「アティーシャの知恵の書(上)」The Book of Wisdom, Vol 1 OSHO<2>
<1>からつづく
「アティーシャの知恵の書」(上) The Book of Wisdom, Vol 1チベットの覚者を語る<2>
OSHO/スワミ・ボーディ・デヴァヤナ 2012/03 市民出版社 590p
★★★★★
3・11から、ちょうど三年である。この記念すべき日にあたって、何か気のきいたことを言わなくてはならない。そうは思うのだが、むしろ、何も記さず、沈黙の黙とうを捧げるほうが、現在の私の心境にはかなっている。
しかしながら、あとから自分のブログを読んだ場合、何も記していないと、本当のところはどうだったのか、忘れてしまっているかもしれない。脈絡がなくとも、メモだけは残しておこう。
現在の私は、読みかけていた本のほとんどを図書館に返し、年度末の事務処理に追われている。年に一度の事務処理は、まさに年に一度なので毎年やり方を忘れている。一からのやり直しである。ルーティンワークなのに、なんとも、面倒くさい一年に一度である。
ええい、めんどうくさい、と思って逃げる先は、タブレットであったり、やっぱり読書であったりする。図書館本は全部返してしまったので、今は「アティーシャの知恵の書」をゆっくり読みなおしている。これにはそれなりにいろいろ訳がある。
Osho本という奴は、「読書」には適していない。「存在の詩」以来、私はOsho本を最初から最後まで一気に通読したことは、たったの一度もない。必ず引っ掛かるのである。第一章、あるいは、最初の一頁、いやいや、最初の一行、時には、表紙をみただけで、「ストップ」してしまう。
だから、手持ちでありながら読破していないOsho本は山とある。私はそれを積ん読本とは思わない。Oshoの本は、読書ではなく、私にとっては瞑想だ。なにか、今日、瞑想するネタがそこにあれば、それはそれで、十分なのだ。
そうはいいつつ、ついつい読書としては、安易なスカスカ本に流れやすい。次々とでてくるスキャンダラスな話題に、ついついついていってしまうのだ。これはいかん。いつかキチンとOsho本に戻ろう、と思うのだが、Osho本と対峙するのは、私にとっては、いつも一大事である。
今回は、翻訳をされた方が、当ブログを訪問してくださり、そう言えば、と、この本を思い出したのであるが、それは、ひとつのきっかけに過ぎないのだ。むしろ、もっと大きな流れの中で、翻訳者の方もまた、何事かに動かされていた、ということを感じないわけにはいかない。
詳細は省くが、当ブログではプロジェクト567というモノが走っていた。今でも走っている。だが、実はそれは裏方作業であり、あまり表面には出ない、出さない、出にくいテーマでもある。
大雑把にいえば、私の人生上の問題であり、自分が56歳と7ヵ月になる時に、人生の一大転機が訪れるだろうという予測が、以前からあり、だいぶ前から私はその準備をしてきていた。大きくは、それまで関わっていたプロジェクトやボランティアをほとんど終了させ、極めてノーマルな、あけっぴろげな状態にしていた。
何が起こるのだろう、という期待感とともに、茫漠とした心もとない不安な状態でもあった。その時に、起きたことについては、別途、隠喩も含めて、すでに当ブログに記しておいた。
まず明確な形で、このわがプロジェクト567を見破ったのは、 ホワイトターラーだった。
この絵を描いた人が、展覧会の後に、あなたは何処に行きたいの、とホワイトターラーに聞いた、とのことである。と、そうしたら、ホワイトターラーご本人は私を指名したそうなのだ。
彼女はこの絵を我が家の床の間に飾ってくれる時に、そう言えば、あなたはちょうと56歳と7ヵ月ね、と、つぶやいた。私の、ささやかな、私的プロジェクトは見破られていた。彼女は、そのお祝いに、この絵をプレゼントします、とおっしゃってくださった。
私は、いまだに、この絵についてのお礼ができていない。なんと言っていいかわからない。この絵にどのような秘密があり、どのような力があるのか、どのような言われがあるのかさえ、キチンと整理しないでいる。今は、事務所の、一番高いところに飾ってある。
さて、この本のテーマであるアティーシャとは、誰であっただろう。 アティーシャのハート瞑想、ってのが、「新瞑想法入門」Oshoの瞑想法集大成(1999/03 瞑想社)に書いてあったね。かつてチベット追っかけをしていた時、山口瑞鳳「チベット」(1988 東京大学出版会)にも、盛んにアティーシャが登場した。
アティーシャは11世紀のインドの学僧で、インドで深く仏教を学んだあと、チベットに広範な形でその神髄を伝えた人だ。中国へ仏教を伝えた菩提達磨のような位置にある人である。チベット仏教の現在の中心となっているダライ・ラマは、アティーシャの直系と言える。
アティーシャがインドにいる時、チベットにいくべきかどうか、逡巡したそうだ。その時、観世音菩薩の目から涙が流れ、左の目からは緑ターラーが生まれ、右の目からはホワイトターラーが生まれたという。それを見たアティーシャはチベット行きを決意したと伝えられる。
緑ターラーは、火急的速やかに救いを求めている人々へ駆けつける。具体的な救い、ある意味、男性的、父親的な救済であるとされる。それと対になるホワイトターラーは、包み込む愛、慈悲心、母親的慈しみであるという。
アティーシャの技法はまさにその反対だ。息を吸うときは、過去・現在・未来における世界の生きとし生けるものの不幸と苦しみを吸い込みなさい。そして息を吐くときは、あなたのすべての喜び、すべての至福、すべての祝福を吐き出しなさい。息を吐いて、あなた自身を存在の中へと注ぎなさい。これはすべての苦しみを飲み込み、すべての祝福を外側の世界へ注ぐという慈悲の技法だ。
