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2014/04/02

「ぼくは深夜を解放する!」続もうひとつ別の広場<2> 桝井論平 & 冬崎流峰

<1>よりつづく

Sinya
「ぼくは深夜を解放する!」 続もうひとつ別の広場<2>
桝井論平 & 冬崎流峰1970/05 (株)ブロンズ社 単行本ハードカバー 180p

 
 そろそろ返却期限が近付いた。名残惜しいが、一旦は返却することにしよう。パラパラめくってみると、それなりの当時のことが思い出されて、しばし手を休めて瞑目してしまうことになる。もっといろいろ書きたいことはあるのだが、また次の機会に譲ろう。

 今時、おそらくこの本を手にとって眺めている者はそう多くあるまい。論平本人も、流峰本人も、すでに忘れている可能性すらある。いまさら、小さいことをつついて、どうのこうのと云っても、もはやお仕舞いである。

 この本を読めば、なるほど、あの時、流峰がああいう態度を取ったのはこういうことか、とか、ここから、こういう志向はずっと続いていたんだな、とかいうことが分かる。ある意味、貴重な本である。

 さて、いつ再開するか分からない.。次回までに忘れてはいけないので、ちょっと気になる部分を箇条書きだけしておく。

Ry3 週刊雀の森バックナンバーを見ながら、執筆中の流峰 1974年頃

1)流峰は、石橋湛山のブレーンで、東洋経済新報の創立関係者・高橋亀吉の孫である。雀の森時代に、亀吉翁は文化勲章を受章した。亀吉爺さんは、流峰が大学を経済専攻にしたので、とてもうれしがっていたという。

2)流峰は、立原道造や、カミュ、あるいは、短命だった詩人を多く愛した。自ら、遺書集として「東雲(しののめ)」と銘打ったノートを書き続けていた。私は、それを覗いたことはないが、いつか、この男は早晩亡くなってしまうのだろう、と覚悟していた。また、彼はそう周りに「公言」していた。

3)残された遺書集を出版するのは、私の役目だと思っていた。だから、多少は覚悟して、付き合っていた。つまり、彼との関係を維持する原動力の一つは「死」にあったと言える。

4)しかし、彼は「死ななかった」。悪次郎が雀の森を離れていったのは、可笑しな話で、残酷な話ではあるが、この流峰の「死」が完結しないことも、一つの要因になっていた。私自身も、最終的には、流峰の「死」とやらが、結局は、青年の感傷に過ぎないのだ、と断定することによって、1975年暮れ、雀の森を離れた。

5)後年1988年ころになってからだが、流峰に、あの「遺書集」はどうなったか、と尋ねたことがある。当時はすでに関東圏に転居していた彼だが、その答えは驚きのものだった。あの遺書集をゴソッと一式バックに入れて、電車に乗ったところ、降りる時に網棚に忘れてしまい、それで紛失してしまった、という。

6)なんと不条理なことだろうか。彼の青春のすべてがつまり、彼ひとりだけではない、回りの人間の人生もかかっていた一遍の原稿たちは、杳として、電車とともに消えたのである。捨てたとか、燃やしたのではなく、紛失した、ってところに、まぁ、僕らの人生の不条理さを感じる。

7)1989年頃、彼は縁あって、インドのOshoコミューンを関係者とともに訪ねているが、サニヤシンになることはなかったし、特段、その思想に影響を受けた、という風には、私個人は感じていない。

8)今でも、密とは言えないが連絡はあり、やはり、私の人生を彩る、大切な友人であることには変わりない。云い過ぎたところは、友人のよしみで、許してほしい。LOVE

<3>につづく

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