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2014/04/27

「生存への行進」―いま生命の革命が始まっている ! 大友 映男<2>

<1>からつづく

Tomo3
「生存への行進」いま生命の革命が始まっている! <2>
大友 映男 (著) 1982/04 新評社 単行本  268ページ

この本があったことを思い出させてもらい、遠くの図書館から取り寄せて、ゆっくりと読みつつも、その中身の濃厚さに、ついつい、途中で時間を取り、しばし想いをめぐらせながら、また読み始めるということを繰り返している。

 それでもまだ、読み終わっていない。はぁ、いつまで続くのか、この行進は、というほど濃厚である。この本、82年には出ているが、その元となっている一年間の旅は、1979年から80年にかけてのことだ。

 ひとつひとつの旅が強烈なレポートとなっているので、まじめに読んでいると、いつまで経っても終わらないような気になってくる。そして、あの当時、私自身はどうしていただろう、と考える。

 彼らの旅は、この私達の街も通り過ぎていった。そしてその記述もあるが、決して多くは語られていない。つまり、彼らの旅と、私の街は、大きな接点を持ってはいない。なぜだろうと思う。あの70年代末から80年初めにかけて、この行進とはかなり離れた位置に私はいた。

 これほどまでに熱い青春を生きる人々の前で、私は自らを語る力を失う。ちょっと怖気づいてしまう。言うべきではないのかもしれない。でも、想いだけはメモしておこう。私もまたインドの一年間の旅から帰ってきて、79年春には、農業実践大学校というところで学び始めた。全寮制だったし、基本若い学生たちと一緒であるから、楽しくないはずはない。

 だが、そこで学んだものは機械化農業であり、化学肥料や農薬多用の農業であった。全寮制の中で、私なりに食養にはげもうとした。しかし、限られた提出される寮の食事の中で、寄り分けて食事をすることは、単に偏食になってしまいがちであった。

 私はこの学校を二年間で無事卒業したものの、体調をこわし、最終的には半年間の入院生活を送ることになった。しかとした原因は分からないが、結果的には、抗がん剤と放射線治療を受けることになった。医師による余命半年の宣言はあったものの、その後、なんとか無事生還した。

 著者によるこの本に書かれている旅は、1975年の「ミルキーウェイ・キャラバン」をもっとヴァージョンアップしたものだった。75年は、叛文化運動の運動体の共同キャラバンというイメージだったが、この79年から80年にかけてのこの「生存への行進」は、それを更に、著者なりに精選したものとなった。

 中核となっているのは、有機農業であり、マクロビオテッィクなどの食養であり、自然治癒力を高める健康哲学である。あるいは、そこから来る反原発運動であり、また、地域に根差した共同体的生活であった。

 比較するような内容ではないが、結局、私もまた全寮制という共同生活の中で、農業を学び、食事に留意し、病気を得て、静養したというものの、結果としては、放射線治療を受けて一命を取り留める、という異空間にいたことになる。

 これだけ濃厚な一冊を残した著者だけに、他にも著書はないものかと検索してみたが、本として出版され、図書館に収まるような本はこれ一冊のようだ。Youtubeでは、彼の歌の動画が出てくる。

 この動画は何年のものか定かではないが、おそらく極めて現在に近い時点での撮影であろう。アップが2012年の9月だから、その当時か、少なくともそれ直前の記録であろう。ここに見られる著者の姿は、私達が青春時代にみた彼の姿そのものであり、彼に対して持っているイメージが大きく変わっていないことを教えてくれる。

 このような生き方をし、このような表現形態を持っている著者にたいして、一貫した生き方をして、素晴らしいな、と感動するとともに、彼には彼の道があったのだ、と思って、自らとはすこし距離をおこうとする自分がいる。

 こまかい差異については、ここではこまかくは言うまい。それは個体差であり、個人史的独自性でもある。私は運動家でもなければ、実践家でもない。芸術家でもなければ、あえて人前で発表しなければならないほどの独自性は、ナニひとつないようにさえ思う。少なくとも、著者のような人生を送った人の前においては、なおさらそう思う。

 この本を読むことは、ある意味、山尾三省の「インド・ネパール巡礼記」 を読むときと同じようなシンドさを感じる。読み物としてはヘビーである。書かれているひとつひとつが重すぎる。もっと簡単に曖昧に、ちょっといい加減に、言いたいことの中心となる部分をシンプルに書きだしてくれたら、それでいいじゃないか、とさえ思う。

 おそらく出版マーケティングとしたら、この本はあまり効率のよい本でない。人は簡単にこの本を手にとらないだろう。内容の深さに比して、決して多くの人に読まれないのではないか。私のように途中で投げ出したくなる読者もいるに違いない。

 反面、本という本来の目的からすれば、この本ほど記録性に満ちている本はない。その記録性、その誠実性、その真摯さ。科学と言うものが、人生というものが、真実を求める旅なのであるならば、この本に打たれて、何事かを感じてしまう読者もさらに多くいることだろう。

 本というもの、読書というもの、簡単に読まれ、簡単に捨てられるエンターテイメントというものもあってしかるべきだとは思うが、私はそれを好まない。読書というもの、もともとヘビーなものであるのだ。そういった意味において、この本は私のエンターテイメントにはなってくれないが、ちょっとヘビーで、できれば目をそらしたくなるような重いテーマを、結局は最後まで読ませてしまうような、重要なメッセージが込められているように思う。

 重要な一冊である。

<3>につづく

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