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2014年4月の78件の記事

2014/04/30

「ボーイズ・ファイター」 1966 肉筆同人誌

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「ボーイズ・ファイター」
増田中学校1年A組有志 1996/03 ザラ紙肉筆同人誌 B5版 100ページ
Total No.3221

 確か午前中の4時間目、まもなくお昼の弁当の時間になる前の習字の時間だった。習字の時間で、担当は音楽と一緒のオオトモモモコ先生。みんながザワザワと、一生懸命書き方をやっている時、ひとつ班の離れたニュートンのところに、ちょっと背中を丸めて近づいていった。そして、小声で言った。「ねぇ、なんか面白いことやろうよ」。

 1966年、ちょうど新学年が始まったところだった。時代は東京オリンピックが成功し、所得倍増の掛け声の中、インフレ経済が右肩あがりで高騰し始めたころだ。6月6日にはビートルズがやってくることになっていた。

 ニュートンは、いつもクラスの人気者だった。面白いことを常に考えつくし、あまり怒ったりしない。いじられキャラではあるが、馬鹿じゃぁない。アイディアマンである。なにか思い付いてくれるはずである。

 彼は本ずきで、SFなどもよく読んでいた。こちらは新聞部でバスケット部。彼は野球部のマネージャーだ。なかなか一緒の活動のタイミングがない。9年間一緒の学校に通ったが、結局彼といっしょのクラスになったのは、この中一時代だけだった。

 バンドを作ろうよ、とか、自転車で旅をしようとか、いろいろ話題はあったがまだまだ五里霧中の中学生たち。結局私たちの計画は、雑誌を作ろう、ということだった。モデルは、その頃、小学館から出されていた中学生向き少年雑誌「ボーイズライフ」。名前もそこから連想して「ボーイズファイター」と決った。

 決まったとはいうものの、英語は習い始めたばかり。職員室に行って、サトウシゲジ先生に、この雑誌のタイトルがおかしくないかどうか、聞いてみた。ちょっと首をかしげていたが、いいんじゃないか、とお墨付きをもらうことができた。

 後日、すこし英語がわかるようになってから考えると、どうも語呂はいまいちだと思った。Boy's Fight とか、Fighting Boysとかにしたほうが、より英語らしかったかもしれない。でもまぁ、Boy's Fighter、少年たちの戦士とでもなろうか、意味がないわけじゃぁない。まぁいいか。

 形態は、わら版紙を二つ折にしてそれぞれそこに鉛筆やサインペンで、小説やら漫画やら、クイズやら、雑文やらを書いてくる。それをまとめて平綴じして一冊にするのである。表紙は毎号私が書いた。

 参加したのは、1年A組男子のうちの半分の10人ほど。私、ニュートン、シシド、フダ、ハナマッコ、カワムラくん、ミキオ、オサム、ススム、シュウヤ、あとキクマッコあたりかな。正確にはもう忘れた。違ってたら、ごめんよ、みんな。

 とにかく楽しかった。なんせ一部しかない肉筆誌なので、巡回してみんなで見る。一回見るごとに10円を徴収し、その金でボールペンを買い、クイズの懸賞賞品にあてた。なんせ好評で、毎回100ページ。一年間で都合5号まで出たのだから凄い。今でいうコミケの走りかも、なんて思うことがある。

 私は、表紙の他に、何か特集みたいなことを毎回担当したと思う。フダの時代もの風な小説「父のカタキ」とか、シシドのオバQを連想するようなコミック漫画「チビデメ」、ニュートンのたしかアメリカ西海岸を舞台とした車漫画「V8」なんてのもあったな。カワムラくんの文章もなぜか本格的だったような気がする。SFもどきあり、四コマ漫画あり、まぁ、楽しかったね。

 この記念碑的肉筆誌は、やがて悲しい結末を迎える。一年でクラス替えになり、5号で休刊したあとは、ニュートンが保管していたのだが、ある時、漫画ばかり見ていると、他の漫画本と一緒に、ちり紙交換に出されてしまったのである。

 ああ残念、と思わないわけでもない。あれば、それはそれは金庫にでも入れておきたいような貴重な資料となったであろう。しかしまぁ、ないならないで、よい記憶だけが残っていいのかもしれない。実際に手にとってみたら、ありゃぁ、この程度だったか、と恥ずかしくなるかもしれないw。

 とにかく一度この「ボーイズファイター」があったことを書いておきたかった。ニュートン亡きあとの今となっては、こんなもの作っていたことなどクラスメイトでさえ忘れているかもしれないので、語り合う仲間もいなくなってしまった。語るにしても私の勝手な想い出だけであり、もう、きちんと聞いてくれる人もいないだろう。

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「ボーイズライフ」1960年代の少年向け雑誌 小学館

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「ボーイズライフ」
小学館 1963/03~1969/08 少年向け雑誌 B5版 平綴じ 月刊(隔週刊だったかな)Total No.3220

 この雑誌も実に印象的なシリーズだった。印象的ではあったが、大きく影響を受けた、という感じはしない。そもそもこの雑誌を読んだのは1966年中学一年になってからであり、しかも、自分で買ったのではなく、同級生のニュートン(石川裕人)がクラスに持ち込んだものを、見せて貰っていたのだ。

 1966年6月にはビートルズが来日している。このタイミングが、私やニュートンの、少年期から思春期への変わり目だった。テレビでは、ヤング720(セブンツーオー)なんてのをやっていて、横尾忠則がアメリカから帰国して、なにやらサイケデリックな話をしたりしていた。この後、ビートルズまがいの、モンキーズなんてのもテレビ番組で人気を博していた。

 いろいろな特集があったが、この雑誌で特徴的だったのは、随所にソフトヌードがカラーで掲載されていたりしたことだろう。モデルは特に日本人女性ではなくて、欧米人、とくに目の青いアメリカ人が多かった。付録のカレンダーが欲しくて、新年号は自分で買ったりした。

 それと、付録には、車の図鑑のようなものがついていた。これは重宝した。車の名前を全種類覚えたし、外車もほとんど載っていて、当時のモデルなら大体一目で名前を言えた。それと相撲の決まり手とか、野球選手名鑑とか、プロレスラー一覧なんてのも付録でついていたように思う。

 当時、私たちの街には書店が二店しかなくて、雑誌なんて手にとって読むチャンスはそれほど多くなかった。立ち読みなんてしていると、すぐ店主のおやじにハタキをパタパタされた。ヌードなんて見る機会はほとんどなかったから、「ボーイズライフ」は貴重な情報源だった。

 この雑誌「ボーイズライフ」についてFBで語ったのが、旧友・沢田石信ととの最後の会話となった。彼にとっても(彼は訳ありで一学年上だったが)この雑誌は意味深いものだったと思える。たぶん、私の年配にとっては忘れられない雑誌なはずである。

 私とニュートン(石川裕人)は、この雑誌から啓発されて、自分たちの肉筆誌を作っていくことになるのだが、そちらは、別途、項を設けることにする。深夜放送のヒット曲ベストテンをメモしてクラスに持ち込むとか、ホントに彼は、いろいろと啓発してくれた。同じ学校に9年間もいたのに、同じクラスになったのはあの中学校一年生の時だけだった。

 ニュートン、あらためて、ありがとう。

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「黒の手帖」 檸檬社 <1>

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「黒の手帖」 <1>
檸檬社 1969/01、1971/05~1972/09 全19冊 雑誌 A5判
Total No.3219

 この雑誌も私の人生に大きな影響を与えた。この雑誌がなかったら展開しなかった人間関係や興味の分野というものがある。その存在感たるや1977/10 - 1979/04に出ていた「ザ・メディテーション」(平河出版)と双璧をなすくらいの価値がある。

 「ザ・メディテーション」もなかなか図書館から借りだして読むという手段が使えないので、結局は全冊揃えて手元に保存している。「黒の手帖」もいずれ全冊そろえようと思っていたところ、この古書店で全19冊一括購入という手があり、これは、と思っていたが、いまだにその機会がこない。

 全19冊で46000円。安い! 一冊一冊を探して集めていく手間に比べたら、これは安い、と思い、そのうち購入と予定していたが、全然、その日が来ない。一冊2500円弱か、まずまずの値段だろう、と思うのだが、発売当時の値段にすればほぼ10倍。これではなかなか手が出ない。

 それにしても、実は私は過去に、この雑誌の全シリーズ持っていたのだ。もちろん高校生だった私が小遣いで買うわけだから、毎号買えるわけではなかった。とびとび買っていたのだが、結局休刊になったあとに、出版社である檸檬社に穴埋めの欠号を直接注文して送ってもらって揃えたのだ。あの時のハガキでもらったメッセージも嬉しかったな。

 そういう記憶があるから、どうもいまいちもう一度揃えようという意欲がどこかでそがれてしまう。そもそも、全部揃っていたのに20年ほど前、ふと思って古本屋に出してしまったのは、それなりの経過があったからだ。だから出したのであって、今ふたたび揃える、というのも、なんだかどこかおかしい。

 そんなことを逡巡しているうちに、もう5~6年が経過してしまった。そしてたびたび思い出してはこのページを見るのだが、今のところ一向に売れてしまいそうな気配がない。実は、この書店のことを書くと誰かに取られてしまうのではないか、と思って書くのためらっていたのだが、どうも、結局は誰も手がでないようだ。もう、こうなったら、安心してバンバン書いてやろう(笑)

 ネットオークションあたりで、ゼロ円スタートしたら、この19冊シリーズはどのくらいの値段で止まるだろう。私なら、まず一万なら、すぐ買う。二万弱でも、なんとか張り合って落とすかもしれない。しかし、二万を超えたら、どうかなぁ。元値の5倍でも相当高いが、10倍まで出して買うのはちょっとおかしい。

 そもそも「雑誌」という存在の魅力は、雑なことが書いてあって、雑に扱うことができるからこそ雑誌というのだ。そこになにか所有する喜びとか、骨董的な価値とかが付加されて、異常に高値になってしまうのは、おかしいことだ、と私なら思う。

 だから、結局は、私はこの「黒の手帖」はもう読むことはないのだろう、と思う。資料としても、活用することはもう諦めよう。というか、すでに一回諦めたのだから、いいじゃないか。あまり過去のことばっかり思い出していたりすると、おかしくなる。

 ただ、当ブログでも、それとなく、あちこちでこの雑誌のことに触れてきたので、いちどまとめて書いておきたかったのだ。まぁ、せいぜい書いてこの程度だな。あと、実際に入手できるかもしれないが、その時はその時なりに、追伸として書き続けることにしよう。

 今のところ、図書館の蔵書にもなっていないようだし、近場の古書店にもない。あまり深追いしないところが、当ブログのいいところである。お気軽に入手できる本を手にとって、お気軽ライフをたのしもうじゃないか。

<2>につづく

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2014/04/29

情報求む 「Vibration」ヴァイブレーション 1970札幌ジプシーハウス

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「Vibration」
札幌ジプシーハウス 1970年頃 ガリ版カラー刷り 50ページ位
Total No.3218

 誰か1970以前に、札幌のジプシーハウスというところが発行していた「Vibration」ヴァイブレーション、というガリ版ミニコミのことを知らないだろうか。緑色の表紙で中綴じというスタイル。見開きページはピンクの更紙に赤色の謄写版イラストが印刷してあった。

 私は高校一年生くらいの時に見てすごい衝撃を受けた。瞑想とか、ヴァイブレーションとか、アメリカ文化を紹介してあったと思う。約50ページ位だけど、印刷は極めて綺麗。多分プロの仕事。

 発行母体は、札幌のアパートの二階にあ
り、イラストで紹介してあったと思う。そのドアには「LOVE」と描いてあったような。おそらく発行者は団塊の世代より、ちょっと上。
 
 これは小学校からの友人で、高校を横に卒業して東京キッドブラザーズに参加して行った元木たけし(現・舞台監督)が、70年頃に、仙台の中央通りで街売りしていたものを買ったらしい。ぼくも一度見せて見らっただけで、欲しかったけど、一品ものだったから、ぼくのものにはならなかった。

 いずれわかるだろうと、ずっとネットで探しているのだけれども、一向に情報がない。誰か知らないか。これだけネットワークが進んでいるのだから、誰か知ってるはず、と思っているのだが、今だに情報ゼロ。元木たけしは今でも保存しているかもしれないが、そもそも彼も連絡取れず。(たけし、たまに同級会にも参加せよw)

 吉報を待つ。

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「生存への行進」―いま生命の革命が始まっている ! 大友 映男<4>

