政治とジャーナリズムに対する原点 『朝日ジャーナル』特集:ミニコミ’71---本流する地下水<2>
特集:ミニコミ’71---本流する地下水 <2>
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社
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2014年初頭の東京都知事選についての雑感をウェブ上のSNSにシェアしたところ、いろいろな手掛かりを得ることができた。ひとつひとつに細かいレスなり反論は必要で、今後もそちらにコメントをつけていくことになるだろう。
しかし、あちこちに散逸してしまうと、自分の全体像が見失われてしまう可能性もあるので、いま、友人たちの書き込みに対するレスの走り書きメモとして、ここに書いておくことにする。
当ブログは、今でも「読書ブログ」の形骸が残っており、その形で残すのが適切だと思い、じゃぁ、なにを元「本」にしようかと逡巡したところ、この「朝日ジャーナル」ミニコミ特集がいいのではないか、と思いついた。
手っ取り早く言えば、私は、政治にも、ジャーナリズムにも絶望している。最初から絶望していたわけではない。私なりに希望は持っていたし、子ども時代には大きな夢ももっていた。しかし、それは過去のことだ。
最初、学級の新聞部として壁新聞を作ったのは小学校3年生の時。模造紙にマジックサインペンで手書きしたものが最初だが、5年生からはガリ版で作った。中学校時代には、1年生のときに石川裕人たちと同人誌も作ったし、学校新聞部の部長として、全校内のアンケート調査などを実施、好評を博した。
このまま素直に成長して行けば、素直に勉強して、大学に行って、メディアに就職して、ジャーナリストのはしくれとなり、時には政治を語り、時には経済を語る文化人の顔をしていたであろう。漠然と、晩年は宗教の研究でもしようと思っていた。
ところが、私が高校に入ったのは1969年、政治の嵐が吹きすさんでいた時代だった。中学校時代からやっていたバスケット部から、学校新聞部に移籍し、学校の生徒会にも積極的に参加した。制服自由化運動や、代議員制度への改革など、当時議題となっていたテーマに積極的に取り組んだし、生徒会長選挙にも立候補した(4名中、3位落選)。
私が、奈落に落ちたとするなら、1970年の6月、70年安保に絡んだ社会情勢と、学校内の「事件」であっただろう。デモに行かせまいとする学校側の「策謀」に対する情念が爆発して、生徒たちによる職員室占拠事件が起きた。
私はその事件にはまったく関わっていなかったが、新聞部として、積極的に取材した。写真を撮り、実際の報道をチェックした。その過程の中で、私は、なぜか実行グループの一員として誤認連行され、日々尾行がつく、という次第になってしまった。
後日わかったことだが、私は新聞部の他に、いくつかのサークルに参加しており、そのサークルの三年生たちが実行したのだった。二年生だった私は、誘われなかったのだ。調査する側にしてみれば、なるほど、私はグレーゾーンにいたと疑う余地は確かにあったのだ。
なにはともあれ、高校二年生の私はこの事件の中で、深く傷ついた。ひとつ。ジャーナリズム、マスメディアが流す情報は、ひとつひとつチェックしないことには、信用してはならないということ。すくなくとも、複数のニュースソースをチェックする必要があるということ。
つまり、結局は、ジャーナリズムに「真実」を求め、人生最大の目標とすることは無駄であると、悟った。そして、二つ目。これはこの時ばかりではないが、これ以降の社会情勢を見ていて、「政治」もまた、人生の最大テーマにはなりようがないのだ、と深く納得したところがある。
結局私は、高校二年生の時に、学校新聞部に属して活動しながら、自分だけのミニコミ誌を作り始めた。この個人ミニコミ「すくりぶる」については、以前、すこし書いた。自分の原点としては、このミニコミを外すことはできない。これが、「朝日ジャーナル」にリストアップされることによって、私の世界は、飛躍的に拡大した。このリストでは、宮城県から7つのミニコミが紹介されており、その中の一紙が、「のりひび」だった。
「のりひび」は、「全国原子力化学技術者連合仙台支部、東北大反公害闘争委員会、仙台市東北大工学部内・女川原発実力阻止」(p7)という紹介がある。今日の小出裕章氏の活躍を考える時、すでに、この時点で彼らと私たちが横一線に並んでいた、と、拡大解釈をすることも可能だろう。当ブログ2012/10/24
正直にいいます。当時、このような形で「連帯」していたなんて気がつかなかった。最近になって、小出氏たちとの「連携」に気がつき、私としては、このうえない「誇り」を感じるようになった。
高校を卒業する時点で、進学校に通っていた私は通常なら大学受験をすべきなのだが、進学もせず、就職もしない、という道を選んだ。もちろん悩まなかったはずはない。ジャーナリズムの道に進むなら、せめて大学教育は必要だろう、という読みはあった。だが、私の周囲は、私をそのようには導かなかった。
私は、高卒後、70年安保のデモで知り合った友人たち4人と、小さなコミューンを作ることになり、そして、そこから新しいミニコミをつくることとし、私の個人ミニコミはここに拡大吸収されることになった。ミニコミ「時空間」については、以前、少し書いた。
