シリーズ「ありがとう」<10>ヒッチハイクの運ちゃん達
シリーズ「ありがとう」<10>ヒッチハイクの運ちゃん達
古い写真をガサゴソ整理していたら、現像していない写真フィルムがゴソッと出てきた。存在するのは知っていたが、確認することは面倒くさいので、長いことそのままにしてあった。多分、私が死亡すれば、誰も確認することなく、遺品片づけ屋さんにでもお世話になるのだろう。
となれば、いずれ廃棄処分になるとは言え、余裕のあるうちに一通り確認しておくことも、フィルム達に対する「ありがとう」ではないのか。そう理解して始めてみるのだが、白黒、カラーを問わず、ただただ目視で古いフィルムの内容を確認するのは至難の技である。
この時、我が家のプリンターにはフィルムスキャナーの機能がついていることに気がつき、とりあえず、あちこち引っ張り出してサンプリングを始めてみることにした。意外や意外、今となってはお宝画像が出てきて、ネット上の人気を博する画像もあったりする。
この三枚組の画像は、おそらく1974年頃のヒッチハイクの画像である。私がフィルムを持っているということは、私が撮影したか、私が映っているか、どちらかなのだが、どうも、このヒッチハイカーが誰だか確定できない。
ドライブインの名前もあり、バス停も写っているところから、おおよそ、当時、鳴子温泉郷の「星の湯」からの帰りらしい、ということは分かるが、それ以上のことは判別できない。特に、このリュックサックの特徴がどうも記憶にない。ヒッチハイカーのシルエットとヘアースタイルは、私だとそのような気もする。
この画像では、二人組のヒッチハイクにして、トラックを狙っていたらしいが、助手席に二人乗せてもらい、リュックは後ろの荷台に積み込んだのだろう。まんまと成功し、多分、これで古川あたりまで戻って、さらに仙台行のクルマを探して乗せてもらったものと思われる。
私がヒッチハイクを始めたのは高校二年生の16歳の時、自転車で佐渡まで行った時だ。その時のことは、このシリーズ「ありがとう」でも一番最初に触れておいた。そして、最後は、おそらく1975年の星の遊行群=ミルキーウェイ・キャランバンの夏に、札幌からアパッチと仙台まで帰ってきたのが、最後ではないだろうか。
だから、私のヒッチハイク人生は、実は16歳から21歳までの僅か5年間ということになる。その後は、自動車免許も取り、クルマが側にある生活になったので、ヒッチハイクをすることはなくなった。
ヒッチハイクにまつわる思い出はたくさんある。おそらく書ききれないだろうし、もう記憶から忘れ去られつつある。もう、それでいいのだと思うが、私自身は、ジャック・ケルアック「路上」につながる、貴重なオン・ザ・ロード体験なので、本質的に忘れることはない。
あれだけお世話になったヒッチハイクなので、何れ私が運転手になったら、積極的にヒッチハイカーを拾ってやろう、と意気込んでいたが、時代は、モータリゼーションが極度に発達し、高度成長の中で、ヒッチハイカーが極端に減っていった。
かくいう私は、この40年間のドライバー人生で、ヒッチハイカーを拾ったことがあるのは、ほんの2~3回。それも、せいぜい数十キロという単位だ。全国、網走から沖縄のドライバーにお世話になったので、いずれ私も運転手として、新しいヒッチハイカー達を拾うことによって恩返ししようと思ってきたが、それは、まだまだ達成していない。達成する見込みはもうない。
ここで、いつも拾っていただいた、全国のドライバーのみなさんに、お礼を申し上げておきます。ありがとうございました。あなた達がいなかったら、私は全国津々浦々まで行って、自分の目で確かめる、ということができませんでした。
そして、泊めてもらったり、遠回りしてこちらの目的地まで送ってくれたり、あるいは私を乗せるために減速したところ、オカマを掘られてしまったりと、迷惑もずいぶんかけました。荷降ろしを手伝って、小遣いをもらったこともありました。ご飯をおごってもらったことは、何度もありました。
クルマを拾うまで何時間もかかり、ようやく乗せてもらったら、眠くなってしまい、そのまま助手席で何時間も眠り続け、黙って目的地まで乗せてくれた運ちゃん。覚醒剤を打ちながら、もう一週間運転しっぱなしだ、と自慢していた、体の小さな長距離ドライバー。
元・力士の石材運搬車の、体のどでかいお兄さんには、最近土砂崩れがあったのはあそこだ、と教えてもらったけど、旅の途中は新聞も、テレビのニュースも見ていないので、そんなことがあったとさえ、知らなかった。
ファミリードライブ中のお父さんは、犬まで連れて旅行中でした。そんな時なのに、新車がよっぽどうれしかったのか、私まで乗せてくれて、なんだか団らんのところ済みませんでした。ハンドルのビニールカバーが初々しかったですね。
津軽で、竜飛岬まで乗せてくれた魚屋のオジサン。やさしいやさしいオジサン。魚の匂いがむんむんする車内は素敵でした。やさしく何度もこちらに質問していただきましたが、あなたの津軽弁は、旅行者の私には、たった一語も理解できませんでした。ただただ、あなたの笑顔が素敵でした。
沖縄では、まだ右側通行で、ヒッチハイクであげる指が反対の手になるのは、最初はちょっと戸惑った。そして、乗せてくれたのは基地に勤める米兵だった。私は英語はダメだったが、レオンが一緒だったから、何もこわくなかった。なんせレオンは、後に、英語の同時通訳の、そのスタッフを育てる指導者になる人である。心強かった。米兵も、19歳のレオンの英語をほめていた。完璧だった。
とにかく、私は今日まで、このようにして、たくさんの人々のお世話になって生きてきました。ありがとうございました。
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