<3>からつづく

Tomo3
「生存への行進」いま生命の革命が始まっている! <4>
大友 映男 (著) 1982/04 新評社 単行本  268ページ

 著者の最近の活動を詳しく知らないが、SNS友から、このようなページを紹介してもらった。

自然共生型社会を目指す:「東アジア地球市民村2014in上海 」に参加してby大友映男

 地球市民とは何だろう? 市民村とは、これまた何だろう。 そして東アジア? ひとつひとつ疑問が湧いてくるが、山尾三省は次のように言っている。

 地球市民という言葉が真に成立するためには、その前提として地球の全体が大小の差はあれ都市化し、全人類が都市の住民であることが必要であろう。地球上が都市におおわれた時、地球市民という言葉が真に成立するのだとすれば、それはおそらく地球市民の破滅であり、人類の終わりとなるほかはないだろう。

 同様に、地球村人という言葉が普遍性を持つためには、都市は消滅せねばならず、<地球>という認識を可能にしたテクノロジー自体も論理的には終滅してゆくことになる。

 私自身は、自分を地球村人という場におくけれども、それは地球市民という光を否定することでは少しもない。両者は、これまではどちらかといえば反目しあっていたのだが、<地球>という認識そのものがその反目の無意味性を告げている以上、村人は市民を包み、市民は村人を包み、共通の眼に見える地球というカミを祀ってゆくことが今の課題であり、これからの課題でもあるのだと思う。

 そこで自分をも含めた地球市民に提案することは、地球上のすべての河の水を飲める水に、特にすべての都市の川の水を飲める水にと、本気で願うことをはじめよう。山尾三省「リグ・ヴェーダの智慧」 アニミズムの深化のために p85「大河の神サラスヴァティー」

 地球市民、地球村民、それぞれに意味合いのある言葉遣いだと思う。が、敢えて、当ブログでは地球人という用語を多用している。地球市民も、地球村民もほとんどでてこない。市にも、村にも、あまり重きを置かず、ダイレクトに地球と人を結びつけて考えている。

 著者には、アースピープル(地球の民):「東アジア地球市民村2014」主題歌という歌がある。

まだ明けやらぬ東の空に

高く飛ぶあの鳥のように

登り来る光を浴びて

すべてのいのちは輝き始める

花は咲き 虫達は飛び

生きもの達の息吹く歌

*アースピープル(くり返し)

限りなく美しい空 美しい海

美しい山々 ふるさと地球

いのちたちは ここに育ち

光に向かって 歩き続ける

母なる地球の限りない愛を

受け止めて そして分かち合おう

*アースピープル (繰り返し)

私たちは 地球の民

手をつなごう 魂の兄弟

山を越えて 海を越え

空を越え 翼広げて

いのちと共に 歩み行く

いのちと共に育ち行く

*アースピープル (くり返し)

作詞・作曲 大友映男

 この歌詞を読むと、私は自分が撮影した一枚の拙い画像が連想する。どんな曲が付いているんだろう。

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2007年頃の宮城県名取市閖上(ゆりあげ)朝市での風景。3・11によって、この風景はなくなった。

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OSHO 「反逆のスピリット」<2>

<1>からつづく

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「反逆のスピリット」
OSHO (著), スワミ・デヴァ・マジュヌ (翻訳) 1990/12 めるくまーる単行本: 323p
Vol.3 No.0812

 この本の本筋からは外れるが、以前「スサノオと出口王仁三郎 増補」(出口和明 2012/02 八幡書店)に触れた時、以下のように書いておいた。

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  Oni   Os

 この本で思い出すのは、同時期にでたOshoの「反逆のスピリット」(1990/12 めるくまーる)の装丁と瓜二つだった、ということ。出版社も装丁デザイン社も別であってみれば、いずれかが、盗作したのではないか、と思えるが、企画段階から考えてみれば、出版時期だけをとらえて、どちらが盗作、と決めつけるわけにはいかないだろう。

 むしろ、ここは、王仁三郎とOshoのシンクロニシティ、くらいにとらえておきたい。書物としての内容については、かなりかけ離れた内容ではある。Bhavesh 2012/10/09

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 そして、このOsho本の出版に関わったとする三森真人という方のブログがあること発見していたので、いつかこの方に質問してみたい、と思っていた。そして、幸運にも、今日このかたとSNSつながりとなり、永年疑問だった話題について質問することができた。そのお答えが下記である。了諾を得て、転記させていただきます。

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こんにちは。
『反逆のスピリット』の装丁をしたのは、宇治晶さんというデザイナーで、当時、宝島社などから出ていた洋楽ミュジーシャンの本の装丁をいくつかやっていた方でした。あのデザインは、彼の完全なオリジナルです。 なので、『予言と神話』の装丁をご本人が偶然見かけて、「パクられてたけど、  王仁三郎の本だから許す」と笑っていました。
三森真人氏よりの返信2014/04/29

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 おお、ご寛大なご対応。

 さて、それでは、「パクッた」側のデザイナーの意見も聞いてみたないな(爆) あの本には、デザイナーとして誰の名前が書いてあったかな。最近、なにやら大本に出入りの激しいVijayにでも、取材してもらおうかな。

つづく

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「来るべき種族」 エドワード・ブルワー=リットン 小澤正人訳 <3>

<2>からつづく

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「来るべき種族」 THE COMING RACE <3>
エドワード・ブルワー=リットン 小澤正人訳 原作1881 出版2007/11 連絡先愛知県立大学文学部英文学部 小冊子 p132

 読み終わってみれば、A4版二段組み120ページの作品である。決して長編でもなく、また、小説の構造としては至ってシンプルである。ある青年が、ひょんなことで地下世界の存在に気づき、探検に出て、そこに到達するが、とらわれてしまい、そこから脱出できなくなってしまう。

 そしてそこで好意的に歓迎されて暮らすうちにその地下世界の社会構造と哲学を理解する。その理想や技術の高さに敬服するとともに、その限界や恐怖にも気づくようになる。滞在中に恋愛のような感情を持つようにもなるが、いずれにせよ、身に危険を感じながらも、ようやく脱出する、というお話である。

 その地下世界に滞在する間に見聞きする世界こそが、作家の述べようとするユートピア世界であり、不思議なパワー、ブリルや背中の肩甲骨から生えている羽などは、ちょっとした味付けだが、あとは細かい哲学である。この小説が書かれてから一世紀が経過していることを考えれば、発想可能性としての「哲学」としては、特段に珍しいものではない。

 細かい組み合わせについて考えれば、いくらも突っ込むことはできるだろうが、それはあまり本筋ではないだろう。とにかく、リットンは、当時の世界観に不足するものを感じ、理想を書き、そして、それらこそいずれ「来たるべき」世界観である、と言いたかったのであろう。

 ある意味、こういう小説の構造はいくつもあるに違いない。例えば「失はれた地平線」 とか、ある意味、ヒュー・ミルンの「堕ちたグル」なども、このようなお話構造を借りている。

 私は無事に故国に帰り着き、そこに腰を落ち着けて長い間平和のうちに過ごし、実際的な仕事に従事し、最後には、相当な財産を作って、三年前に引退した。

 若いころの放浪や冒険についての話を求められることも、自分からしたいと思ったこともほとんどなかった。大半の男性同様に、家族的な愛や家庭生活に関わるあれこれに多少失望したりすると、夜一人で椅子に座り、あの若いガイのことを考え、たとえどんな危険が待っていたにせよ、あるいはどんな条件に制限されていたにせよ、どうしてあれほどの愛を拒絶したりすることができたんだろうかと思いをめぐらすことがよくある。

 ただ、私たちの目から隠されて、賢人たちからは人間が住めないとされた地に、ある民族がいて、私達が最も上手に制御して私たちの社会的、政治的生活と敵対するようになっていく能力とを静かに発展させているのだということを考えれば考えるほどに、私達を滅ぼすこの不可避の破壊者が太陽の光のもとに現れるまでにもっと長い年月が流れて欲しいと心の底から一層強く祈らずにはいられない。

 しかし、医者と話して、自分が病気にかかっており、痛みがほとんどなく、病気が広がっているという感覚がなくても、今にも命に関わるかもしれないものだとはっきり告げられたので、自分の同胞に対してこの<来るべき種族>に関する警告を記録に留めておくことが私の義務だと考えるにいたったのだ。 p123「第29章」

 このような前振り、後締めのモナカ構造なら、どんなお話でも作ることができるだろう。心境としては、ひと財産を作ったところとか、余命いくばくもないと医師に宣言されているとかいうところは違うが、現在の私の心境とそれほど大きく変わらない。

 この小説は、この小説の主人公が63歳の時に書いたという設定を活用しているわけであるが、現在60歳の私も、あと3年もたてば、まさにこの心境にますます近づいていくと考えることができる。

 この小説は、この舞台設定の中での、リットンの「来るべき種族」であるが、私もまた、現在、現在、還暦を迎えた男が読書ブログに書くという形で、私自身の「来たるべき地球人」を書いていくだろう。

 思えば、仲間内の友人たちも、ひとりふたりとこの世を去り始めている。彼らは見事に、自分のブログやFB、ホームページなどに、最後の辞世エッセイをつづっていってくれている。ひとつひとつが興味深い。私もそろそろ準備をしようと思う。

 ところで、これを読んでいる最中に、盟友キコリが突然とんでもない画像を出してきた。あらら、とびっくりした。このことについては私はまだ勉強不足でひとこともメモすることはできない。しかし、映像としてはピッタリだったので、ここに無断借用して、貼り付けておく。

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 ちょっと意味不明な点はさまざま申し訳ない。後日、なにかのついでに説明できるようになると思う。

つづく

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2014/04/28

「生存への行進」―いま生命の革命が始まっている ! 大友 映男<3>

<2>からつづく

Tomo3
「生存への行進」いま生命の革命が始まっている! <3>
大友 映男 (著) 1982/04 新評社 単行本  268ページ

君たちは日本中を歩いてきたわけだがいったいどこが良かったか?」

 と福岡(正信)さんに質問されたので、あそこも良かった。ここも良かったと私たちが説明し始めると福岡さんは突然にこう言った。

 「あれもこれもと荷物を増やす旅をしてきたようだが本当のところはどうなのか!? 本当に求める旅というのは、あれもいらない、これもいらないというようにいらないものをどんどん捨てていって、もっともっと軽くなり目標をしぼっていくのが本当の旅ではないか!?

 要するに人間は分からないから旅をするのであって、君たちは歩いてきていたずらに迷いを深めているにすぎない。本当に分かったら、こうしてこの囲炉裏の淵に座りこんでしまうしかないのだ」 p175「第7章 本当の自然を知るということ‐‐‐四国編」

 この本の中での、もっとも私が敬服し共感したのは、この部分であった。何も「無の哲学」の福岡正信氏に自分を比肩する気はまったくないが、当初からあるこの本への若干の違和感、あるいは差異、というものが、もしあるとすれば、この福岡氏の指摘が何事かを教えてくれていると思う。

 私自身の旅は、16歳のヒッチハイクから始まっていたわけだが、実際のその国内の旅は、1975年ないし、その前年に終わっていた。敢えて言うなら、1975年のキャラバンも私にとっては蛇足であったのだが、その途中において、「存在の詩」に出会ったことによって、トドメを刺されていた。だから1979年の、この「生存への行進」キャラバンには、当時の私としても、いまいちアクセスの糸口を見いだせなかったのだろう。

 私たちは1979年5月3日、北海道日高郡静内町にあるシャクシャイン記念館を出発し、80年4月3日最終地点、沖縄の辺土岬まで約11ヵ月間かかって日本列島を横断し、文明の転換を訴えて行進した。p12「序章『生存への行進』に至る歩み」

 ようやく届いた本書を息せき切って読み始めてしまったために、一番最初に書いてあるこの一行を見逃していた。行進の期間は1979年5月からの11ヵ月間の旅だったのだ。旅とは言え、福岡正信氏が指摘するところの、何かを探すような旅とは、すこし趣きが違っていただろう。こちらの旅は、ネットワーク作りの旅だったのだ。

 77年にはキャラバンの仲間たちの一部が、日本の原水爆禁止運動の統一世界大会の実現を目差して、東京から広島まで平和行進しようという運動を始め、主旨に参道した私は「ミルキーウェイ」に行進団の東京事務局を置いて、三ヵ月あまり支援活動に奔走することになった。(中略)

 また一方ではキャラバン仲間である河本和朗さんとアメリカで接触を持ち、日本山妙法寺の藤井日達聖人の招きで来日したアメリカインディアン運動のリーダーであるリー・ブライアント氏は、聖人のスピリチュアリティーやこの平和行進という非暴力の運動を目のあたりにして、その中に彼らアメリカインディアン運動の展望を見い出していたのだった。

