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2014/03/24

「雀の森の物語」<3>1974「時空間」8号

<2>からつづく

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「雀の森の物語」 <3>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 9月の初め、あらかじめの予定をほぼ貫徹して帰って来たぼくらはちょっと疲れぎみだったが、その疲れはぶっとばされてしまった。三カ月間空家だった筈のアパートに女の子が住みついていたからだ。それまでオンナ嫌いをよそおっていたぼくらであったが、実はモテなかったのだった。

 彼女にもののけと話すみたいに恐る恐る問い正してみると、友だちの友だちが家出して来ていたのだと判明し、それとなくホッとしたのだった。彼女は鉄腕アトムの兄ちゃんにウリ二つだったのでコバルトちゃんと呼ばれることになった。

 それと前後してぼくらと同じようにアパート暮らしをしていた友だちがアパートを売り払って一緒に住むことになり、彼は美少年(のちにサキ)と呼ばれるようになった。その頃から悪次郎も本格的に住みつくようになり、れおんも当分仙台にいることになったので、2+2+1+1=6、それに各地で知り合った人たちが来るようになったのでたまらない。

 たかだか十畳のスペースに十人くらいの人間がゴロゴロしている状態が長いこと続き、ぼくらは旅の疲れもあったりして実にうっとうしい気分になってしまった。

 ぼくらは権力者はとてつもなく嫌っていたし、「ここはぼくらが借りている場だからみんな出ていってもらおうじゃないか」と云ってしまうのは権利というより権力に思えたので、実に口に出せなかった。

 誰もが強いことを云わなかったのは自分たちのスペースに権力を登場させなくとも回転させていける方法がある筈だと思っていたからだが、うっとうしさにナニ食わぬ顔でいることは誰にも身につかぬ仕草だった。

 それでみんなどうしたらよいかわからず悶々としてしまっていた。旅行者の中にはフトンも上げずメシもつくらずソウジもせず金もださずギターをひいてゴロゴロしているばかりの奴がいたりして、あんな奴が場のムードをひとりでかき乱しているのではないかと思えた。

 そんな状態にぼくらはあせっていたし、これから4人で一体ナニが出来るのか実に曖昧だった。

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「週刊雀の森」1972/09/25創刊→途中から旬刊115号1976/02/06

 そんな時、ガリ版刷りの「週刊雀の森」が登場したのだ。誰にも相談しないでやってしまったせぇこぉの機転だった。それはささいなことだったかも知れないが、小世界の難民にとっては待ち望まれていた”具体性”だったのだ。

 そしてそれはミニコミでも機関紙でもなく、雀の森内部に向けた雀の森の結集軸の模索紙であり、ひとりからひとりへと書きつなげられていく結集軸そのものでもあった。発行部数108部。完全週刊で書きたい奴が書きたいことを書くという形で74年の8月に100号で”打ち止め”になるまで続けられた。ああなんというドン百姓じみたバイタリティ。 

 人はどんなに気のあう関係でも日常をマルチにつきあうと相手が克明に見え過ぎて何処かひっかかってしまうものだ。そんな小さなことでも大きな顛末をひきおこすこともよくある話で、面と向かってしゃべれば角が立つがこれだけはなんとか伝えなければならないということを書いていく絶好のスペースだった。

 このような「週刊雀の森」だったので初期的には雀の森社会に大きな貢献はしたが、あまり内部過ぎて外に出ていけないという後期的デメリットにもなった。この印刷物の登場は「雀の森」という名を定着させたと云うより、リアリティ・アクションの重さをぼくらに教えてくれたと云うことで伝説的神話的事件として後々まで語りつがれることになったのでありました。

 「百日の悩み屁の一発」が流行語になり、それを契機に雀の森が極度にスカトロジーに傾斜したと云われるのは、実は、このころの事なのである。

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雀の森の遠足 1972秋 左から みゅう (後)ニュートン サエキちゃん せぇこぉ 流峰 れおん

 具体的に共同作業を進めることが始められるとアイディアは百花繚乱に出てきて、「雀の森の遠足会」、「雀の森の運動会」、「雀の森の展覧会」、「雀の森の音楽会」などが企画されたが、どれも画期的にヒットは飛ばせなかった。ただし音楽会だけは月例会として続けられ、のちのち大きなウェートを持つことになる。

 その頃近所でコバルトちゃんが生まれたての野良猫をひろって来て、みんなの賛成を得て雀の森で飼うことになった。最初メス猫とまちがえられて”ヒメ”と名付けられてしまった。彼女は可愛がられて「週刊雀の森」紙上で熱っぽく語られた。”愛猫物語”の主人公にもたてまつられたが、雀の森のSM軍団が結社された紙上で、”悲命(ヒメ)に対するリンチ考”も書かれたりしたのだ。

 また、その頃立場が中途だったコバルトちゃんとサキは新しい場をつくりそこに移ることになり、旅人さんたちも少なくなり、ようやく4人だけで話すチャンスもムードも余裕も出てきた。話し合ってみれば実に大変な時期だった訳で、72年の9月を”魔の9月”と名付けて教訓にし、それから人間が錯綜して場が修羅場になることを”人の嵐”と呼び慣わせられた。

 そして「パーソナリティを共有する」というスローガンが前面に出て来て、それぞれの路線を出し合ってみた。フォークを唄っている悪次郎はレコードを出したいといい、またコンサートや映画上映の出来る喫茶店「ぐず」をつくることを宣言、コンサートに出たり、「ぐず」設立委員会をつくったりで忙しくなった。

 旅に出る前からHOW TO雑誌「VOLTAGE」をつくることを宣言していたせぇこぉは、流峰の腹案である同人誌「梁山泊」と妥結点を見い出して”若き生活者のための雑誌”あるいは”パーソナル総合誌”「時空間」を創刊することになった。

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        「時空間」創刊号1972/11

 東京にアパート(”れおんずはうす”)をもっているれおんは立場ははっきりしなかったが「時空間」には積極的に参加することになった。ところがこの三人は雑誌についてのイメージはかなり喰い違ったものだったが、とにかく出してみようということになった。

 原稿書きや表紙作りに取りかかり、丸一月かかり11月25日創刊となった。形になってしまうとあまりにおそ末で、こんな雑誌を本当につくろうとしていたのだろうかとひとりひとり考えこんでしまった。

 この時点で雀の森は「ぐず」派と「時空間」派に二分されてしまったが全員一致で事を運ぶのではなく、乱発式に事をおこしては強調しあっていくという考え方がはっきりしていたから、二派間はうまく行っていたように思う。しかし結果論だが、このあたりで悪次郎がのちに雀の森を切ることになるタネはまかれていたのかも知れない。p106~109

<4>につづく

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