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2014年3月の29件の記事

2014/03/29

「ミシンと日本の近代」 消費者の創出 アンドルー・ゴードン<1>

「ミシンと日本の近代」―― 消費者の創出<1>
アンドルー・ゴードン   (著), 大島 かおり (翻訳) 2013/7 みすず書房 単行本: 434p
Total No.3201

 わぁ、面白そう。何気なく立ち寄った図書館をブラついていた時、開架棚にこの本を見つけて、実にグラっときた。まずい、これはまずいよ。今日、このまま、この本を借りて帰ったら、もう仕事は手につかないよ。こんな忙しい時期に、こんな本を読んでいていいの。

 いやいや、それよりなにより、私自身が、長いこと封印に務めてきたシークレット・ワールドの伏魔殿の封が切られてしまうよ。それでいいの。

 いえいえ、それはいけません。私はその覚悟はできてません。私はその本を棚に戻し、逃げるように図書館を飛び出してきた。そう、逃げ出してきた、というのは正しい。逃げるしかない。どうしようもないんだもの。逃げるしかない。

 だけど、私は知っている。私は逃げ切れない。私は、この本と、いずれ、真正面にぶつからなければならないだろう。

 私は、いくつかの職業についたが、ある期間、それは決して長くもなければ、短くもない、10年間の間、私はミシン屋さん、と呼ばれていた。なぜそう呼ばれるようになったのか。なぜ、そう呼ばれることをよしとしてきたのか。そして、その時、何があったのか。

 そういうことを、いずれはメモしておかなければならないのだ、といつからか覚悟はしてきた。しかし、時は今なのかどうか。別な時に、もっとまとまった形で、しかも、自分がもっと納得できる形で表出したほうがいいのではないか。いつも逡巡してきた。

 しかし、もう逃げ隠れはできないだろう。時は今だろう。少なくとも、図書館で、この本に出会ってしまった時、そう覚悟した。正直言えば、私はこの本を読まなくてもいい。書いてあることの、大体の全体像は、まぁまぁ想像できる。新しい事実は、そうそう多くはないだろう。

 それでもやっぱり、この本の力を借りたい。私は、この本を読んでいる振りして、実は、私時自身の体験と意見を述べておきたい。それは、長くもない、短くもない、私の人生の中の、ある時期を、きっかりと彩っていた世界なのである。

 もう、すでに色褪せてしまった記憶も多い。いつかメモしようと思ってきたが、すこしづつ忘れられつつある。そして、年齢とともに、省略され、脚色され、意味をとっちがえて、誤解が誤解を生みだすような記憶になりつつある。

 それに還暦を迎えた私の寿命とて、いつまで許されているのか、わかったものではない。とにかく、まったくの準備不足ではあるが、時折、カムアップしてくる記憶の断片を、ランダムに、アバウトに、メモし続けることにする。

 いずれ記憶は払拭されるだろう。そうそう簡単に払拭されるとは思っていないのだが、まぁ、出切ったなぁ、と自分が納得するまで、時おり、思い出して、ここにメモを連ねることにする。

<2>につづく 

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還暦しました。 プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <44>

<43>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<44> 還暦しました。

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602

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赤いチャンチャンコの代わりに、赤いダウンをもらいました。

<45>につづく

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2014/03/28

「星の遊行群」1975年<3>

<2>からつづく

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「星の遊行群」 Vol.1 <3>
ミルキーウェイ・キャラバン 1975/03 ミニコミ雑誌 オフセット印刷 一部謄写FAX印刷 p135 阿部清孝担当ページ

Total No.3199★★★★★


               
     <1>

 でき上がってしまったものに対する絶望・不信感が、ぼくの内部でかなり根強く生きている。完成美・形式美というものが、単にひとつの幻影でしかないことを分かっていたとしても、やはりそこには容易に近づいてはいけないような気持ちになってしまう。

 生きていることの不安定さ・不安心さからの逃避として、偉大なるものへの依頼心は、ひょっとすると人一倍強いのかもしれない。そんな自分の外に存在する絶対性・普遍性・完全性を装った世界へのタブー意識がどうしてもあってしまうのだろう。

 ぼくにとって完全無欠なもの神的なもの(ブッダフッド)のもとで生活する時の、今よりもっと楽しく生きれるんだという誘惑よりは、ゆがみのない世界へ立ち入ったら最後、生きているそのこと自体の目的を失ってしまいそうな方がこわいのだ。

 何故なら今日もこうして生きているのはやはりまだまだ修行の途中なのであって、修行の身の者がやたら綺麗な目をもってしまっては、我らが父・我らが母である神さまに申し訳がたたないからだ。この生が当を得たものであったのか、それとも間違いであったのかは死後の楽しみとしよう。

 そして天国=極楽浄土にまだまだ迎えいれて貰えないイケナイ魂であるのなら、49日間のデッドトリップの後、またこの世に幾度目かの肉体を授かるだろう。ぼくにとってそれでいいんだ。イージーに神を語り合う人々に決して神が宿るとは思えない。

 禁断の果実を喰ったのが神との別離であったのなら、ぼくは、このどうということのない魂・どうということのない体を張って、アダムとイブの不浄な精神を正当に受けつごう。

             <2>

 一切の安定感が、僕にとっては敵なのだ。自分の存在を保障するもの一切に近づかないことにしよう。

 ぼくらのかたわらでは、わずかばかりの価値しかない地位を財産を保障する為、だまし合い、うばいあい、とりでを築き、延命に奔走している人たちがいる。

 しかし、彼らの城が丈夫であれば丈夫であるほど、彼らの城壁が高ければ高いほど、戦々恐々として自分の心に姿に自信が全然ないことを示しているだけなのだ。

 彼らが彼らの富や地位をよそ様に向けて誇示したがるのは、彼らのそれが本質的によそ様にとってはどうでもいいことであり、本質的に認めてもらえ得るものではないからなのだ。所有権を明確にしたがるのは、彼らはついにはそのものの主になれないことの証拠にすぎない。

 うつろいやすい自信のない彼らは当分そのつまらないゲームを続けることになるだろう。

 領土を決め、国境をつくり、軍隊に衛護させ、親分子分のきづなを保ち、地位をいろいろつくってみては威張りへつり合い、所有したがり、支配したがり、愛を金に変え、金を束縛に変え、権力へ近づくことが偉大さへの道と思いこみ、あごで人々を動かすことを粋だと信じてしまっている。

 本当に欲しいものはそんなものなのだろうか。腹からそれが欲しくて欲しくてたまらなかったのだろうか。いいや違うだろう。今は醜悪に成り果てた彼らとて、最初からそんなものやそんな世界ではなく、全くの人間として生きることを望んでいた筈なのだ。

 ただ彼らは間違ってはい出せなくなっているだけなんだ。そして今やナニが欲しかったのかなんて、青っぽいことは忘れてしまおうとしている。

 まずいですよ、あなた。そこは寒すぎる。あなた間違えた。心も肌もカサカサしている。なに、まだ来ない? 来ませんよ、あのひと。コタツの中ですよ。

             <3>

 ぼくらはタイムリーなことに、まだまだ自分を過不足なく見直せる眼を失ってはいない。そして十分すぎるほど貧乏ではあるけれど、まだ十分にモノ持ちだ。

 もっともっと自由になりたいぼくらは、不必要な縛りや規定はどんどん捨てていくだろう。自分の素晴らしさは、他のどんなものにも代え難いし、他のどんなものも代弁はしてくれない。置き換え得るものは本当の素晴らしさではない。こうして五尺八寸の身を立たせて考えていること、ぼくにあるのはこの素晴らしさだけだ。

 家も捨てた。父の影も母の影も故郷も捨てた。
 確実に保障された将来も捨てた。
 いくばくかの財産の相続権も捨てた。
 自分だけの空間も捨てた。
 ひとりで使い得る以上の金は捨てた。
 ボクだけのキミ、も、キミだけのボクも捨てた。
 権力への道を捨てた。
 栄誉への道を捨てた。
 巨億の富への道を捨てた。
 自殺する自由さえ捨てた。

 そして、ぼくらはこれからもっともっと捨てていくだろう。何故なら、ナニものにも代え難い自由が欲しいからだ。

 家族を分断される苦しみ、わずかばかりの財をうばわれる苦しみ、自分だけの空間を持てない苦しみ、金のない苦しさ、道なきことの苦しみ、そして国籍を持てず、歩けぬ苦しみすらも超えたところにしか八紘にひらかれた解放=自由はないだろう。

 苦しみを乗り越えなければ解放されないのではない。
 苦悩・煩悩こそが、解放・覚悟に転化するのだ。

 裸の王様はパロディではなく、王たるもの、いつの世も裸なのだ。無冠の帝王こそ、まさに望むべき道だ。

 全てを打ち捨て、己が感性と己がペニスを抱きかかえて、いざや無冠のファシストへの道を! これこそが宇宙を支配する、我らが男根武装同盟(ペニスゴリラユニオン)の君主論、組織論、人生論なのだ。

             <4>

  男根武装同盟の大義は、おのが海綿体の充血をとことん信じること、これなのだ。

 朝マラの立たない奴には銭貸すな、とはよく言ったもので、モチモノの悪い奴に義理を”立てろ”というのは土台むりな話。最初から論外だが、ほんとうに、あの、腹の底からムラムラって来る衝動を感じない奴っているのかいネ。それじゃなんの楽しみ、なんの人生よ。

 オイラのは立つぜ!

 隆々と意気り立つ黒い奴がかわいけりゃ、諸君! 突っ込むべきはあそこだぜ。

 よろずのイデオローグ、よろずのアジテーターが何故に必要か。ひとりと一匹、うっぷん晴らしに何処でもいくぜ。叛文化戦線の教典は、ググッとくるアイツでョ、武器はこの宇宙の大転回と相似形のこのメカニックよ。ズキーンと、はちまきおじさんよろしくイッてやれ。

             <5>

 75年にぼくはひとつの期待をもっている。

 74年は、ぼくら雀の森にとってある転期だったように、、全国叛文化グループにとってもちょいとした年だったようだ。大体において”70年”からの組織論から抜け出した筈の叛文化徒党軍が、雑多な形で組織論に悩むというパラドックスに陥ったのだ。

 カオス的状況から画期的(!)なフォルムをひり出すべき段階にあったのだが、それは内側へのスィングに欠けた時、機はみちなかった。

 コミューンの面化をはかるべく気張ったF軍は、ダイレクトな個性の不足と風俗の雪崩に、フォルムの確定を放棄した。70年から独自のカラーを維持でき得手来たS軍は対関係の沈殿物にふり回されて事実上の運動の停止。思想のモダニズムとして山村共同体を気取ったY軍は、中堅がカリスマを喰い切れずに悶々。

 土台俺たちゃハードにやって来た。ハードにぶっつぶれたふりをするのは、お手のもの。そしてそこからひり出した答えはこうだ。

 「75年は70年の5年後ではなく、80年の5年前だ」ということ。80年にひとつのエポックを迎えれるかどうかは75~76年にかかっている。75年はどんな年になるか? 男せぇこぉ一流の近視眼的殺法を持ってすれば、その問いは容易に解ける。

 70年を支えた65年を想像することだ。65年とは新宿・風月堂にヒッピーたちが集まりだした年であり、新しい組織論としてべ平連が発足した年であり、情報化時代のさきがけとしての週刊誌「平凡パンチ」が創刊された年なのだ。あげくに66年6月には、紳士の国からビートルズが来日している。

 なにかが80年におこるとしたら、その起爆剤はこの75年、この75年に勃起する手筈になっている。

 ただし結集の70年に比べ、80年は解放の年になるゆえ、65年の”立て方”と75年の”立て方”は当然ことなって来る。ハードなテーマをクリアに抜けてこの75年は、おのおののデリカシーの肥大とキャパシティの拡大をもって登場する段取りだ。

 ゆえに燃える75年ではあるが、見ようとしない奴には見えない仕組みになっているので注意してくださいナ。燃えるといっても、それは発芽にすぎないので、ちょいとばかし見えにくい。しかし、この年に燃えるチャンスを失った人は確約するが、5年間はとてもとても燃えにくくなるデ。

 男せぇこぉともなれば、もっと具体的に75年を語りたがるが、その辺は今のところは秘密にしておこう。その辺はおのおのあなたの鼻でかぎまわって下さい。

             <6>

 これから俺たち雀の森は、一人一党独裁路線で行くことに決定した。例えば「ジープとラリパッパ隊」とか「小松卓郎と暗闇X団」とか、あるいは「冬崎流峰とちろりん村」とか、限りなく続々結党結団しつつある。

 これからはセクトを名乗ってギンギンのスピードの時代だぜ。そこで上部団体として、「セクトのつくり方」のコツを伝えておく。ちょっとだけョ。

1)まず、売名行為に走るべし。
2)グループ名称は奇妙奇天烈なだけヨシとすべし。
3)実体は二の次であるから、住所・存在場所は明確にせず、どこまでもゴモゴモと誤魔化すべし。
4)冗談で始めたこのナリワイ。徹底して冗談に終始すべし。
5)人々の集いを見たらセクトの大義のもとクレージーな仕草でプロパガンダに狂奔すべし。
6)けんかやゴタゴタが起きたら、セクト名をドナリ、先手必勝でぶんなぐり、次はすかざす逃げるべし。
7)相手を見るには、首の裏を見るようにし、にらみは三白眼・外斜視でキメるべし。
8)よそ様に逢ったら、セクト名称を名乗り、相手が知らなければ(当然有名じゃないから知る訳がない)「オクレテルー」とか「モグリじゃないか」とかケナすべし。
9)わがセクトに加われば、いかに毎日が楽しくなり、このセクトがいかに世界の斗争史の必然として生まれたか、いかにかつてのセクトが乗り越えられなかった地平に立っているかetcについて力の限りホラを吹くべし。ここに弱小セクトの命がかかっている。
10)いかに、いまや我がセクトが世界に広がっているかを誇示すべし。
11)多少有名になったら、ナニをするかを考えるべし。

てな案配であるが、おぬし、スルッ?

             <7>

 いくつかのセクト名で分かりにくくなったいくばくかの諸君の為、マッサージを兼ね、われらが世界に冠たるシンジケートの整理をしておく。

 一般に「星の遊行群」 < 「雀の森」 < 「男根武装同盟(ペニスゴリラユニオン)」と言われているのは、人々がまだまだスクェアなヘッドを持っているためであり、本当はまったく逆なのだ。

 クールでクレージーな諸君だけは分かってくれているだろう。そしてまた、ペニスゴリラユニオンの上部組織として、男せぇこぉとボーイズ・ライフがあるのだ。(今夜は悪酔いしちゃって、どうもいかんわい)

             <8>

 共同生活の中で雑誌をつくりながら足掛け4年生きてきた。短いと言ってしまえばそれまでだが、その短い間にも天国を見たし地獄を見た。

 学生運動はなやかし頃から共同作業と言うものはどこかでなれあいに見えたし、また共同作業が下手だった。ひとりでシコシコとミニコミをつくり始め、それなりに楽しく学べたが10号を越えたころ、それがかなり大きな部分を醜悪な自己顕示欲にたよっていることが見えてしまった。

 そこで、いきおい共同性のうずの中にとびこんで来たつもりだが、決してユートピアだとか甘えを持っていたつもりは毛頭ない。基本的に自分自信を知るために、ぼくの場合どうしても他人を必要としてしまったということだけだ。

 そしてこうして、最初はまったく冗談でつけた「雀の森の住人たち」という共同体を、ぼくなりにかいま見て来たつもりだ。この何年かの間、ぼくらの共同性はひとつのフォルム(形)として自律し始め、言ってみれば、もっと大きい世界へ投げ出したくなっている。 

 あの時「個」から大きな「共」へ走ったように、今、小さな「共」から、大きな「共」へ走っていこうと思う。

 星の遊行群にホレるのは、そんな理由があるからなのだが、大体において名前がいいではないか。今年は星を見ながら、孤独と共同を噛みしめて生きていくのである。

 星の遊行群さま、よろしく愛愁・・・・・・・・・。

   <阿部清孝とボーイズライフ>謹製 p56~63

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2014/03/26

「雀の森の物語」<7>1974「時空間」8号

<6>からつづく

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「雀の森の物語」 <7>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

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 これまで書いて来たことは、せぇこぉの目から見た雀の森の歴史である。「週刊雀の森」「時空間」などを手がかりに己れの記憶の中にある情景をつなぎとめただけなので、時間的密度の具合い、あるいは筋立ては俺に云いように書いた。したがってかなり真実である。 

 雀の森なんて、今になってしまえばどのようにも書ける。小説風にもルポ風にも苦労話風にも昔話風にも。しかし、分かってもらいたいのは何時だってどう転ぶか分からないスリルとサスペンスの一瞬一瞬の連続であったことについてだ。 

 時間的経過を中心にふりかえってみたので、ストーリー上であまり重くないものは捨てた。また、俺自身、あれっここの順序は逆だったかなという点もある。雀の森裏話史とか雀の森スキャンダル史とか雀の森関係変遷史とか書かれなければならないだろう。また関わった人それぞれの立場から語られなければ本当の雀の森は浮きあがってこないだろう。

 とくに今回はれおんにぜひ書いて欲しかった。また悪次郎こと良田善次郎センセの事は文中でかなり悪玉に仕上げたので、何処かでこれをお読みになって反論をいただきたいナ、センセ。

 ところが実は悪玉にしあげたい人物はゴロゴロいるのだが、本当の意味で「いまだからこそ書ける」的になっていないのは、現在の俺の姿の存在様式を考えてもらえば自然とおわかりの筈。

 三枚目は俺が買って出た。その理由は雀の森二年半に関わったのべ一万人中、俺以上にピッタリ来る奴がいないからだ。

 主人公は章立ての間に登場してくれた二匹の馬である。

5nin左から ニュートン せぇこぉ ゴトーちゃん 波久修 サキ 1975年頃

 雀の森を語るには、それまでの己れを語らなければならないだろうが、今回はどういう訳か「ぼくら」で書いたため非常に書きにくくなった。人の集合体であるのだから人を語らなければならないのは当然だ。

 人を抜いたら、そこには下衆な徒党の技術と箱庭的な社会の生成過程しか残らない。徒党の技術についてはいづれ書くチャンスがあるだろう。社会生成過程については箱庭ではなく原寸大でとらえこまなければならない。

 よってここでのメリットはおいらのネタ本になるだけであなたにとってはてんでメリットにはならない。したがってこの物語は駄文である。

 ただただ関わってくれた人たちに義理を通して御報告したくって書きました。自分の知っている部分と照らしあわせて、ウソを発見してみましょう。

 ぼくらに見えてる社会は澱みながら澄みながら曖昧な規定ベクトルの乱雑さの中に投げ出されている。そしてそこに身を投げ込んで曖昧さの中からフォルムを確定していく時こそぼくらは本当のパワーとはナニかを知ることができるのだ。