 かくしてこの77年の平和行進は翌78年には、原住民から湧きおこりつつある世界的運動の原理ともいうべき「ザ・ロンゲストウォーク」として展開されていった。p18 同上

 この77年、78年、という年代は、実に絶妙で、私個人はなんともいえないスリリングな年代と感じている。この時代、日本の旅はもう終わりにして、海外にでてみようと思った場合、インドかアメリカしかなかった。ヨーロッパとか中国もあることはあったのだろうが、私の眼には入らなかった。

 あの時、アメリカに行ったら、ネイティブアメリカンやら西海岸やらで、また別な人生になったような気がする。敢えて、私はインドに惹かれて行ったのだった。

 名護では多くの婦人が集まってくれたし、沖縄市(ママ)(旧コザ)では喜納昌吉さんや青年団が集まってくれ、民謡や勇壮なエイサーも交えてのにぎやかな交流会となった。p230「4000キロの行進の収穫---沖縄篇」

 1980年の春のことである。個人個人の内面を見つめる旅は旅として存在していただろうが、ネットワークとして繋がるべき連なりは、こうして、次第に有機性を強めていった。

 何であれ、今回、こうして読書ブログの中で、この記録的な本の存在を確認し、叛文化の年代史を再認識できたのは、大きな収穫であった。

<4>につづく

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2014/04/27

「来たるべき地球人スピリット」<26>4枚の名刺

<25>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<26>4枚の名刺

 かつて私には何枚の名刺が必要であろう、と考えたことがある。結果、おそらく4枚が妥当であろう、ということになった。そして、それは表の表、表の裏、裏の表、裏の裏、という性格があることが分かった。

<1枚目の名刺>

 それはもっともポピュラーな名刺である。この名刺さえ持っていれば、まず私は日本どころか世界を回っても、まず一枚の名刺で足りるだろう。その分野では日本の歴史や業績でトップの企業の名刺であるし、その企業のエージェントである私は、名刺一枚で私の存在様式を表現できる。

 受け取ったほうも、その規模や実際の暮らしぶりまでには思いが至らなくても、おおよそのライフスタイルを想像できるだろう。都市のど真ん中にもある職業であるし、全国津々浦々、どこにもあってしかるべき職業である。知り合いに一人はいるだろう。社会に必要とされる職業である。

 その名刺を持つには一定程度の資格とキャリアが必要である。誰でも持つことができるとは言えない。少なくとも、アウトローではできない仕事である。だからまず犯罪者であるとか、異邦人とは疑われない。

 逆にいうと、私の個性は無視される。もちろんある範囲では個性はあり得るが、まず業務としては、均質なクオリティが求められるし、そのように管理されている。ひとつのフォーマットが決まっているだけに、窮屈でない、というわけではない。

 これが表の表の顔である。どの時間、どこにいてもいい名刺である。社会を自由に動き回るパスポートとさえいえる。もちろん、業界のライバル競合はあるが、逆に、常にライバル競合と協力して仕事を進めなくてはならないことも多い業種である。

<2枚目の名刺>

 これはボランティアの顔である。表の裏の顔だ。ボランティアにもさまざまな形があるが、ポジションによっては、名刺が必要となる。とくに団体の役員になると必須になる。すくなくとも連絡場所の交換は必要だ。

 ボランティアの場合は、表の表としての職業は邪魔になる時がある。実際には誰もが、表の仕事をしているはずなのだが、そのような利害関係から離れていることがボランティア活動の条件であることもある。

 ボランティア活動の種類によっては、名刺どころか、自分の名前を告げることさえタブーである場合もある。それは自分の身を守るために、無名性が必要となる場合もある。ボランティア活動に、名刺が必要となるよりも、腕章とか、スタッフジャンパーが必要となる場合もある。

 いずれにせよ、非営利活動やボランティア活動をするにあたって、自分が誰であるかを明確に意識する必要がある。その場合、名刺を作ってみることは、自らのアイディンティティの確認にもなる。

 表の裏だから、表があって裏があるわけだし、表は表なりに、裏があることによって、より表になり、裏は裏で自立しなければならないのだが、裏が裏であることは、表が表として自立していることの証明であったりする。

<3枚目の名刺>

 裏の表の顔となれば、私の場合は、趣味とも、副業ともとれる名刺となる。趣味性が高いので、それじゃぁ生活はできないだろう、と思われるような類のものである。人によっては失笑するだろう。

 しかし、決してそれは非営利活動でもなければ、持ち出し活動という訳ではない。仲間内では、その顔ひとつで生活しているツワモノも少なくない。才能と勇気さえあれば、そのように自分のライフスタイルをつくることもできただろう。

 しかし、私には、この面は裏の顔となった。表の表がいつのまにか自立したので、裏の表は、あえて裏の表に甘んじているともいえる。仲間内では、ことらの名刺、あるいはキャラクターがなければ、付き合ってもらえないこともある。

 裏の表の顔とは言え、識別性は高いから、その顔を見せることは、人によってはプラスになる場合もあるし、マイナスになる場合もある。表の表の仕事に役立つ場合もあるし、まったく足を引っ張ってしまう場合もある。表の表として渡世するなら、秘しておいて得なことのほうが多い。

 であったとしても、私個人としては、表の表や、表の裏が必然であるように、この裏の表もまた絶対に必要なのである。人間、食べて寝ての生活だけをしていくわけではない。人間として人生を送るのに、私にとっては、この裏の表の顔がないと、人生価値が半減すると感じる。

<4枚目の名刺>

 そして、裏の裏、という面もある。これはもう名刺などという世界ではないだろう。表の表は、名刺が必需品であって、それがなければ活動できない世界のことである。表の裏だって、裏の表だって、名刺があれば、それなりに利用価値はある。

 しかし、裏の裏となれば、それは対人関係に必要となる名刺などは、ほとんど役に立たない。自分が自分で納得できるかどうかが最も優先課題となる。本当の自分の顔、ということになる。

 自分が自分をどのように表現するか。自分が自分をどのように理解するか、自分にどうおとしまえをつけるかが、裏の裏の、最も大事な要素となる。ある意味、もっとも重要なファクターである。ここがなければ、表の表も、表の裏も、裏の表もない。全てが瓦解する。

 名刺のような肩書やフォーマットではゴマかしが効かない。実質、本質が必要なのである。勝負と言えばここで勝負できなければ、人生、意味がない。誰と勝負するのか。それは自分自身とだ。

 裏の裏。それは別に極めようとしなければ、忘れてしまうことである。表現しようとしなければ明確に意識されることはない。しかし、私は、私なりに、ここを表現しようとしてきた。四枚目の名刺とは、このブログのことである。

<そして・・・・>

 実際に、この人生を生きてきて、私は三種の名刺を使い分けなければならない時期があった。それなりに有用であったが、そのスタイルは早々と卒業した。せいぜい2枚に絞った。それはそれなりに必要であった。しかし、ある時から、そうもう10年以上も前からだが、名刺を一枚に絞った。

 絞るにおいて、表の表を残す以外になかった。それは名刺としては有用である。一番配って配りやすい。他の面にとっては邪魔になる時もないわけではない。しかし、それであってはいけない。

 私は四重人格者でもなければ、四色仮面でもない。私は存在として一個なのである。一個という統一体ではなかったとしても、ひと固まり、ひとつの地点に依って立つ人間でなければいけない。

 四つの側面から分裂してしまうような人格であってはならない。さまざまな要素がひとつのハーモニーを醸し出すような人間になりたい。そうあらねばならない。本来、そのような存在になり得ていたら、もう名刺なんて必要ないのだ。

 名刺なんて本当は必要ない。生きて行くうえではまったく無関係だ。そのような人間関係だけで暮らせたら、この世はパラダイスだろう。だが、私はパラダイスに住んでいるわけではなく、多少の説明が必要だ。一枚の名刺にしぼり、最小限のことだけ書いて、おしまいとしよう。

<27>につづく

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「パンドラの約束」スチュワート・ブランド他出演

 


「パンドラの約束」 
スチュアート・ブランド他出演 ロバート・ストーン監督 2014/04日本公開 フィルムボイス 
Total No.3217★☆☆☆☆

 この映画に気づいたのは、FB友が見てきた、と書いていたからである。さっそく予告編を見てみることに。

 この予告編でさっそくでてきたのが、スチュワート・ブランドであった。このことによって、この映画が、当ブログで進行していてペンディングになっていた宿題とリンクしていることに気づいた。


「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力
池田純一(著) 2011/03 講談社 317P

 そもそもはこの本を読んだことがきっかけだった。ティーブ・ジョブズが大学での講演で最後の締めくくりとしたのは「ホール・アース・カタログ」の最終号のからの言葉であった。その編集者がスチュアート・ブランドである。

Medialab
「メディアラボ」 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦
スチュアート・ブランド (著),  室 謙二 (著), 麻生 九美 (著), Stewart Brand (著) 1988/04 福武書店 単行本 342p


「地球の論点」現実的な環境主義者のマニフェスト<1>
スチュアート・ブランド 仙名紀 2011/06 英治出版 単行本 439p

 これらの著書の中で、スチュアート・ブランドは、原発推進派に転向している。


「地球生命圏」 ガイアの科学
ジェ-ムズ・ラヴロック著 スワミ・プレム・プラブッダ訳 1984/10 工作舎 単行本 296p


「ガイアの時代」
ジェ-ムズ・ラヴロック著 スワミ・プレム・プラブッダ訳 1989/10 工作舎  単行本  388p 1984/10 工作舎 単行本 296p

Gaia
「GAIA 生命惑星・地球」
 ジェ-ムズ・ラヴロック著 糸川英夫訳 1993/09 NTT出版   単行本  205p


「ガイアの復讐」
ジェ-ムズ・ラヴロック/著 秋元勇巳/監修 竹村健一/訳 2006/10 中央公論新社 単行本 290p


「3・11を読む」 千夜千冊番外録<2>
松岡正剛 2012/07 平凡社 単行本 430p


「原発に反対しながら研究をつづける小出裕章さんのおはなし」 「子どもから大人まで、原発と放射能を考える」副読本
小出裕章/野村保子 2012/04クレヨンハウス  単行本111p 


「立花隆の書棚 」
立花 隆 (著), 薈田 純一 (写真)単行本: 650ページ 中央公論新社 (2013/3/8)

 以上、この項、未整理である。懸案として継続検討を続ける。

つづく

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「来るべき種族」 エドワード・ブルワー=リットン 小澤正人訳 <2>

<1>からつづく 

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「来るべき種族」 THE COMING RACE <2>
エドワード・ブルワー=リットン 小澤正人訳 原作1881 出版2007/11 連絡先愛知県立大学文学部英文学部 小冊子 p132

 そんなに長い小説でもないし、面白くない小説でもない。だけど、例によって、私の小説の読み方は遅い。途中まで読んで、今のところ、一時ストップしたままになっている。さあ、もう一度、心入れ替えて、読むぞー、と思っていたところで、SNSつながりのk-komoriさんの日記に、なんとリットンの名前が登場した。

 おお、と思い、「COMING RACE」について質問したところ、新たなる情報を提供してくれた。許可を得て、ここに転写することにする。

「リットンとブラヴァツキー」

いまリットン関係の記述を調べていると、昨日の記述がちょっと不正確であったことがわかった。

ブルワー・リットンという名前が出てきたら、みな『ザノーニ』の作者のブルワー・リットンだと思って読んでいたのだが、よくみると、ジョージ・ブルワー・リットンという名前とエドワード・ロバート・ブルワー・リットンがいる。

おや、よく似た名前だなと思ったら、親子らしい。前者が小説家、後者がインド総督になっていて、どちらも身分の高い貴族である。

1879年に創刊された"Theosophist"の第二号(1879年11月)で、インドでの神智学布教活動に関して妨害や邪魔が入るのを、ブルワー・リットンが神智学のために戦ってくれていることに感謝する記事がある。息子のインド総督のブルワー・リットンが、神智学のシンパないし神智学徒だったから、インドでの布教が当時は割合うまくいった面があるだろう。そのことにブラヴァツキーがふれた記事の中で、インド総督ブルワー・リットンの父についてブラヴァツキーが次のように述べている。

『ザノーニ』『来るべき種族』『不思議な物語』の作者であるブルワー・リットンは、数少ない真正な、神秘的(mystical)な著作家であり、あらゆる神智学徒にとってその名前は親しく神聖なものである。リットンの名前は、単に文学者のみにとどまるものでなく、それ以上のものがある。(全集2巻141-142頁)

