« DVD 「ノルウェイの森」 原作 村上春樹 | トップページ | 「雀の森の物語」<1>1974「時空間」8号 »

2014/03/24

「ぼくは深夜を解放する!」続もうひとつ別の広場 桝井論平 & 冬崎流峰<1>

Sinya
「ぼくは深夜を解放する!」 続もうひとつ別の広場<1>
桝井論平 & 冬崎流峰1970/05 (株)ブロンズ社  単行本ハードカバー 180p
Total No.3197

 もう45年前のことである。語り始めたら、脚注をいっぱいつけなければならない。今はいちいち説明するのが面倒だから、分かる人だけが分かるレベルでメモしておこう。

 1972~1976年に仙台にあった共同生活体(あるいは当時の言葉でコミューンとも)「雀の森」を語ろうとすれば、まずは、この本から始めるのが妥当であろう。それは、特にリーダーを決める空間ではなかったが、一番の年長であり、一番イメージを持っていたのが冬崎流峰(1951年生まれ)であり、その流峰がもっとも公に、明示的に登場したのが、この本であるからである。

 桝井論平は当時のTBSラジオのアナウンサーで、位置的にはテレビニュースキャスターだった久米宏などの先輩=指導者的な存在である。当時にわかに人気が高まった深夜放送のDJだった。その彼が、リスナーの声などと共に一冊に本を著わしたのが、この本である。

 時代的には、映画「いちご白書をもう一度」とか、小説「ノルウェイの森」などと、ほぼ同時代である。ただ、今回の主人公たる流峰は、いわゆる団塊の世代よりやや遅れてきた青年ということになる。

 毎週ぼくは、沢山のお便りをいただいて共に生きる喜びを様々な具合にかみしめることになるのですが、何人かの仲間は、毎週毎週かかさずにお便りを書いてくれて、そして、それは、ひとつの日記のような生活記録になっていて、あまり放送にのる機会はないのですがいつもぼくは、楽しみに読ませてもらっているのです。

 冬崎流峰君は、その中でも、とくに詳細に、彼自身の生活記録を報告してくれるひとりです。まず、ぼくは、彼のユニークな文体に興味を持ちました。それから、彼の行動力です。どこにも首を突っ込まずにはいられないのは、君によく似ているね、とディレクターの熊沢さんがいいました。

 第一志望の東北大学の受験に成功したあとで、一度、TBSを訪れてくれたことがあります。地下のレストランでカレーライスを一緒に食べたのだけれども冬崎君は、予想した通りの好青年で、この本の中で、ぼくと一緒にすごしてくれることを快諾もしてくれたのでした。p77 桝井論平「逢う」

 論平、時に30歳、流峰18歳。あれからガンジス川の水は何万リットル流れ去ったことだろう。この本が出たのが1970年5月だが、私は、この直後に、仙台にやってきた流峰と、デモ活動を通じて知り合うことになる。その時、私はまだ16歳、高校二年生。この辺の経緯は、以前、どこかに書いた。雀の森は流峰なしには語れないし、私の青春は流峰なしには語れない、ということになる。

 そして、四・二八(引用者注1969/04/28沖縄反戦デー)には、それ以前にもあったことだけど、それ以上に、大々的に1人できた高校生、入る隊列のない高校生、あるいは一般の人迄含めて、七○人位の連帯を勝ちとり、そしてまた、キドーが襲ってきて、必死に目の前をナントカ弾がトビカウ中を逃げたりもしました。

 それは非常に貴重な体験であったとともに、報道、マスコミの、インチキ、劣悪性をまさに知りました。事実をそうでないあるいは全然そうではなかったことを事実として大衆にアピールするそのヒドサに。また、僕は一段ステップさせられたと考えています。p80冬崎流峰1969/10/12「逢う」

 私はもともと深夜放送ファンでもなかったし、そもそもTBSラジオは地方では聴くことができなかった。高級ラジオを駆使すれば聞けないわけではなかっただろうが、私は部屋に作った針金アンテナのゲルマニウム・ラジオをイヤフォンで聞いていたりしたので(スピーカーはもともとない)、地元局でさえ、よく聞き取れないことがあった。

 「ぼくは深夜を解放する」。考えてみれば、不思議なタイトルである。「ぼく」という一人称はどうであろうか。いまだに70才代になっても「ぼく」を連発する文化人がいたりするが(文章の上でも)、いまだに残るその幼児性を売り物にしているようだ。この傾向は、この時代から始まったと思う。

 「深夜」とは何か。21世紀の現代において、ネット文化が当たり前となり、コンビニ社会は一日中活動している。それに対し1970年代は、商店街は日曜日はキチンと休みを取ったし、夜6時か7時にはシャッターを下ろした。勿論正月なんかみんな紅白歌合戦を見たあとは長い休みに入った。一般人は、夜9時か10時には床に入り、その代り日の出とともに朝5時か6時には活動を開始した。

