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2014/03/24

「雀の森の物語」<2>1974「時空間」8号

<1>からつづく

Photo1_3
「雀の森の物語」 <2>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 ぼくらにとっては72年春の始まりもまたひとつの”節”に過ぎない。だからもっと前の”ぼく”らから語らなければならないかも知れないが面倒だから省く。

 72年の春に始めた共同生活がどのような目的意識を持っていたのか文章化したものは残っていないので正確性を欠くが、思いつくまま列挙してみよう。

・まずメンバーとして積極的に関わろうとする者は、流峰を媒介として集まった「とうもろこし」の同人の4人であること。つまり、流峰、れおん、悪次郎、せぇこぉの4人。

R2                       流峰 1972/05

・4人はそれぞれ”新左翼運動”に魅惑されていた。そしてなんらかの形で運動に関わってきており、思考パターンにその尻尾をひきずっていたが、運動総体としては下火になっていた。4人ともかつての主体的に運動を引導して来たとは云い切れず、リーダーシップを執る者に対して甘えがあったが、もはや信頼すべきリーダーはいない。そこで、自分たちの手でナニか新しい形での運動・活動をつくっていかなければならないと思っていたこと。

・そもそも人間とは何だろう。人間と人間の関係はどうあるべきだろう、という点について考え、自分たちの関係を変革していくこと。

・とにかく4人の立場があまりに中途半端であり、いっそゼロに戻してそこからナニができるか賭けてみること。大学生である流峰は退学し、予備校生であるれおんは予備校に行くのはやめ、高校を卒業した悪次郎・せぇこぉは大学を受験せずまして就職もしないこと。つまりカッコつきではあるけれど”ドロップアウト”すること。

・71年・72年と云えば、ヒッピー文化、カウンターカルチャー、叛文化という新しい形が呈示されてきた頃であり、それらの流れにコミットすること。

・当面の計画としては6月から9月にかけて三カ月間の日本一周を旅をし、日本各地に根ざした地域斗争や活動している人間たちに直に触れて、自分たちの運動を模索していくこと。

 とにかくナニかしなければ身が持たないし、誰も頼りにはならなかった。

San3 左から れおん 悪次郎 Kuuちゃん せぇこぉ 1972秋

 旭ケ丘に2Kのアパートを借り、まず流峰が引っ越したのは三月も末だった。しかし、れおんはそれに先立って東京・世田谷にアパートを借り1人暮らしを始めていた。それはぼくらの共同生活から離れたというより、家族から距離的にはなれて自活したいということみたいだった。ぼくはぼくでこの共同生活が具体化する前から家を出て自活することを宣言していたが、全体的に反対ムードの家族を説得するのに手こずり、本格的に住み始めたのは5月1日だった。

 一方、悪次郎は、実家とアパートの生活が半々で、全体的に共同生活に関わるという方針は出していなかった。彼の親父さんは面白い人で戦時中は軍隊の拷問係で戦後は転向して労働運動に関わったという経歴の持ち主で、彼にとって親父と話しこむことは問題が顕在化している時だけにとても大きいようだった。

 とにかく旅に出ることは約束しているので、それぞれ土方やサラリーマンや皿洗いや雀荘の給仕などをしながら資金をつくり始めていた。

 その時、家賃をどうするかで話し合ったが、三人の出した結果は基本的には金がある奴は金を出し金のない奴は出さなくてもよい、ということだった。ところが金のある奴などひとりもいない訳で、場に関わった度合いから流峰・せぇこぉ1万千円づつ、悪次郎は月3千づつ払うことにした。

 それの中から1万5千円の家賃と他の生活費をまかなった。こんなに安くよく暮らしてたもんだと云えるが、当時のぼくらにとっては大金だった。一度に払いこめないこともあったので整理をつけるため出納帳をつけることにした。この出納帳は男世帯でありながら結局二年半続いてしまったのは悲しいぼくらの自慢話のひとつだ。

 そこには野菜ひとつひとつの値段まで書きこんであり、順を追ってみていくといかに物価の上昇志向がバカげているかよく分かる。とにかく金でいさこざをおこすのだけはつまらないことだと思っていた。

 その頃は一応溜まり場であると云っていて、いろんな人たちが口伝えで遊びに来てくれたが、場の運営の仕方については方法論は全くなく、それゆえでもないだろうが、旅するまでは特筆すべきことは何も起こり得なかった。

Ut12 「80日間ヒッチハイク&バイク日本一周」 1972/06/18仙台出発 肩の上は近所の子どもミツルくん,

 そうこうして三カ月間にそれぞれ溜めこんだ6~8万の金を持って、6月18日に旅に出発したこの80日間日本一周ウルトラトリップはヒッチハイクやバイクでそれぞれ己の勝手なコースをたどりながら、10日間から二週間に一度あらかじめ設定した場所におちあい情報交換しながら旅するというユニークなものだった。

Ut23

      北は北海道網走1972/06/21 利尻礼文から

 詳しくは「時空間」創刊号、72年11月発行(あ、売り切れちゃったんだっけ)を参照されたい。この旅は結局の処それからの雀の森を運命づけたものであり、大きなイベントではあった。

Ut33

南は沖縄コザ1972/0729 まで。沖縄は数カ月前5/15に日本復帰を果たしたばかりだった。仙台に戻ったのは9/05 長いヒッチハイクの旅だった。

 雀の森・雀の森の住人たちという名称は、旅に出る前にぜひコネクションを持ちたい人間に手紙を出すということになって、全体の名前がないと具合が悪いと云うので悪次郎のアイディアでつけたものだった。由来は、近くに森があって、そこには雀が多かったということ。

 その前は仮称として、地名にちなんで瞑想の松ビューローと呼ばれていた。そこに旅に出るまでは冬崎(流峰)、上野(れおん)、野崎(悪次郎)、宇佐美(せぇこぉ)と互いを呼びあっていた。p103~106

<3>につづく

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