昨日の日記に書いている、ブラヴァツキーと手紙のやりとりがあったというのは、息子のエドワード・ロバート・ブルワー・リットンの方だった。ブラヴァツキーがリットンの本を書評しているというリストにはあるのだが、その書評そのものが全集の中には残念ながらないようである。

息子のリットンは、その後のブラヴァツキーの文章中にも頻出していて、どうやらこちらは神智学に入っているようである。
k-komoriさんの日記 2014年4月26日 00:56

 彼には「英文学の地下水脈」(小森健太朗 2009/02 東京創元社)などの研究がある。私には細かいことは分からないが、とにかく、上の一文を読んで、ゾクゾクッときた。なんでなんだかよくわからないが、こちらの知性というより、情動に訴えかけてくる何かがある。なんでだか、わかりません。

 なんでこの小説やこの作家リットンに私がこだわっているのか、自分自身でもよくわからない。自分でわからないものを、他の人がわかるわけがない。だから、すこし控え目に書いてきているのだが、自分では、いつまでも分からないものだ、とは思っていないのだ、不思議と。

 でも急いで分かろうとしていないのも不思議である。いつか分かる時に分かるだろうと、いい加減ほっぽいている、という感じがする。でも、ほっぽいている割には、決して忘れていない、というのが、我ながら、ますます不思議である。この作家とこの小説には、何かがあるといまだに感じている。

<3>につづく

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「生存への行進」―いま生命の革命が始まっている ! 大友 映男<2>

<1>からつづく

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「生存への行進」いま生命の革命が始まっている! <2>
大友 映男 (著) 1982/04 新評社 単行本  268ページ

この本があったことを思い出させてもらい、遠くの図書館から取り寄せて、ゆっくりと読みつつも、その中身の濃厚さに、ついつい、途中で時間を取り、しばし想いをめぐらせながら、また読み始めるということを繰り返している。

 それでもまだ、読み終わっていない。はぁ、いつまで続くのか、この行進は、というほど濃厚である。この本、82年には出ているが、その元となっている一年間の旅は、1979年から80年にかけてのことだ。

 ひとつひとつの旅が強烈なレポートとなっているので、まじめに読んでいると、いつまで経っても終わらないような気になってくる。そして、あの当時、私自身はどうしていただろう、と考える。

 彼らの旅は、この私達の街も通り過ぎていった。そしてその記述もあるが、決して多くは語られていない。つまり、彼らの旅と、私の街は、大きな接点を持ってはいない。なぜだろうと思う。あの70年代末から80年初めにかけて、この行進とはかなり離れた位置に私はいた。

 これほどまでに熱い青春を生きる人々の前で、私は自らを語る力を失う。ちょっと怖気づいてしまう。言うべきではないのかもしれない。でも、想いだけはメモしておこう。私もまたインドの一年間の旅から帰ってきて、79年春には、農業実践大学校というところで学び始めた。全寮制だったし、基本若い学生たちと一緒であるから、楽しくないはずはない。

 だが、そこで学んだものは機械化農業であり、化学肥料や農薬多用の農業であった。全寮制の中で、私なりに食養にはげもうとした。しかし、限られた提出される寮の食事の中で、寄り分けて食事をすることは、単に偏食になってしまいがちであった。

 私はこの学校を二年間で無事卒業したものの、体調をこわし、最終的には半年間の入院生活を送ることになった。しかとした原因は分からないが、結果的には、抗がん剤と放射線治療を受けることになった。医師による余命半年の宣言はあったものの、その後、なんとか無事生還した。

 著者によるこの本に書かれている旅は、1975年の「ミルキーウェイ・キャラバン」をもっとヴァージョンアップしたものだった。75年は、叛文化運動の運動体の共同キャラバンというイメージだったが、この79年から80年にかけてのこの「生存への行進」は、それを更に、著者なりに精選したものとなった。

 中核となっているのは、有機農業であり、マクロビオテッィクなどの食養であり、自然治癒力を高める健康哲学である。あるいは、そこから来る反原発運動であり、また、地域に根差した共同体的生活であった。

 比較するような内容ではないが、結局、私もまた全寮制という共同生活の中で、農業を学び、食事に留意し、病気を得て、静養したというものの、結果としては、放射線治療を受けて一命を取り留める、という異空間にいたことになる。

 これだけ濃厚な一冊を残した著者だけに、他にも著書はないものかと検索してみたが、本として出版され、図書館に収まるような本はこれ一冊のようだ。Youtubeでは、彼の歌の動画が出てくる。

 この動画は何年のものか定かではないが、おそらく極めて現在に近い時点での撮影であろう。アップが2012年の9月だから、その当時か、少なくともそれ直前の記録であろう。ここに見られる著者の姿は、私達が青春時代にみた彼の姿そのものであり、彼に対して持っているイメージが大きく変わっていないことを教えてくれる。

 このような生き方をし、このような表現形態を持っている著者にたいして、一貫した生き方をして、素晴らしいな、と感動するとともに、彼には彼の道があったのだ、と思って、自らとはすこし距離をおこうとする自分がいる。

 こまかい差異については、ここではこまかくは言うまい。それは個体差であり、個人史的独自性でもある。私は運動家でもなければ、実践家でもない。芸術家でもなければ、あえて人前で発表しなければならないほどの独自性は、ナニひとつないようにさえ思う。少なくとも、著者のような人生を送った人の前においては、なおさらそう思う。

 この本を読むことは、ある意味、山尾三省の「インド・ネパール巡礼記」 を読むときと同じようなシンドさを感じる。読み物としてはヘビーである。書かれているひとつひとつが重すぎる。もっと簡単に曖昧に、ちょっといい加減に、言いたいことの中心となる部分をシンプルに書きだしてくれたら、それでいいじゃないか、とさえ思う。

 おそらく出版マーケティングとしたら、この本はあまり効率のよい本でない。人は簡単にこの本を手にとらないだろう。内容の深さに比して、決して多くの人に読まれないのではないか。私のように途中で投げ出したくなる読者もいるに違いない。

 反面、本という本来の目的からすれば、この本ほど記録性に満ちている本はない。その記録性、その誠実性、その真摯さ。科学と言うものが、人生というものが、真実を求める旅なのであるならば、この本に打たれて、何事かを感じてしまう読者もさらに多くいることだろう。

 本というもの、読書というもの、簡単に読まれ、簡単に捨てられるエンターテイメントというものもあってしかるべきだとは思うが、私はそれを好まない。読書というもの、もともとヘビーなものであるのだ。そういった意味において、この本は私のエンターテイメントにはなってくれないが、ちょっとヘビーで、できれば目をそらしたくなるような重いテーマを、結局は最後まで読ませてしまうような、重要なメッセージが込められているように思う。

 重要な一冊である。

<3>につづく

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2014/04/21

「もし僕らが生き続けるなら」 自由の世界への出発 塚本晃生<2>

<1>からつづく

Photo
「もし僕らが生き続けるなら」自由の世界への出発
塚本 晃生 1972/12 大和書房 単行本 204p

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<24>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<25>もし僕らが生き続けるなら

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31>からつづく

「地球人スピリット宣言草稿」 

<32>もし僕らが生き続けるなら

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 当ブログも8年が経過して、ほぼ最初の目論見を一巡した形になり、その最終形が「来たるべき地球人スピリット」としてシリーズ化している。そして、以前に書いた「地球人スピリット宣言草稿」も一端は終了していたシリーズではあるが、ここに来て、最後の進行に重なり合ってきたようである。

 そして、そのタイミングにおいて思い出されてきたのが、この一冊「もし僕らが生き続けるなら」というタイトルである。この本は、17歳の私が明示的に記録されている、私の人生の中でも最も初期的な一冊である。

 内容はともかくとして、とにかくこのタイトルが大好きだ。もし僕らが生き続けるなら。これが17歳の高校生のときの出発地点であったとしたら、あれから43年経過した還暦したこの地点においても、同じ感慨をもって、つぶやいてみたい。もし僕らが生き続けるなら。

 当ブログは、この地点において、一巡しただろう。もし地球の上を西へ西へと歩き続けたら、きっといつかは今いるこの地点にもどってくる。それは東であろうと、あるいは南や北であろうと、それが一定の大きさを持っているとするならば、かならず元の地点にもどってくるはずである。

 それが大きいのか小さいのか、どれだけの意味を持っているのかは、今のところ不明なことが多い。しかしそうであったとしても、これでひと固まりだ。それは全てを網羅しているとは言い難い。ひと縛りしただけかもしれないし、何重かぐるぐる巻きしたようなつもりでいても、まるで竹で編んだカゴのようであるかもしれない。これで汲める水などほとんどないかもしれない。

 しかし、一巡した、という想いはある。今後は、二順目、三順目の旅が始まるのかもしれない。部位を決めて、集中的に穴埋めする作業になるかも知れない。いかなる作業になるかは、今のところ分からないし、決めてもいない。

 これまでが本当ではなかったとはいえない。これからが本当だ、とも言えない。どちらも真実であるし、どちらも真実でもないかもしれない。しかし、こうして生きてあることは、本当のことであるし、この中から真実をさがす作業を続けていくしかない。これが生きていく、ということの意味である。

 もし僕らが生き続けるなら。17歳の私が、もし僕らが生き続けるなら、と呟いたとするなら、60歳の私は、私は今日まで生きて見ました、と答えるしかないだろう。そして、いま私は思っています、明日からもこうして生きていくだろうと。

 最近、よしだたくろうも出て来なくなったが、たぶん生きているだろう。そして、私だけではなく、きっと多くの仲間が生き残っている。死んだ奴もいる。死んでるのか生きているのか分からない奴もいる。あらゆる可能性のなかで、とにかく、僕らは生きている。そして新たな決意をもって、再び前を見よう。

 もし僕らが生き続けるなら。

「来たるべき地球人スピリット」<26>へつづく

「もし僕らが生きつづけるなら」<3>へつづく

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「原発ゼロ世界へ 」ぜんぶなくす 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章<2>

<1>からつづく 


「原発ゼロ世界へ」 ぜんぶなくす<2>
小出裕章 2012/01 エイシア出版/出版共同販売 単行本 309p 京都大学原子炉実験所助教
★★★★★

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<23>から続く 

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<24>小出裕章

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<13>からつづく

シリーズ「ありがとう」<14>小出裕章

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 最初リストアップした時には、真っ先に思いついたのに、書き込み準備をしていた時に、どうも書き落としてしまったらしい。この人を「来たるべき地球人スピリット」として捉えるよりも、どちらかと言えば、シリーズ「ありがとう」で捉えるほうが、よりウェイトが大きかったからかもしれない。

 分からないことは専門家に聞くことに限る。自分の分野以外のことまでに、いちいち調べなくてはならないなんて、本当は異常なことだ。大体において、通常の民間人が、原発の原理を調べたり、放射線量を何マイクロシーベルト毎時なんて気にするなんておかしなことだ。

 ところが、その専門家という奴が、どうも怪しい。専門家と自称する連中の言っていることがバラバラだと、ああ、こいつら、どいつもこいつもインチキ野郎だなぁ、と思ってしまうと、なんだか、自分の人生そのものがいい加減に思えてきてしまう。

 そういういわゆる原発の専門家たちの中において、唯一と言っていいくらいに当ブログが信頼を置いているのが、この人、小出裕章氏である。彼を原発の専門家ということにやや躊躇する。もちろん、原発の専門家であることは間違いない。しかし、それでは、なにか言い間違っている。

 この人は、科学者である。信頼できる科学者、と言ったほうがいい。たまたまこの人の分野が原発だった、というだけだ。そして、この人を科学者と言ってしまうことにも躊躇する。この人は、人間だ。信頼すべき人間だ。この人が、たまたま自らを科学者と自称し、原発を生涯かけて研究してきた、ということなのだ。

 そして、この人を、ただただ、人間、とだけ表現してしまっていいのだろうか。おそらくこの人は、地球人としての視野と自覚を持った人間なのだ。そして、このような存在、このような生き方こそは、信頼されるべき、人間の在り方なのではないか。

 この人は、ずっと私達の傍らにいてくれた人である。ずっとずっと側にいてくれている。そういう有難さがある。あらためて、ここで「ありがとうございました」と言っておきたい。

 この人は科学者でありながら、科学一辺倒な人ではない。この人を貫いているのは、ヒューマニズムだ。彼の宮沢賢治論を見てみたらいい。彼が座右の言葉としている田中正造への傾斜を見てみたらいい。

 結果として、「来たるべき地球人スピリット」人物編をこの人で締めくくることができたことを嬉しく思う。

「来たるべき地球人スピリット」<25>へつづく

 