 誤解されては困るがフォルムが確定し切った処にはパワーはない。そのプロセスにこそ魅力はある。雀の森しかり3S構造しかり叛文化戦線しかり。

 俺の果てない夢は、街の幸せ売り=不良少年自然発生的徒党=単ゲバ軍団に成りあがっていくプロセスのうっとうしさを加速度的にうっ積していく過程の中にこそある。

 叫んでいるうちが幸福なのですよ。

Mct2
人力飛行機 1975夏 ミルキーウェイ・キャラバン in 鳥取砂丘

 p120~121

<完> 

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後記2014/03/27
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「時空間」はその後12号まで続刊され、雀の森は1976/03まで続いた。

<友人たちへお願い> 関連の情報、メモ、意見、特に当時の画像が残っている場合はぜひ提供をお願いします。集まれば、続編つづけます。Bhavesh (元・雀の森の住人せぇこぉ) プロフィールに電話 メアドあります。

<8>につづく

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2014/03/25

「雀の森の物語」<6>1974「時空間」8号

<5>からつづく

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「雀の森の物語」 <6>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 74年になるとナニかに突き動かされるが如く場は展開し始めていた。正月には、また人の嵐だったが、もう「嵐」などとは云えない程に、それは迎えられていた。「解体」という言葉を意図的に流したため、実に千客万来、雀の森の十畳に日本地図ができる程だった。

 ところがこの人のラッシュはちょっと変なラッシュだった。いつものなら一カ月でおさまる筈が、「時空間」6号が出来上がった2月上旬になっても10人以上でめしを食うことはザラだった。合宿に参加したサキ・史歩・波久修、それに塾に来ていたパトラなどが住みつきはじめたからだ。

 いつもいつも10数人で暮らすようになりパニックではあったが程よいパニックではあった。のちにそれに加えて岡山「しらけ鳥」関係の紋、盛岡「マッシュ・ルーム」のメンバーのひとりジープが住み始め、もうそこで繰りひろげられるものは解体前の狂宴そのものであった。

Tt1_2 私都村 1974~5年 後列左から サヨちゃん せぇこぉ しじみ ホースケ(男アループ) 中列左から 桜星 カコちゃん 前列 れおん

 そのうたかたのコミューンは狂い咲きと云うより、新しい胎動の予兆であったように思う。とにかくとにかく千客万来百鬼夜行千客万来百鬼夜行。寝る処がなくて机の上や台所はては物置・風呂場で寝たというのはこの頃の事だ。

 3月27日~31日には、また中山平の「星の湯」で「雀の森解体合宿」を行った。定住者中心であったせいかリラックスしたムードで16人のこれからの事を話し合ったのだった。詳しくは「時空間7号の波久修のレポートを参照されたい。

 その場で新しく具体案として出たのは、この春から流峰、史歩、サキ、紋、ジープ、パトラの6人が日本一周キャラバン「性歓隊」に出る事、帰って来たら史歩、紋、パトラそれにずっと雀の森と関係のあった孝子ちゃんが4人の共同生活「あっぷるはうす(のちに修羅舎)」を始める事、ニュートンたち「座敷童子」は演劇活動を続けながら生活の場「サザン・ハウス」をチューンナップしていく事、それに8月には「カーニバル」という企画を行うことなどだった。「カーニバル」に向けて流峰、ニュートン、波久修は過激派グループ「カーニバル組仙台一家」を組織した。

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  「時空間」8号1974/10 p5 ~27「カーニバル特集」

 合宿から帰って来て3月末時点でアパートを売っ払う予定だったが、引っ越し先も決まってなく、「性歓隊」が出るまで忙しいし、「時空間」もつくらなければならないし、「カーニバル」の電話連絡場所も必要ということで、「雀の森」とはニュアンスを変えてアパートを存続させることに決定した。

 4月になって6人の一行は旅立ち、「時空間」7号ができた5月にはれおんが「おもちゃ箱」設立のため大阪に飛んだ。また波久修は友だちが情報スペース「どぐらまぐら」をつくることを聞きつけて来て、6月から積極的に関わり、以後チャコとの共同生活に踏み切った。一方、その頃せぇこぉは地下足袋はいて芝生屋に身を持ち崩していた。てんでイカさないオイラ。

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         「時空間」7号 1974/05

 「性歓隊」の一行が「山形サーバイバル」を最終行程として帰仙したあとは「修羅舎」が始まり、「カーニバル」に向けて忙しくなった。また「サザン・ハウス」で宴会があった時、ムシャクシャしていたせぇこぉは下のトラック運ちゃんをポカリとやって全治一週間の傷を体中に追わせ、悪徳示談屋にからまれて5万円をせびりとられるドジを踏んだというのはあまりに有名な話。そのお陰で「サザン・ハウス」は引っ越ししなければならなくなり、一軒家を借りて北仙台チェーン・ブロックに参加した。

 「カーニバル」については別なレポートがあるだろう。

 「カーニバル」が終わった後<→∞?>の部分の日本的人種が、「サザン・ハウス」、「修羅舎」、「(旧)雀の森」で、「カーニバル後遺症」的にゴッチャになり人の嵐が続いた。嵐がひとしきり吹き乱れたあと、この三つの共生空間は、サ、シ、スの「スリーエス構造」を宣言し血盟した。あとは「セ」「ソ」の頭文字のグループが狙われている。あっ、ソは「蘇生」がいたか・・・・。あとはセの「赤軍」だけだ。

 8月末に新しい移転先をみつけ、9月4日に引っ越し、ここに悪たれカリスマ結合体=雀の森は名目的・実質的ともに革命的に霧散したのである。

 雀百まで踊り忘れず。ああソレソレ。  p118~120

<7>につづく

 

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「雀の森の物語」<5>1974「時空間」8号

<4>からつづく

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「雀の森の物語」 <5>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 73年7月20日から25日まで石神井コミューンの「蘇生」が主催した「叛文化全国連絡会議」は雀の森にインパクトを与えた。雀の森からは流峰、せぇこぉ、ひろこ、みゅうが参加したが、伊豆の農家の廃屋でひらかれた6日間の日常丸抱え合宿の話し合いは、内容・形態とも実にみのあるものだった。この内容については「蘇生」13号(\200+α+〒?)に詳しいのでぜひ参照して欲しい。

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      「週刊雀の森」50号 1973/09/03

 8月になると「七夕イベント」がおこなわれ人の嵐的状態になったが、それはむしろ楽しい嵐だったようだ。しかしこの「七夕イベント」は雀の森を二分した。流峰がいいだしっぺになり、せぇこぉはイージーすぎるという考えで批判的だった。

 「七夕イベント」には波久修、ニュートン、パトラ、れおん、テク等が関わった。これが今年(注1974年)の「カーニバルのワンステップになった。

 9月になると合宿の余勢もあって、「塾」をもういちどなんとかしようということになり、今度は二週間に一度ずつジックリ時間をかけて教材とか使わず、ひとりひとりの問題を出しあって話していこうということになった。「塾」VOL2は9月末に始まり12月初めまで続いた。

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福島グループもぐら 1973年冬頃 後列中央 ゲタ(アディナタ) 向かってその左 せぇこぉ

 「塾」を続けながら、全国で活動する人たちと着実な関係を作りつつあったが、ぼくらの足元である東北に関係が少ないことに気づき始めた。実際、他の地域に比して東北の叛文化活動は少ないようだった。

 しかし、それはぼくらが東北を中心に動いていなかったからではないかということになり、いっその事、東北の叛文化人脈をたどると共に、東北に根ざした叛文化運動を模索するための合宿をひらこうと云うことになった。これは3泊4日で「東北独立合宿」と名付けられた。 

 東北の独立した合宿ではなく、東北が独立するための合宿というニュアンスの方にウェートがあって、井上ひさしの「吉里吉里人」の影響をもろにかぶっていた。

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         「時空間」5号 1973/11

 11月になって、ぼくらは「時空間」5号の編集と平行して合宿の準備をすすめた。内容は3伯4日で、自炊宿の湯治場「星の湯」を会場に20人前後を予定していた。

 12月になって、合宿の運営方法の検討、メンバーの選択、パンフレット作成などをしている頃、ぼくらから遠ざかって悪意を持っている風だった悪次郎がヒョッコリやってきた。彼はそこでぼくらの批判をするべきだったのに、彼特有のエヘラ笑いをするだけであり、たわいのない話をするだけで、コチコチに構えていたせぇこぉが彼に左ストレートを二発かますという事になってしまった。そして「おまえなんかここから出ていけ!」と口走っていた。

 第9回の音楽会以来、「自由」と「暴力」をワンセットで考えていたせぇこぉはついにテロリストに転向したのだった。場にいたれおんとパンダちゃんが仲裁に入って、おちついて話し合ったが、牡羊座と獅子座という気の合う部分があったり、同じような時代体験をして来ていたり、まして一緒に住んでいたという親近憎悪だけが目立ち、話は平行線に終わった。

 この時の「出ていけ」というセリフは結局雀の森史に登場した唯一の暴力・権力言語だった。(しかし、おいらはてんで自己批判なんかぜず、むしろ過大評価しているので、あしからず)

 4・5日して、奴が目のまわりにクマをつくった顔で書いた手紙が届いた。内容は「俺は大学に入って非合法組織に入る」ということであった。ん? <大学>?、<非>?、<合法>?、<組織>? 奴には夏から秋にかけてのぼくらの変質がてんで見えていなかったのだ。奴と雀の森はここで完全に切れる。

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 そのあと合宿に向けた話し合いの中で、雀の森と完全に関わり心中すると宣言した流峰・れおん・せぇこぉは、かつて割合い曖昧規定だった雀の森にケリとつけ、<雀の森三馬徒党軍>を宣言した。そして名前の頭文字を取って<FLR三角構造>とも呼び慣わした。(せぇこぉは別名ファックと呼ばれていたのでF)。F(フロント)、L(レフト)、R(ライト)なんて語呂遊びして意気がったりヨガったりもしたのだ。

 12月中旬、FLR三馬鹿徒党軍は次の様な共同コミュニケを発表した。

・雀の森は74年3月末実で霧散させ、もっと大状況に向けてひとりひとりが飛び立つこと。

・「時空間」は十号まで必ず作っていく事。

・「東北独立合宿」にはテッテイ的に関わりヘゲモニーを執ること。

・Rの共生空間「ちろりん村」、Lの機能スペース「おもちゃ箱}、Fの徒党軍「公然の秘密結社」を早期にプラン化し、着実に具体化していく事。

・雀の森は解体しても、FLR三角構造は前向きに長期に渡って持続させていく事。

 そんなこんなで”更なる関係、更なる展開へ向けて・・・・東北の人脈を見い出すべく・・・・、12月25日より28日まで合宿は開かれた。16名参加で、実に楽しい三泊四日だった。詳しくは「時空間」6号のれおんのレポートに参照されたい。

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         「時空間」6号 1974/02

 東北の新しい人たちとの出逢いもあったし、古い関係からの「今だから話せる」的な暴露発言があったりして、てんやわんやの大さわぎ。その頃、仙台ではニュートンたちが「座敷童子」の旗揚げ公演をしていた。これも全体主義ではなく多発蜂起主義者であるぼくらにはフィットした状態だった。

 合宿では、足もとである仙台についてもうすこし知らなければならないのではないかということになった。つまりぼくらの活動は日本→東北→仙台という過程で叛文化戦線を追い求め、雀の森という一点からのぞきこんでいたのだった。

 一点と全点の振幅、ミクロとマクロ間の振幅としてぼくらは動いていたのだ。でも、世界から始められなかったのはいかにも残念だ。この次ゼロから始めるとしたら、インターナショナルどころか、インターユニバーサルから始めたいな。空飛ぶ円盤に乗ってサ。 p114~p118

<6>につづく  

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「雀の森の物語」<4>1974「時空間」8号

<3>からつづく

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「雀の森の物語」 <4>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 12月になって夏の旅の途中で参加した「山形サーバイバル」やヤマギシ会の春日山本部でひらかれた「変身合宿」で知り合った人たちや、NHK、朝日新聞、「若い女性」、ジ・アザー・マガジンなどのマスコミで取り上げられておちょくられたせいもあって仙台市内の初対面の人たちが訪ねてくれるようになった。

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「The Other Magazine 21」第17号1972/12 ブロンズ社p21~25

 それにしてもマスコミってのは馬鹿だね、天下の朝日は「アパートにたむろする若者たち」なんて全然本質を見てくれないし、「若い女性」にいたっては「サイクリングを通じて自然と親しむ」だと。福田みずほなんて最初から誰も相手にしてないからかまわないけどサ。勿論、マスコミなんていうよりぼくらのコミュニケーションの方がパワーフルだったんだけど、誰かお客さんも毎日来てくれたし、手紙が一通も来ない日なんてメッタになくなっていた。

 適度な順風をうけてスペース雀の森は航海していたが、もうひとつ新しいものも見えないまま、もっと加速度が欲しいと望まれつつ年が変わり、73年を迎えた。

 正月は2次的な人の嵐に見まわれたが、How Toを身につけてしまったせいか、ぼくらを含めて場にいるみんなそんなバットな心情でもなかった。百人一首や花札やトランプのゲームにあけくれ、あげくに反骨精神がまたまた頭をもたげてきて既成のルールをメタメタに大改正した”雀の森ルール”が構築されたりもした。

Jkk2                     「時空間」2号 1973/01 

 10日過ぎには”時空間戒厳令”が敷かれ、2号が二月には出来上がった。ここでのHow Toとは、人の嵐があればその場にいる全員でナニカに打ち講じ、個別な作業をする時は近視眼的な己れの作業に打ち込むことだった。

 他人の事や場の事をデカク考えてしまえば、事の大きさにオロオロしてしまい、他人にケチをつけるどころか自分ですらゴロゴロしているだけで場のムードは一向に変わるものではない。台所に立って汚れものを洗い始めることでもいい、ガリを切り始めることでも土方仕事でホツれたジーパンを縫うことでも掃除を始めることでもナンでもいい。

 ひとりでもイキイキとしてピリッとし始めると場にいる他人にもその新鮮さが伝わりナニカにつきうごかされる如く動きだし場もピリッとするのだった。

 ひとりひとり場に対する期待があり、ああしたい、こうであればいいという要求があっても、ひとりのシナリオにしたがって場が動くものではない。ひとりひとりのベクトルの総和量の質と総和方向のベクトルをもって場は動いていく。

 その場合でも議会主義的に話し合いひとつの方針をうち出して一致団結して動くのではなく、ひとりひとりが具体的な作業を進めていく中からこそベクトルは必然的に生まれてくるのだ。一致団結は一見一番パワーになりそうだが、その中に甘える奴と無理する奴が出てくるから当然全体のデメリットも大きくなる。

 そして団結ベクトルを代行する者が登場すると、そいつは権力の衣を着ていたりするのだ。甘えない甘えさせない関係がある時こそ議会主義も有効かもしれないが・・・・・。とにかく人と人との関係はフィフティフィフティでなければならない、それが建て前でありぼくらの社会感観・世界観の最高形態なのだ。 

 そのころ、雀の森は一見表面上はむしろ波風が立たずうまくいっているように見えていた。ひとりひとり「イイ子ちゃん」然として、妙に物分かりがよかったし、他人に対しては実に寛容だった。しかしその天国状況の陰でかなり個人は圧迫感をもっていたのではないだろうか。実際みんな、何処かでナニかがもうひとつ足りないと考えていた。

Sok01   「雀の森の音楽会」へ向けて 悪次郎&流峰 1972秋 

「雀の森の音楽会」は月例会として近くの森林公園で10人前後の人間でおこなわれてきていたが第5回を記念して日立ファミリーセンターで2月18日にコンサートを開くことになった。ステージを用意したりポスターをつくったりで忙しくなったが、どれだけ人が入るかなどはあまり頭になかった。

 無料だし、有名なフォークシンガーが出る訳でもなし、「唄いたい奴が唄えばいい」という内輪のおあそび的感覚だった。しかしいざふたを取ってみると雨にもかかわらずどれもこれも知り合いばかりのべ200人も集まってしまったのだった。

 コンサートは実に大盛況で、カンパは予想以上に集まり、会場費などの万単位の自腹を覚悟していたぼくらは本当に助かったのだった。それまで仙台でのあれ程のアットホームな音楽会はなかったし、これからも開かれることはないだろう。

 そんなこんなで「やった」という感覚はあったものの、しかし、これだけの人間がいて、関係があって、人脈が出来つつあって、それが一体これからどうなっていくんだろうナニを孕んでいくんだろうということを考えると実に頭は重くなってしまった。ナニかが始まっているのは肌で分かっても、これが一体ナニなんだろう。以前として見えないままだった。

 三月になって津軽の「ののこ・てっぺ社」から帰って来たせぇこぉは「週刊雀の森」26号にセンセーショナルに「雀の森解体論序説」なるものを書きだした。それは、こんな事はもうやめてしまおうぜというヤケッパチな発想からではなく、いたいけにも場・関係・人脈を続けさせ展開していこうとして四苦八苦になり清貧主義になっている自分たちに対しての冷笑めいた言葉だった。「続ける」という裏には「解体」という重いものを意識化していかなければならないということのパロディックな表現だったのだ。

 「(略)関係は打算である。だがしかし打算として繋がるものをもはや関係とは呼ばない。(略)あってしまった関係性は秩序完結志向をもってしまうが、やはり、今必要とされる事は<関係の精算>ではなく<関係の激化>である。多くの人々が嵐の如く「2K」のアパートを荒らしまわる事を忌み嫌うことはかまわない。しかし、それが何をも食まずに空転している図は、とくに関係の存在が大きくなりつつある内外にとってはとてつもない損失じゃないだろうか。(略)」

Jjk3                    「時空間」3号 1973/04

 その頃、れおんは世田谷の「れおんずはうす」を解消し、雀の森に本格的に住み始めた。そして「時空間」3号に取りかかり4月の初めに出来上がった。4月にもなると古い友だちなどの動向のニュースが入り始め、一流企業への就職だとか浪人していた連中の大学進学などの季節だった。そしてそのニュースは、自分たちが積極的に関わっているものが低調な時だけに、市民社会への誘惑に聞こえてくるのだった。

 学歴もなく定職にもつかなければ将来は困窮するだろうという予感があってそれは経済のテロルとも云うべきものだったが、”おぼれる者はわらをもつかむ”的に市民社会はポッカリと口を開けて待っているが如くであった。

