「雀の森の物語」<4>1974「時空間」8号
「雀の森の物語」 <4>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164
★★★★★
12月になって夏の旅の途中で参加した「山形サーバイバル」やヤマギシ会の春日山本部でひらかれた「変身合宿」で知り合った人たちや、NHK、朝日新聞、「若い女性」、ジ・アザー・マガジンなどのマスコミで取り上げられておちょくられたせいもあって仙台市内の初対面の人たちが訪ねてくれるようになった。
「The Other Magazine 21」第17号1972/12 ブロンズ社p21~25
それにしてもマスコミってのは馬鹿だね、天下の朝日は「アパートにたむろする若者たち」なんて全然本質を見てくれないし、「若い女性」にいたっては「サイクリングを通じて自然と親しむ」だと。福田みずほなんて最初から誰も相手にしてないからかまわないけどサ。勿論、マスコミなんていうよりぼくらのコミュニケーションの方がパワーフルだったんだけど、誰かお客さんも毎日来てくれたし、手紙が一通も来ない日なんてメッタになくなっていた。
適度な順風をうけてスペース雀の森は航海していたが、もうひとつ新しいものも見えないまま、もっと加速度が欲しいと望まれつつ年が変わり、73年を迎えた。
正月は2次的な人の嵐に見まわれたが、How Toを身につけてしまったせいか、ぼくらを含めて場にいるみんなそんなバットな心情でもなかった。百人一首や花札やトランプのゲームにあけくれ、あげくに反骨精神がまたまた頭をもたげてきて既成のルールをメタメタに大改正した”雀の森ルール”が構築されたりもした。
10日過ぎには”時空間戒厳令”が敷かれ、2号が二月には出来上がった。ここでのHow Toとは、人の嵐があればその場にいる全員でナニカに打ち講じ、個別な作業をする時は近視眼的な己れの作業に打ち込むことだった。
他人の事や場の事をデカク考えてしまえば、事の大きさにオロオロしてしまい、他人にケチをつけるどころか自分ですらゴロゴロしているだけで場のムードは一向に変わるものではない。台所に立って汚れものを洗い始めることでもいい、ガリを切り始めることでも土方仕事でホツれたジーパンを縫うことでも掃除を始めることでもナンでもいい。
ひとりでもイキイキとしてピリッとし始めると場にいる他人にもその新鮮さが伝わりナニカにつきうごかされる如く動きだし場もピリッとするのだった。
ひとりひとり場に対する期待があり、ああしたい、こうであればいいという要求があっても、ひとりのシナリオにしたがって場が動くものではない。ひとりひとりのベクトルの総和量の質と総和方向のベクトルをもって場は動いていく。
その場合でも議会主義的に話し合いひとつの方針をうち出して一致団結して動くのではなく、ひとりひとりが具体的な作業を進めていく中からこそベクトルは必然的に生まれてくるのだ。一致団結は一見一番パワーになりそうだが、その中に甘える奴と無理する奴が出てくるから当然全体のデメリットも大きくなる。
そして団結ベクトルを代行する者が登場すると、そいつは権力の衣を着ていたりするのだ。甘えない甘えさせない関係がある時こそ議会主義も有効かもしれないが・・・・・。とにかく人と人との関係はフィフティフィフティでなければならない、それが建て前でありぼくらの社会感観・世界観の最高形態なのだ。
そのころ、雀の森は一見表面上はむしろ波風が立たずうまくいっているように見えていた。ひとりひとり「イイ子ちゃん」然として、妙に物分かりがよかったし、他人に対しては実に寛容だった。しかしその天国状況の陰でかなり個人は圧迫感をもっていたのではないだろうか。実際みんな、何処かでナニかがもうひとつ足りないと考えていた。
「雀の森の音楽会」へ向けて 悪次郎&流峰 1972秋