そしてやってみると、あなたは驚くだろう。自分の内側に世界のすべての苦しみを受け入れると、たちまちそれは苦しみではなくなる。ハートは即座にエネルギーを変容させる。ハートとは変容させる力だ。不幸を吸い込みなさい。すると祝福に変容される----そうして、それを吐き出しなさい。 Osho p40「三倍偉大なアティーシャ」
3・11以前と、3・11以後では、人生が大きく変わったという人は多い。肉親を亡くし、生活基盤を失ってしまった人々であれば、なおさら、その通りであろう。自らに直接的な被害が及ばなくても、深く3・11の意味を問う人は多い。
それはそうだと思うが、当ブログにおいては、ちょっと意味合いが違う。3・11は、プロジェクト567の7番目の出来ごとであった。寓意的に言えば、3・11は、プロジェクト567の中において予言されていた。3・11はプロジェクト567の成就でもあった。
だから、正確に個的に言えば、3・11以前、3・11以後ではなく、プロジェクト567以前、プロジェクト567以後、ということになる。そして、3・11を挟んで世界は一変してしまったのではなく、当ブログにおいては、3・11を挟んで、粛々とプロジェクト567は深化している、ということになる。
宮澤賢治は、明治三陸大津波のあった1896年(明治29年)に生れ、昭和三陸大津波のあった1933年(昭和8年)に亡くなった。彼は多くの作品を遺したが、津波に直接に触れる作品を遺してはいない。
当ブログでは、3・11後、沢山の賢治作品に触れた。ロジャー・パルバースの「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」(2011/11 NHK出版)に毒づいたり、石寒太「宮沢賢治祈りのことば」(2011/12 実業之日本社)に救われたりもした。賢治ゆかりの花巻の林風舎を訪ね、その血筋である宮澤和樹監修「宮澤賢治 魂の言葉 」(2011/06 ロングセラーズ)に何事かを求めようともした。
賢治は愛の人であった。慈悲の人であった。その賢治が津波のことを知らなかったはずはない。その被災した人々に慟哭の涙を流さなかったはずはない。しかし、賢治は、津波より、被災より、さらに、もっと大きなものを見ていたのである。
口はばったい言い方をすれば、3・11は当ブログにおいては織り込み済みであった。あってこそ当然の出来ごとであったのである。もっと奇をてらった言い方をすれば、3・11のためにこそ、この人生があったとさえ言える。
3・11後、もっとも感動した本に飯沼勇義の「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!(1995/09 宝文堂)がある。その科学性、その先見性、その反逆性、その意識志向性に感動する。彼の最近刊「解き明かされる日本最古の歴史津波」(2013/03 鳥影社)は、現在の当ブログのナビゲーターでもある。
飯沼史観の中でバックボーンの一つとなっている千葉富三「甦る古代 日本の誕生」(2009/7/1 文芸社)にも、雄大な歴史観を感じている。ホツマツタエの展開するところの、縄文の世界へと、3・11後の未来を繋げてみないこともない。
科学には今、偉大な瞑想者たちが必要だ。それが無理なら、この地球は運に見放されている。今、科学には自分のマインドを利用できる人々が、自分の存在の主人公である人々が、意識的なやり方で科学を利用できる人々が必要だ。そうでなければ、私たちは世界的な自殺を犯す瀬戸際にいる。p78 Osho「百合の光明」
3・11を大きくはるかに凌駕する宮澤賢治やホツマツタエ、そして、ホワイトターラーやアティーシャの慈悲。再読したいこのカテゴリこの3冊「プロジェクト567」編において、当ブログとしては、この「アティーシャの知恵の書」(上)をその中の一冊としてリストアップしておいた。
海岸線を中心とした被災地がいまだに復興していないこと、これだけの被災がでているのに、いまだに原発を推進しようとする愚かな群衆がいることに、唖然とする。もちろん、これらひとつひとつは、今後、丁寧に克服されていかなければならない。
そして、3・11を単独の、特別な事象とみることに、当ブログは積極的ではない。むしろ、3・11はあり得ること、これからも似たような事象が続出することさえ、当然だろうと思う。そして、それを超えていくこと、人類に直面すること全ての課題を超えていくこと、ここにこそ、本来の課題があると思う。
ホワイトターラーや、アティーシャの来訪を思い、3・11三年目の今日、この時間、自らの身の上に起こった、内面的な、リアリティとして、このメモを残しておく。
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コメント
何気にネットサーフィンしていたら、いつも完全に無視されていると思っている我がブログについて、なにやらコメントのあるページを発見した。
http://mahorobanomori.web.fc2.com/Osho-Diary-2015-11.html
なるほどね。ありがとう。このような意見があるのだ。当ブログは特に論評をしているわけでもなく、ただただ読み進め、いたずらにメモを残しているだけで、「他人に読まれてしまっても仕方ない個人的日記」のようなつもりで書いているので、あまり上等なブログとは言えない。
逆にいえば、あまり飾らないところの本音も多く書いてあり、この方のような意見にも、なるほどもっともだなぁ、と納得。
私には私なりのOSHOに対する想いもあり、他の人には他の人なりの想いもあるので、いろいろ聞くことは楽しい。
投稿: Bhavesh | 2016/03/14 14:04