 ついに悪次郎は実家に帰ることを宣言し雀の森には来なくなり、れおんは喫茶店「むさし」に勤め始めた。せぇこぉも思い立ったら即行動の癖が出て無言のうちに荷物をまとめて実家に帰ってしまったため、いじけた流峰は私都村に一カ月的に”家出”してしまった。

 ここで、ぼくらのルンペンプロレタリアート気どりも終わってしまったかに見えたのだった。とくに「ぐず」が予定していたスペースを手違いで借りれなくなり、設立委員会の数人のメンバーともうまくいかなくなって解散してしまった悪次郎にとってはかなりな痛手であったようだ。

 ましてやもはや雀の森のヘゲモニーを取れないと分かった彼は、振れ過ぎたふりこは逆方向に大きく振れるの原理通りだった。獅子座ってやぁネ。

 しかし、雀の森に対して「まったく終わった」と総括を出したものはいなく、どうにかしなければならないどうにかできる筈だとひとりひとりが思っていただけ救われたのかもしれない。せぇこぉの”家出”は三日だけで終わり、雀の森に帰ってきてそばや「精光庵」の出前を始めた。

 以前として来客はあり、各地との連絡もあったが、雀の森は「関係は打算である」というパロディックなアフォリズムが流行になって見えないままだった。

 四月の名古屋市長選挙「レインボー党」、四月末から五月の連休にかけた山形での「宇宙体操」、五月中旬の仙台でのヤマギシ会「幸福学園研鑽合宿」。日本の裏街道的叛文化戦線は多蜂起しにぎわい始めるが、ぼくらはそれらに積極的に参加し情報を入手した結果、ぼくらの目でみてもいずれもが批判の余地のあるものだった。

 その頃、座敷童子のニュートンが住みつき、彼の芝居の船出のため虎視たんたんと準備を始めた。

Zasiki劇団「座敷童子」1974年頃 前列左から サン ゴトーちゃん ニュートン(石川裕人) 波久修 不明(ごめん) 中列左から カマちゃん ミー坊 かおる 後列左から ジュン フダ カズエちゃん(絵永けい) サキ えっちゃん 

 結集軸の模索、アカデミズムの再検討、複数的コミュニケーションの必要性、さまざまな想いから始められたのが「雀の森の塾」だった。とくに最初から公教育秩序体制を批判し、自らの行動で大学を拒否して来ているぼくらとして、「日常生活の中からきらめく論理と感性を学びとっていくのだ。日常こそ本当の教室だ」と唱えていたが、「大学」に対峙する程の「形」を提示していかなければならないのではないかという反問もあった。

 やりたいテーマはたくさんあったが「超科学」、「アサリ式色彩心理診断法」、「宗教」、「日常生活術」に絞った。5月28日から始め5日に一度づつ雀の森でやることにした。毎回10人程度の集まりだったが、最初から資材・プロフェッショナルを募ったがあまり反響はなかった。全体的に塾は未熟で終わった。ひとりひとりの情念だけ走ってコミュニケーションテクニックがないせいもあった。

 月例会「雀の森の音楽会」第9回は72年のウルトラトリップ出発の365日目を記念して勾当台公園の野外音楽堂で開くことになった。6月17日は日曜日のせいもあって第5回のように内輪だけという訳にはいかず公園にいた全然知らない人たちもまじえてのべ400人程の人たちが群がったが、”外”とコミュニケートする難しさを感じざるを得なかった。

 また、長くなるので略すが、それまで魅力的に見えていたグループと、ちょっとした乱闘事件がおこり、「自由」「暴力」ということについて考えざるを得なくなった。音楽界はそれ以後開かれずに終わった。

 6月になってヒメが怪病で死亡。雀の森と一緒に生きてきた「恍惚のヒメ」「されどわれらがヒメ」を失い、ますます寂しくなった。

 また”見知らぬ人もずいぶん来雀するようになってはいたが、お互いの交友録をひもといていくとどこかで同一人物を知っていて日本は狭いなぁと失笑することが多くなっていた。しかし場としての雀の森はモラル=秩序とはなんだという問いにとりつかれていた。

 例えば、誰かが寝ている時にレコードをかけないとか、夜の八時以降に帰って来て飯が残っていなくても文句は言えないとか、当然とは分かりつつどこかで損している感覚があった。

 「マナー」→「モラル」→「ルール」という図式が今ある市民社会とどう違うと、「カオス」を持って任ずるぼくらはジレンマに陥った。また内部的ムードや言葉が定着し始め「雀の森風土」、「雀の森方言」と呼ばれた。

Jjk4         「時空間」4号 1973/07

 6月末にれおんが仙台にアパートを借り、二次「れおんはうす」と呼ばれた。それはひとりになれるスペースが欲しいということみたいだった。悪次郎の足は遠のいていたが、「週刊雀の森」43号に「ぐず」無期延期のお知らせを書き、「私個人としては、あくまでも茶店建設を提起し続けるつもりですが、その建設目的も、初期と大部変わりつつあります」と書いている。ニュートンは7月になって「見えない」まま出ることになった。

 7月中旬「時空間」4号完成。

 7月末、雀の森に電話がつく。(72)5063。「ナニ、イズレムサンする」と読め、みんな失笑。p109~114

<5>につづく

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2014/03/24

「雀の森の物語」<3>1974「時空間」8号

<2>からつづく

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「雀の森の物語」 <3>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 9月の初め、あらかじめの予定をほぼ貫徹して帰って来たぼくらはちょっと疲れぎみだったが、その疲れはぶっとばされてしまった。三カ月間空家だった筈のアパートに女の子が住みついていたからだ。それまでオンナ嫌いをよそおっていたぼくらであったが、実はモテなかったのだった。

 彼女にもののけと話すみたいに恐る恐る問い正してみると、友だちの友だちが家出して来ていたのだと判明し、それとなくホッとしたのだった。彼女は鉄腕アトムの兄ちゃんにウリ二つだったのでコバルトちゃんと呼ばれることになった。

 それと前後してぼくらと同じようにアパート暮らしをしていた友だちがアパートを売り払って一緒に住むことになり、彼は美少年(のちにサキ)と呼ばれるようになった。その頃から悪次郎も本格的に住みつくようになり、れおんも当分仙台にいることになったので、2+2+1+1=6、それに各地で知り合った人たちが来るようになったのでたまらない。

 たかだか十畳のスペースに十人くらいの人間がゴロゴロしている状態が長いこと続き、ぼくらは旅の疲れもあったりして実にうっとうしい気分になってしまった。

 ぼくらは権力者はとてつもなく嫌っていたし、「ここはぼくらが借りている場だからみんな出ていってもらおうじゃないか」と云ってしまうのは権利というより権力に思えたので、実に口に出せなかった。

 誰もが強いことを云わなかったのは自分たちのスペースに権力を登場させなくとも回転させていける方法がある筈だと思っていたからだが、うっとうしさにナニ食わぬ顔でいることは誰にも身につかぬ仕草だった。

 それでみんなどうしたらよいかわからず悶々としてしまっていた。旅行者の中にはフトンも上げずメシもつくらずソウジもせず金もださずギターをひいてゴロゴロしているばかりの奴がいたりして、あんな奴が場のムードをひとりでかき乱しているのではないかと思えた。

 そんな状態にぼくらはあせっていたし、これから4人で一体ナニが出来るのか実に曖昧だった。

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「週刊雀の森」1972/09/25創刊→途中から旬刊115号1976/02/06

 そんな時、ガリ版刷りの「週刊雀の森」が登場したのだ。誰にも相談しないでやってしまったせぇこぉの機転だった。それはささいなことだったかも知れないが、小世界の難民にとっては待ち望まれていた”具体性”だったのだ。

 そしてそれはミニコミでも機関紙でもなく、雀の森内部に向けた雀の森の結集軸の模索紙であり、ひとりからひとりへと書きつなげられていく結集軸そのものでもあった。発行部数108部。完全週刊で書きたい奴が書きたいことを書くという形で74年の8月に100号で”打ち止め”になるまで続けられた。ああなんというドン百姓じみたバイタリティ。 

 人はどんなに気のあう関係でも日常をマルチにつきあうと相手が克明に見え過ぎて何処かひっかかってしまうものだ。そんな小さなことでも大きな顛末をひきおこすこともよくある話で、面と向かってしゃべれば角が立つがこれだけはなんとか伝えなければならないということを書いていく絶好のスペースだった。

 このような「週刊雀の森」だったので初期的には雀の森社会に大きな貢献はしたが、あまり内部過ぎて外に出ていけないという後期的デメリットにもなった。この印刷物の登場は「雀の森」という名を定着させたと云うより、リアリティ・アクションの重さをぼくらに教えてくれたと云うことで伝説的神話的事件として後々まで語りつがれることになったのでありました。

 「百日の悩み屁の一発」が流行語になり、それを契機に雀の森が極度にスカトロジーに傾斜したと云われるのは、実は、このころの事なのである。

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雀の森の遠足 1972秋 左から みゅう (後)ニュートン サエキちゃん せぇこぉ 流峰 れおん

 具体的に共同作業を進めることが始められるとアイディアは百花繚乱に出てきて、「雀の森の遠足会」、「雀の森の運動会」、「雀の森の展覧会」、「雀の森の音楽会」などが企画されたが、どれも画期的にヒットは飛ばせなかった。ただし音楽会だけは月例会として続けられ、のちのち大きなウェートを持つことになる。

 その頃近所でコバルトちゃんが生まれたての野良猫をひろって来て、みんなの賛成を得て雀の森で飼うことになった。最初メス猫とまちがえられて”ヒメ”と名付けられてしまった。彼女は可愛がられて「週刊雀の森」紙上で熱っぽく語られた。”愛猫物語”の主人公にもたてまつられたが、雀の森のSM軍団が結社された紙上で、”悲命(ヒメ)に対するリンチ考”も書かれたりしたのだ。

 また、その頃立場が中途だったコバルトちゃんとサキは新しい場をつくりそこに移ることになり、旅人さんたちも少なくなり、ようやく4人だけで話すチャンスもムードも余裕も出てきた。話し合ってみれば実に大変な時期だった訳で、72年の9月を”魔の9月”と名付けて教訓にし、それから人間が錯綜して場が修羅場になることを”人の嵐”と呼び慣わせられた。

 そして「パーソナリティを共有する」というスローガンが前面に出て来て、それぞれの路線を出し合ってみた。フォークを唄っている悪次郎はレコードを出したいといい、またコンサートや映画上映の出来る喫茶店「ぐず」をつくることを宣言、コンサートに出たり、「ぐず」設立委員会をつくったりで忙しくなった。

 旅に出る前からHOW TO雑誌「VOLTAGE」をつくることを宣言していたせぇこぉは、流峰の腹案である同人誌「梁山泊」と妥結点を見い出して”若き生活者のための雑誌”あるいは”パーソナル総合誌”「時空間」を創刊することになった。

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        「時空間」創刊号1972/11

 東京にアパート(”れおんずはうす”)をもっているれおんは立場ははっきりしなかったが「時空間」には積極的に参加することになった。ところがこの三人は雑誌についてのイメージはかなり喰い違ったものだったが、とにかく出してみようということになった。

 原稿書きや表紙作りに取りかかり、丸一月かかり11月25日創刊となった。形になってしまうとあまりにおそ末で、こんな雑誌を本当につくろうとしていたのだろうかとひとりひとり考えこんでしまった。

 この時点で雀の森は「ぐず」派と「時空間」派に二分されてしまったが全員一致で事を運ぶのではなく、乱発式に事をおこしては強調しあっていくという考え方がはっきりしていたから、二派間はうまく行っていたように思う。しかし結果論だが、このあたりで悪次郎がのちに雀の森を切ることになるタネはまかれていたのかも知れない。p106~109

<4>につづく

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「雀の森の物語」<2>1974「時空間」8号

<1>からつづく

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「雀の森の物語」 <2>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164

 ぼくらにとっては72年春の始まりもまたひとつの”節”に過ぎない。だからもっと前の”ぼく”らから語らなければならないかも知れないが面倒だから省く。

 72年の春に始めた共同生活がどのような目的意識を持っていたのか文章化したものは残っていないので正確性を欠くが、思いつくまま列挙してみよう。

・まずメンバーとして積極的に関わろうとする者は、流峰を媒介として集まった「とうもろこし」の同人の4人であること。つまり、流峰、れおん、悪次郎、せぇこぉの4人。

R2                       流峰 1972/05

・4人はそれぞれ”新左翼運動”に魅惑されていた。そしてなんらかの形で運動に関わってきており、思考パターンにその尻尾をひきずっていたが、運動総体としては下火になっていた。4人ともかつての主体的に運動を引導して来たとは云い切れず、リーダーシップを執る者に対して甘えがあったが、もはや信頼すべきリーダーはいない。そこで、自分たちの手でナニか新しい形での運動・活動をつくっていかなければならないと思っていたこと。

・そもそも人間とは何だろう。人間と人間の関係はどうあるべきだろう、という点について考え、自分たちの関係を変革していくこと。

・とにかく4人の立場があまりに中途半端であり、いっそゼロに戻してそこからナニができるか賭けてみること。大学生である流峰は退学し、予備校生であるれおんは予備校に行くのはやめ、高校を卒業した悪次郎・せぇこぉは大学を受験せずまして就職もしないこと。つまりカッコつきではあるけれど”ドロップアウト”すること。

・71年・72年と云えば、ヒッピー文化、カウンターカルチャー、叛文化という新しい形が呈示されてきた頃であり、それらの流れにコミットすること。

・当面の計画としては6月から9月にかけて三カ月間の日本一周を旅をし、日本各地に根ざした地域斗争や活動している人間たちに直に触れて、自分たちの運動を模索していくこと。

 とにかくナニかしなければ身が持たないし、誰も頼りにはならなかった。

San3 左から れおん 悪次郎 Kuuちゃん せぇこぉ 1972秋

 旭ケ丘に2Kのアパートを借り、まず流峰が引っ越したのは三月も末だった。しかし、れおんはそれに先立って東京・世田谷にアパートを借り1人暮らしを始めていた。それはぼくらの共同生活から離れたというより、家族から距離的にはなれて自活したいということみたいだった。ぼくはぼくでこの共同生活が具体化する前から家を出て自活することを宣言していたが、全体的に反対ムードの家族を説得するのに手こずり、本格的に住み始めたのは5月1日だった。

 一方、悪次郎は、実家とアパートの生活が半々で、全体的に共同生活に関わるという方針は出していなかった。彼の親父さんは面白い人で戦時中は軍隊の拷問係で戦後は転向して労働運動に関わったという経歴の持ち主で、彼にとって親父と話しこむことは問題が顕在化している時だけにとても大きいようだった。

 とにかく旅に出ることは約束しているので、それぞれ土方やサラリーマンや皿洗いや雀荘の給仕などをしながら資金をつくり始めていた。

 その時、家賃をどうするかで話し合ったが、三人の出した結果は基本的には金がある奴は金を出し金のない奴は出さなくてもよい、ということだった。ところが金のある奴などひとりもいない訳で、場に関わった度合いから流峰・せぇこぉ1万千円づつ、悪次郎は月3千づつ払うことにした。

 それの中から1万5千円の家賃と他の生活費をまかなった。こんなに安くよく暮らしてたもんだと云えるが、当時のぼくらにとっては大金だった。一度に払いこめないこともあったので整理をつけるため出納帳をつけることにした。この出納帳は男世帯でありながら結局二年半続いてしまったのは悲しいぼくらの自慢話のひとつだ。

 そこには野菜ひとつひとつの値段まで書きこんであり、順を追ってみていくといかに物価の上昇志向がバカげているかよく分かる。とにかく金でいさこざをおこすのだけはつまらないことだと思っていた。

 その頃は一応溜まり場であると云っていて、いろんな人たちが口伝えで遊びに来てくれたが、場の運営の仕方については方法論は全くなく、それゆえでもないだろうが、旅するまでは特筆すべきことは何も起こり得なかった。

Ut12 「80日間ヒッチハイク&バイク日本一周」 1972/06/18仙台出発 肩の上は近所の子どもミツルくん,

 そうこうして三カ月間にそれぞれ溜めこんだ6~8万の金を持って、6月18日に旅に出発したこの80日間日本一周ウルトラトリップはヒッチハイクやバイクでそれぞれ己の勝手なコースをたどりながら、10日間から二週間に一度あらかじめ設定した場所におちあい情報交換しながら旅するというユニークなものだった。

Ut23

      北は北海道網走1972/06/21 利尻礼文から

 詳しくは「時空間」創刊号、72年11月発行(あ、売り切れちゃったんだっけ)を参照されたい。この旅は結局の処それからの雀の森を運命づけたものであり、大きなイベントではあった。

Ut33

南は沖縄コザ1972/0729 まで。沖縄は数カ月前5/15に日本復帰を果たしたばかりだった。仙台に戻ったのは9/05 長いヒッチハイクの旅だった。

 雀の森・雀の森の住人たちという名称は、旅に出る前にぜひコネクションを持ちたい人間に手紙を出すということになって、全体の名前がないと具合が悪いと云うので悪次郎のアイディアでつけたものだった。由来は、近くに森があって、そこには雀が多かったということ。

 その前は仮称として、地名にちなんで瞑想の松ビューローと呼ばれていた。そこに旅に出るまでは冬崎(流峰)、上野(れおん)、野崎(悪次郎)、宇佐美(せぇこぉ)と互いを呼びあっていた。p103~106

<3>につづく

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「雀の森の物語」<1>1974「時空間」8号

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「雀の森の物語」 <1>
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164
Total No.3198

 ぼくらは、最近、墓場の中を五分も歩かなければならない、この一軒家に引っ越してきた。ぼくらの新しいスペースは市街地からちょっと離れた、車が入れないくらいの細い道がクネクネしている北斜面に立っている。

 引っ越しの時など、レンタカーを横付け出来ないので途中に駐車して50m程の坂道をヒイヒイ云いながら台所道具や輪転機などを運ばなければならなかったほどなのだ。Suzume2   雀の森2 1974/04 仙台市青葉区北山 資福寺・覚範寺 裏

たいして文化的でもないし活動的な場所でもない。それに五分もあるかなければならない墓場の中には街燈もないので女の子はこわがって全然寄りつかないのだ。でも3DKバストイレ付き一軒家で二万五千円という条件はやけに魅力的に見えたのだった。

 二年半の共同生活を続けてきたぼくらはアパート暮らしには、いいかげん嫌気がさしていた。壁ひとつ隔てた部屋に住んでいたのは中年のタクシーの運ちゃんとちょっと疲れたような奥さんで、口数少ない静かな人たちだったので、ぼくらはとても気を使っていた。十時を過ぎたらギターはひかないとか、十二時過ぎたらなるべく笑い声を立てないとか。

 それだけ安アパートではあったけど、こんな”自主規制”はちょっとシンドイものだった。人である限り、夜でもギターをひきたくなる時だってあるし、自由に笑ったって構わないじゃないか。

