シリーズ「ありがとう」<3>会津坂下町のお寺さん
シリーズ「ありがとう」<3>会津坂下町のお寺さん
僕がヒッチハイクを始めたのは16才の時だった。もともと、純農村地帯の生家の隣に、パイパス道路ができたのは、1960年代初めから。東京オリンピックに向けて、日本は高度成長時代に向けて、走り出していた。
バイパス工事は何年もかかった。田んぼを測量し、埋め立て、ダンプが何度も往来し、砂利や玉石がどんどん積み上げられた。ブルトーザーがならし、パイプが埋められた。掘には大小の橋が掛けられ、ヒューム管が埋めらた。
道路はまだ舗装されず、あちこちが工事中で、ブツブツ切れていた。だんだん繋がって、なんとか一本道に見えないこともない、というところまできた。その頃から、どこからやってくるのかバイクや自転車の旅行者たちが目につくようになった。
道路は、歩道はなかったが、とうとう舗装道路として開通した。ロードサイドには、土が埋められ、工事待ちの空き地がどんどんできた。どこからやってくるのか、自転車の青年たちが、夕方には、空き地に小さなテントを立てて、泊った。
小学生の目には、奇異なものと、憧れと、混ざり合ったものが見えるようになった。敷地に泊めたこともあったし、自宅に泊っていったヒッチハイカーたちもいた。そんな風景の中で、私には、旅に出る、というストーリーが当たり前のものとなっていった。文通をしたヒッチハイカーもいた。
高校二年生の秋。自分もヒッチハイクにでることにした。なぜ秋なのか。一年生の夏は、バスケットボールの練習で忙しすぎた。二年生の時は、新聞部に移籍したし、時代もさらにオープンになっていた。夏休み、クラスメイトが東北一周をしてきた、と自慢していた。それを聞いた私は、いいなぁ、と思った。
彼が夏休みに東北一周なら、私は、秋休みの5日間に、佐渡島にしようと思った。なぜに佐渡だったのだろう。誰か先輩は、房総半島を回ってきたと言っていた。私は、まだ日本の日本海側に行ったことがなかった。ひとつの目標としては、ちょうど手ごろだったのだろう。
前の日に思いついた。学校に通っていた自転車で、体育で使う運動着を来て、荷物はリュックにつめて荷台に縛りつけた。朝起きて、母親に、佐渡に行ってくる、と告げた。驚かない筈はない。息子はそう言っているが、本当にそうするとは思っていなかっただろう。隣町まで行って、きっと、戻ってくると思っていたという。
自転車で旅することは割と快適である。一時間も踏めば、いままで見たことのないような風景を走っている自分に気づく。どれだけ踏んだだろう。どんどん風景は変わった。いつの間にか福島に入り、西に向かって上り勾配になり始めた。
私は誰かに聞いたように、ロードサイドで左手を上げ、親指を上げた。西の空はだいぶ暗くなり始めていた。寒くはなかったが、ちょっとさびしくなりつつあった。一台の、地元のトラックが止まってくれた。ヒッチハイクの始まりである。
そのトラックが山を越えるのならば、そのまま乗っていたかったが、地元のトラックなので、しばらくして降ろされた。もう山道だった。細い薄暗い山道だったが、運ちゃんに聞いたら、近くにお寺があるよ、と教えてくれた。
私は、重い足を引き、荷物を積んだ自転車を手で押しながら、寺を訪ねた。もう夕方で、暗くなりつつあった。お寺には、50年配のご婦人が一人しかいなかった。こちらの事情を聞いて、一泊させてくれることになった。
夕飯をご馳走になり、風呂にも入れてくれた。ただ、泊るのは、本堂や庫裡から離れた、小さなお堂。仏像や額縁などがあるが、明かりはない。真っ暗だ。木の扉を閉めてしまえば、漆喰の闇。でも、疲れた体を休めるには十分だった。シュラフを開いて、寝た。
なかなか寝付かれなかった。あの奥さんには息子があり、東京に行って警察に務めているという。この前あった、安田講堂でも、警備で出動していたという。機動隊だったかもしれない。あるいは、あとでちょっと考えたが、彼女はこちらを警戒し、すこし話しを膨らませて、こちらを威嚇したのだったかもしれない。いずれにせよ、その晩、彼女は、人気のない山の中の小さなお寺で一人で過ごしていた。
私は、お堂の木の扉を開けて、外にでてみた。その晩は、月のない晩だった。側に大きな柿の木があった。赤い柿の実がなっていた。その柿の木の枝を通して、星が見えた。月もなかったが、その晩は雲もなかった。満点の星空がひろがっていた。これが、私の一人旅の最初の夜だった。
16歳の私は、この時、一宿一飯のお世話になった、このお寺さんの住所を聞くこともなく、次の朝、出発した。でも余りにも感動したので、町の名前だけ覚えていた。会津サカシタ町。いつか、同じところを通ったら、正確な位置は分からないけれど、いつか、ありがとう、って言いたかった。きっと同じところにまだあるだろう。
だが、最近ようやくこの町の名前が会津バンゲ町、という名前だと知った。会津坂下町。あれから44年が過ぎた。お世話になった小母さんは、まだ御存命だろうか。御存命なら、おそらく百歳になられることだろう。息子さんが警察官だったというから、訪ね歩けば、その所在は、さもなく、分かるに違いない。
いつも行きたいな、と思いつつ、まだ行ったことがない。そのうち何時か行く機会が来るかもしれないが、まずは、このシリーズ「ありがとう」の第一回目のあの小母さんのことが思い出されてきた。
会津坂下町のお寺の小母さん、ありがとうございました。あれは、私の旅の始まりでした。
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