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2014/04/20

「ニュー・アース」 エックハルト トール <2>来たるべき地球人スピリット

<1>からつづく

ニュー・アース」<2>
エックハルト・ トール (著), 吉田 利子 (翻訳) 2008/10 サンマーク出版 単行本 kindle版あり 336ページ
★★★★★

------------------------------- 
<22>から続く 

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<23>エックハルト・トール

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 リストのほぼ最後になって、この人物の名前をくわえておくことに、やや赤面さえしてしまう。ほぼ蛇足というべきか。なにかの保険というべきか。とにかく、何かの逃げ道のような気がしてならない。

 この人物の本はほとんどまじめに読んでいない。図書館でも簡単に読める、ということを確認しただけにとどまっている。

 この人物を認知するのに「地球人のためのスピリチュアル・レッスン」というサイトがあって、そのサイトで取り上げられるエックハルト・トールがなんとなく好きだ。というか、私は、この「地球人のためのスピリチュアル・レッスン」とやらが気になっている、というほうが先なのではないだろうか。

 この世にたくさんのマスターがいる。私は、もうOSHOでOKなのだが、決してそれは全てのひとにとってのOKではないだろう。次から次と、さまざまなマスターが登場してくる。いちいちそれらの人々を追っかけるつもりはないし、追っかけ切れるものでもない。

 でも、そういうサイトがあるってことは、なんとなく気がついた。いろいろなマスターの中の、このエックハルト・トールという人を、いずれ、ゆっくりおっかけて見たいと思っているのだ。だが、その動機は不純である。

 自らの生きる道を探す、という意味以外で、この手の人を追っかけるのは、本当はタブーなのである。ミイラ取りがミイラになる。それだけの余裕があるなら、自分の道にまい進することが大事なのである。

 とはいいつつ、やはりあちこち脇見したくなるのは、人間の常である。もし脇見するなら、この人物あたりは手ごろだな、という唾をつける気分で、この人物の名前をメモしておくことにする。

「来たるべき地球人スピリット」<24>につづく

「ニュー・アース」エックハルト・トール<3>につづく 

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「大いなる挑戦-黄金の未来」 OSHO <4>来たるべき地球人スピリット

<3>よりつづく

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「大いなる挑戦-黄金の未来」 <4>
Osho 1988/1 OEJ 単行本 128p

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<21>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<22>OSHO

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 OSHOの中から一冊を選びだせというリクエストはほぼ不可能なことだが、「来たるべき地球人スピリット」というリストに提出する一冊としては、この「大いなる挑戦-黄金の未来」が最も適しているだろう。

 この本は1988年に出されたものだが、 語られた時期はその前年からのこと。その過程に私も関わっていたし、その意味されたところも十分理解できる位置にいる。しかし、この本は、必ずしも、誰にとっても受け容れ易い内容ではない。

 ある意味、その時期の背景から考えると、あの時期だけに特化した話題だったのではないか、と思わないわけではない。そうであったほうが、本当は、早く忘れられていいのかもしれない。

 だけど、OSHO正規軍のHPにも、特化した形でこの本について触れているので、それはないだろう。やはりこの本は特別なのである。

 この本についての細かい分析は、すでにしているが、どうもいまいち、まだ未解決というニュアンスがとても強い。たぶん、私が生きているうちには、この本に提出されている課題がすべて解決する、ということはない。

 それでもなおかつ、OSHOのサニヤシンであると自覚している自分としては、この本に残された課題は、生きている間はとにかく引き受けていくしかないだろう、と思う。

 まさに大いなる挑戦である。これだけの挑戦が必要なのかどうか。そして、大いなる挑戦の結果が、黄金の未来だとしても、あれから四半世紀が経過しても、まったく黄金の未来は来ていない、ということになる。

 う~~ん、とにかく引き受けよう。ここに書かれていることは、十分に検討に値する。OSHOが残した公案として、とにかく、この一冊を特別な一冊として受けれてみることにする。

「来たるべき地球人スピリット」<23>につづく

「大いなる挑戦-黄金の未来」<5>につづく

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ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン 『現代詩手帖』特集 <4>

<3>よりつづく

Photo

「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」<4>
「現代詩手帖」 2012年7月号特集1 思潮社 雑誌
★★★★★

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<20>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<21>ゲーリー・スナイダー

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 スナイダーについての日本語の出版物は、当ブログとしては、ほとんど目を通している。ひとつひとつが興味深い。再読してみたい本ばかりだ。その中でも、一つ選び出せと言われれば、敢えて、この雑誌を上げようと思う。

 山尾三省とのつながりを考えたり、宮沢賢治とのつながりを考えたり、あるいはギンズバーグやケルアックとのつながりを考えたりする手もいろいろある。しかるに、今、「来たるべき地球人スピリット」として考えるなら、最新のスナイダー情報を援用するしかないだろう。

 尊敬すべき人々の多くが亡くなってしまった中において、スナイダーその人は、まだまだ現役の人である。これからも、まだまだ新しい局面で私たちに影響を与え得る存在である。

 3・11後、ようやく図書館が復活し、本も読める気分になった時、まず最初に読み始めたのはスナイダーだった。スナイダーこそポスト3.11のシンボルであると感じられた。

 だから、3・11後に、スナイダーが来日し、被災地を訪問した時、本当はもうちょっとその存在を示して欲しかった。その時のレポートがこの現代詩手帖に載っているわけだが、どうも当ブログとしては、納得していない。

 先日、近くの城山を桜見で散歩してきた。スナイダー言うところのバイオリージョンなどと、大仰なこと言わないでも、こうして、地元の自然に触れるだけでも、十分じゃないか。標高何百メートルなどと高地に住まなくても、身近に十分自然があるじゃないか。

 森林保安員のような荒行をしなくても、郷土史愛好の士の中にも、十分な理想形があるのではないか。何百行の詩を書いて、詩集を出さなくても、たった一つの俳句でもひねり出せば、それで足りるじゃないか。

 だから、どうも私の中では、カッコいいスナイダーは、どんどん株が下がっている。カッコいいだけに、どうも期待しすぎたようだ。もうすこし、こちらも原寸大で生きていくしかない。なにか、カッコいいことを考えるのはやめよう。自分でできる範囲で、自分らしく、生きていくしかないんだ。

 だから、そう言った意味において、カッコいいスナイダーにあこがれつつ、やっぱりスナイダーにはなれない自分にくつろいでいくしかないのだ、という戒めにするために、ここでは、スナイダーを「来たるべき地球人スピリット」にリストアップしておきたい。

「来たるべき地球人スピリット」<22>につづく

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「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS” 石川裕人・作・構成・演出<4>

<3>からつづく 

Oct
「人や銀河や修羅や海胆は」<3>
石川裕人・作・構成・演出 2011/12/24  TheaterGroup“OCT/PASS”  センダード・エルパーク・スタジオホール

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<19>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<20>石川裕人

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 数ある表現者の中で、石川裕人その人は、必ずしもビックネームではない。むしろ、地方に埋もれた芸術家列伝にでも名を連ねるかもしれないような、いわゆる文壇的には一部地方で知られた表現者である、と断言しても構わない。

 私個人にしてみれば、小学生時代から、互いに還暦に迫ろうとする時代まで、互いに側にいた友人としては、これほど近くにいた表現者は、彼以外にない。私は彼のよき観客でもなかったし、よき理解者でもなかった。彼とて、私のやろうとしていたことに、十分理解が及んでいた、とも言い難い。

 それでも、竹馬の友として、それほど大きく道が離れず、大きく物理的に音信不通にならず、人間関係もかなりの部分が重なり合うような人生を送った、という意味では、彼に変わる表現者はいない。私にとってはかけがいのない存在である。 

 私は、概して彼の作品については辛口であたってきた。私は、別段に演劇通でもなければ、芸術を愛する男でもない。ただ、私は私なりに、そのときそのときに、自分の生活まるがかえの中で、彼の芸術に対峙し、私は私なりの生き方を貫こうとしてきただけである。

 彼については、当ブログでずいぶん書いた。ここでは多言を要すまい。敢えて、ここで当ブログにおける「来たるべき地球人スピリット」のリストに登録しておこうと思うのは、やはりリアリティにおいて、他の表現者に比較して、格段に優れているからである。

 テレビで見る芸術、美術館でみる芸術、評価され箱詰めにされたパッケージとして見る芸術、すでに完成された安心してみることが出来る芸術。そういったものからは、彼は遠く離れていた。そうあろうとしたとは限らないが、そうあったことに、彼は決して不満ではなかっただろう。私側からしても、結果としてそうであった、としかいいようがない。

 彼の数ある作品の中で、私を貫いたのは、この「人や銀河や修羅や海胆は」の山元町での講演である。3・11後の、被災者たちが避難する体育館で、押し寄せる余震の中で、演じられたこの公演は、彼、石川裕人の真骨頂であっただろう。

 彼は、100本を超える脚本を書き、一冊の脚本集を残し、その命を演劇にすべてを賭けて、この世を去っていった。見事な人生であった。そういう存在の傍らで、彼の友人のひとりとしてあり得たことを誇りに思う。

 彼に新しい戯曲を書け、とはもう言えない。彼を引き継いで、私が何かを書き残そうとしても、それは戯曲などになれるわけがない。でも、試みとしては、私は、彼が書くべきだった戯曲のその神髄を、私なりに表現できないであろうか、と思っているのである。

 それは無理だろう、と最初から諦めてしまうべきではないと思う。彼はもう帰らないけれど、私はまだ命があるようだ。これからだって、どこまで行けるかは、正直、私自身よくわからない。しかし、まだ、こうしてブログを書いている限り、まだ生きてあるようだ。

 「来たるべき地球人スピリット」。そのリストの中で、もっとも親和性があり、身近であり、一緒にいたな、と思えるのは、やはり、彼、石川裕人である。

「来たるべき地球人スピリット」<21>につづく

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村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」<2>来たるべき地球人スピリット

<1>からつづく 

走ることについて語るときに僕の語ること
「走ることについて語るときに僕の語ること」 <2>
村上春樹 2007/10 文藝春秋 単行本 241p

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<18>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<19>村上春樹

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 村上春樹から一冊あげよ、と言われれば、私はこの本を真っ先にあげるだろう。この本は小説ではない。小説家の書いた本なら小説の中から選ぶべきだろうが、それは、ワン・オブ・ゼムとなって、他の本たちの存在を、暗にほのめかすことになる。

 何冊かあげよ、というなら別な選択もあるだろう。しかし、たった一冊となれば、他の存在を拒否し、これ以外にない、というものを選び出す以外にない。私は小説を好んで読むほうではない。いやむしろ、小説を読むことは大儀だと思うことのほうが多い。

 この本は小説ではない。そこがいいのだろう。そして、私が彼に書いてほしい一説をずばり言っているところが嬉しいのであろう。

 走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空は空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫然とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。「走ることについて語るときに僕の語ること」p32

 ある意味、彼の数多い言葉の中から、この一説を見つけ出せば、あとは正直言ってもう、どうでもいtい。あとはお好きなようにどうぞ言葉遊びをしてください、というしかないのである。

 この本は、ちょうど村上春樹56歳と7ヵ月から始まっているところも、お気に入りの一冊になった要因である。当ブログには当ブログなりのこだわりがある。

 この村上春樹を、当ブログの「来たるべき地球人スピリット」リストに加えることに、まったく齟齬なしとはしない。添わせるには、多少のガタゴトがある。それでもなお、これはこれでいいのではないか、という面白さを感じる。

 とくに、科学、芸術、意識、と分けた場合、もし芸術の面白さを、仮に小説とか文学とかに見る場合、ブログ上でハルキをいじることは、なにかと魅力的にも思える。小説とか文学とかいう奴は、みんなでワイワイ、いじってナンボのもんでしょう。これだけ数出されていれば、いじるにいじりやすいし、彼もそれを望んでいるに違いない。

<20>につづく

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「聖なる地球のつどいかな 」スナイダー&三省<5> 山里勝己監修 来たるべき地球人スピリット

<4>よりつづく



2013/4/23 新泉社 単行本: 288pVol.3

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<17>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<18>山尾三省

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 山尾三省という人の真髄あるいは集約を見るなら、晩年のアニミズム三部作を見る以外にないだろう。詩人として、あるいは環境保護運動家として、彼の多くの著書は、形としてはエッセイや随筆という形で、彼の周囲におこる出来事を、ややプライバシー過剰露出気味につづり続けた彼のスタイルは、叙事詩的ではあっても、決して集約てきではない。