これ以降については、数はすくないが、友人たちの書込みもすこしづつ増えているので、全体像がやがてはっきりと浮かび上がってくるだろう。
その後、経緯はいろいろある。これについても、後日、当ブログに展開することもあろう。とにかく1974年あたりで、20歳になったばかりの私は、政治にも、ジャーナリズムにも、すっかり失望していた。絶望、と言っていい。
1975年、星の遊行群、ミルキーウェイ・キャラバンの中で、21歳の私は「存在の詩」と出会った。それ以降の経過については、他にも書いたので割愛する。
ここで確認しておくべきことは、私自身は、ジャーナリスト志望でありながら、そのジャーナリズムに関してはすっかり絶望していたということ。政治には戻らないということ。だれかが「不東庵」となづけて隠遁したようだが、私の「不東」感は今だに、なお深い。
そして、絶妙なタイミングで私はOSHOと出会った。これ以降については、当ブログの主テーマなのであり、そのことの真意については、日々、当ブログを確認してもらうしかない。
もっとも大変だったのは、1985年前後におけるアメリカのコミューンでの出来ごとについてであろう。ここにおけるポジネガの評価は、わが友人たちのネットワークが訳出した「OSHO:アメリカへの道」(2005/10 和尚アートユニティ /めるくまーる)にくわしい。
日本の社会的にOSHOがある意味ピンチに立たされたのは1995年の麻原集団事件のときであろう。内外から、さまざまな推測憶測・雑感・コメントが噴出した。遺伝子操作だの、グルイズムだの、カルトだの、いろいろな評価はあった。
なにはともあれ、私の中におけるOSHOは、一瞬も陰ることはなかった。
さて、政治とジャーナリズムについての視点に戻ってみれば、私はマーケットプレイスにいるのであり、社会から根絶した環境に身を引くことは考えたことはない。投票権がある時は、一度も棄権したことはない。その時その時、最大限考えて、自分なりの最高の投票行為をしてきた。右も左もあり得る。私は典型的な浮動票である。
しかしながら、政治には希望を持ってはいない。もちろん、よい方向に行ってほしい。悪い方向には行かないでほしい、と願っている。でも、最終的な人生の目的は政治では達成できないだろう、と達観している。
おなじくジャーナリズムについても言える。ジャーナリズムがよい方向に行くことを願っている。変な報道をすれば、相変わらずだな、と吐き捨てる。しかし、ジャーナリズムが最終的な世界を切り開くとは、全然期待していない。
当ブログが「ジャーナル」とタイトルに名付けているのは、私がジャーナリスト志望だったことの、多少の痕跡である。ブログ・ジャーナリズムという切り口に、多少の魅力を感じたのは確かだが、マスメディアに対する、一人のブロガーの力など、たかが知れていると思う。
それに比した場合、私は、OSHOに絶望したことはない。私自身がOSHOから遠く離れたり、そのネットワークがあちこちに揺れ動いたりして、全てを肯定できるとは言いかねるが、少なくとも、私の、最後の希望は、OSHOにしかない。
そしてまた、ここからはお話レベルであるが、OSHOにも絶対絶望してこその、最後の希望の立ち上がりである、だろう、と予測する。私は誰か、の究極の問い、そしてその答えとは、何か。
東京都知事が誰になろうと、どうでもいいことだ。もちろん私が好きな人が当選すれば、それに越したことはない。だけど、所詮そこまでだろう。私が嫌いな人が当選したとしたら、私はガッカリするだろう。だが、私は自殺などしない。そんなことは人生の最終目的ではない。
マスメディアが偏向報道すれば、私はいきり立つ。だが、彼らと心中する気は私にはまったくない。所詮彼らには限界がある。最終的な真理は、ジャーナリズムに掘り起こすことはできない。期待するほうがどうかしているのである。
細川護煕は、自らを一度は「不東庵」と名付けた限りは、決して東に行くべきではなかったのだ。「憂しと見し世ぞ 今は恋しき」。甘いぞ。絶対に甘い。お前の「不東」は、完璧に崩れ去った。
むのたけじの「ジャーナリズム」も所詮、それまでのこと。99歳になってジャーナリストを気取ること自体、負けである。人間99歳になったら、他にやることがある。
小出裕章氏は生涯をかけて、原発=核を研究している。その姿勢に心打たれるところある。彼の姿勢は、ジャーナリズムでもなければ、政治でもない。彼は、人生の柱をその研究においてはいるが、その研究の向こうを見ている。彼は、今回の東京都知事選では、宇都宮けんじを、敢えて選択した。しかし、それは敢えてであって、積極的に推薦したのでもなければ、そこに代理闘争をみたわけでもない。
あちこちになってしまった。友人に対する答えにはなっていないかも知れない。少なくとも、私は、自分の人生の中において、政治にも、ジャーナリズムにも、夢を持っていない、ということをここに記しておけば、それで足りるということになる。その絶望感は、かなり深く、十代からのものだと、記しておく。
じゃぁ、どうするんだい、と聞かれれば、即答しかねるが、すくなくとも、この文章でも多少は触れていると思うし、また、残された人生の中で、私なりに検証しつつ具体的に生きつづけていくしかない。
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