 そんな風に考えてそんな風に振る舞ったこともあったけど、その時は二階のチンピラのお兄いちゃんに踏みこまれて、ぶんなぐられてしまった。勿論、赤ら顔の大家さんも突き出た腹をだぶつかせてやって来て文句やケチをつけていくのだった。

 実際、ぼくらは六畳・四畳半のスペースに十数人で住んでいたりしていたので、夜は布団で部屋が埋まり押し入れまで二人用のベットにしていたのだから、まだまだ狂ってない人から見たら、異常なことに映ったのかもしれない。

 薄汚れた畳には灰皿からこぼれた煙草がつくった焼けこげ(ぼくらは”ゴキブリ”と呼んでいた)は座布団の陰に見え隠れしてとてもかわいらしかったし、ふすまはシルクスクリーンの印刷台になって、赤いインクがこぼれた跡はとても素敵なインテリアだった。

Hime2_3   ヒメ 1972秋 「恍惚のヒメ」 「されど我らがヒメ」  

 オス猫の”ヒメ”はちょっと尻ぐせが悪く、部屋じゅう奴の匂いが漂っていたし、ミカン箱からあふれでた洗濯物はちょっと圧巻だった。

 そんな自分たちの生活の柄が自慢でもあったし、うっとうしいと思うこともあった。狭いアパートに多勢で住むことは楽しかったけど窮屈だったし、他のアパートの住人たちや大家を気にしながら生活することはおっくうなことだった。

 しかし、そんな理由でぼくらの共同生活を解消したのではない。日常のほんのささいなことやちょっとした自分の仕草の中にも本質的なものは隠されている、マクロの世界はミクロの中にこそある。

 メシ・アクビ・クソ程度の生活根底から共有していく処にこそ真の同志を見つけ得るし、自己の深部を知ることができる。そういう意味では共同生活は有力な方法論だ。しかしひとつの方法であるとするなら最高形態ではない訳で、続けることを目的とするより、メリットがなくなったら何時でも捨てる勇気は必要だろう。

 ぼくらのような生活形態が都市コミューンとか根拠地とか云われてモダニズムとしてもてはやされて久しいが、「夜迷亭」や「わが家」「以心伝心」「振り出し塾」などのグループが、発展的に解消されたという主張は聞けないし、実際そうは思えない。

 場をつくること徒党を組むことは便宜的なものではあってもとても難しいことである。しかし終り方が何故か熱っぽく語られなのはとても残念なことだ。

 ユートピア思想が現実とクロスする時、デトピアしか現出しないだって? ぼくらはもともとユートピア思想をリアリティに置き換えてみようなんて考えは持ち得ていないさ。どこで暮らしても同じなら、更なるドジを更なる修羅を創出せよ、ぐらいの反骨は身につけているぜ。

 次なるものへと飛び立てるような終わり方が準備されなければ地獄修羅界の上昇気流は以前として見えないだろう。いつまでも振り出しに戻ってばかりいては力はつくれないのだ。今、ぼくらのひとつの終りはひとつの”節”に過ぎない。ぼくらが何を求めているのか、ぼくらが何故共同生活を終わらせたか、この文でわずかでも分かってもらえたらうれしい。

Z1 1972夏 せぇこぉ(Bhavesh) 東京世田谷れおんずはうす裏

 この共同生活の仲間をぼくらは「雀の森の住人たち」と名付け、そのスペースを「雀の森」と呼んでいた。p101~103

<2>へつづく

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「ぼくは深夜を解放する!」続もうひとつ別の広場 桝井論平 & 冬崎流峰<1>

Sinya
「ぼくは深夜を解放する!」 続もうひとつ別の広場<1>
桝井論平 & 冬崎流峰1970/05 (株)ブロンズ社  単行本ハードカバー 180p
Total No.3197

 もう45年前のことである。語り始めたら、脚注をいっぱいつけなければならない。今はいちいち説明するのが面倒だから、分かる人だけが分かるレベルでメモしておこう。

 1972~1976年に仙台にあった共同生活体(あるいは当時の言葉でコミューンとも)「雀の森」を語ろうとすれば、まずは、この本から始めるのが妥当であろう。それは、特にリーダーを決める空間ではなかったが、一番の年長であり、一番イメージを持っていたのが冬崎流峰(1951年生まれ)であり、その流峰がもっとも公に、明示的に登場したのが、この本であるからである。

 桝井論平は当時のTBSラジオのアナウンサーで、位置的にはテレビニュースキャスターだった久米宏などの先輩=指導者的な存在である。当時にわかに人気が高まった深夜放送のDJだった。その彼が、リスナーの声などと共に一冊に本を著わしたのが、この本である。

 時代的には、映画「いちご白書をもう一度」とか、小説「ノルウェイの森」などと、ほぼ同時代である。ただ、今回の主人公たる流峰は、いわゆる団塊の世代よりやや遅れてきた青年ということになる。

 毎週ぼくは、沢山のお便りをいただいて共に生きる喜びを様々な具合にかみしめることになるのですが、何人かの仲間は、毎週毎週かかさずにお便りを書いてくれて、そして、それは、ひとつの日記のような生活記録になっていて、あまり放送にのる機会はないのですがいつもぼくは、楽しみに読ませてもらっているのです。

 冬崎流峰君は、その中でも、とくに詳細に、彼自身の生活記録を報告してくれるひとりです。まず、ぼくは、彼のユニークな文体に興味を持ちました。それから、彼の行動力です。どこにも首を突っ込まずにはいられないのは、君によく似ているね、とディレクターの熊沢さんがいいました。

 第一志望の東北大学の受験に成功したあとで、一度、TBSを訪れてくれたことがあります。地下のレストランでカレーライスを一緒に食べたのだけれども冬崎君は、予想した通りの好青年で、この本の中で、ぼくと一緒にすごしてくれることを快諾もしてくれたのでした。p77 桝井論平「逢う」

 論平、時に30歳、流峰18歳。あれからガンジス川の水は何万リットル流れ去ったことだろう。この本が出たのが1970年5月だが、私は、この直後に、仙台にやってきた流峰と、デモ活動を通じて知り合うことになる。その時、私はまだ16歳、高校二年生。この辺の経緯は、以前、どこかに書いた。雀の森は流峰なしには語れないし、私の青春は流峰なしには語れない、ということになる。

 そして、四・二八(引用者注1969/04/28沖縄反戦デー)には、それ以前にもあったことだけど、それ以上に、大々的に1人できた高校生、入る隊列のない高校生、あるいは一般の人迄含めて、七○人位の連帯を勝ちとり、そしてまた、キドーが襲ってきて、必死に目の前をナントカ弾がトビカウ中を逃げたりもしました。

 それは非常に貴重な体験であったとともに、報道、マスコミの、インチキ、劣悪性をまさに知りました。事実をそうでないあるいは全然そうではなかったことを事実として大衆にアピールするそのヒドサに。また、僕は一段ステップさせられたと考えています。p80冬崎流峰1969/10/12「逢う」

 私はもともと深夜放送ファンでもなかったし、そもそもTBSラジオは地方では聴くことができなかった。高級ラジオを駆使すれば聞けないわけではなかっただろうが、私は部屋に作った針金アンテナのゲルマニウム・ラジオをイヤフォンで聞いていたりしたので(スピーカーはもともとない)、地元局でさえ、よく聞き取れないことがあった。

 「ぼくは深夜を解放する」。考えてみれば、不思議なタイトルである。「ぼく」という一人称はどうであろうか。いまだに70才代になっても「ぼく」を連発する文化人がいたりするが(文章の上でも)、いまだに残るその幼児性を売り物にしているようだ。この傾向は、この時代から始まったと思う。

 「深夜」とは何か。21世紀の現代において、ネット文化が当たり前となり、コンビニ社会は一日中活動している。それに対し1970年代は、商店街は日曜日はキチンと休みを取ったし、夜6時か7時にはシャッターを下ろした。勿論正月なんかみんな紅白歌合戦を見たあとは長い休みに入った。一般人は、夜9時か10時には床に入り、その代り日の出とともに朝5時か6時には活動を開始した。

 そのような時代にあって、ラジオ番組の深夜時間帯は放送されていなかった。聞く人もいなかったのである。そのような背景が大きく変わったのが1960年代後半。高度成長期を迎えるにあたって情報量が増加し始め、深夜の時間帯に注目が集まり始めた。視聴者は少なかったが、長尺ものの音楽などを悠々とかけることができた。

 そのような情報提供システムを、最初に受け入れたのが、深夜まで、時には徹夜までして勉強する受験生たちだった。受験生たちは、自宅の個室で孤独に悩みつつ勉学し、時にレコードをかけ、そして新しい音楽を流し続ける深夜ラジオに耳を傾けた。

 そのような番組を司会していた桝井論平のような人たちは、ディスクジョッキーと言われて、一躍若者たちの人気者になり、やがて、一大文化圏を形成するのである。

 さて「解放」とはなにか。「開放」でもなければ、「介抱」でもない。解き放つのである。この本においては、必ずしも、この言葉を使わなくてもよかったであろうが、造本側は、敢えて、この「解放」を選んだ。解き放つのである。鎖されていた深夜の文化圏を解き放つのである。その心意気が、すこしこのタイトルからも推測できる。もちろん、当時で言えば、新左翼的な言葉遣いとしての「解放」である。「ぼくは深夜を解放する」。再読してみると、意味あるタイトルだと思う。

 論平さんの手によって、僕のヘタな文章が電波にのりました。反響はどうでしょうか。非常に言い足りない点とかあったと思うけれど、まあ気にしないでどんどん書き続けます。

 10・10、11時前より中庭で集会(当日は体育祭)80名程度参加か。教師は何かやらかすのではというパニック状態。何か意見を求めると、体育祭中のこの集会は非合法であり、公式発言はできないという。

 出発前、デモに初参加せんとする高一を前に、個人的に、「君達は21世紀の人間であるから・・・・・」とこんこんと説諭。 p81冬崎流峰1969/10/19「逢う」

 この辺のシーンは、分からない人は分からないだろう。「いちご白書」を同時に生きていたようなものだ。この本の中で40p程にまとめられている流峰が活写するところの学園生活は、同時代のあちこちで見られた風景であろう。

 彼の同じ高校の同期生には星川淳(のちのプラブッダ)がいる。星川の高校時代もこういうものであっただろうが、星川のほうはむしろ政治的活動からスルリと抜けてスピリチュアルなほうへ一歩お先にスタートしてしまったかのようだ。その分、大人になってから「政治性」に「目覚めた」という印象を個人的に私は持っているのだが、どうだろう。

 夏、この夏は一生忘れられない夏でした。前々からヘソクッテおいた8000円を金を持って、放浪の旅に出たのです。約一ケ月、今になっては、すでに懐かしさとしてとらえられるものとなってしまったけれど。

 とにかく夏前には部活動、政治的行動その他で全く無に等しく受験勉強なんてものはしてなかった。それを学生村にいってはじめて手をつけて、以後やる気が出て、放浪中も結構がんばっていた。そもそも学生村から帰るべきところを粉砕して、軽井沢--大阪その他やたら動き回ったわけで国鉄は高いということを痛感した。青春をおうかした学生村での仲間たちよ、がんばっておるかい。

 とにかく反博でのティーチインを境に一応遠ざかっていたというわけだ。しかし夏の放浪での精神的最大の収穫は人間の社会性というものを自覚し得たことだと思っている。ちょうど一日間、知った人間に誰にも会わず、ほとんど口を開くことなしに、学校の椅子に寝ようとした時に、強烈に淋しさというか何か言い尽くし難いものを感じたのである。これは貴重な体験だったと思っている。p83冬崎流峰1969/11/03「逢う」

 この一年後の1970年と言えば、大阪万博があった年だ。高度成長のシンボル的位置に置かれたイベントであったが、反権力的な視点からは、反・大阪万博を叫ばれてもしかたない存在でもあった。この時ダダイスト糸井寛ニは、太陽の塔の前で抗議のストリーキングを行なっている。

 70年、高校二年だった私は修学旅行で、大阪万博にいくコースと、北海道一周コースと、選択できたが、反万博の意味を込めて、北海道コースを選んだ。いずれにせよ、1972年になって、雀の森をスタートするにあたって、まずは「80日間日本一周」を企画したのは流峰であって、この1969年の「放浪の旅」の延長線にあったと考えることもできる。それは、72ねんの80日間日本一周、そして74年のキャラバン「性歓隊」、75年の「星の遊行群ミルキーウェイ・キャラバン」へと繋がっていった、という見方もひとつ成立する。

 日曜の夜。友達の家が解放区になるってんで4・5人で例によって押しかけたわけです。解放区ってのは両親その他ジャマ者がいなくなった場合のことをいうわけで、仲間の間では、そういう状況発生時には押し寄せるという慣例があるわけで、その夜も例によってやたらに悪のり的に騒いだというわけです。ギターあり、何あり、ナニありというわけで想像はつくと思います。p84冬崎流峰 1969/11/09「逢う」

 まぁ、イメージ的には、この「解放区」の延長に雀の森があったと、言えないこともない。

 今では、あの火炎瓶ゲバルトは民主改革的意味からかけハナレてしまっているということはあきらかになってきている気がします。これについては来週書きたいと思いますけど、それだけを誇張するマスコミ主流派には全く絶望あるのみです。

 立ち上がった人々の意味するところの光明はいかにして実現されていくのでしょうか。この情報時代のマスコミの力を考えたとき、僕は戦慄を避けることができません。p89冬崎流峰1969/11/23

 そして、深読みすれば、非暴力、反マスメディアという思想の芽吹きが色濃く感じら得るわけで、この芽吹きがやがて雀の森にも反映され、その後、生涯をかけて、その道を歩いた流峰もまた、ひとつの生き方を貫いた、ということにはなるだろう。

 大学ってホントに何でしょうか。最近、担任と両親の面接が月曜日にあったわけで、それを前にゴタゴタとまたまた親子対立を深めているわけだったのです。要するに、特に母上は、息子への過信と、そして親族一同的観点から、いまだに東大を受けて欲しい等とわめいている。

 俺としては、受かるや否やを全く別にして、東大という問題の頂点に飛び込むのはやだ。そもそも大学というものに行く意味の重要な一つの意味として仮定した「家から離れる」ということに関しても、全くダメということなのである。

 俺としては絶対に浪人しないということを考えて、国立一期=金沢、二期=弘前の線で行きたかったのだけど、親父にいわせると「バカナ線」なんで、これも親にいわせると大妥協で東北大のせんでいく事となっております。

 大学へいったら、経済学、農業学、心理学を三本柱として、できうる限り具体的行動としての社会矛盾への抵抗をせず、自己嫌悪にならない程度に学び、大学というものを無視的に利用し勉強する。

 あくまで30才までの職ということを念頭にいれて、今、メイン候補となっているのは農業だけど、とにかく大学に入ったら、22歳以後を全く自力でやりたい。最低限、家には住まないというせんで考えている。

 家庭的に金は東京の私立か、地方の国立かというところで家をでるためには国立にうからにゃならないわけである。p93冬崎流峰1969/12/21「逢う」

 流峰の祖父は「東洋経済」編集長高橋亀吉である。であるからして経済を筆頭に持ってくるのは血筋だとして、農業学と心理学を三本柱に入れているのは、共感できる。

 特別に書ク事モナイミタイカナ! デモ、日本の詩人の中で唯一ボクの心に同化できるものを残した「立原道造」と、全作家中圧倒的にボクの心と思想に共鳴してくれた「アルベール・カミュ」この二人だけはストレスの世界とは別のところに住んでいる。

 Michizouさんなんか、サイセイなんて、ワケノワカラン奴のサイテイ野郎の弟子だなんて全然思わせない。そして詩の本来の姿であるべき、受けとる方によて決定されうるイミというものの真髄が、スゴクワカル気がするのだ。大学ナンテクソクラエ!p99冬崎流峰1970/01/25「逢う」

 流峰は自らのミニコミを「ムルソー」と名付けていた。ムルソーは、カミュ「異邦人」の主人公の名前である。

 かくかくしかじかがあって、当時の受験勉強と受験の苦しいレポートがあって、この一連の手紙は終わりとなる。その後、流峰は第一志望合格となり、仙台に見事引っ越しすることができたのだった。このプロセスがあったればこそ、やがて1972年からの「雀の森」へと繋がっていくのである。

 もうちょっと拾い読みして、もう少し深読みしたいところだが、今回はこの程度にしておく。この本、装丁は戸井十月が手掛けている。流峰の部分以外、今回は割愛するが、気付いてみれば、目次の前に、バガバッド・ギータの一文が引用されている。

 はじめの言葉

 人の心は

 揺れに揺れ

 騒いでやまず

 強情で

 ・・・・風によく似て

 始末におえぬ・・・・・・

 バアバガド・ギータ 高見順訳   巻頭言

<2>につづく

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2014/03/22

DVD 「ノルウェイの森」 原作 村上春樹


松山ケンイチ (出演), 菊地凛子 (出演), トラン・アン・ユン (監督) 2011/10 ソニー・ピクチャーズエンタテインメント DVD 134 分
Total No.3196★★★★★

 ようやく自分の番が来たようだ。待ちに待っていたわけではないが、いつかは見ないといけないだろう、と思っていた。村上春樹の作品って、どれだけ映画化されているが知らないが、やはり、この小説が映画化されなければならない代表作であるだろう。年代は1969年、映画「いちご白書」の時代設定は1968年、ほとんど日米同時代と言える。

 なんだか、素面で見るような映画でもないが、まさか焼酎を飲みながら見るのも、ちょっと、違う気がする。ビールでもないな。そういえば、先日酒屋でもらった試供品のリキュール35度のミニボトルがあった。封を切って、氷を入れたお猪口に注いだ。

  これで酔えるわけはないが、何もしないよりはましかも。35度のリキュールを飲んだなんて、たぶん、初めてか、あるいは何十年か前に、あったかどうか。あまりに、甘すぎる。シロップを舐めているようだ。喉がチクチクする砂糖菓子のよう。金平糖のようだ。

 リキュール 試供品 食品添加物:香料 アルコール分:35度 容量:50ml 原産国:アメリカ合衆国 続いて、輸入者及取引先、東京の会社名が書いてある。傍らで一緒に見ていた、奥さんが、この映画、全然昭和の雰囲気ないね、という。現代の韓流映画を見ているようだ、という。うん、私もそうだと思う。

 このところ、っていうか、私たちは以前から、本当は、韓流ドラマは好きではない。だから、韓流ドラマ、といっただけで、二人の間では、この映画のレイティングが大体決まってしまう。それでも、お互い、画面から目を放すことはない。