 その著書は、どこを切っても三省飴、とでも揶揄すべき内容で、すでに確立したスタイルである。だから、口の悪いポンなどは、彼を三省教と冷やかしていた。どっちもどっちだが、ポンの言い分にも十分理がある。

 「来たるべき地球人スピリット」という語感でいうなら、そして、このシリーズにもし三省をリストアップするなら、ゲーリー・スナイダーとの対談をピックアップするのが正しいのだと思う。むしろ二人同時にアップしようと思ったが、どうもそれも違うようだ。

 三省に対して、例えば、シリーズ「ありがとう」の中の一節として、「ありがとう」とは、素直に言えない。感謝とか、感激とか、素晴らしいとか、なんだか、ちょっと違う。彼は近いのか、遠いのか。あるいは正しいのか、どこかで違った道を行ったのか、さだかではない。

 だけど、このシリーズ「来たるべき地球人スピリット」という文脈なら、三省の魅力は、スナイダーの前でこそ醸し出されている、と言える。スナイダーあってこその三省である。ここの文脈においては、三省はスナイダーに依拠している。

 かたや、スナイダーは、おそらく三省には依拠いていないだろう。三省の前に立たずとも、スナイダーはスナイダーの魅力を持っている。スナイダーには「来たるべき地球人スピリット」という語感に耐えうる強さを感じる。

 三省は、おそらく「スピリット」という語感が不似合いである。三省には、「来たるべき」という語感も、いまいちフィットしない。そして「地球人」というのも、とって付けたような、ぎこちなさを感じる。なにゆえなのか。

 おそらく三省は、未来志向の人間ではない。現在はともかくとして、未来か過去か、どちらかを選べ、と言ったら、彼は過去を選ぶだろう。その象徴がアニミズムという言葉だ。過去は良かったのだ。未来は危険で、間違っている可能性が高い。彼にはそう見えている。

 彼は地球人という言葉を選ばないだろう。グローバリズムよりローカリズムだ。だから、村人とか里山とか、そういう語感を愛する。その偏狭さゆえの三省の魅力でもあるし、当ブログから見た場合の限界でもある。

 来たるべきなのか、守るべきなのか、と言った場合でも、彼は来たるべき者など何もいない、と答えてくるかもしれない。すでにいるものを守れと。スピリットという言葉に対しては、三省なら、もっと違うことば選びをするだろう。心でもなく、精神でもなく、おそらくカミという単語を使うかもしれない。

 彼なら「里山のカミを守れ」というかもしれない。「守るべき村人の暮らし」というかもしれない。三省の言葉使いには、だいぶ慣れたし、真似てもみた。でも結局は、それは三省の道である。当ブログでは、この三省の道を、「来たるべき地球人スピリット」という語感で、鍛え直す。そういう意味でこそ、ここで三省を取り上げる価値があろうというものである。

 当ブログでは、シリーズ「ありがとう」も進行している。そちらのシリーズでは三省をまだ取り上げる気分にはなれない。どうも彼には、ありがとう、は似合わない。三省に対して、ありがとう、なんて手を合わせていたら、みんなで心中して自決しなければならないような気分になる。

 敢えて、当ブログは、三省を強く叩きたい。そういった意味において、彼をこのリストに載せておく。

「来たるべき地球人スピリット」<19>につづく

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「意識とはなにか」茂木健一郎 <6>来たるべき地球人スピリット

<5>よりつづく 

意識とはなにか
「意識とはなにか」 私>を生成する脳 <6>
茂木健一郎 2003/10 筑摩書房 新書 222p
★★★★☆

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<16>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<17>茂木健一郎

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 この人の名前は、当ブログとしても、ずいぶん遠ざかってしまった。一時はマスコミの花形で、一体この人は何をする人なのか分からないまま、好感度だけが高まっていった時期があった。マスコミの露出度も高く、またその風貌も何事かを感じさせたものだ。

 ブームとは、得てして落とし穴を隠しているもので、書店に行けば次から次と彼の新刊本があり、内容はやや粗雑な三流品になりつつあったが、それでも手に取り続ける、という時期があった。

 案の上、彼はきりもみ状態となり、具体的には、自ら行なっていた税務が不完全で、名目の上では脱税、という汚名を着せられて、下火になった。もはや過去の人になりつつある。完全に抹殺されたわけでもなく、ちょこちょこマスメディアにも顔を出すようであるから、今後は、もう少し落ち着いて、よい仕事をして欲しいと思う。

 彼の数ある著書の中で、印象的なのは、この「意識とはなにか」であろう。他の書物においても、主テーマはここにあり、また当ブログとしても期待したいのは、ここの深化である。どこかで、彼がダライ・ラマに「意識とはなにか」を問うて、適当にあしらわれるところがあったが、それは、タイミングの問題であって、彼の問いが間違っていたわけでもなく、ダライ・ラマが、その答えを渋ったわけではない。

 問われるべき時に問われ、答えられるべき時に答えられるだろう、この問い「意識とはなにか」。しかし、茂木健一郎が今求めているようなスタイルでは、答えはやってこないだろう。それを知りつつ、彼は自らのスタイルを進めようとする。

 当ブログは、彼のスタイルを良しとする。それはおそらく答えを得るべき正しいスタイルではない。でも、人は、それ以上の何をどうできるのであろうか。彼は問う。クオリアという仮説を立てて、問い続ける。それでいいのだと思う。科学的探究とは、そういうものであってしかるべきだ。

 答えそのものは、決して科学的な形ではやってこないだろう。茂木健一郎という人を、当ブログとしては、科学者の一人として、科学的探究者の一人として認知して、この「来たるべき地球人スピリット」にリストアップする。しかし答えは科学としては来ないだろうし、また、彼自身も、科学者、と切って捨ててしまうべき存在でもない。その範疇からはみ出してしまうほどの探求心を持っている。

 彼は若い。今後のこの分野での研究の深化に期待する。現代科学であれば、この「意識とはなにか」というテーマをさらに深く切り進んでいけるかもしれない。そういう期待感をむんむんと感じさせる存在である。いずれ、この分野の続報を望む。

「来たるべき地球人スピリット」<18>につづく

 

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ありがとう「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<21>来たるべき地球人スピリット

<20>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <21>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

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<12>からつづく

シリーズ「ありがとう」<13>飯沼勇義

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<15>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<16>飯沼勇義

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 ここに来て、不思議なことが起きている。当ブログで進行中の「来たるべき地球人スピリット」と、シリーズ「ありがとう」という括りが、自然と一体になってしまっているのだ。それに個別の本というか、人物の存在が、渾然一体となり、私に話しかけてくる。なにがなにやらよく分からないが、分からないまま、このまま進めていく。

 最初、暫定的に「来たるべき地球人スピリット」の人物編に掲げておいた名前を追っかけてみる。スティーブ・ジョブズの次は、飯沼勇義その人である。この人は、世界的に知られた人ではない。国内でも、ほとんど知られていない。いや、地元においても、まったく無視されてきた、と言っても過言ではない。

 かくいう私も、全く知らないできた。ほとんど知らないで終わったかもしれない人である。しかし、ながら、3・11がこの人をクローズアップしてしまった。この人が脚光を浴びる日は本当は来ない方が良かったのかもしれない。

 この人の予言は禍々しいものであった。それは不吉な予告である。それは妖しい巷の似非宗教家の振る舞いにも似ていた。その真摯な指摘とは裏腹に、世間が彼を無視し続けたことは、むしろ、当然であったかにさえ思えてくる。もし3・11というものがなかったとするならば。 

 でも、厳然とした3・11という現象が現れた限り、彼は無視されようがない。彼の仕事は、歴史的に見て、仙台平野には必ず巨大津波が押し寄せる、という結論を見出した。彼の津波学は、科学である。しかしながら、純粋なアカデミズムの範疇には入れて貰えなかった。

 それをもろともせずに、自らの信念を貫きとおし、自らの推論の正しさを、自らが被災して証明するという荒技を持って、彼は自らの人生を生き切ろうとしている。この姿勢を見せてくれたことに対し、当ブログは、ありがとうございました、と素直に低頭する以外にない。

 彼は、限られた地域に住み続けた、名もなき郷土史家である。発表した本とて数冊に留まる。その数冊が、世界を震撼させた3・11をズバリ予言していた。それは宗教的というより、極めて科学的である。なぜに、いわゆるアカデミズムのノータリン達が、これだけの科学的事実を見逃すことができたのか、と言わなければならないほどに、的確であった。

 彼の予言の恐ろしさは、これで物事は終わらないのだ、というところにある。続いて巨大地震と津波は押し寄せる。仙台平野に限らず、日本列島は、引き続き津波のラッシュに見舞われるというのだ。彼の言うところを、全て理解し、信ずることができる人は、そう多くはない。それでもなお、彼の真実性には一貫性がある。

 飯沼勇義という人の世界観、歴史観は、現在のところ、ホツマツタエに集約されつつある。ホツマそのものは偽書として十分なアカデミズムの裏付けをうけていない。まともに論ずることさえ、はばかれるという者たちもいる。

 彼のホツマは、千葉富三ホツマである。当ブログは、その千葉ホツマを読み解きつつあるところだ。当ブログは、決して全てに同意できるわけではない。その論旨に危うさを感じるものである。物事はそのように推理していいのか、という脆弱性を強く感じてもいる。

 それでもなお、飯沼勇義+千葉富三のホツマは、うむを言わせぬ力強さを持っている。当ブログは、その論拠の正しさを証明することはできない。反論する力もない。しかしながら、圧倒されてしまうのは、なにゆえなのか。

 事実が事実として起こるなら、それはいつかは時間が証明してくれるかもしれない。証明されてしまうことは、必ずしも歓迎されるべきことではない。むしろ、永遠に無視され、否定され、忘れ去られた方がいいのかもしれないのだ。

 そんな地の果ての世界までいったこのような人々が存在している、ということに、当ブログとしては、まずは「ありがとうございます」と言いたい。そして、このような人々の精神性を、「来たるべき地球人スピリット」の根幹としたい。

「来たるべき地球人スピリット」<17>につづく

シリーズ「ありがとう」<14>につづく

「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <22>につづく

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2014/04/19

シリーズ「ありがとう」<12>桜花咲く日本

<11>からつづく  

シリーズ「ありがとう」<12>桜花咲く日本

 朝早く起きて、奥さんに促され、車で小一時間のところの城山公園にお花見に行くことに。

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 夜桜もいいが、早朝、ウォーキングを兼ねた桜散歩道も悪くない。

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 おお、城山全体が満開だ。花吹雪もはらほらと、落ちてくる。

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 眼下は、一目千本桜と言われる、桜の名所。街全体が桜である。

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 向こうの蔵王も、抜けるような青空の中、銀色に輝いている。

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 平和観音様も、いつもより、どこかのんびりと、穏やかに見える。

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 鉄ちゃん達も、蔵王と桜と電車のコラボレーションのチャンスを狙う。

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 どことなくターシャ・チューダーを思わせるハーブガーデンも、桜につつまれる。

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 早起きはなんとかの得とか言うが、早朝だと駐車場代がどうやら無料になりそうだ。すでに外は明るい。朝日もまぶしいよ。

<13>につづく

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2014/04/18

「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号<2>

<1>からつづく 

WIRED×STEVE JOBS」 <2>
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌 p178 kindle版 WIRED関連リスト

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<10>からつづく

シリーズ「ありがとう」<11>スティーブ・ジョブズ

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<14 >から続く 

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<15>スティーブ・ジョブズ

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 さて、ここに来て、当ブログのいくつかの支線が、合流することになってしまった。ここで一度ジョブズに登場願わないと、前に進まない。前回、この本を読んだ時は、まだこの本を読むみ込む段階になっていなかった。そして、今も、実は本としてのこの本を読もう、というタイミングではない。ただ、この一冊をもって、そのスティーブ・ジョブズというアイコンをもう一度確認しておきたい、ということだ。

 シリーズ「ありがとう」においては、とにかくジョブズに対して、ここでありがとう、と言っておきたい。もし、この世にパソコンがなかったら、私の今回の人生はすこし楽しさが減っていただろう。パソコンを生み出したのはジョブズということになっている。

 もしジョブズがパソコンを作らなかったら、誰かが作った筈だとは思うが、やっぱり結果としてパソコンを作ったのはジョブズだ、と言って間違いなかろう。そのパソコンも時代の流れの中では、すでに時代遅れになり、いまやタブレットの時代である。

 そして、そのタブレットを作ったのも、ジョブズだった。いや、タブレットも、ジョブズが作らなければ、誰かが作ったのだろうが、やはり、実際にタブレットを作ったのはジョブズだった。それは間違いない。