「雀の森の音楽会」は月例会として近くの森林公園で10人前後の人間でおこなわれてきていたが第5回を記念して日立ファミリーセンターで2月18日にコンサートを開くことになった。ステージを用意したりポスターをつくったりで忙しくなったが、どれだけ人が入るかなどはあまり頭になかった。
無料だし、有名なフォークシンガーが出る訳でもなし、「唄いたい奴が唄えばいい」という内輪のおあそび的感覚だった。しかしいざふたを取ってみると雨にもかかわらずどれもこれも知り合いばかりのべ200人も集まってしまったのだった。
コンサートは実に大盛況で、カンパは予想以上に集まり、会場費などの万単位の自腹を覚悟していたぼくらは本当に助かったのだった。それまで仙台でのあれ程のアットホームな音楽会はなかったし、これからも開かれることはないだろう。
そんなこんなで「やった」という感覚はあったものの、しかし、これだけの人間がいて、関係があって、人脈が出来つつあって、それが一体これからどうなっていくんだろうナニを孕んでいくんだろうということを考えると実に頭は重くなってしまった。ナニかが始まっているのは肌で分かっても、これが一体ナニなんだろう。以前として見えないままだった。
三月になって津軽の「ののこ・てっぺ社」から帰って来たせぇこぉは「週刊雀の森」26号にセンセーショナルに「雀の森解体論序説」なるものを書きだした。それは、こんな事はもうやめてしまおうぜというヤケッパチな発想からではなく、いたいけにも場・関係・人脈を続けさせ展開していこうとして四苦八苦になり清貧主義になっている自分たちに対しての冷笑めいた言葉だった。「続ける」という裏には「解体」という重いものを意識化していかなければならないということのパロディックな表現だったのだ。
「(略)関係は打算である。だがしかし打算として繋がるものをもはや関係とは呼ばない。(略)あってしまった関係性は秩序完結志向をもってしまうが、やはり、今必要とされる事は<関係の精算>ではなく<関係の激化>である。多くの人々が嵐の如く「2K」のアパートを荒らしまわる事を忌み嫌うことはかまわない。しかし、それが何をも食まずに空転している図は、とくに関係の存在が大きくなりつつある内外にとってはとてつもない損失じゃないだろうか。(略)」
その頃、れおんは世田谷の「れおんずはうす」を解消し、雀の森に本格的に住み始めた。そして「時空間」3号に取りかかり4月の初めに出来上がった。4月にもなると古い友だちなどの動向のニュースが入り始め、一流企業への就職だとか浪人していた連中の大学進学などの季節だった。そしてそのニュースは、自分たちが積極的に関わっているものが低調な時だけに、市民社会への誘惑に聞こえてくるのだった。
学歴もなく定職にもつかなければ将来は困窮するだろうという予感があってそれは経済のテロルとも云うべきものだったが、”おぼれる者はわらをもつかむ”的に市民社会はポッカリと口を開けて待っているが如くであった。
ついに悪次郎は実家に帰ることを宣言し雀の森には来なくなり、れおんは喫茶店「むさし」に勤め始めた。せぇこぉも思い立ったら即行動の癖が出て無言のうちに荷物をまとめて実家に帰ってしまったため、いじけた流峰は私都村に一カ月的に”家出”してしまった。
ここで、ぼくらのルンペンプロレタリアート気どりも終わってしまったかに見えたのだった。とくに「ぐず」が予定していたスペースを手違いで借りれなくなり、設立委員会の数人のメンバーともうまくいかなくなって解散してしまった悪次郎にとってはかなりな痛手であったようだ。
ましてやもはや雀の森のヘゲモニーを取れないと分かった彼は、振れ過ぎたふりこは逆方向に大きく振れるの原理通りだった。獅子座ってやぁネ。
しかし、雀の森に対して「まったく終わった」と総括を出したものはいなく、どうにかしなければならないどうにかできる筈だとひとりひとりが思っていただけ救われたのかもしれない。せぇこぉの”家出”は三日だけで終わり、雀の森に帰ってきてそばや「精光庵」の出前を始めた。