 小説を映画化することは容易なことではないだろう。この映画、原作のストーリーなんかよく覚えていないが、でも、映画を見ている限り、あの雰囲気をうまく出せているんじゃないか。

 リキュールのストレートはいくらなんでも甘すぎるので、黒焼酎25度で割る。おいしいのかどうかなんて、私にはよく分からない。酒の味もよく分からないまま、大人になって、まもなく死んでしまう。結局、酒の味なんか、楽しめない人生だった。テーマになってるビートルズだって、ほんとうに分かったかどうか。

 この映画、ソフトポルノって位置付けでみたらいいのかな。村上春樹をそのように見ている読者も多いらしい。特に女子に。「ノルウェイの森」って、一人自閉的に読む小説なのかな。二人でDVDで見る映画なのかな。どちらもありか。

 風の吹いているシーン、山の中で、二人で座っている。この風が吹くシーンの撮影、以前、撮影風景をテレビでやってたね。うん。いよいよアレだな。ってなに。

 お猪口に更に焼酎を継ぎ足すと、だんだん甘さがすくなくなってきた。胃にこたえる。たばこを吸うシーンが出てくる。たばこの臭いは、この映画に似合うかもな。でも、たばこはもう吸ってない何年も。やめたのは、もう何十年も前だ。

 あっと言う間に半分過ぎた。そして、もうすこし過ぎた。ああ、この調子で、最後まで行くのかな。行くんだっけかな。本当は、このDVD見る前、とても眠かった。最後まで見ないで眠ってしまうかも。その時は、明日もういっかい見るね、と言っておいたが、結局、眠らないで、最後まで行きそう。

 アルコールを入れたから、ますます眠くなるかと思ったが、結局、むしろ目が冴えてきた。どうしてかな。どうしてって、どういうことなのかな。あなたのことが好きだからよ。この映画、時代設定は1969年だけど、小説が発表されたのは1987年。映画化されたのは2010年か。

 時代背景はともかく、もう、これは時代はあってないようなもの。あるのは、登場人物の世界だけ。とくに、内面が、独白の部分が多くある。どら焼きでも食べようか。いやいや、それはただ目にはいったから、いっただけ。それでは甘すぎる。しょっぱいもの食べたい。煎餅? やっぱりそれはこの映画には似合わないね。漬物でもないし、なにかチーズかなにかな。

 あと30分、この映画をがまんできるだろうか。いちおう、これだけ見ておけば、この映画、見たって言えるだろう。全部見なくたっていい。あなたはあなたの人生を生きるべきよ。私になんで関わるの。あなた、自分に嘘ついている、と、思わないの。

 おそらく、たぶん、きっと、この映画は面白いと思う。結局最後までみることになるのだろう。たぶん、思うけど、この映画って、あんまり経費かけてないよな。山と人物の風景で、ずっと繋いでる。雪のシーンとかきれいだけどね。

 きっとこの映画、大画面で見たらきれいかも。うちの小さな40インチだかの小さな画面では、この程度なのかも。もっともっときめ細かに見るべきかもな。酒もさ、もっとピタってあうものあるのかも。

 ああ、いやだなぁ。若いって、いやだな。もう戻りたくない。ファンタジックで、リアリティがあって、原寸大だ。もちろん、チャンバラはない。淡々と、ノーマルな時間の運び。この世に、ノルウェイの森っていう小説があって、ノルウェイの森って映画がある、ってことは一応確認した。これって、やはり、名作かな。つっけんどんな、僕にも、少しづつ入ってくる。

 もう9時だよ、一旦DVD止めて、テレビ見るの。いやいや、最後まで見るよ。もういちど、この映画見る気ないでしょ。テレビのほうは、途中から見たっていいよ。若い人たちの感傷だな。誰にも、こういう若い感傷あるよね。だから、みんなに受けるんじゃない。って、誰もがみんな一度は若かったんだし。

 おれ、若い時、紀伊半島の先端で、一晩海岸で寝た時、こんな感じだったな。18だった。あんとき、幽霊がでたんだ。怖くない幽霊。話をした。会話はきちんと成立したんだよな。熊野の神様だと思うよ。あの時、あんだけ絶望しなかったら、サニヤシンになんか、なるわけないよな。

 私がいたことを、いつまでも忘れないでほしいの。私がこうして存在していたことを、いつまでも覚えておいて欲しいの。どうかな。結局、忘れることなんかできなかった。 でさ、韓国の監督が撮影して、日本語映画になってるけど、これって、韓国語にできなかったのかな。思いっきり、韓流映画にしてしまったほうが、よかったかも。

 もう戻りたくないね、あの時代。もう、戻れるわけないよね。すべての意味において。公衆電話と黒電話だけが昭和。なにもかにもが、現代であり、時代を超えている。いまどこにいるの。わからない、どこにいるんだろう。暗転。

 まぁ、こんなもんだろうね。入れ込んで読んでないからだけど、大体こんなもんだろうね。そうかなぁ、こんなものかなあ。この映画、性に対するコンプレックスで始まって、最後までそのまま行くよね。小説では、もっと別なシーンがいっぱいあったよね。中学生の春休みの読書課題にするような小説を映画化したなんて、思えないよね。

 あのエリートだってさ、恋人に自殺されて、初めて自分がやった間違いを後悔するわけでしょ。そういうとこが、でてないよね。寮の友人が、伸びきったビートルのテープを聞いていたりする、あのシーン、好きだったのに、でてこなかったよ。

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2014/03/20

3月20日 今日も元気

本日未明、一部友人間に私の訃報が流れたようですが、お陰様で、私は、至って元気です。(本人)  *\(^o^)/*


  4月1日にはまだ半月あるのにな、

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2014/03/18

今日の気分はこの3冊<3> スナイダー、ギンズバーグ、ナナオ

<2>からつづく

今日の気分はこの3冊<3> スナイダー、ギンズバーグ、ナナオ

 別に読む気もないのに、本ばかり並べてどうするんだろう。いえいえ、調子よくなったら、読むかもしれないじゃないか。イメージだけでも並べておけば、いつかはバリバリ完全読破、ってタイミングも来るかもよ。

 それにしても、3冊並べる必要ないじゃないか。 1冊で十分じゃないの。いえいえ、1冊だけなら、いつもやっていることと同じことになる。むしろ、3冊並べてみて、そのトリニティの真ん中にある空間にこそ、意味があるんだ。

 つまりだね、突然始まってしまったこのシリーズだが、つまりは、いつかは読んでみたい、憧れの本たち、シリーズではないのだ。むしろ、ぷんぷん批判的。ネガティブ・リーディングなのだよ。こんな本なんか、今日は読んでいられるかよ、っていうのが本音なのだ。

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ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書 富山英俊 「現代詩手帖」 1996/03

 スナイダーはかっこいいから好きなんだけど、どうも3・11後の「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」って奴が気に食わない。おいおい、3・11後に、「世界遺産」平泉に行って、「宮沢賢治記念館」にいって館長と会って、松島に行って芭蕉を偲ぶって、ある意味、全然かっこよくない。天下のスナイダーが、いまさらそんなことしてんのかよ。

 と、気分はかなりヤケクソである。これはちょっと言いすぎかな。松岡正剛の「3・11を読む」も、ある意味カッコ悪い一冊である。なんだ、なんだ、その程度かよ。いまさら東北学でもあるまい。なんでやねん、とイッチャモンをつけたくなる。

 しかし、よくよく考えてみれば、これは私が彼らにいままでずっと憧れてきたから起こった気分なのだと思う。彼らとて、一個人を超えた、とてつもない現象のただなかに立たされているのだ。むしろ、その率直な、素直な表現をよし、とすべきなのだ。3・11の前では、みんな茫然とするのが当たり前なのだ。まるでカッコよくないことが、割とカッコ良かったりする。

ななおさかきの地球B 「現代詩手帖」2010/10

  ナナオ三省も、ポンも、みんな死んじゃったね。この人たち、3・11を知らずに死んでいって、幸せだったのかも。だけど、この人たち戦前生まれだから、みんなあの第二次世界大戦という奴を知っている。あるいみ、人災という意味では、原発事故に引けを取らない、悲惨な状況があったわけだよ。

 戦後生まれのわれわれが、ハッピーな気分で高度成長時代を謳歌したけれど、まぁ、最後は3・11を体験するのも、「悪くない」。彼らばっかりに、悲惨な時代を背負わせる必要もなかろう。この悲惨さを、悲惨と受け止めて、ここから歩き始めるしかないだろう。

 何をもってきても、埋めきれない穴、って奴がある。誰を持ってしても、解決しない問題はある。だれかに解決策を期待して、リードしてくれ、解決してくれ、って願っているばかりではダメだね。自らが考え、自らが歩き、自らが解決していくしかないのだ。そう言った意味において、みんなカッコ悪くなってくれたほうが、いいのかもしれない。

「アメリカ現代詩の愛語」ースナイダー/ギンズバーグ/スティーヴンズ
田中 泰賢

 この本も面白かった。すでに15年前の本だが、読んだのは3・11の後。雑多なスナイダー本、あるいは賢治本の一冊として読んだ。タイトルにあるように、スナイダーやギンズバーグなどのアメリカ「現代詩」を論ずる一冊である。とにかく、意味ある一冊だったので、あとで読もうとおもって、「つづく」としておいたが、いまだに再読ならず。今回、この機会を捉えて、再読がスタートするだろうか。

 でもな、と思う。現代詩や、「詩人」、ってのは一体何なんだ、と、ちょっと突っかかってしまう。三省も、スナイダーも、たぶんギンズバーグも、ナナオも、みんな「詩人」を自称する。詩人であれば、何か許されるのか。詩人という場に退却することによって、自らは前線から見を引いているのではあるまいね。

 とかなんとか、あることないこと、いろいろ言ってみる。私は詩など書かないし、詩人なんて自称できるはずもないし、そして、本当は、詩人になんて憧れたりはしない。詩に一生をかけたりしない。詩を書くことで、詩人であることで、何かが許されたり、猶予されたりするとは思わない。この人たち、どっかで人生あやまったんじゃないか、とさえ、言っておこう。(ついでにとは、あまりにヒドイが・・・)

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 いつもいつも、こんな日ばかりでもないだろう。だけど、今日は、こんな気分なんだな。それはそれとしてメモしておこう。

<4>につづく

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2014/03/17

「アティーシャの知恵の書(上)」The Book of Wisdom, Vol 1  OSHO<3>

<2>からつづく

「アティーシャの知恵の書」(上) The Book of Wisdom, Vol 1チベットの覚者を語る<3>
OSHO/スワミ・ボーディ・デヴァヤナ 2012/03 市民出版社 590p

 この本は、1979年に語られた講話が元になっている。すでに35年前の出来事で、上巻下巻合わせて28日間にわたる講話である。

 チベットへ仏教を伝えたインドの聖者アティーシャの経文が用いられているが、経文の解説が行なわれているのはその4分の1でしかない。1日解説があり、つづく3日は講話に参加している聴衆であるサニヤシンや来訪者たちからの質問に答えるQ&Aとなるサイクルが繰り返される。

 アティーシャの経文が示す、シンプルにして深い真髄である仏教世界はともかくとして、Q&Aは、1979年当時の雰囲気を反映して、「サニヤス」についてのやりとりが多くを占めている。ある意味、ちょっとアナクロである。

 サニヤスとはなにか、サニヤシンとはなにか、については他書に譲るが、いずれにせよ、この場においては、Oshoが言いだしたものであり、Osho独特のサニヤスがネオ・サニヤスと名づけられている。

 1979年当時のOshoネオ・サニヤスの意味しているところは、外見的には、Oshoにつけてもらった新しい名前を使い、身につける衣類はすべてオレンジ色にし、その上から常時、Oshoの写真のついた数珠を首にかける、というものだった。

 最近Oshoの読書になった人、特にこの本を始めて手にとった人には、その持っている意味がよく読みとれないことがあるだろう。当時の雰囲気をそれなりに現場で知っている自分としては、ここはどんな風に「誤解」されるだろうな、といぶかりながら読み進めることになる。

 逆に考えると、今あらためて当時のサニヤスを考えるというアナクロ読書は、自分にとってはそれほど益のないことのように思い、Q&Aの部分を飛ばして、アティーシャの経文についての講話の部分だけ読んで行ったほうがいいのではないか、と思ったりする。そういう読み方も確かにあるに違いない。

 さて、この所、アントニオ・ネグリ「マルチチュード」 について考えていた。1933年イタリア生まれの新左翼革命家ネグリは、さまざまな「闘争」を経て、収監されたり、フランスに亡命したりしながら、その学説を深めてきた。

 アメリカの若手学者マイケル・ハートとのコラボレーションで進めてきた2000年前後からのワーク、「<帝国>」「マルチチュード」「コモン・ウェルネス」など、一連の著作は、ソ連崩壊の後の社会主義低落傾向にあって、マルクス主義者たちの精神的な支柱ともなってきた。

 老齢のネグリを補完するかのような、1960年生まれの若いマイケル・ハートのIT的感覚が、インターネットを通じて広がるグローバリゼーションと相まって、奇妙な世界観を生み出し、多くの読者を獲得、話題を呼んできた。

 当ブログでは、もともとのネグリの読者ではなかったが、当ブログがスタート時点からは、積極的にその痕跡を追ってきた。とくに、日本で発売された著書については、ひととおりメモしてきたつもりである。ただ、その内容についての理解が深まっているか、と言えば別次元の話である。そして、それが当ブログのナビゲーションになるかと問われれば、もうそれは違う、と断定するところまで到達した。

 そのことの象徴的な差異は、ネグリいうところの「マルチチュード」と、Oshoがこの「知恵の書」でいうところの「サニヤシン」との在り方の違いに、大きく見てとれることになる。一般的には、このような比較がされることはないだろうが、自らの道を歩く者にとって益することもあるだろうから、より端的に対比させておく。

 マルチチュードとは、マルクスが考案した資本家階級に対抗する労働者階級プロレタリアートの後継概念である。その語源は、ホッブズやスピノザに語源を借りているが、21世紀的に使われる場合は、ネグリ&ハートの独自の概念と捉えて間違いない。

 マルチチュードとは、日本語では群衆と訳される言葉であるが、そこにネグリたちは深い意味を込める。各地で反乱をおこすマルチチュードは、そのネットワークを通じて、センターのない共同性コモンを生み出し、グローバルな支配システムである<帝国>に対峙する。

 マルチチュードが真に力を持つとするなら、三つのことが必須となる。憲法であり、貨幣であり、武器である。細かいことについては他のメモに譲る。いずれにせよ、ネグリが語っているのは革命であり、その革命主体としてマルチチュードが、世界同時的に立ち上がるかも知れない、という期待感に満ち満ちている。

 これをすでに80歳を超えた老革命家の最後の夢と捉えることもできるし、いまだにマルクス主義者たらんとする勢力の、最後のあがきと見ることもできる。あるいは、まったく新しい世界を切り開く、画期的な勢力足り得る、と見ることもできないわけではない。

 当ブログは、その三番目の見方を採用して追っかけてきたわけだが、ここにきてその期待は急ダウンしている。それは特に3・11以後のネットワークの在り方に、そのマルチチュード的視点を借りて捉えようとしてきたわけだが、それは、たんに思い付きにすぎないだろう、という結論に達した。

 対してOshoサニヤスも、キチンと整理された概念でもなく、キチンと時代順にレポートされてきたものでもない。場合によっては、そのシステムはすでに廃止されたものである、と解釈されても、なんら問題はない。すくなくとも外的には、そのシステムはかなりの変容を遂げている。

 しかしながら、わが身にこの二つの概念を引き寄せて再考する時、私は、マルチチュードではないが、Oshoサニヤシンである、と強く自覚するのは、なにゆえであろうか。

 そもそも、私はマルチチュード(群衆)である、と自称することに、どのような意味があるだろう。そもそも、私は、個でありつつも、多くの中の一人であり、常に他の者たちとのつながりの中にあり、そのつながりのなかでしか生きていない、あるいは、仮想的にも、つながっていると規定しなければ、存在しないものである、と宣言することに、どれだけの意味があるだろうか。

 これは、私はプロレタリアートである、と自覚することと比べると、極めて貧弱な概念のように思える。プロレタリアートを自覚する運動家や革命家は多いだろうが、マルチチュードを自覚する個人は、限りなく少ないに違いない。それは、解説者が、他者や、ある事象に向けて張るレッテルにすぎないのではないか。

 そして、マルチチュードの反逆性は、センターのないコモンな動きだとするにせよ、その目的とするところは、以前としてマルクス主導の政治的物理的目的達成にあり、大きくは、現代版マルクス主義と言っても、なんら大きな間違いはない。

 見えているのは<帝国>であり、それは、ひとつの思想や国家、民族を超えたグローバル単位に成長してしまっているとしても、結局は、マルチチュードが対峙すべきは<帝国>なのであり、それを打破することこそが、マルチチュードの本来の存在意義である、ということになってしまう。

 それが可能かどうかはともかく、このような図式を仮にも作ってしまうことに、当ブログは最初の最初から、最後の最後まで、当惑し続けてきた。

 それに比較するところのOshoサニヤシン(今後サニヤシンと表記)とはなんであろうか。この際、本来抱えている瑕疵を後回しにして、マルチチュードとの差異となる長所となるであろう特徴を拾ってみる。

 まず、サニヤシンは、群衆ではない。個的な決意である。マルチチュードは、個的な決意のないまま、他者からそう呼ばれ、そう定義づけられることをよしとし、その曖昧な存在を甘受する。まず、ここが大きく違うだろう。

 マルチチュードは<帝国>に対峙する。それに比すれば、サニヤシンは、自らの無意識を含む、全体的な集合的無意識に対峙する。それは、具体的な<帝国>に比較しようもないほど、茫漠とした目に見えない世界の事象である。

 群衆が、私は、今、群衆のひとりである、と自覚することなどあるだろうか。自らは個でありながら、結果的には群衆の中に入っていたという、後付け感覚であろう。もし、そこに、本当の意味の自覚があるなら、それはもう群衆ではない。周りと、それほど違いがないような行動パターンであったとしても、それは、もうすでに群衆ではなく、立派な個である。

 当然、ここでネグリ&ハートは、そのことを理解した上で、シンギュラリティという概念を持ち出す。その語幹はシングルである。個である特異性を持ちながら、コモンとして共的な存在をする、というのが、彼らの思うマルチチュードである。

 ここまでくると、すでにもともと持っていたホッブズやスピノザのいうところのマルチチュードから離れて、ネグリ独特のマルチチュード、冷笑的に名づけてしまえば、「ネグリ」チュードともいうべき存在になってしまう。

 そういう意味においては、結果的に私は「ネグリ」チュードの一人であることは、積極的な意味において拒否する。ネグリが作った世界観の中の、一つの駒として動くことは窮屈である。人間本来、もっと自由であるべきである。

