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2014/03/24

「雀の森の物語」<1>1974「時空間」8号

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「雀の森の物語」 <1>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164
Total No.3198

 ぼくらは、最近、墓場の中を五分も歩かなければならない、この一軒家に引っ越してきた。ぼくらの新しいスペースは市街地からちょっと離れた、車が入れないくらいの細い道がクネクネしている北斜面に立っている。

 引っ越しの時など、レンタカーを横付け出来ないので途中に駐車して50m程の坂道をヒイヒイ云いながら台所道具や輪転機などを運ばなければならなかったほどなのだ。Suzume2   雀の森2 1974/04 仙台市青葉区北山 資福寺・覚範寺 裏

たいして文化的でもないし活動的な場所でもない。それに五分もあるかなければならない墓場の中には街燈もないので女の子はこわがって全然寄りつかないのだ。でも3DKバストイレ付き一軒家で二万五千円という条件はやけに魅力的に見えたのだった。

 二年半の共同生活を続けてきたぼくらはアパート暮らしには、いいかげん嫌気がさしていた。壁ひとつ隔てた部屋に住んでいたのは中年のタクシーの運ちゃんとちょっと疲れたような奥さんで、口数少ない静かな人たちだったので、ぼくらはとても気を使っていた。十時を過ぎたらギターはひかないとか、十二時過ぎたらなるべく笑い声を立てないとか。

 それだけ安アパートではあったけど、こんな”自主規制”はちょっとシンドイものだった。人である限り、夜でもギターをひきたくなる時だってあるし、自由に笑ったって構わないじゃないか。

 そんな風に考えてそんな風に振る舞ったこともあったけど、その時は二階のチンピラのお兄いちゃんに踏みこまれて、ぶんなぐられてしまった。勿論、赤ら顔の大家さんも突き出た腹をだぶつかせてやって来て文句やケチをつけていくのだった。

 実際、ぼくらは六畳・四畳半のスペースに十数人で住んでいたりしていたので、夜は布団で部屋が埋まり押し入れまで二人用のベットにしていたのだから、まだまだ狂ってない人から見たら、異常なことに映ったのかもしれない。

 薄汚れた畳には灰皿からこぼれた煙草がつくった焼けこげ(ぼくらは”ゴキブリ”と呼んでいた)は座布団の陰に見え隠れしてとてもかわいらしかったし、ふすまはシルクスクリーンの印刷台になって、赤いインクがこぼれた跡はとても素敵なインテリアだった。

Hime2_3   ヒメ 1972秋 「恍惚のヒメ」 「されど我らがヒメ」  

 オス猫の”ヒメ”はちょっと尻ぐせが悪く、部屋じゅう奴の匂いが漂っていたし、ミカン箱からあふれでた洗濯物はちょっと圧巻だった。

 そんな自分たちの生活の柄が自慢でもあったし、うっとうしいと思うこともあった。狭いアパートに多勢で住むことは楽しかったけど窮屈だったし、他のアパートの住人たちや大家を気にしながら生活することはおっくうなことだった。

 しかし、そんな理由でぼくらの共同生活を解消したのではない。日常のほんのささいなことやちょっとした自分の仕草の中にも本質的なものは隠されている、マクロの世界はミクロの中にこそある。

 メシ・アクビ・クソ程度の生活根底から共有していく処にこそ真の同志を見つけ得るし、自己の深部を知ることができる。そういう意味では共同生活は有力な方法論だ。しかしひとつの方法であるとするなら最高形態ではない訳で、続けることを目的とするより、メリットがなくなったら何時でも捨てる勇気は必要だろう。

 ぼくらのような生活形態が都市コミューンとか根拠地とか云われてモダニズムとしてもてはやされて久しいが、「夜迷亭」や「わが家」「以心伝心」「振り出し塾」などのグループが、発展的に解消されたという主張は聞けないし、実際そうは思えない。

 場をつくること徒党を組むことは便宜的なものではあってもとても難しいことである。しかし終り方が何故か熱っぽく語られなのはとても残念なことだ。

 ユートピア思想が現実とクロスする時、デトピアしか現出しないだって? ぼくらはもともとユートピア思想をリアリティに置き換えてみようなんて考えは持ち得ていないさ。どこで暮らしても同じなら、更なるドジを更なる修羅を創出せよ、ぐらいの反骨は身につけているぜ。

 次なるものへと飛び立てるような終わり方が準備されなければ地獄修羅界の上昇気流は以前として見えないだろう。いつまでも振り出しに戻ってばかりいては力はつくれないのだ。今、ぼくらのひとつの終りはひとつの”節”に過ぎない。ぼくらが何を求めているのか、ぼくらが何故共同生活を終わらせたか、この文でわずかでも分かってもらえたらうれしい。

Z1 1972夏 せぇこぉ(Bhavesh) 東京世田谷れおんずはうす裏

 この共同生活の仲間をぼくらは「雀の森の住人たち」と名付け、そのスペースを「雀の森」と呼んでいた。p101~103

<2>へつづく

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コメント

桝田屋昭子さん

雀の森を御存じですか? うれしいですね。ぼくは創立メンバーで、一番主体的に関わっていた二人のうちのひとりです。内容は、ブログにアップしたような筋書きですが、当然、このような文章には書ききれないことがたくさんありますよね。

ポンの本を贈本してくださるとのこと、たいへんうれしく思います。とても貴重な一冊です。住所はキコリ経由でお伝えいたします。

よろしくお願いいたします。

投稿: bhavesh | 2014/03/28 16:50

始めまして。きこりが紹介されました。仙台のすずめの森にいた方なのですね。
昨年の11月にポンの「アイ・アム・ヒッピー」の増補改訂版を出しました。
よかったら本を送らせてもらおうかと思っています。住所をお知らせください。当時ことは文字に
4月26日、27日に「アイ・アム・ヒッピー」の出版イベントをします。
藤枝さんの「花まつり」の16ミリ映画もしますよ。よかったら起こし下さいね

投稿: 桝田屋昭子 | 2014/03/28 15:19

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