政治家はみな病んでいる OSHO 「英知の辞典」<34> 政治 POLITICS
<33>からつづく
「英知の辞典」<34> 再掲
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
政治 POLITICS
私の政治家たちに対する態度は、彼らはみな病んでいる人たちだというものだ。彼が全体主義者(ファシスト)だろうと、資本主義者であろうと、共産主義者であろうと、問題ではない。政治家は病んでいる人だ。彼はひどく暴力的だ。
さて、彼の暴力は多くの形を取りうる。彼はアドルフ・ヒトラーになりうるし、毛沢東にもなりうるが、どちらも暴力的な人物であり、どちらも社会は暴力を通じて変革されねばならないと信じている。
誰かが社会を力づくで変革しなければならないと信じているとき、彼は狂っている。人々を説得することはできるし、人々に説明することはできるが、彼らに強制することはまさに狂気だ・・・・・たとえ彼らのためにと強いるのであれ。強制は強制だ・・・・。
私は毛沢東は”なにひとつ”よいことをしなかったと言っているのではない----そうは言っていない。私はが言っているのは、たとえ人々のためであれ、彼らに強いるのはよくないということだ。
暴力は間違ったことであり、誰であれどのような形でも他の人々の生命を手段として使うべきではない。誰しも自分自身が究極的な目的であるのだから・・・・。
私は個人は信じるが、社会は信じない。私の全面的な敬意は個人に向けられており、社会に向けられてはいない。社会を個人の上位に置く、すべてのもくろみは危険だ----それが全体主義(ファシズム)であれ、社会主義であれ、資本主義であれ、共産主義であれ、違いはない。
どのような体制であれ、個人よりも社会のほうが重要だとするのは危険な哲学だ。それは個人を殺す。真の実体は個人にあり、ほんとうに生きているのは個人だ。社会とはただの名前にすぎない。 THIS IS IT! OSHO 349p
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