 しかるにOshoサニヤシンは、誰からかそう呼ばれたり、そう名づけられたりするシステムではない。自らが自らにする宣言である。私は、自由な、真理の探究者であると。すくなくとも、この講話のあった1979年当時はいざ知らず、2014年の現在において、サニヤシンとは、個的自覚以外の、何ものでもない。

 オレンジ色の衣服も、Oshoの写真のついた数珠を身につけることも、システムとしてはすでに廃止された。明確な形で廃止されてからもすでに30年近く経過している。だから、35年前に行なわれたこの本の講話には、現在の読者にはふさわしくない表現が多くある。誤解が誤解を生みだす可能性はある。

 しかし、他書と併読しつつ、あるいは瞑想をしつつ、サニヤシンという意味を深く探っていくなら、Oshoが差し出したネオ・サニヤスという概念が、いかに革命的であるかが、次第に理解できるだろう。ここでいうところの革命は、ネグリ的センスでの革命ではない。Oshoが多く採用するのは、反逆、である。

 比較思想学的に、ネグリとOshoを並べることは意味がないだろう。少なくとも、そのやり方はネグリ側にあり、Oshoはそのやり方を諒とはしないだろう。そもそも、Oshoは知性や科学を称揚しながらも、学には落ちない。学を越えていく。それは、具体的なこの自分が生きる、道、でなければならない。

 ネグリがシンギュラリティといい、Oshoがインデビジュアリティという時、互いにそれぞれのアルファベットを使っているために、完全な水平状態で比較することはできない。その関連から類推していった場合、両者は、この二つの言葉で、限りなく似たようなことを話しているのだが、明らかに、図地反転のような、全く別な図柄を見ているようである。

 なぜなら、ネグリチュードはコモンとして<帝国>に対峙するのに対し、Oshoサニヤシンは、個として、集合無意識に明かりをもたらそうとしているからである。サニヤシンが打破すべき集合無意識というものはない。そもそもないのである。そこに個の覚醒、個の明かりがもたらされれば、本来、無意識も、集合的無意識もないのである。

 サニヤシンであるという自覚は、「ネグリ」チュードであるというスティグマや、三省やスナイダーがするところの詩人であるという宣言、あるいは中沢新一的「緑の党なようなもの」に入党する、というのとは、本来的に、次元を異にする。

 この人生において、自らの無意識に光をもたらす、という宣言に比べ、ネグリチュードが<帝国>に対峙するコモンとして革命を成就する、という宣言は、あまりにも無益であるように、今の私には思える。

 翻って、この「アティーシャの知恵の書」に戻る時、読者が他の誰であろうと、私が私のためにする読書であるとするならば、あらゆる修正を繰り返しながらも、そもそも持っている本質を突き止めてみれば、私はサニヤシンである、という更なる自覚を強烈に促してくる、パンチ力ある一冊である。

 まだ28日分ある講話のうちの7日分にさしかかったところだ。完読するのは、いつのことになるやら。そも、Oshoの本においては、実は、完読すること、それ自体に、本来の意味はない。私が、サニヤシンである、という自覚。そして、サニヤシンというのは、最後の無意識の象徴であった、という更なる自覚が起これば、その時点で読書の全てが成就するはずである。

つづく

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2014/03/16

今日の気分はこの3冊<2> ネグリ、スナイダー、中沢新一

<1>からつづく

今日の気分はこの3冊<2> ネグリ、スナイダー、中沢新一

 当ブログは意識して雑誌類を避けてきたわけではないが、読書メモとしては単行本が中心になる。しかし、どうしても雑誌でないと読めないような内容もあり、その部分は必読ってことも多い。そして分量は、お手軽に読み切れる新書程度がいいのだが、雑誌の記事は、少し読み足らない場合も多い。

 痛し痒しの雑誌類であるが、今回、「現代思想」ネグリ特集をパラパラしながら、そういえば、似たような本が、これまでもあることはあったなぁ、と思い出した。

 この三人には、もちろん、それぞれに期待感もあった。だけど、今は失望した、というのが共通点である。ここに三冊並べたからと言って、いまさら精読するわけでもないけど、なんとくなく、並べてみた。

333

 

1)特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス「現代思想」 2013年7月号

 結局のところ、ネグリが自らをマルクス「主義者」と言ってしまうとき、一読者としては、そこで糸が切れてしまう。 世の中にさまざまな主義者がいていいわけだが、その自己規定は、自らの立場を明確にする、という意味では良心的ではあるが、自らの可能性をそこに閉じ込めてしまうわけで、他者から見た場合、とらえやすくもあるが、また、決定的な距離観を持ってしまうことにもなる。

 であるなら、ネグリがどうした、というより、そのマルクスそのものが問われることになるが、おおよそマルクスについては、当ブログとしては結論がでてしまっている。逆に考えると、ネグリを云々する支持者たちは、ネグリがいうところのマルチチュード云々ではなくて、マルクス「主義者」でいたいがために、ネグリを支持しているのではないか。

 その証拠に、私こそマルチチュードだ、という明確な宣言がない。ネグリが、彼らこそマルチチュードだ、とラブコールを送っても、当人たちは別段に、マルチチュード、という旗印が欲しいわけではない。この雑誌に投稿しているような人々も、かなりな哲学的な学者が多いが、結局、それではキミがマルチチュードなの、と問われて、ハイ、と答える人はすくなそうだ。ネグリ自身、マルチチュードではないだろう。

2)ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン 「現代詩手帖」 2012年7月号

 バイオリージョンという言葉をネグリは地政学として捉え、EUや東アジアなどという地域国家的捉え方をするが、スナイダーにおいてのバイオリージョンは、ひとつの河の流域全体のエコロジーを考えるような、地域環境学である。必ずしも、自然的な地形ばかりではなく、機能としての都市については、アーバン・バイオリージョンという視点を提示し、街全体、地域全体のエコロジーを示唆する。

 スナイダーは、当ブログでも、もっともインスピレーションを受けてきた現代詩人である。そのイメージは、どこか宮沢賢治にも重なるところがあって、3・11を前にした時、限りない脱力感の中で、何事かの精神的支援を期待したのは当然のことであった。今後も期待するだろう。

 しかし、3・11の半年後に来日したスナイダーについてのレポートは、その期待に答えてはくれなかった。いろいろな事情があることは分かる。この来日は以前から企画されていたものだし、そもそも詩人たちの集まりでの講演が主であった。しかし、それにしても、その後の被災地訪問のレポートを読む限り、被災地バイオリージョンを考える被災民たちに、新たなるインスピレーションを与えることはなかった。

3)エコロジーの大転換 中沢新一 管啓次郎 現代思想 2011月11号 特集=ポスト3・11のエコロジー

 中沢新一は、現代日本でも、もっとも有名な学者の一人だ。さまざまな形で当ブログとも浅からぬ縁がある。理解したかどうかはともかくとして、その著書はほぼ手にとって開いてみてきた。しかし、すでに3・11以前において、当ブログとしては、ある意味すでに終わった学者であり、新たな期待はできないだろう、という結論に達していた。

 ところが、3・11後において、ヘラヘラ態度で再登場した著者は、日本において「緑の党みたいなもの」が必要であるとして、自らそのうごめきに関わっていこうという姿勢が見せた。当ブログとしては、その姿勢やよし、と新たなる期待をもったのは確かだった。すくなくとも、復帰のチャンスを与えれてやろうじゃないか、と思った。

 しかしながら、結局この人物はやっぱり口舌の徒である、ということが次第に分かってきた。緑の党みたいなもの、は3・11後において、大きな動きとなって日本社会に登場した。それはあたかもネグリいうところの、日本のマルチチュードということができるものではあった。しかし、そこに深くかかわる中沢の姿はなかった。

ーーーー

 結局、この三冊は、失望の書である。それは、安易に他者に依存して、甘い夢を見るような生き方をすべきではない、という啓蒙の、反面教師の書でもある。

<3>につづく

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UTREAM 「日本におけるアントニオ・ネグリとの対話」×姜尚中 (対談)2013年4月12日(金)

「日本におけるアントニオ・ネグリとの対話」
2013年4月12日(金)午後2時~午後5時
プログラム
第一部:アントニオ・ネグリ講演
第二部:アントニオ・ネグリ×姜尚中 (対談)
配信用語
L(左)日本語(ネグリさんの話は同時通訳)
R(右)会場音(ネグリさんの話はフランス語)
※RとLで音声が異なります。ヘッドフォンでの視聴を推奨します。Total No.3196★★★★★

 2013/04、ネグリが来日したときのビディオがUTREAMで見ることができる。ありがたい時代だと思う。「現代思想」 2013年7月号 特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス をメモしたところ、シンポジウムのビディオが見ることができることがわかり、こちらの姜尚中との対談もネットで見ることができることがわかった。ありがたいことだ。

 本やビディオで全てが分かるとはとても思わないが、それでも、何らかのきっかけにはなるだろう。「<帝国>」「マルチチュード」で始まった当ブログのネグリ+ハート追っかけではあるが、ここにきて、かなり煮詰まってきたと言える。

 今回一連のビディオを見ていて、わかったことは、インディビジュアリティと、シンギュラリティについてのネグリの言葉の使い方。インディビジュアルとは、日本では「自立」「独立」と捉えられるところからみると、全体がありながら、そこから「個」としての自覚を強く持つ、ということである。

 それに対して、ネグリは、インディビジュアルを、個への撤退、自閉、と強く捉えているようだ、ということが分かった。それに対するネグリのシンギュラリティは、やはりその語感から推測していたとおり、シングルが語幹となっている。

 シングルはコモンを求める、という文脈だが、それは当然そうならざるを得ないだろう。ネグリがいうところのコモンは、コミューンを連想させるところも面白い。

 整理すると、ネグリがどう言おうと、人間個人は全体から離れて、別個なものとして存在できるわけではないし、全体は私という個を含めて全体なのである。独自の用語をどんどんつくることによって、独自性を出そうとしているようでもあるが、よくよく聞いてみると、それほど、独自とは思えない。

 ネグリに具体的な解決策を求めないでくれ、という。マルチチュードにユートピアを見ないでくれ、という。大きな流れの中の未来への足がかりにしてくれという。日本は日本で、独自の解決策を考えてくれ、見つけてくれ、という。

 あえて、ネグリやマルチチュードという概念に、彼独自の<シンギュラリティ>を認めないことはないが、そして、彼が手を差し伸べようとする<コモン>に好意的なものを感じないわけではないが、彼のほうからも、私が見え、私の<シンギュラリティ>が見えることを期待したい。

 対談している姜尚中について当ブログが読んだのは、「姜尚中の政治学入門」「デモクラシーの冒険」くらいだが、別段そこからは追っかけにはならなかった。気にならないわけではないが、「スマート」な姜尚中には、それ以上、引っかかっていくつもりはない。

 だけど、これがちょっと曲者かもしれない。上野千鶴子がいみじくも、マルチチュードは男だけの世界なのか、と問う時、ネグリのあの独特の<シンギュラリティ>が、姜尚中のスマートさによって、うまく薄まり、バランスが取れているように思える。

 マダム殺しの姜尚中の雰囲気が、マルチチュード・オタクの男子臭をうまく消してくれているようでもある。姜尚中、いくつかの話題作もある。いつか、追っかけが始まるかもな。

 とにかく、ネグリが自称するように、スピノザ原理主義でありながら、マルクスの後継者である限り、当ブログが自らを深化していく過程で、どうしても、その中に互いのシンギュラリティを見つけざるを得ないことになろう。

 そして、それはネグリがいうところの<コモン>の否定にはならない。むしろ、そこに距離が存在するからこその<コモン>であり、<コモン>のひろがりであり、<コモン>の可能性であろう。

Video streaming by Ustream

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2014/03/15

「現代思想」 2013年7月号 特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス<1>

特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス <1>
「現代思想」 2013年7月号、A・ネグリ、 M・ハート、 D・ハーヴェイ、上野千鶴子 他青土社 2013/06 青土社 雑誌 p246
Total No.3195★★★★★

 偶然に図書館で、この雑誌を見つけることによって、ネグリがすでに、昨年2013年の4月6日に来日してシンポジウムが開催されていたことを知った。私はそれなりに情報をオープンな状態で知り得る入口を作っていたと思っていたが、そうではなかった。

 このことは、私にとっては、ちょっとショックだった。2008/0311にネグリ来日 の情報が流れた時には、心が湧きたったものだったが、結局来日はしなかった。あの頃は、むしろ、私の気持ちはそうとうにネグリのほうに動いていた。

 今回、ネグリが来日したことを不覚にも一年間も知らないでいたことに、私は次第にネグリから離れていたことと、SNSを中心として情報をそれなりに入れていたのに、私の目にとまらなかったということは、私のネット情報リテラシーが、どこか、偏り始めていたのではないか、というショックを感じたわけである。

 今回は、たまたまこの雑誌に触れたところ、SNSつながりでNiket Premさんから、ネグリ来日の時の講演のビデオがあることを教えていただいた。ありがたい。いやはや、ありがたい。このような環境を作ってくれていることに、関係各位に心から感謝する。

 雑誌のほうは、例によって、かなりな言葉使いなので、ちょっとすぐに通読する、ということはできない。あちこち拾い読みするのがせいぜいなのではないか。かなりな分量である。

 それに比すると、ビデオは見やすい。ここにも三時間あまりのビデオが貼り付けてあったが、逆にいえば、三時間で、大体のことが解ってしまうのだとすれば、これはとても便利ですばらしいと思う。

 特に下記に登場する上野千鶴子パネラーは、その発言が雑誌でも取り上げられていて「日本のマルチチュード」として掲載されている。ビデオで講演をみながら、雑誌の文字を追っかけるという作業をした。そもそもが上野氏の講演内容が、抽象的ではなくて、具象性に富んだ問題提起だったので、とても共感できた。

 かなりな長時間のビディオだったので、いろいろ新しく知り得たことや、思ったこと、感じたことはたくさんあったが、基本的には、この5年ほどで当ブログなりに持ち得てきたネグリ+ハート観は、ほとんど変わらないかった。むしろその見かたが深まった、と言える。

 つまり、反ネグリ、という意味ではないが、当ブログは、ネグリ+ハートを「批判的」に見ている。ネグリたちが提示する「マルチチュード」概念は、極めて魅力的であり、他に並び立つ概念が少ない2014年の状況の中では、注目すべきことは当然ではあるが、共=<コモン>に対する考えかたは、かなり違っている。

 彼らネグリやその支持者たちの「閉鎖的な個に解体されてはいけない」という<コモン>重視の姿勢に対して、私などは、個的な瞑想空間に入ろうとする訳だから、どこか、大きくポイントがずれていることは間違いない。

 このビディオも、特にネグリの部分は、また見ることになるだろう。何回か見直さないと、理解できないことが多い。まさに、そのこと自体が興味深いのであり、そのこと自体が、彼らと当ブログとの距離を示している。まずは、そのことを諒としながら、彼らとの相対間の中で、自らの位置を測っていくことも悪くない、と思う。

「ネグリ氏初講演~マルチチュードと権力:3.11以降の世界」 2013/04/06

 

 

 

<2>につづく

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新通貨ビットコインの正体 ビットコインの可能性「Newsweek (ニューズウィーク日本版)」 2014/02/25 <2>

<1>からつづく


「ビットコインの可能性」 <2>
「Newsweek (ニューズウィーク日本版) 」2014年 2/25号 阪急コミュニケーションズ; 週刊版 (2014/2/18) 言語: 日本語 2014/2/18 [雑誌]
★★★☆☆ 

 ネット社会での話題の移ろいは早い。東京都知事選はすでにおわり、すでに大阪市長選に視点は移行し、サムラゴーチンの偽作曲家の話題が沸騰したかと思えば、似たような話題になるか、オボカタさんのSTAP細胞騒動が、毎日報道されている。

 こちらのビットコインの話題もいきなり沸騰したものの、どこかすぐ消え去っていくようでもある。前回この雑誌をメモしたのは2/20だったが、すぐその直後からマスメディアの餌食となり、それ、っとばかり調べてみるのだが、情報量の絶対量は少ない。

 ビットコインについて書いてある泡沫ネット情報はともかくとして、紙ベースで提供されている情報はどれだけあるだろうか。「初めてのビットコイン」、「500円でわかるビットコイン」、「サルでもわかるビットコイン」、「今さら人に聞けないビットコイン」、「ビットコイン正式ガイド」、「80歳から始めるビッドコイン」、「ビットコイン完全征服」、「ビットコインスターターガイド」、「やさしいビットコイン入門」、「ビットコインでラクラク生活」、「ビットコインの儲け方」、「ビッドコイン成功マニュアル」、「超カンタン!ビットコイン」、「ビットコイン完全攻略マニュアル」、「ビットコイン・マガジン」などなどが、ふ~~~、もはや出ているのではなかろうか、と、検索してみた。

 だけど、まだ、どうやらなさそうだな。紙ベースでの日本におけるビットコイン情報のまとまったものは、この雑誌の特集ぐらいだ。情報を共有し確認できるものとすれば、この雑誌が唯一と言っていいだろう、今のところ。

革命的発明か、それとも単なるバブルか

注目の「新通貨」の仕組みとリスクを徹底解説  カバータイトル

 ビットコインについて以前よりネット上でリークしつづけてきてくれたネットつながりの友人は数人いる。しかし、当ブログとしては、まったく関心を持てずにいた。彼らはネット上の猛者である。なんでも新しい情報に詳しい。そもそもそういう情報ソースを持っているのだろうが、根っから好きなのだろう。IT情報も、新しいものも。

 私はこれまで、いくつかの新しいものに飛びついて、成功した時もあったし、失敗した時もあった。明確に失敗した、とまでは思わないまでも、なんら益のないことに振り回されたことが、何度もある。思えば、ITとの付き合いは30年にもなるだろう。

1)もっとも最初はプログラマブル電卓を購入した1980年頃に始まる。BASIC言語でプログラムを入れて、多少大きめの液晶で、ちいさなゲームを組むことができた。できた、というだけで、一体あの10万円もする「電卓」で、どれほどのことができただろうか。

2)1982年頃、グループの通信紙を作ろうと和文タイプライターを買ったことがあった。活字を一個一個拾って紙に物理的に印字していくスタイルであるが、それも110万円くらいした。その当時、ワープロを買えばいいのに、と笑われたが、当時でも50万円と80万円とかした記憶がある。ワープロはとても買えなかった。

3)1986年頃になって、NECのパソコンを買った。PC6001とかいう奴だった。セットで20万円くらいしただろう。星占いのソフトを買って、プリントアウトしたりしたが、ドッドプリンターだったので、音ばかりうるさくて、印刷物としては、ちょっとお粗末だった。