 そのような時代にあって、ラジオ番組の深夜時間帯は放送されていなかった。聞く人もいなかったのである。そのような背景が大きく変わったのが1960年代後半。高度成長期を迎えるにあたって情報量が増加し始め、深夜の時間帯に注目が集まり始めた。視聴者は少なかったが、長尺ものの音楽などを悠々とかけることができた。

 そのような情報提供システムを、最初に受け入れたのが、深夜まで、時には徹夜までして勉強する受験生たちだった。受験生たちは、自宅の個室で孤独に悩みつつ勉学し、時にレコードをかけ、そして新しい音楽を流し続ける深夜ラジオに耳を傾けた。

 そのような番組を司会していた桝井論平のような人たちは、ディスクジョッキーと言われて、一躍若者たちの人気者になり、やがて、一大文化圏を形成するのである。

 さて「解放」とはなにか。「開放」でもなければ、「介抱」でもない。解き放つのである。この本においては、必ずしも、この言葉を使わなくてもよかったであろうが、造本側は、敢えて、この「解放」を選んだ。解き放つのである。鎖されていた深夜の文化圏を解き放つのである。その心意気が、すこしこのタイトルからも推測できる。もちろん、当時で言えば、新左翼的な言葉遣いとしての「解放」である。「ぼくは深夜を解放する」。再読してみると、意味あるタイトルだと思う。

 論平さんの手によって、僕のヘタな文章が電波にのりました。反響はどうでしょうか。非常に言い足りない点とかあったと思うけれど、まあ気にしないでどんどん書き続けます。

 10・10、11時前より中庭で集会(当日は体育祭)80名程度参加か。教師は何かやらかすのではというパニック状態。何か意見を求めると、体育祭中のこの集会は非合法であり、公式発言はできないという。

 出発前、デモに初参加せんとする高一を前に、個人的に、「君達は21世紀の人間であるから・・・・・」とこんこんと説諭。 p81冬崎流峰1969/10/19「逢う」

 この辺のシーンは、分からない人は分からないだろう。「いちご白書」を同時に生きていたようなものだ。この本の中で40p程にまとめられている流峰が活写するところの学園生活は、同時代のあちこちで見られた風景であろう。

 彼の同じ高校の同期生には星川淳(のちのプラブッダ)がいる。星川の高校時代もこういうものであっただろうが、星川のほうはむしろ政治的活動からスルリと抜けてスピリチュアルなほうへ一歩お先にスタートしてしまったかのようだ。その分、大人になってから「政治性」に「目覚めた」という印象を個人的に私は持っているのだが、どうだろう。

 夏、この夏は一生忘れられない夏でした。前々からヘソクッテおいた8000円を金を持って、放浪の旅に出たのです。約一ケ月、今になっては、すでに懐かしさとしてとらえられるものとなってしまったけれど。

 とにかく夏前には部活動、政治的行動その他で全く無に等しく受験勉強なんてものはしてなかった。それを学生村にいってはじめて手をつけて、以後やる気が出て、放浪中も結構がんばっていた。そもそも学生村から帰るべきところを粉砕して、軽井沢--大阪その他やたら動き回ったわけで国鉄は高いということを痛感した。青春をおうかした学生村での仲間たちよ、がんばっておるかい。

 とにかく反博でのティーチインを境に一応遠ざかっていたというわけだ。しかし夏の放浪での精神的最大の収穫は人間の社会性というものを自覚し得たことだと思っている。ちょうど一日間、知った人間に誰にも会わず、ほとんど口を開くことなしに、学校の椅子に寝ようとした時に、強烈に淋しさというか何か言い尽くし難いものを感じたのである。これは貴重な体験だったと思っている。p83冬崎流峰1969/11/03「逢う」

 この一年後の1970年と言えば、大阪万博があった年だ。高度成長のシンボル的位置に置かれたイベントであったが、反権力的な視点からは、反・大阪万博を叫ばれてもしかたない存在でもあった。この時ダダイスト糸井寛ニは、太陽の塔の前で抗議のストリーキングを行なっている。

 70年、高校二年だった私は修学旅行で、大阪万博にいくコースと、北海道一周コースと、選択できたが、反万博の意味を込めて、北海道コースを選んだ。いずれにせよ、1972年になって、雀の森をスタートするにあたって、まずは「80日間日本一周」を企画したのは流峰であって、この1969年の「放浪の旅」の延長線にあったと考えることもできる。それは、72ねんの80日間日本一周、そして74年のキャラバン「性歓隊」、75年の「星の遊行群ミルキーウェイ・キャラバン」へと繋がっていった、という見方もひとつ成立する。