 私は、ケータイ派ではなく、iPhoneが出た時は、ちょっと引いて見ていたし、今でもiPhoneを使ってはいない。音楽偏愛派でもないので、iPodが出た時も、その価値を見出すことはできなかった。iPadがでた時だって、私はちょっと眉つばだった。もうそんなものいらない、とさえ思っていた。文句さえ言っていた。

 だけど、いまや、タブレットは生活の中の必需品である。タブレットを持って生活していることが、なんともうれしい。これがなければ人間として生きていけない、と言う訳ではないのだろうが、やはり、いつも手元に置きたい。こういうものを発明してくれた、ジョブズには、改めて、ありがとう、を言いたい。

 誰かが、スティーブ・ジョブズは、トーマス・エジソン + ヘンリー・フォード + ウォルト・ディズニーだ、と表現した。発明家であり、実業家であり、芸術家であると。パソコンを発明し、アップルコンピュータというブランド製品を確立し、ピクサーという芸術作品シリーズを発表し続けた。

 天才は同時代人には理解されない、と言うが、ジョブズは、同時代にも十分理解された。いや、私なんぞは、よく理解できていなかった。ジョブズに対して心を広げ始まったのは、実に、彼が亡くなってからだった。それまでは、なんだか、よくわからない警戒心ばかりが強かった。

 彼は、科学的なアイテムをつくり出し、豊かな芸術作品を生み出し、そしてZENに参ずる意識の高さを持っていた。このような人物が、同時代にいたことは、もっともっと大きく評価しなければならない。私なんぞは、最近、ようやく目が覚めたようなものだ。

 彼の人生が56歳と7ヵ月だった、というのも、なんとも泣かせる。当ブログの「来たるべき地球人スピリット」としては、まずは登場してもらいたい人物だった。ああなりたい、こうなりたい、ということもあるが、とにかく、こうして、今ここにこのような人物がいたのだった、ということは明記されなければならない。

 実際の彼は、なかなか難しい人物らしく、私なんぞは、伝聞でうわさされる彼の人物評に、なんとなくイヤな奴だなぁ、という印象を持っていた。おそらく、実際のある割合ではそのとおりであっただろう。近くに居たら、その印象を強調するかもしれない。それでもなお、やっぱり側にいたら、もっともっと刺激を受けたのかもしれない。

 なにはともあれ、ここでこうして、当ブログは、ようやくスティーブ・ジョブズという人について、考えてみようかな、と思い始めた、ということをメモしておく。もちろん、これまでにジョブズ関連として、たくさんの本やビディオ、映画などを見てきた。でも、通り一遍じゃなく、もっと突っ込んで考える時期が来ているように思う。

 しかし、最後にひとつ難を言っておけば、ジョブズは一つの存在であることに間違いはないが、当ブログとしては、彼単独でOKとならないところが、ある。例えば、私のマスターであるOSHOであるとか、詩人としてのゲーリー・スナイダーと並べ称することで、ようやく、際立った美しさが現れるというのは、何故なのだろう。

 もちろん、OSHO単独でも、ちょっとか弱いところがある。なにかが不足する。もちろんスナイダーも単独でいるよりかは、もっと仲間といる姿のほうが力強い。だから、そういう意味では、ジョブズもまた、別に孤高を保つ必要はない。

 だから、ここで、思うことは、当ブログの結論として、ああ、ジョブズがいてよかったね、ということではない、ということだ。それは、OSHOがいてよかったね、でもないのと同じことだ。スナイダーがいてよかったね、でもない。

 つまり、ジョブズがいてくれて、ありがとう、と感謝しつつ、そこからさらに、次なるものは歩いていかなければならないのだ。一人ひとりが、そうでなければならない。とするなら、、やはり、当ブログの進行役としての私自身が、他の存在では埋めようもない何事かの存在を、自ら感じることがなければ、いくら他人を称賛してもしかたない、ということに気づく必要がある、ということだろう。

  シリーズ「ありがとう」<12>へつづく

「来たるべき地球人スピリット」<16>へつづく

「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号<3>につづく

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シリーズ「ありがとう」<10>ヒッチハイクの運ちゃん達

<9>からつづく

シリーズ「ありがとう」<10>ヒッチハイクの運ちゃん達

 古い写真をガサゴソ整理していたら、現像していない写真フィルムがゴソッと出てきた。存在するのは知っていたが、確認することは面倒くさいので、長いことそのままにしてあった。多分、私が死亡すれば、誰も確認することなく、遺品片づけ屋さんにでもお世話になるのだろう。

 となれば、いずれ廃棄処分になるとは言え、余裕のあるうちに一通り確認しておくことも、フィルム達に対する「ありがとう」ではないのか。そう理解して始めてみるのだが、白黒、カラーを問わず、ただただ目視で古いフィルムの内容を確認するのは至難の技である。

 この時、我が家のプリンターにはフィルムスキャナーの機能がついていることに気がつき、とりあえず、あちこち引っ張り出してサンプリングを始めてみることにした。意外や意外、今となってはお宝画像が出てきて、ネット上の人気を博する画像もあったりする。

 

Hh101

 この三枚組の画像は、おそらく1974年頃のヒッチハイクの画像である。私がフィルムを持っているということは、私が撮影したか、私が映っているか、どちらかなのだが、どうも、このヒッチハイカーが誰だか確定できない。

Hh102

 ドライブインの名前もあり、バス停も写っているところから、おおよそ、当時、鳴子温泉郷の「星の湯」からの帰りらしい、ということは分かるが、それ以上のことは判別できない。特に、このリュックサックの特徴がどうも記憶にない。ヒッチハイカーのシルエットとヘアースタイルは、私だとそのような気もする。

Hh103

 この画像では、二人組のヒッチハイクにして、トラックを狙っていたらしいが、助手席に二人乗せてもらい、リュックは後ろの荷台に積み込んだのだろう。まんまと成功し、多分、これで古川あたりまで戻って、さらに仙台行のクルマを探して乗せてもらったものと思われる。

 私がヒッチハイクを始めたのは高校二年生の16歳の時、自転車で佐渡まで行った時だ。その時のことは、このシリーズ「ありがとう」でも一番最初に触れておいた。そして、最後は、おそらく1975年の星の遊行群=ミルキーウェイ・キャランバンの夏に、札幌からアパッチと仙台まで帰ってきたのが、最後ではないだろうか。

 だから、私のヒッチハイク人生は、実は16歳から21歳までの僅か5年間ということになる。その後は、自動車免許も取り、クルマが側にある生活になったので、ヒッチハイクをすることはなくなった。

 ヒッチハイクにまつわる思い出はたくさんある。おそらく書ききれないだろうし、もう記憶から忘れ去られつつある。もう、それでいいのだと思うが、私自身は、ジャック・ケルアック「路上」につながる、貴重なオン・ザ・ロード体験なので、本質的に忘れることはない。

 あれだけお世話になったヒッチハイクなので、何れ私が運転手になったら、積極的にヒッチハイカーを拾ってやろう、と意気込んでいたが、時代は、モータリゼーションが極度に発達し、高度成長の中で、ヒッチハイカーが極端に減っていった。

 かくいう私は、この40年間のドライバー人生で、ヒッチハイカーを拾ったことがあるのは、ほんの2~3回。それも、せいぜい数十キロという単位だ。全国、網走から沖縄のドライバーにお世話になったので、いずれ私も運転手として、新しいヒッチハイカー達を拾うことによって恩返ししようと思ってきたが、それは、まだまだ達成していない。達成する見込みはもうない。

 ここで、いつも拾っていただいた、全国のドライバーのみなさんに、お礼を申し上げておきます。ありがとうございました。あなた達がいなかったら、私は全国津々浦々まで行って、自分の目で確かめる、ということができませんでした。

 そして、泊めてもらったり、遠回りしてこちらの目的地まで送ってくれたり、あるいは私を乗せるために減速したところ、オカマを掘られてしまったりと、迷惑もずいぶんかけました。荷降ろしを手伝って、小遣いをもらったこともありました。ご飯をおごってもらったことは、何度もありました。

 クルマを拾うまで何時間もかかり、ようやく乗せてもらったら、眠くなってしまい、そのまま助手席で何時間も眠り続け、黙って目的地まで乗せてくれた運ちゃん。覚醒剤を打ちながら、もう一週間運転しっぱなしだ、と自慢していた、体の小さな長距離ドライバー。

 元・力士の石材運搬車の、体のどでかいお兄さんには、最近土砂崩れがあったのはあそこだ、と教えてもらったけど、旅の途中は新聞も、テレビのニュースも見ていないので、そんなことがあったとさえ、知らなかった。

 ファミリードライブ中のお父さんは、犬まで連れて旅行中でした。そんな時なのに、新車がよっぽどうれしかったのか、私まで乗せてくれて、なんだか団らんのところ済みませんでした。ハンドルのビニールカバーが初々しかったですね。

 津軽で、竜飛岬まで乗せてくれた魚屋のオジサン。やさしいやさしいオジサン。魚の匂いがむんむんする車内は素敵でした。やさしく何度もこちらに質問していただきましたが、あなたの津軽弁は、旅行者の私には、たった一語も理解できませんでした。ただただ、あなたの笑顔が素敵でした。

 沖縄では、まだ右側通行で、ヒッチハイクであげる指が反対の手になるのは、最初はちょっと戸惑った。そして、乗せてくれたのは基地に勤める米兵だった。私は英語はダメだったが、レオンが一緒だったから、何もこわくなかった。なんせレオンは、後に、英語の同時通訳の、そのスタッフを育てる指導者になる人である。心強かった。米兵も、19歳のレオンの英語をほめていた。完璧だった。

 とにかく、私は今日まで、このようにして、たくさんの人々のお世話になって生きてきました。ありがとうございました。

<11>につづく 

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2014/04/17

「生存への行進」―いま生命の革命が始まっている ! 大友 映男<1>

Tomo1

「生存への行進」いま生命の革命が始まっている! <1>
大友 映男 (著) 1982/04 新評社 単行本  268ページ
Total No.3216

 FB友さんの書き込みで、この本があったことを思い出すことができた。そうそう、そういう本があったのだ。私はすっかり忘れていた。探してみると、県内の図書館にはなく、司書さんが、北海道の図書館から取り寄せてくれた。

 ネット上では情報が少ないが、まったくのレア本とも言い難い。国会図書館を初め、要所要所の図書館には収まっている。関係者の書庫や本棚にもキチンと収まっていることだろう。しかるに、どうして私の書庫にはないのか。これには私なりに考えると訳がある。

 私が著者ともっとも物理的に近いところにいたと思うのは1974~5年頃である。著者であるトモ君からはおおいに刺激を受け、真似られるところは真似した。しかし、この1975年という年代で、私は私なりの道を見つけ始めた。だから、必ずしも、著者と同じ方向を見ていた、とは言い難い。

 この本が出たのは1982年である。1975年からすでに7年が経過している時点であった。私は私なりの旅があり、彼には彼の道があった。この本、読みだせばきりがない。抜き書きしようとすると、どこまでも抜き書きしなくてはならなくなる。

 しかたがないので、とりあえず、一番関係のありそうなところを見開きで画像として納めておこう。あと、余裕がでてきたら、何事かメモとして転記するかもしれない。

 

Tomo2_3

 

 しかし、それにしても、と思う。著者と同じ道にいるかな、と思えたのは、この本の中のほんの序章の序章である。この本においてはイントロにすぎない。そして、それからの著者の旅は、とてつもないロングウォークになるのである。

 この本、巻末に、関係グループや団体のリストがついていて、当時の貴重な資料となっている。この本、ちょっとあまりにも情報を込め過ぎたのではないか。三部作とか、五部作とかに分割してもいいような、分厚い内容である。

 しかして、それもまだ1982年段階までのことである。この後、私が彼に再会したのは、1990年代になってからの、福島の獏原人におけるお祭りのときであった。そしてそして、それからだって、さらに20年が経過して、この2014年はあるわけである。

 おそらく、トモ君こと大友映男の旅は、まだまだ続いているだろう。「生存への行進」と銘打った、彼のライフスタイル。あっぱれな人生だと思う。

<2>へつづく

 

 

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シリーズ「ありがとう」<9>生きてあることに

<8>からつづく

シリーズ「ありがとう」<9>生きてあることに

Photo

 この画像は、息子夫婦が自分たちの結婚式に際して、親としての私達に贈ってくれた色紙である。なにげなく、壁にかけている我が家の一風景であり、際立って目立っているわけではない。しかし、ふと気がつくと、このありがとうは、私達夫婦に語りかけている一枚であった。