以前として来客はあり、各地との連絡もあったが、雀の森は「関係は打算である」というパロディックなアフォリズムが流行になって見えないままだった。
四月の名古屋市長選挙「レインボー党」、四月末から五月の連休にかけた山形での「宇宙体操」、五月中旬の仙台でのヤマギシ会「幸福学園研鑽合宿」。日本の裏街道的叛文化戦線は多蜂起しにぎわい始めるが、ぼくらはそれらに積極的に参加し情報を入手した結果、ぼくらの目でみてもいずれもが批判の余地のあるものだった。
その頃、座敷童子のニュートンが住みつき、彼の芝居の船出のため虎視たんたんと準備を始めた。
劇団「座敷童子」1974年頃 前列左から サン ゴトーちゃん ニュートン(石川裕人) 波久修 不明(ごめん) 中列左から カマちゃん ミー坊 かおる 後列左から ジュン フダ カズエちゃん(絵永けい) サキ えっちゃん
結集軸の模索、アカデミズムの再検討、複数的コミュニケーションの必要性、さまざまな想いから始められたのが「雀の森の塾」だった。とくに最初から公教育秩序体制を批判し、自らの行動で大学を拒否して来ているぼくらとして、「日常生活の中からきらめく論理と感性を学びとっていくのだ。日常こそ本当の教室だ」と唱えていたが、「大学」に対峙する程の「形」を提示していかなければならないのではないかという反問もあった。
やりたいテーマはたくさんあったが「超科学」、「アサリ式色彩心理診断法」、「宗教」、「日常生活術」に絞った。5月28日から始め5日に一度づつ雀の森でやることにした。毎回10人程度の集まりだったが、最初から資材・プロフェッショナルを募ったがあまり反響はなかった。全体的に塾は未熟で終わった。ひとりひとりの情念だけ走ってコミュニケーションテクニックがないせいもあった。
月例会「雀の森の音楽会」第9回は72年のウルトラトリップ出発の365日目を記念して勾当台公園の野外音楽堂で開くことになった。6月17日は日曜日のせいもあって第5回のように内輪だけという訳にはいかず公園にいた全然知らない人たちもまじえてのべ400人程の人たちが群がったが、”外”とコミュニケートする難しさを感じざるを得なかった。
また、長くなるので略すが、それまで魅力的に見えていたグループと、ちょっとした乱闘事件がおこり、「自由」「暴力」ということについて考えざるを得なくなった。音楽界はそれ以後開かれずに終わった。
6月になってヒメが怪病で死亡。雀の森と一緒に生きてきた「恍惚のヒメ」「されどわれらがヒメ」を失い、ますます寂しくなった。
また”見知らぬ人もずいぶん来雀するようになってはいたが、お互いの交友録をひもといていくとどこかで同一人物を知っていて日本は狭いなぁと失笑することが多くなっていた。しかし場としての雀の森はモラル=秩序とはなんだという問いにとりつかれていた。
例えば、誰かが寝ている時にレコードをかけないとか、夜の八時以降に帰って来て飯が残っていなくても文句は言えないとか、当然とは分かりつつどこかで損している感覚があった。
「マナー」→「モラル」→「ルール」という図式が今ある市民社会とどう違うと、「カオス」を持って任ずるぼくらはジレンマに陥った。また内部的ムードや言葉が定着し始め「雀の森風土」、「雀の森方言」と呼ばれた。
6月末にれおんが仙台にアパートを借り、二次「れおんはうす」と呼ばれた。それはひとりになれるスペースが欲しいということみたいだった。悪次郎の足は遠のいていたが、「週刊雀の森」43号に「ぐず」無期延期のお知らせを書き、「私個人としては、あくまでも茶店建設を提起し続けるつもりですが、その建設目的も、初期と大部変わりつつあります」と書いている。ニュートンは7月になって「見えない」まま出ることになった。
7月中旬「時空間」4号完成。
7月末、雀の森に電話がつく。(72)5063。「ナニ、イズレムサンする」と読め、みんな失笑。p109~114
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