 日曜の夜。友達の家が解放区になるってんで4・5人で例によって押しかけたわけです。解放区ってのは両親その他ジャマ者がいなくなった場合のことをいうわけで、仲間の間では、そういう状況発生時には押し寄せるという慣例があるわけで、その夜も例によってやたらに悪のり的に騒いだというわけです。ギターあり、何あり、ナニありというわけで想像はつくと思います。p84冬崎流峰 1969/11/09「逢う」

 まぁ、イメージ的には、この「解放区」の延長に雀の森があったと、言えないこともない。

 今では、あの火炎瓶ゲバルトは民主改革的意味からかけハナレてしまっているということはあきらかになってきている気がします。これについては来週書きたいと思いますけど、それだけを誇張するマスコミ主流派には全く絶望あるのみです。

 立ち上がった人々の意味するところの光明はいかにして実現されていくのでしょうか。この情報時代のマスコミの力を考えたとき、僕は戦慄を避けることができません。p89冬崎流峰1969/11/23

 そして、深読みすれば、非暴力、反マスメディアという思想の芽吹きが色濃く感じら得るわけで、この芽吹きがやがて雀の森にも反映され、その後、生涯をかけて、その道を歩いた流峰もまた、ひとつの生き方を貫いた、ということにはなるだろう。

 大学ってホントに何でしょうか。最近、担任と両親の面接が月曜日にあったわけで、それを前にゴタゴタとまたまた親子対立を深めているわけだったのです。要するに、特に母上は、息子への過信と、そして親族一同的観点から、いまだに東大を受けて欲しい等とわめいている。

 俺としては、受かるや否やを全く別にして、東大という問題の頂点に飛び込むのはやだ。そもそも大学というものに行く意味の重要な一つの意味として仮定した「家から離れる」ということに関しても、全くダメということなのである。

 俺としては絶対に浪人しないということを考えて、国立一期=金沢、二期=弘前の線で行きたかったのだけど、親父にいわせると「バカナ線」なんで、これも親にいわせると大妥協で東北大のせんでいく事となっております。

 大学へいったら、経済学、農業学、心理学を三本柱として、できうる限り具体的行動としての社会矛盾への抵抗をせず、自己嫌悪にならない程度に学び、大学というものを無視的に利用し勉強する。

 あくまで30才までの職ということを念頭にいれて、今、メイン候補となっているのは農業だけど、とにかく大学に入ったら、22歳以後を全く自力でやりたい。最低限、家には住まないというせんで考えている。

 家庭的に金は東京の私立か、地方の国立かというところで家をでるためには国立にうからにゃならないわけである。p93冬崎流峰1969/12/21「逢う」

 流峰の祖父は「東洋経済」編集長高橋亀吉である。であるからして経済を筆頭に持ってくるのは血筋だとして、農業学と心理学を三本柱に入れているのは、共感できる。

 特別に書ク事モナイミタイカナ! デモ、日本の詩人の中で唯一ボクの心に同化できるものを残した「立原道造」と、全作家中圧倒的にボクの心と思想に共鳴してくれた「アルベール・カミュ」この二人だけはストレスの世界とは別のところに住んでいる。

 Michizouさんなんか、サイセイなんて、ワケノワカラン奴のサイテイ野郎の弟子だなんて全然思わせない。そして詩の本来の姿であるべき、受けとる方によて決定されうるイミというものの真髄が、スゴクワカル気がするのだ。大学ナンテクソクラエ!p99冬崎流峰1970/01/25「逢う」

 流峰は自らのミニコミを「ムルソー」と名付けていた。ムルソーは、カミュ「異邦人」の主人公の名前である。

 かくかくしかじかがあって、当時の受験勉強と受験の苦しいレポートがあって、この一連の手紙は終わりとなる。その後、流峰は第一志望合格となり、仙台に見事引っ越しすることができたのだった。このプロセスがあったればこそ、やがて1972年からの「雀の森」へと繋がっていくのである。

 もうちょっと拾い読みして、もう少し深読みしたいところだが、今回はこの程度にしておく。この本、装丁は戸井十月が手掛けている。流峰の部分以外、今回は割愛するが、気付いてみれば、目次の前に、バガバッド・ギータの一文が引用されている。

 はじめの言葉

 人の心は

 揺れに揺れ

 騒いでやまず

 強情で

 ・・・・風によく似て

 始末におえぬ・・・・・・

 バアバガド・ギータ 高見順訳   巻頭言

<2>につづく

|

« DVD 「ノルウェイの森」 原作 村上春樹 | トップページ | 「雀の森の物語」<1>1974「時空間」8号 »

24)無窮のアリア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「ぼくは深夜を解放する!」続もうひとつ別の広場 桝井論平 & 冬崎流峰<1>:

« DVD 「ノルウェイの森」 原作 村上春樹 | トップページ | 「雀の森の物語」<1>1974「時空間」8号 »