「ミシンと日本の近代」 消費者の創出 アンドルー・ゴードン<1>
「ミシンと日本の近代」―― 消費者の創出<1>
アンドルー・ゴードン (著), 大島 かおり (翻訳) 2013/7 みすず書房 単行本: 434p
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わぁ、面白そう。何気なく立ち寄った図書館をブラついていた時、開架棚にこの本を見つけて、実にグラっときた。まずい、これはまずいよ。今日、このまま、この本を借りて帰ったら、もう仕事は手につかないよ。こんな忙しい時期に、こんな本を読んでいていいの。
いやいや、それよりなにより、私自身が、長いこと封印に務めてきたシークレット・ワールドの伏魔殿の封が切られてしまうよ。それでいいの。
いえいえ、それはいけません。私はその覚悟はできてません。私はその本を棚に戻し、逃げるように図書館を飛び出してきた。そう、逃げ出してきた、というのは正しい。逃げるしかない。どうしようもないんだもの。逃げるしかない。
だけど、私は知っている。私は逃げ切れない。私は、この本と、いずれ、真正面にぶつからなければならないだろう。
私は、いくつかの職業についたが、ある期間、それは決して長くもなければ、短くもない、10年間の間、私はミシン屋さん、と呼ばれていた。なぜそう呼ばれるようになったのか。なぜ、そう呼ばれることをよしとしてきたのか。そして、その時、何があったのか。
そういうことを、いずれはメモしておかなければならないのだ、といつからか覚悟はしてきた。しかし、時は今なのかどうか。別な時に、もっとまとまった形で、しかも、自分がもっと納得できる形で表出したほうがいいのではないか。いつも逡巡してきた。
しかし、もう逃げ隠れはできないだろう。時は今だろう。少なくとも、図書館で、この本に出会ってしまった時、そう覚悟した。正直言えば、私はこの本を読まなくてもいい。書いてあることの、大体の全体像は、まぁまぁ想像できる。新しい事実は、そうそう多くはないだろう。
それでもやっぱり、この本の力を借りたい。私は、この本を読んでいる振りして、実は、私時自身の体験と意見を述べておきたい。それは、長くもない、短くもない、私の人生の中の、ある時期を、きっかりと彩っていた世界なのである。
もう、すでに色褪せてしまった記憶も多い。いつかメモしようと思ってきたが、すこしづつ忘れられつつある。そして、年齢とともに、省略され、脚色され、意味をとっちがえて、誤解が誤解を生みだすような記憶になりつつある。
それに還暦を迎えた私の寿命とて、いつまで許されているのか、わかったものではない。とにかく、まったくの準備不足ではあるが、時折、カムアップしてくる記憶の断片を、ランダムに、アバウトに、メモし続けることにする。
いずれ記憶は払拭されるだろう。そうそう簡単に払拭されるとは思っていないのだが、まぁ、出切ったなぁ、と自分が納得するまで、時おり、思い出して、ここにメモを連ねることにする。
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