4)1988年頃になると、デスクトップの大きなワープロが買えるようになった。20万円。キーボードが統一されていなかったので、ブラインドタッチとかできなかった。えらく文字打ち込みに時間がかかった。

5)それと前後して、ハードディスクのないパソコンを買った。パソコンって何ができるんだ、ということで、いまでいうエクセルのような表計算ソフト、ロータス123、などというソフトでいろいろ試みては見たが、なんとも、有効なものはなにひとつなかったのではないだろうか。

7)90年代になってくると、固定電話線を使ったワープロ通信なるものが流行ってきた。これは画期的な手段で、夢中になったが、電話代が馬鹿高かった。現在の情報量にしたら、ちっぽけなものだったが、毎月何万円も払った。それでも、面白かったね。

8)1995年になると、インターネットが爆発する。カラーでHPが見えるようになった。これもまた画期的な出来事だった。なにがなんでもネット、ネットの時代、インターネットをやらずば、生きていけない、という雰囲気の時代がだいぶつづいた。それにともなって、次から次と、新しい機器を買い替えなくてはならなかった。

9)90年代後半は、まさに世界は一つの電脳地球になりつつあったが、実生活ではずいぶんと失敗もあった。金も次から次と搾り取られた。その金は基本的にマイクロソフトに流れ、ビル・ゲイツは世界一の長者への道を上りつめた。

10)21世紀になると、デジタル・ネイティブも成長してきて、ネットはあって当たり前の時代となった。そこに登場したのが、無線、モバイルの世界である。ポケットベル、PHS、ケータイ、PHSカードなど、ありとあらゆる方法が、次から次と流れていった。そして次第に若い世代からは固定電話は消えていった。ネットトレードの流行りもあったな。

11)2000年代中盤からはGoogleの台頭がはっきりしてきた。明らかにビッグな次のうごめきは、むしろ「無料」を全面に押し出してきた。「無料」であるがゆえに、差し出しを要求されたのが、個人情報である。ダダ漏れ状態が始まり、それらのダダ漏れビックデータが加工され、個人レベルでは、大打撃を受ける人も続出した。

12)2000年代後半になると、目だってきたのはSNS。ミクシーとかツイッター、フェイスブックとやらで、ネットつながりは、補完的なものから、むしろ戦略的な全面に登場するようになった。SNSが合って当たり前の、社会情勢が生みだされてきた。

13)この当時、思い出すのは、セカンドライフというヴァーチャル・ワールドの台頭である。私はこれをやりたくて、新しい高機能パソコンに買い替えた。しかし、ブームはあっというまに散って、誰も話題にしなくなった(泣)。

14)2010年代になると、その幕開けは、3・11の大災害だった。いまやケータイあって当たり前、ポケットにスマホがあって当たり前という時代になった。スマホがなければ、生き残れないよ、という時代である。街角からは公衆電話が消えて、80歳のおばあちゃんでも、病院帰りにタクシーを呼ぶために、ケータイを常に持ち歩かなくてはならない時代となったのである。

15)パソコンの家庭普及率は100%を超え、一人一台の時代になった。テレビもCDもDVDでも、それぞれ各個人である。そして、2014年の現在、話題はタブレットであろう。あって当たり前のタブレット時代である。

 さて、この時代、完全にブラックボックス化したIT社会には、通常のユーザーは単に提供されているものを、どう組み合わせるか、という余裕しか残されていないようだ。いえいえ、専門家とは言え、残されている分野は少ない。結局、ネットと経済の組み合わせが、時代の趨勢となっているのであろう。

 だから、ネット社会の進化過程において、ビットコインの登場は、必然性があったことは間違いない。もはや、このあたりしか、新分野は残されていないようだ。この辺が大きくブレークすると、たしかにまた、世の中、大きくかわりそうだな、という予感はある。

 しかしながら、現在、その尻尾が見えてきたビットコインやら仮想通貨やらは、とてもとても怖くて、シロートの手が出せる分野ではない。かつてのネットトレードより、さらに危険なものを感じる。

 歴史の必然として、これらの成長を見つめてはいるが、いつ私のようなレイト・マジョリティが、安全に使える時代になるのか、定かではない。すくなくとも、今日現在では、確たる情報は伝えられていない。アーリー・アダプターの方々の健闘を祈るのみだ。

 いろいろと、まだまだ、面白くなりそうな気配は感じるが、臆病モノは、何処までも臆病だ。私なんぞは、ビットコインは、ずっとあとまで静観していようと思う。

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フランスFR3放送「フクシマ・地球規模の汚染へ」

「フクシマ・地球規模の汚染へ」
フランスFR3放送 2014?制作 テレビ番組 54分
Total No.3194★★★★★ 全文和訳

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今日の気分はこの3冊<1> 小屋、スナイダー、ネグリ

今日の気分はこの3冊<1> 小屋、スナイダー、ネグリ

 どうも気分が優れない。このところ、半年ばかりの禁制生活のタブーが解かれたものだから、やたらとアルコールの消費量が多い。疲れが残っているやら、それをリリースすべく呑みすぎるアルコールが逆に内臓を痛めているやら、どうもイカン。近くの日帰り温泉に行ったりしてみるものの、いまいち、転換できない。

 運動不足もあるだろうと、図書館までチャリンコで出かける。ああ、このところの寒さで体が縮こまっているのが良くわかる。いえいえ、体だけではござりません。なんだか、スピリチュアリティも縮こまってますよ。

 図書館に行ってブラブラするも、借りて読んでみたい本が、まったくない。呆れるほど、本には辟易飽きている。ホントかな? さほど広くもないのだが、図書館の中をぶらぶら、三回ほど回ってみても、やっぱりない。これってマズイんじゃない? 精神が縮こまっている。

Unnamed
1)「可笑しな小屋」 ジェィン・フィールド=ルイス

 そこでなんとか手を出したのが、この本。この本は、このところわが「読書」の定番である。図書館から借りては返し、返してはまた借りだすというお気に入りである。この本のシリーズはいろいろバージョンがあって、面白いのだが、どうも奇をてらっている本が多く、結局は、お気に入りと言えるのは、この一冊である。

 この本のどこが気に入っているかというと、コンパクトな本であり、あまり「読むところがない」というところ。読まなくてもいい本なのである。そのかわり、かわいいカラー画像がたくさん入っている。特に、98ページの「バーナード・ショーの小屋」というのが、なんともいい。

 早い話が、賢治いうところの「松の林の陰の小さな藁葺き小屋」の、それぞれの理解ということになる。私においては、「駅からさほど離れていない我が家のガーデンハウス」という理解になるのだが、このバーナード・ショーの小屋をイメージして、改造中のものがある。暖かくなれば、また改造を再開する予定だ。

2)「野性の実践」 ゲーリー・スナイダー

 もしお気に入りの小屋があったら、私は、そこで何をするだろうか。大工仕事をしたり、細かい手仕事はするだろう。コンロでお湯を沸かして茶も飲むだろう。小さな窓から、しかも、その窓のガラスはすこし割れたりしているのだが、そこから、見える外の樹木や空の景色を楽しむだろう。

 そして、やっぱり本を読むだろうな。そこで読むとしたら、どんな本が似合うだろう。読みたいとするなら、やっぱりスナイダーかもしれない。3・11震災前後に一番読んでいたのはスナイダーだったし、とてもバランスがいいと思う。

 だけど、今日の図書館には、スナイダー本は2冊しかなかった。タイトルは大好きだが、この「野性の実践」という本は、必ずしもスナイダーベスト本ではない。じゃぁ、どの本がいいか、となると、どうも迷う。特に、今日のように本を読む気にならない日は、あまり考えたくない。タイトルだけなら、「野性の実践」が、一番カッコイイかな。

「現代思想」 特集ネグリ+ハート 2013/07

 で、私の場合は、小屋があって本があれば、納得、という訳にはいかないだろう。小屋にはネット環境がなければ絶対だめだと思う。電気は最小限でいい。小さな太陽パネルがすでに小屋の屋根に仕掛けてある。これでモバイル環境をつくって、スマホやタブレットで、随時ツイッターやフェイスブックをチェックし、当ブログの更新、ということになるであろう。

 このような自らの行為を、より正当化してくれそうなのが、ネグリ+ハートの一連の仕事である。今日図書館をブラついていて、この雑誌の特集を見つけた。どうやら私はチェック漏れしていたみたいだが、ネグリは昨年2013年に来日していたらしい。彼らのマルチチュード概念は、なかなか魅力的ではある。

 しかしながら、彼らの概念は、いまいち当ブログとは整合性がないので、当ブログとしてのナビゲーターとしては採用しないことが決定している。深く読む気はないのだが、なんとなく気にはなるので、それとなく視界には入れておきたい、という動きなのだ。

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 別に読む気はないのだが、まったく本がない風景というのも、ちょっと困る。当ブログでもすでに3000冊の本についてメモしておいたが、もうあまりあちこち読み散らかすつもりはない。もう「読書」はいいだろう、という思いもある。

 だけど、床の間に、小さな一輪ざしがあるように、どこかに、本の数冊転がっていてもいいだろう。雰囲気として、イメージとして、なにかの話しのきっかけとして。

 そういう意味では、今日のところ、読み進める気はまったくないのだが、この三冊あたりが、その辺にころがっていてくれたら、私の今日の気分はなんとなく表現できるのではないだろうか、と思う。

<2>につづく

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2014/03/11

「アティーシャの知恵の書(上)」The Book of Wisdom, Vol 1  OSHO<2>

<1>からつづく

「アティーシャの知恵の書」(上) The Book of Wisdom, Vol 1チベットの覚者を語る<2>
OSHO/スワミ・ボーディ・デヴァヤナ 2012/03 市民出版社 590p

 3・11から、ちょうど三年である。この記念すべき日にあたって、何か気のきいたことを言わなくてはならない。そうは思うのだが、むしろ、何も記さず、沈黙の黙とうを捧げるほうが、現在の私の心境にはかなっている。

 しかしながら、あとから自分のブログを読んだ場合、何も記していないと、本当のところはどうだったのか、忘れてしまっているかもしれない。脈絡がなくとも、メモだけは残しておこう。

 現在の私は、読みかけていた本のほとんどを図書館に返し、年度末の事務処理に追われている。年に一度の事務処理は、まさに年に一度なので毎年やり方を忘れている。一からのやり直しである。ルーティンワークなのに、なんとも、面倒くさい一年に一度である。

 ええい、めんどうくさい、と思って逃げる先は、タブレットであったり、やっぱり読書であったりする。図書館本は全部返してしまったので、今は「アティーシャの知恵の書」をゆっくり読みなおしている。これにはそれなりにいろいろ訳がある。

 Osho本という奴は、「読書」には適していない。「存在の詩」以来、私はOsho本を最初から最後まで一気に通読したことは、たったの一度もない。必ず引っ掛かるのである。第一章、あるいは、最初の一頁、いやいや、最初の一行、時には、表紙をみただけで、「ストップ」してしまう。

 だから、手持ちでありながら読破していないOsho本は山とある。私はそれを積ん読本とは思わない。Oshoの本は、読書ではなく、私にとっては瞑想だ。なにか、今日、瞑想するネタがそこにあれば、それはそれで、十分なのだ。

 そうはいいつつ、ついつい読書としては、安易なスカスカ本に流れやすい。次々とでてくるスキャンダラスな話題に、ついついついていってしまうのだ。これはいかん。いつかキチンとOsho本に戻ろう、と思うのだが、Osho本と対峙するのは、私にとっては、いつも一大事である。

 今回は、翻訳をされた方が、当ブログを訪問してくださり、そう言えば、と、この本を思い出したのであるが、それは、ひとつのきっかけに過ぎないのだ。むしろ、もっと大きな流れの中で、翻訳者の方もまた、何事かに動かされていた、ということを感じないわけにはいかない。

 詳細は省くが、当ブログではプロジェクト567というモノが走っていた。今でも走っている。だが、実はそれは裏方作業であり、あまり表面には出ない、出さない、出にくいテーマでもある。

 大雑把にいえば、私の人生上の問題であり、自分が56歳と7ヵ月になる時に、人生の一大転機が訪れるだろうという予測が、以前からあり、だいぶ前から私はその準備をしてきていた。大きくは、それまで関わっていたプロジェクトやボランティアをほとんど終了させ、極めてノーマルな、あけっぴろげな状態にしていた。

 何が起こるのだろう、という期待感とともに、茫漠とした心もとない不安な状態でもあった。その時に、起きたことについては、別途、隠喩も含めて、すでに当ブログに記しておいた。

 まず明確な形で、このわがプロジェクト567を見破ったのは、 ホワイトターラーだった。

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 この絵を描いた人が、展覧会の後に、あなたは何処に行きたいの、とホワイトターラーに聞いた、とのことである。と、そうしたら、ホワイトターラーご本人は私を指名したそうなのだ。

 彼女はこの絵を我が家の床の間に飾ってくれる時に、そう言えば、あなたはちょうと56歳と7ヵ月ね、と、つぶやいた。私の、ささやかな、私的プロジェクトは見破られていた。彼女は、そのお祝いに、この絵をプレゼントします、とおっしゃってくださった。

 私は、いまだに、この絵についてのお礼ができていない。なんと言っていいかわからない。この絵にどのような秘密があり、どのような力があるのか、どのような言われがあるのかさえ、キチンと整理しないでいる。今は、事務所の、一番高いところに飾ってある。

 さて、この本のテーマであるアティーシャとは、誰であっただろう。 アティーシャのハート瞑想、ってのが「新瞑想法入門」Oshoの瞑想法集大成(1999/03  瞑想社)に書いてあったね。かつてチベット追っかけをしていた時、山口瑞鳳「チベット」(1988 東京大学出版会)にも、盛んにアティーシャが登場した。

 アティーシャは11世紀のインドの学僧で、インドで深く仏教を学んだあと、チベットに広範な形でその神髄を伝えた人だ。中国へ仏教を伝えた菩提達磨のような位置にある人である。チベット仏教の現在の中心となっているダライ・ラマは、アティーシャの直系と言える。

 アティーシャがインドにいる時、チベットにいくべきかどうか、逡巡したそうだ。その時、観世音菩薩の目から涙が流れ、左の目からは緑ターラーが生まれ、右の目からはホワイトターラーが生まれたという。それを見たアティーシャはチベット行きを決意したと伝えられる。

 緑ターラーは、火急的速やかに救いを求めている人々へ駆けつける。具体的な救い、ある意味、男性的、父親的な救済であるとされる。それと対になるホワイトターラーは、包み込む愛、慈悲心、母親的慈しみであるという。

 アティーシャの技法はまさにその反対だ。息を吸うときは、過去・現在・未来における世界の生きとし生けるものの不幸と苦しみを吸い込みなさい。そして息を吐くときは、あなたのすべての喜び、すべての至福、すべての祝福を吐き出しなさい。息を吐いて、あなた自身を存在の中へと注ぎなさい。これはすべての苦しみを飲み込み、すべての祝福を外側の世界へ注ぐという慈悲の技法だ。

  そしてやってみると、あなたは驚くだろう。自分の内側に世界のすべての苦しみを受け入れると、たちまちそれは苦しみではなくなる。ハートは即座にエネルギーを変容させる。ハートとは変容させる力だ。不幸を吸い込みなさい。すると祝福に変容される----そうして、それを吐き出しなさい。 Osho p40「三倍偉大なアティーシャ」

 3・11以前と、3・11以後では、人生が大きく変わったという人は多い。肉親を亡くし、生活基盤を失ってしまった人々であれば、なおさら、その通りであろう。自らに直接的な被害が及ばなくても、深く3・11の意味を問う人は多い。

 それはそうだと思うが、当ブログにおいては、ちょっと意味合いが違う。3・11は、プロジェクト567の7番目の出来ごとであった。寓意的に言えば、3・11は、プロジェクト567の中において予言されていた。3・11はプロジェクト567の成就でもあった。

 だから、正確に個的に言えば、3・11以前、3・11以後ではなく、プロジェクト567以前、プロジェクト567以後、ということになる。そして、3・11を挟んで世界は一変してしまったのではなく、当ブログにおいては、3・11を挟んで、粛々とプロジェクト567は深化している、ということになる。

 宮澤賢治は、明治三陸大津波のあった1896年(明治29年)に生れ、昭和三陸大津波のあった1933年(昭和8年)に亡くなった。彼は多くの作品を遺したが、津波に直接に触れる作品を遺してはいない。

 当ブログでは、3・11後、沢山の賢治作品に触れた。ロジャー・パルバースの「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」(2011/11 NHK出版)に毒づいたり、石寒太「宮沢賢治祈りのことば」(2011/12 実業之日本社)に救われたりもした。賢治ゆかりの花巻の林風舎を訪ね、その血筋である宮澤和樹監修「宮澤賢治 魂の言葉 」(2011/06 ロングセラーズ)に何事かを求めようともした。

 賢治は愛の人であった。慈悲の人であった。その賢治が津波のことを知らなかったはずはない。その被災した人々に慟哭の涙を流さなかったはずはない。しかし、賢治は、津波より、被災より、さらに、もっと大きなものを見ていたのである。

 口はばったい言い方をすれば、3・11は当ブログにおいては織り込み済みであった。あってこそ当然の出来ごとであったのである。もっと奇をてらった言い方をすれば、3・11のためにこそ、この人生があったとさえ言える。

 3・11後、もっとも感動した本に飯沼勇義「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!(1995/09 宝文堂)がある。その科学性、その先見性、その反逆性、その意識志向性に感動する。彼の最近刊「解き明かされる日本最古の歴史津波」(2013/03 鳥影社)は、現在の当ブログのナビゲーターでもある。

 飯沼史観の中でバックボーンの一つとなっている千葉富三「甦る古代 日本の誕生」2009/7/1 文芸社)にも、雄大な歴史観を感じている。ホツマツタエの展開するところの、縄文の世界へと、3・11後の未来を繋げてみないこともない。 

 科学には今、偉大な瞑想者たちが必要だ。それが無理なら、この地球は運に見放されている。今、科学には自分のマインドを利用できる人々が、自分の存在の主人公である人々が、意識的なやり方で科学を利用できる人々が必要だ。そうでなければ、私たちは世界的な自殺を犯す瀬戸際にいる。p78 Osho「百合の光明」

 3・11を大きくはるかに凌駕する宮澤賢治やホツマツタエ、そして、ホワイトターラーやアティーシャの慈悲。再読したいこのカテゴリこの3冊「プロジェクト567」編において、当ブログとしては、この「アティーシャの知恵の書」(上)をその中の一冊としてリストアップしておいた。

 海岸線を中心とした被災地がいまだに復興していないこと、これだけの被災がでているのに、いまだに原発を推進しようとする愚かな群衆がいることに、唖然とする。もちろん、これらひとつひとつは、今後、丁寧に克服されていかなければならない。

