「雀の森の物語」<5>1974「時空間」8号
「雀の森の物語」 <5>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164
★★★★★
73年7月20日から25日まで石神井コミューンの「蘇生」が主催した「叛文化全国連絡会議」は雀の森にインパクトを与えた。雀の森からは流峰、せぇこぉ、ひろこ、みゅうが参加したが、伊豆の農家の廃屋でひらかれた6日間の日常丸抱え合宿の話し合いは、内容・形態とも実にみのあるものだった。この内容については「蘇生」13号(\200+α+〒?)に詳しいのでぜひ参照して欲しい。
「週刊雀の森」50号 1973/09/03
8月になると「七夕イベント」がおこなわれ人の嵐的状態になったが、それはむしろ楽しい嵐だったようだ。しかしこの「七夕イベント」は雀の森を二分した。流峰がいいだしっぺになり、せぇこぉはイージーすぎるという考えで批判的だった。
「七夕イベント」には波久修、ニュートン、パトラ、れおん、テク等が関わった。これが今年(注1974年)の「カーニバルのワンステップになった。
9月になると合宿の余勢もあって、「塾」をもういちどなんとかしようということになり、今度は二週間に一度ずつジックリ時間をかけて教材とか使わず、ひとりひとりの問題を出しあって話していこうということになった。「塾」VOL2は9月末に始まり12月初めまで続いた。
福島グループもぐら 1973年冬頃 後列中央 ゲタ(アディナタ) 向かってその左 せぇこぉ
「塾」を続けながら、全国で活動する人たちと着実な関係を作りつつあったが、ぼくらの足元である東北に関係が少ないことに気づき始めた。実際、他の地域に比して東北の叛文化活動は少ないようだった。
しかし、それはぼくらが東北を中心に動いていなかったからではないかということになり、いっその事、東北の叛文化人脈をたどると共に、東北に根ざした叛文化運動を模索するための合宿をひらこうと云うことになった。これは3泊4日で「東北独立合宿」と名付けられた。
東北の独立した合宿ではなく、東北が独立するための合宿というニュアンスの方にウェートがあって、井上ひさしの「吉里吉里人」の影響をもろにかぶっていた。
「時空間」5号 1973/11
11月になって、ぼくらは「時空間」5号の編集と平行して合宿の準備をすすめた。内容は3伯4日で、自炊宿の湯治場「星の湯」を会場に20人前後を予定していた。
12月になって、合宿の運営方法の検討、メンバーの選択、パンフレット作成などをしている頃、ぼくらから遠ざかって悪意を持っている風だった悪次郎がヒョッコリやってきた。彼はそこでぼくらの批判をするべきだったのに、彼特有のエヘラ笑いをするだけであり、たわいのない話をするだけで、コチコチに構えていたせぇこぉが彼に左ストレートを二発かますという事になってしまった。そして「おまえなんかここから出ていけ!」と口走っていた。
第9回の音楽会以来、「自由」と「暴力」をワンセットで考えていたせぇこぉはついにテロリストに転向したのだった。場にいたれおんとパンダちゃんが仲裁に入って、おちついて話し合ったが、牡羊座と獅子座という気の合う部分があったり、同じような時代体験をして来ていたり、まして一緒に住んでいたという親近憎悪だけが目立ち、話は平行線に終わった。
この時の「出ていけ」というセリフは結局雀の森史に登場した唯一の暴力・権力言語だった。(しかし、おいらはてんで自己批判なんかぜず、むしろ過大評価しているので、あしからず)
4・5日して、奴が目のまわりにクマをつくった顔で書いた手紙が届いた。内容は「俺は大学に入って非合法組織に入る」ということであった。ん? <大学>?、<非>?、<合法>?、<組織>? 奴には夏から秋にかけてのぼくらの変質がてんで見えていなかったのだ。奴と雀の森はここで完全に切れる。
そのあと合宿に向けた話し合いの中で、雀の森と完全に関わり心中すると宣言した流峰・れおん・せぇこぉは、かつて割合い曖昧規定だった雀の森にケリとつけ、<雀の森三馬徒党軍>を宣言した。そして名前の頭文字を取って<FLR三角構造>とも呼び慣わした。(せぇこぉは別名ファックと呼ばれていたのでF)。F(フロント)、L(レフト)、R(ライト)なんて語呂遊びして意気がったりヨガったりもしたのだ。
12月中旬、FLR三馬鹿徒党軍は次の様な共同コミュニケを発表した。
・雀の森は74年3月末実で霧散させ、もっと大状況に向けてひとりひとりが飛び立つこと。
・「時空間」は十号まで必ず作っていく事。
・「東北独立合宿」にはテッテイ的に関わりヘゲモニーを執ること。
・Rの共生空間「ちろりん村」、Lの機能スペース「おもちゃ箱}、Fの徒党軍「公然の秘密結社」を早期にプラン化し、着実に具体化していく事。
・雀の森は解体しても、FLR三角構造は前向きに長期に渡って持続させていく事。
そんなこんなで”更なる関係、更なる展開へ向けて・・・・東北の人脈を見い出すべく・・・・、12月25日より28日まで合宿は開かれた。16名参加で、実に楽しい三泊四日だった。詳しくは「時空間」6号のれおんのレポートに参照されたい。
「時空間」6号 1974/02
東北の新しい人たちとの出逢いもあったし、古い関係からの「今だから話せる」的な暴露発言があったりして、てんやわんやの大さわぎ。その頃、仙台ではニュートンたちが「座敷童子」の旗揚げ公演をしていた。これも全体主義ではなく多発蜂起主義者であるぼくらにはフィットした状態だった。
合宿では、足もとである仙台についてもうすこし知らなければならないのではないかということになった。つまりぼくらの活動は日本→東北→仙台という過程で叛文化戦線を追い求め、雀の森という一点からのぞきこんでいたのだった。
一点と全点の振幅、ミクロとマクロ間の振幅としてぼくらは動いていたのだ。でも、世界から始められなかったのはいかにも残念だ。この次ゼロから始めるとしたら、インターナショナルどころか、インターユニバーサルから始めたいな。空飛ぶ円盤に乗ってサ。 p114~p118
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