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2014/02/24

「インド巡礼日記」―インド・ネパール巡礼日記1 (山尾三省ライブラリー) <1>

「インド巡礼日記」  インド・ネパール巡礼日記1 (山尾三省ライブラリー)<1>
山尾三省 2012/04 新泉社 単行本 504ページ
Total No.3186★★★★☆

1)すでに一度手に取った本ではあるが、どうも精読するタイミングにはならず、いわゆる積読になった。今回、ようやく再読のチャンスがきただろうか、と手にとってはみたが、いわゆる三省のコテコテ・インド物語である。面白くないはずはないのだが、やはり一気に読みすすめることはできない。

2)1973年12月9日

 夢の中で唐牛(かろうじ)と抱き合った。あの大きな男が何故か同じほどのボリュームでしかなく、私たちは互いに済まなかったという気持ちで抱き合ったのだった。バンコック滞在二日目の夜のことである。唐牛が来たというので酒宴が張られ十人前後で酒を飲んでいたが、いつのまにか私はマモと一緒になってしまい唐牛中心の集まりから離れてしまった。とは言え、唐牛の取り巻きがいるわけではなく、彼は一人でしかなかった。私はその集まりの中に一人でいる彼が好きであり、自然に彼から離れていった。p9「バンコック」

3)なんと、この本は山尾三省の唐牛健太郎の夢話から始まるのだった。日吉眞夫・著「屋久島―日常としての旅路」(2005/08麗沢大学出版会)の中で、73~74年の一年に渡る山尾一家のインド巡礼の旅の旅費を工面したのが、唐牛+日吉だったことを知った。当ブログ三省追っかけとしては、重要なことを見落としていたもんだと、ギャフンとなった。

4)どこかにその痕跡があるはずだと、この本を読みなおしたら、なんと、この本のとっぱしは、唐牛から始まるのだった。そして、すぐ続いて、日吉眞夫その人が語られていたのだ。なんという見落とし。

5)日吉さんのおかげで私はネパール・インドの旅に出ることができた。彼のおかげでこの旅に「ブッダの言葉」を持ってくることができなかった。その代わりにもらった「軽蔑」という本がバンコックにおける代表的なヒッピーホテル「アトランタホテル」の鏡付きテーブルの上に置いてある。その本をくれる時、日吉さんは、軽蔑をあげると言った後で、「軽蔑」という本をあげる、と言い直した。p9「バンコック」

6)なんだなんだ、この人たち、すっかりデキていたんだ。すっかり見落としていた。35歳の三省が家族でインド・ネパールに旅だったのは1973年だった。私は別に三省に面識があったわけでもなく、そのグループの一員でもなかった。だが、私たちの仲間内では、彼はすでに伝説の人だった。

7)彼一家がインドに行った、という事実がなかったら、私もまたインドに旅立つこともなかっただろう。彼とは生年として16年の差がある。彼のほうがずっと年上だ。彼の背中を見てそだってきたと言ってもいい。その彼が1973年に旅立って、その後、私もまたインドに旅だったのが、そのわずか4年後の1977年だったことを考えると、わずかあそこの間には4年しかなかったのか、と、不思議に思う。

8)ましてや、この日記が書かれ始まった日、12月9日は、私は、インド・プーナのOshoのサニヤシンのイニシエーションを受けた日だった。あらためて不思議な気分になる。

9)この後10年経過して1987年に、私達一家4人は、インドに4ヶ月滞在した。2歳と4歳の子供をつれた強行軍だったが、あの三省一家のインド・ネパール巡礼の旅がなかったら、私にも、子供たちをつれていく勇気が湧いてこなかったと思う。本当に彼には大きな影響を受けていたのだと、改めて思う。

10)しかし、感動しているのは、ここまでである。あとは数十ページを読み進めてみるのだが、いわゆる三省コテコテ・インドワールドに、じっくり付き合っていくには、なかなかの体力を要する。一気に読破というわけにはいかない。

11)というのも、私は三省の追随者ではあるが、批判者でもある。最初の最初から、その魅力に強烈に惹かれつつも、距離を詰めることはできなかった。正確に言うと、彼は尊敬すべき先輩ではあるが、その道は私の道ではなかった。

12)この強烈な想いは、彼一人というより、彼が背負って立とうとしていたもの、そのものの構図全体に対する拒否観だった。この事を書くために、私はふたたび三省リンクに戻ってきたのだ。あいまいに言えば、いわゆる「星の遊行群」についてのものごとを思い出そうとすれば、この論点にぶちあたざるを得ないのである。

13)私はこのことについて、キチンと言語化できたことはない。言語化の前に、論理化もできたことはないし、もっと言えば、きちんと把握もできていない。むしろ、ごもごもと、口ごもった呻きが、ちょろちょろとでてくるにすぎない。

14)しかし、このブログが終盤にさしかかっており、何事かの真実でその円環を閉じようとするなら、あの当時の、あの直観を、キチンと自分なりに把握し、キチンと整理し、キチンと文章化しておく必要があるのだ、と思ってきた。

15)いまだ、それはできないわけで、それができるのはいつになるのか分からないが、それをしないと、当時、あの地点に関わってくれた人々にたいする答えにもならないし、また、あれからずっと、今日にいたるまでの経緯を、自分ですら把握できないことになる。

16)そんな思いで、この本を開き始めたが、やはり、今回もじっくり時間がかかりそうだ。

<2>につづく

 

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