 そして、3・11を単独の、特別な事象とみることに、当ブログは積極的ではない。むしろ、3・11はあり得ること、これからも似たような事象が続出することさえ、当然だろうと思う。そして、それを超えていくこと、人類に直面すること全ての課題を超えていくこと、ここにこそ、本来の課題があると思う。

 ホワイトターラーや、アティーシャの来訪を思い、3・11三年目の今日、この時間、自らの身の上に起こった、内面的な、リアリティとして、このメモを残しておく。

<3>につづく

 

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2014/03/08

AZUMI Ryhei Kitamura Aya Ueto


監督: Ryhei Kitamura 出演: Aya Ueto, Kenji Kohashi, Hiroki Narimiya, Takatoshi Kaneko, Yma Ishigaki 脚本: Mataichir Yamamoto, Isao Kiriyama, Y Koyama 製作者: Hidemi Satani, Kazuya Hamana, Mataichir Yamamoto, Morihiro Kodama 2003年公開 2006年アメリカ公開   形式: DVD-Video, PAL, Import 言語: 日本語 字幕: 英語
Total No.3193★☆☆☆☆

 

 このビディオもタブレット操作ミスによりみることになってしまった作品である。2時間を超えるような大作であったが、布団の中で見続けるのはとても大儀だった。

 このところの、操作ミスによるsamuraiつながり、チャンバラつながりも、案外面白かったので、もしかして名作かもと期待したが、先入観通り、当ブログとしては、最低レベルの評価しかできなかった。今後はこのレベルの作品には目もくれないことにする。

 基本的に、チャンバラ、戦い、バトルが嫌いなのである。血を綺麗なカラー作品などで見たくない。

 この作品は、実にいい加減な内容だった。まず時代考証が全くなってない。武士の時代に、半ズボンにノースリーブのスタイルなど男子だってありえないだろう。ましてや、ミニスカートの女剣士などあり得ない。秘密に育てられたグループが村人に混じって、サーカスなどみるわけがない。

 生き抜くために、同じグループの一人を殺さなくてはならないなんて、まぁ、正気ではあり得ない設定である。登場する男女間における恋愛感情も、実に薄っぺらな、ママゴトより酷いものである。

 こんな漫画みたいな、と思ったが、もともとこれは長期に連載された漫画がベースになっていた。人気漫画となったから映画化されたのであろうが、であるなら原作に忠実に漫画の方がよかったのではないか。なぜに実写版にしたのだろう。

 有名俳優も出ているし、英語のテロップもながれていたので、欧米でも上映されたに違いない。その英語も、実に稚拙な、薄い英語だった。この映画を見た人々は、どのような感想をもったのだろう。欧米において、このような作品がクール・ジャパンと評価されているなら、世も末だな、と、本当に思う。

 いいじゃん漫画なんだから、という声も聞こえてきそうだ。映画の中のエンターテイメントなんだからいいじゃないか、と言われるかもしれない。だけどやっぱり私はダメだな。数日前に、自分のマンションの前の通りで、刃物を振り回して、人殺しになってしまった青年がダブついてくる。

 どうも、当ブログは最近方向性を失っているかもしれない。こんな映画をうだうだ呟いている必要はないのだ。軌道修正しよう。

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2014/03/06

「TAO 永遠の大河 1」 OSHO老子を語る いまここ塾版

「TAO 永遠の大河 1」 OSHO老子を語る
OSHO (著), スワミプレムプラブッダ (翻訳) 2014/02 いまここ塾 単行本 559ページ
Total No.3192★★★★★

 仕事の合間に久しぶりに大手書店を覗く。ざっと見ているつもりでも、ついつい足は、スピリチュアル本コーナーへ。他の本はどうでもいいのだが、なんとなくOshoの扱いが気になる。一時期ほとんど店頭に並ばなくなったOsho本だが、このところ、すこし活況を呈しているようでもある。

 きょう見つけたのは、「TAO 永遠の大河」。この本、語られたのは1975/06~08の時期。 邦訳が最初に4冊組として出たのは1979/05~1982/08。ところが、この本、出版社の都合なのか、「TAO-老子の道」(上)(下) として二冊組の改訂版が1995/03にでている。改訂版はQ&Aの部分が削除してある。

 ずいぶんと人気のある本であるようだ。今度出版されたのは、「永遠の大河」だから、Q&Aが復活した4冊組となるだろう。出版者は阿部敏郎のいまここ塾。なるほどね。

 さて、通りすがりの一読者として、この本を、もう一度購入すべきだろうか。コレクターなら、これらのシリーズを新たに一揃え追加したいところだ。三つの版を並べておいて、自慢するのもいいかも知れない。

 私は今回、この新版を購入しないばかりか、たぶん再読もしないだろう。今回のマーケティングのターゲットには、私の年代は含まれていないのではないか。新しい読者、新しい世代のための新刊本、と捉えたほうがいいだろう。

 今月末、私は晴れて還暦を迎える。もう老境である。老子、とは、年とったおっさん、という意味である。年とったおっさんのことを、何も老子に聞かなくても、Oshoに聞かなくても、自分のこととして語らなければならない年代である。

 すくなくとも、「老子」なら、ダイレクトに漢文で読むくらいの素養を身につけていなければならない年代である。なにを今さら、三版並べて自慢などしたりするものか。

 でも、長いこと、この本を読みたいと思って入手できなかった読者には朗報だろうし、今回改めて「老子」を知ることになった人がいたとするならば、めでたし、めでたし。この本は、人生の中で、必読の本である。

 

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2014/03/05

「ニュー・アース」 エックハルト トール <1>

「ニュー・アース」<1>
エックハルト トール (著), 吉田 利子 (翻訳) 2008/10 サンマーク出版 単行本 kindle版あり 336ページ
Total No.3191★★★★★

 この本も面白い(のかもしれない)。だけど、なかなか、最終的にはいいことは書けそうにない。

 当ブログが7年前にスタートする時、自らのブログの性格付けを考えながら、タイトルを決めていった。その時残ったのは、「地球人」、「スピリット」、「ジャーナル」という言葉だった。ブログのタイトルは、この三つの単語をくっつけたものである。

 現在、この単語で検索すると、「地球人のためのスピリチュアルレッスン」というページがでてくる。なるほど、こういうページもあるのか。なかなか魅力的なページである。どうかするとOshoのことも、単語レベルではあるが書いてある。ほほう、と思う。

 このページには、幾人かのいわゆるスピリチュアル・テーチャーたちが紹介してあり、その中でも、エックハルト・トールは、大きく取り上げられているようである。Oshoは名前以上には紹介されていないようだ。

 当ブログのタイトルが、地球人スピリットはどこにあるのか、という探求を意味しているのだったら、むしろ、このページに辿り着くことで、ひとつの終焉を迎えてもよさそうなものである。ある意味、センス良くまとめられている。

 しかも、こちらはレッスンと歌っている限り、セミナーや講演活動などに力を入れているようだ。

 ところがどっこい、当ブログは、一見探求の途上のように見せていて、実は、結論ありきの、偽装探索なのである。当然、たどりつくところは、ここだろう、という目論見がある。

 この当ブログの目論見と、こちらのページの雰囲気とは、微妙どころか、私側からみた場合、大きく違う。

 地球人スピリットなどと、大仰な表現をしてみたが、当ブログとしては、むしろ、タイトルを変更して、そのタイトルは、こちらのページに「譲る」べきなのではないか。

 Oshoは同時代のエンライトした代表として存在として、クリシュナムルティとグルジェフを上げている。それぞれ個性豊かな存在である。もしエックハルト・トールを、この二人の人物になぞらえるとしたら、敢えていうなら、クリシュナムルティのほうに近いかも知れない。

 しかし、抽象化された、哲学化された概念を振り回すだけでは、生きた人間=地球人として生きるには、何かが不足する。具体的な地平、地上。ありのままの、ごくあたりまえの生活を抱えた日々を、視界からはずすことはできない。

 道として言われる道が、必ずしも、すべての人にとっての道とはなり得ない。道があり、機縁がある。書いてあることが、書かれていることが、どこにも非をつけることができないような、整合性の高い文脈であっても、それが、生きてあるそれぞれの地球人に、見事にフィットするとは限らない。

 この本については多くを語れない。語れるようになるまで、この本やその流れとの機縁が熟すのかどうか、今の私にはわからない。

<2>につづく

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「インド巡礼日記」―インド・ネパール巡礼日記1 (山尾三省ライブラリー) <2>

<1>よりつづく 

インド巡礼日記」インド・ネパール巡礼日記1 (山尾三省ライブラリー)<2>
山尾三省 2012/04 新泉社 単行本 504ページ

 この本もなかなか面白いが、なかなか進まない。進まない理由は、他の本とちょっと違う。この本は面白過ぎるのだ。いっぺんにおいしい物を食べてしまうと勿体ないから、すこしづつ食べていると、そういう雰囲気である。

 部屋の入り口の石に腰かけて、巨大な菩提樹の梢にかかる月を眺め、ここのお寺で良い所は、この菩提樹とアナン尊者の塚だけであると思った。何故日本山妙法寺、日蓮宗の一派を、よりにもよってこの私が選ばなければならぬのかと思った。p90「インド巡礼日記」

 「よりにもよってこの私が」というところの三省が、妙に面白い。おそらく、三省の他の著述を含めても、このような表現がでてきたのは、きっと、これが一回きりだろう。

 何故日本山妙法寺、日蓮宗の一派を、よりにもよってこの私が選ばなければならぬのかと思った。p90

 三省が戦時中の日本に生まれ、東京の大学に学びながら学生運動に関わり、やがて、日本の中のカウンターカルチャーにも関わった。やがて、インドに惹かれ、家族をあげてインドを一年かけて旅をする、というところまではわかる。

 しかし、インドに行って、なぜに、日本山妙法寺なのか。

 奇妙と言えば奇妙、滑稽と言えば滑稽な問い掛けだ。

 私も、以前書いたけれど、私も日本山に行って、南無妙法蓮華経の行者に加えてもらったことがある。三省とは年代も違う、接触の仕方も違ったが、もし、私が、あの集団に機縁があったら、私は「よりによって」などとは悩まなかっただろう。

 そこまで突き詰めていなかった、ということもある。あるいは、私は私なりに「よりにもよって」という課題を別な角度から抱えていた。

 何故OSHOサニヤシンという正体不明な道を、よりにもよってこの私が選ばなければならぬのか。私に与えられた公案は、このような形だったであろう。

 人が道に入るのは、言うに言われぬ神秘によるのだ。理にかなう説明なんてできるはずがないのだ。理にかなっていたら、それは単に理に堕ちているだけなのだ。

 三省は、この巡礼日記を、いずれそのまま出版しようと思って書いていたわけではないだろう。やがて後年においては、ポンこと山田塊也あたりに「三省教」などと揶揄されるほどに、「整合化」された三省であるが、30代半ばにして、インド・ネパールを巡礼したあたりでは、まだまだ、ありのままの三省、原石としての三省が活写されている。

 藤井日達上人を象徴として仰ぐ流れにおいて、三省は、いざとなってみれば、こころから葛藤する。

<3>につづく

 

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2014/03/04

SEVEN SAMURAI / Akira Kurosawa

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「SEVEN SAMURAI 七人の侍」
監督/黒澤明 1954/04 東宝 モノクロ映画、スタンダード207分
Total No.3190★★★★★

 風邪をひいた。気温が不安定で、空気も乾いている。このところの疲労がたまったか。熱はあまり上がらないが、週末は大事を取って、床の中でゴロゴロしていた。本を読む気にもなれず、また眠ってばかりでもだめかな、と、床の中に持ち込んでタブレットをいじっていた。

 こちらもなんの拍子にか、七人の侍がでてきた。Samuraiつながりである。いつか見たことあるような気もするが、また見るのもいいかな、途中で眠っても構わないし、と、三時間を超える映画を観はじめた。

 日本のリンクではでてこない。こちらは中国のリンクから英語のテロップのあるバージョンが見ることができる。

 60年前の映画である。というか、私が生まれた時の映画である。へ~、あの時代に、こういう映画が作られていたんだなぁ、と圧倒される。チャンバラ映画は好きではないが、この白黒映画だと、あまり残酷なシーンはでてきても、血が赤くないから、卒倒しないw

 三船敏郎も若い。若い演技をしているのか、それともやっぱり若いのか。1920年生まれの三船敏郎、34歳である。うん、やっぱり若い演技をしていると思える。

 今日みたいに、風邪でもひいて、ぼぉっとしている時しか、こんな長編は見ないだろうな。それにしても、これだけの長編が、完全ノーカットとまでは言わないが、ほぼ完全な形でタブレットで観れる時代はすごいと思う。もちろん、これは著作権とかの問題もあるだろうな。

 なにはともあれ、こういう時代なのだ、と認識した。

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2014/03/02

「Strawberry Statement いちご白書」 1970

「Strawberry Statement いちご白書」 
ジェームズ・クネンJames Simon Kunen原作 1970 カンヌ国際映画祭審査員賞 監督 スチュアート・ハグマン 映画 102分
Total No.3189★★★★★

 

 「『いちご白書』をもう一度」を聞いたことある日本人は多いだろうが、映画「いちご白書」を見た人はそう多くない。かく言う私もその一人である。そもそも「『いちご白書』をもう一度」という歌を友人のカーラジオで偶然聞いたのも1980年代になってからだった。

 でも、「いちご白書」という映画があることは1970年から知っていた。1970年は私が高校2年生の年。いろいろあり過ぎて、これまでもいろいろ書いたが、決して書ききれない年代である。

 先天的な運動家でもなかったし、映画研究会に属するような映画ファンでもなかった。ごく当たり前の高校生として、当時の名画座を中心として、いろいろ映画も見ていた。だが、よく覚えていないが、私たちの街では、「いちご白書」は上映されなかったのではないだろうか。

 同じ年齢の友人は、早めに高校を横に卒業して上京してしまった。彼は「いちご白書」を見ていた。感受性の強い、演劇志望の少年だった。彼は、決して「いちご白書」だけに影響されたわけではないし、あの当時、私たちの街は、あの風景のままで、別段「いちご白書」だけが珍しかったわけではない。

 でも、「『いちご白書』をもう一度」がヒットして、ロングセラーになったので、「いちご白書」がシンボルとして永く記憶に残ることになった。

 リンダ役のキム・ダービーがかわいいね。もういちど初恋をしたくなる。

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 映画『いちご白書』は、1968年のコロンビア大学の大学紛争を描いたアメリカ映画。ノンフィクション。これは別段にこの大学だけで起きたことではない。このような風景の中を、スナイダー達が回っていたし、スティーブ・ジョブズもこのようなキャンパスを生きていた。

 当ブログの原点も、このあたりの時代性にある。いろいろ当時のことを思い出していた。他のことを書き進めていて、どうも、このあたりの時代のことをじっくり考えていた。考えてもまとまりもなく、結論もでないのだが、この時代があればこそ、次のステップ、そして次のステップがあったのだった。

 やはり、シンボル的な映画である。

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2014/03/01

「The Twilight Samurai 」 「After the Rain 」 「When the Last Sword Is Drawn」

 
「The Twilight Samurai  たそがれ清兵衛」 
原作 藤沢修平 出演: 真田広之, 宮沢りえ, 小林稔侍, 大杉漣, 吹越満 他 監督: 山田洋次 2002/11松竹 映画 129分
Total No.3186
★★★★★

「After the Rain Japan Samurai Movie 雨あがる」
原作 山本周五郎 出演 寺尾聰 宮崎美子 三船史郎 檀ふみ 他 監督 小泉堯史 2000/01 東宝 映画 91分
Total No.3187★★★★★

「 When the Last Sword Is Drawn 壬生義士伝」
原作 浅田次郎 出演: 中井貴一, 三宅裕司, 夏川結衣, 中谷美紀, 村田雄浩 他 監督: 滝田洋二郎 2000/04 松竹 映画 137分
Total No.3188★★★★★

 朝早く、布団の中にいて、何気なく触ったタブレットがサムライ映画を映し出した。youtubeだが、他のところをクリックしたはずなのに、ありゃ、こりゃなんじゃ。

 youtubeのビデオと言えば、昔(ってほんの数年前だが)は、長くて10分ほどで、一時間を超す映画など、見れるなんて思ってもみなかった。ましてや、日本映画が全部見れるなんて。だが、今じゃ、これらの映画は、英語タイトルで検索すると出てくる。

 私は別に映画ファンでもなければ、サムライのファンでもない。ましてや、見ようと思って検索したわけでもなかった。思いもしないタイミングで飛び出してきたサムライ映画、このひと連なりは、とても面白かった。場合によってはレインボー評価したいくらいだ。

 Samuraiつながりで3本を立て続けにみたわけだが、いままでイメージしていたチャンバラ映画以上に、感動した。涙が流れるように作ってあるのだろうが、老眼の度が進む私の目からも、じっとりと涙があふれた。

 「たそがれ清兵衛」。映画音痴の私でも、なんとなくこのタイトルは知っていた。ストーリーだって、なんとなくイメージができていたはずなのに、じっとりハマってしまった。山田洋次監督映画、というところも納得した。この映画があまりにも良かったので、似たような映画を続けてみることになった。

 「雨あがる」。こちらもよかった。黒沢明へのオマージュであるらしい。寺尾聰+宮崎美子のカップルもよかった。「壬生義士伝」は、浅田次郎原作で、人物としては、あまり好きな男ではないので、どうも「作られているぞ」と身構えた。だが、やっぱり見ているうちに、老眼鏡の奥で、わが目がじっとりとなっていた。

 主人公たちの共通は、スーパーヒーローではなくて、ごく当たり前の、江戸時代の下級武士であることだ。武道の達人たちではあるのだが、決してこれみよがしに刀を振り回すわけではない。しかたなく、刀を抜かざるを得ない、というところがカッコイイ。「スターウォーズ」のような、チャンバラ映画ではない。

 しかも、脇には、美人の奥さんや恋人がいて、ラブロマンスになっているところがなおいい。結局は、出世するようなハッピーエンドでもなく、ごくごく当たり前の情景の中に戻っていくところが、これらの映画の共通項でもある。

 これらの映画は21世紀が始まる年代に作られた映画だ。この時代にはこういう映画が流行だったのかもしれない。英語タイトルで検索できて、しかも全編、外国サイトで見れるということは、外国でも人気が高いということなのだろう。

 youtubeでこれらの映画を見ることができるということは、版権の問題があり、ひょっとすると制作者たちにとっては、大きな損失を生んでいるのかもしれない。だが、どうも、私はこれらのyoutubeのシリーズにハマりそうだ。次は何を見ようかな。

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