなジャーナリズムこそが、本当に必要だったのだ、と痛感する日が来るような予感がする。
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