 なんだか今回は、それこそ、このシリーズの最終回のような内容だが、ふと思いついたので、メモだけしておく。

 ありがとう、って私なんぞは簡単に言いすぎる。商売でもやっていれば、常に周囲にいる人びとはお客さんかお客さんの予備軍であり、あるいは過去においても、どこでどうお世話になっているか分かったものではない。とりあえず、人に逢ったら、ありがとうございます、と言ってしまう。

 しかし、それでいいのか。英語ではThank youだから、あなたのことを思いますよ、程度の軽い挨拶だが、日本語で言えば、有難う、だ。つまり有難き幸せ、ってことだよね。あなたに、こんなことまでしていただいて、通常だったら、とても有り得ないことではありますが、本当にこれまでしていただいて感謝しています、ということだ。

 そういう心をこめて、本当に毎日、人々に有難うございます、なんていうことはなかなか難しい。普段から毎日、そこまで意味を込めていたら、ちょっと窮屈かもしれない。

 こんにちは、なんてのも軽く言いすぎているかも。今日は、いかがお過ごしですか? というのが本意なのであるが、ただただ通り過ぎるときに、無言で通り過ぎるのもなんだか気不味いから、とりあえず、こんにちは、と頭を下げて通り過ぎる。本当にそれでいいのか。こんにちは、と言ったあとに、相手の、今日の具合を、ちゃんと聞いて受け止める余裕が、こちらにあるだろうか。

 さようなら、というのも、左様なら、だから、そのようでしたら、またお会いしましょうね、ということだが、本当に、そういう意味を込めて語っているだろうか。毎日のルーティンになって、意味のない習慣になっていないだろうか。

 インドでは互いに、ナマステ、というのが挨拶だ。ナマステとは、あなたの中にいる神様を礼拝します、という意味だそうだ。なんとも重く深い意味だが、彼らがみんな日々そう思って挨拶しているかはともかく、私は、そのような意味を込めてナマステ、と言えるだろうか。

 ある時、友人夫婦と別れの挨拶をする時に、「じゃぁ、お元気でね」と言ったことがある。元気でね、というのは本意であり、今後もずっと元気でいてほしいとは思った。しかし、彼らの本当のこれからのことを心底から考えて「元気でね」と言っただろうか。

 その時、ご婦人のほうが、振り返って「私は、そういう約束はできないな」と、返答してきた。彼女は、やや耳が遠い、難聴とまではいかないが、どちらかの耳が他人の言葉を聞き取りにくい時もあるらしい。だから、ひょっとすると、私の言葉を聞き違ったのかもしれない。

 しかし、元気でね、と言ったこちらは、日々のルーティンワークした常套句を、簡単に言ってしまっただけではないのか。元気であってほしい、というこちらの願いは伝えたが、しかし、それを相手に無理やり強要することはできない。

 そこを彼女は、本当に、キチンと聞いていて、いやそれは約束できない、と来たのかも知れない。人間、精神が優れてすこやかな時もあれば、なんだかうっ屈して気持ちが晴れ晴れしない時もある。いつもハッピーで元気とは限らない。元気でいることはいいかもしれないが、ずっとそうばかりいれるものではない。だから、ずっと元気でいることなんか、約束できるもんか、と来たのだろう。

 たしかにそうではあるが、やはり、私は、こんにちは、ありがとう、さようなら、げんきでね、を毎日繰り返している。これまで何千回、何万回とこの言葉を言っただろうし、これからも、ずっと言い続けるに違いない。そういう深い意味を込められないから、もうこれからは別な言葉にするとか、無言にするとかはできない。

 やはり、おはよう、ありがとう、すみません、と日常的なグリーティングを繰り返していくに違いない。まあ、これでもいいのだろうけれど、どうせ言わざるを得ないのなら、もう少し意味を込めて、ありがとう、というようにすることは可能だろう。

 日々、生きてあれば、グッドニュースも、バッドニュースもある。上ったり下がったりの日常である。しかし、こうして生きていること自体が、本当は、そもそもそうあることが稀な現象なのではないか、と、気付く瞬間がある。

 いたずら小僧だった自分が、こうして還暦まで生きてくるなんて、かなり幸運なことだったのではないか。かなり危ない体験も数々してきたが、何はともあれ、こうして生きているではないか。人にめぐり合い結婚もし、子供も生まれ、なんと孫まで見ることができたではないか。

 仕事もまずまずで、もうすこし収入が増えないものかと、日々思い悩まないわけではないが、人から、ありがとうございます、なんて言われたりすると、ああ、この仕事をやっていてよかったなぁ、と思わないでもない。これは天職だ、なんて実感する時さえあるのだから、まぁ、これを感謝せずして、ナニを感謝すると言うのだろう。

 ありがたや、ありがたや、となれば、なんだか横町のおばあちゃんの口癖のようにさえ聞こえて来て、なんだか自分でもおかしいが、でも、やっぱり、こうして生きてあることは、本来、あり得ないことが、あり得ている、ということにつながっている筈なのである。

 こうして生きてあることが、すべてにおいて、有り難い、と感謝できるとすれば、あとは、良い出来事も、辛いことも、すべて、それは有り難い、生きてあることの証しなのだと、思えてくるわけである。

<10>につづく

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2014/04/16

「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004<1>


「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック<1>
2014/01  晋遊舎 ムック  97ページ 
Total No.3215★★★★★

 「55歳からのフェイスブック入門」 とか、「60歳からのフェイスブック 」とかを冷やかして、オダを上げてばかりもいられない。基本テクは当たり前にクリアしたからと言って、本当はFBを使いこなしているとは言い難い。年齢には関係ない。とにかく、提供されているサービスをしゃぶりつくそうと思うなら、もうすこし技術を磨かなければならない。

 まぁ、そう勢いこんだわけでもないが、なんだかんだか訳のわからないバージョンアップが繰り返されているFBである。この辺で、技術的なことはキチンと押さえておかなければならないだろう。

 そう思って買ってきたのがこの本である。ただ、最近はどうも気力に萎えがあり、一冊本を読むのも、どっこいしょ、という気分になってきているので、全部を読んだりは、きっとしないだろう。ただなんとなく、こういう本が傍らにあると、新鮮で、新しい時代を生きているという気分になるから不思議。

 FBは、写真とかリンクとか、さまざまな書き込みを、ある一定法則で整理してくれるから便利だが、放置しておくと、自分が意図したような形ではなく、FB流に整理されてしまうから困ってしまう。ここは、基本を押さえて、自分流にカスタマイズするテクを身につけていく必要があろう。

 このところ、私はFB上において、いくつかのヒットと、いくつかのエラーをしている。FBの可能性ゆえのヒットであるし、FBに慣れていないから起きたエラーである。つまり、私は、FBの機能を十分熟知しているわけもでなく、また使いこなせているわけでもない、ということになる。

 ネット関連は、当初から、読書ブログとしての当ブログでは、三大ネタのひとつとして切れなく取り上げてきた。でも最近においては、もうネット関連はいいかな、と、あまり手に取らないできた。今回のこのFB関連の数冊は、久しぶりである。

 おそらく、SNSのバージョンアップで、機能が取捨選択され洗練化されていく中で、新たにハード面も新しいものが要求されるようになるのだろう。私は今後、どれだけ生きていくか分からないが、あと30年も生きるとすると、結構な進化を見ることができるかもしれない。

 そういった意味においても、やはり当ブログとしては、ネット関連のハードやサービス、ソフトの面には、それとなく目を通しておく必要があるんだな、と痛感している次第。

<2>につづく

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「60歳からのフェイスブック 」今からはじめるソーシャルライフ  今 陽子<1>


「60歳からのフェイスブック」 今からはじめるソーシャルライフ<1>
今 陽子 (著) 2012/8マイナビ 新書: 200ページ
Total No.3214★★★☆☆

 かたや「55歳からのフェイスブック入門」(小川和也 2012/9海竜社)とくれば、こちらは60歳からのフェイスブック、ときましたか。確かに私は現在60歳の還暦男だが、別段改めて、FBを始めるわけではない。 

 ネット社会は、常に新しいサービスを提供し続けてきた。今後も新たなるイノベーションが起こり続けるだろう。今のところ、FBはSNSの勝ち組だ。一番、人が流れてきている。しかし今後も安泰だ、というわけでもないだろう。いずれの局面かにおいては、また新たなるサービスにとって代わられることだろう。

 正直言えば、FBも特段目新しいわけではない。いままであったサービスのリニューアルと、取捨選択で、新鮮味をくわえて提供されているにすぎない。だから私は、別段にいまから新しいことを始めようという気分にはならない。

 だが、時代ともに、確実にすそ野が広がっていることは確実である。かつて、パソコン自体が珍しかった時代に比べ、ほとんどの社会人のポケットにスマホが入っている時代になっているのである。活用されているかどうかはともかく、その潜在的可能性は、かつてないほどに広がっている。

 好きものが使うという時代ではなく、必要だから使うという時代になっている。町内会の行事連絡もメールとHPでどうぞ、という時代である。高齢者、後期高齢者といえど、検索とFBくらいはできないと生きていけない時代が、もうすぐそこに来ている。

 ただ、いまやレイトマジョリティでさえ、FBやTWのSNSを使わざるを得ない時代ではあるが、最先端のイノベーター達は、もっと別な可能性を探っているに違いない。技術的な意味や、経済的投資的観点からのイノベーターではなく、真の科学的、真の人間的進化過程における、何事かが、最先端で起きていると思う。

 これらの先端技術の利用技術、そしてそれが人間社会にもたらす影響は、実は、相当に進化している。見ない奴は見ないのだが、やはり、しっかりと目の中にいれておかないと、ほんとヤバいと思うのだがな。私の同輩にもさまざまな仲間がいて、イノベーター、アーリーアダプターも当然多いのだが、完全ドロップアウト組で、パソコンももたなければ、メールさえ使わない、という連中も数限りない。

 ラガードとさげすむつもりはないが、私は、せっかくだから、このおもちゃを楽しめばいいのにな、と思う。小遣いはかかるがね。どこかで節約して、調達できないほど高額ではない。あとは気力の問題だな。社会に興味を失ってしまえば、FBもSNSも、あったもんではないがな。

<2>につづく

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「55歳からのフェイスブック入門」小川和也 <2>

<1>からつづく 


「55歳からのフェイスブック入門」 <2>
小川和也 (著) 2012/9海竜社単行本(ソフトカバー) 260ページ
Total No.3213★★★☆☆

 最近フェイスブック(FB)を覗くことが多くなっている。いろいろ訳ありなのだが、一番言えることは、タイミングが来た、ということだろう。誰かがFB依存症なんて冷やかしてきたが、まぁ、それは外れているとは言えないが、的を得ているわけではない。

 この本は、図書館をぶらついていて、タイトルが面白かったので、ブログネタとして借りてきてみた。前から手にとってみていた本だが、別段、すごいことは何も書いていない。まぁ、FB入門というより、この手の入門書のありきたりなことしか書いてない。敢えていくなら、ここで55歳と区切ったことは多少は目立つかな、というところ。

 思えば私もFBを登録したのは、ちょうどこの年齢のタイミングだった。でも、その前からSNSは複数参加してきたし、ネット情報にも多少は聞き耳を立ててきたほうである。今さら、ネットの効用を説かれても、フムフムと鼻であしらうことになる。

 ひとつ言えることは、ネットの向こうに誰がいるかで、そのSNSの価値は決まる。つまり、他のSNSでは、ちょっと先づまりになっているものがある。FBやツイッター(TW)がもてはやされる蔭では、細々と続いてきた弱小SNS達がフェードアウトして行っている。日本最大手の将来もあまり明るくない気がする。

 ここにきてFBが伸び出しているのは、そのネットの向こうにいる仲間たちが増えているからである。友達つながりでないと参加できないようなサービスから、今は、ダダ漏れ状態に個人情報をサラしまくる時代になってきたわけだが、ある意味、そのような状態に、参加者個人個人が慣らされてきた、あるいは成長してきたとも言える。

 そして、昔から、ミニコミを作ったり、旅をしたり、仲間づくりをする連中は、やはりネットにおいても積極的にSNSに参加するのであり、おとなしい奴らは、どこまでもおとなしく、つつましやかに控えている。そして、はっきり言うけど、どんどん人生フェードアウトしている連中もいるぞ。生きてんだか、死んでんだか、わからない同輩達が急増中だ。もちろん、本当に死んでいく奴らもいるが。

 ということで、最近の私はFBを覗きにいく回数が増えてはいるが、決して悪友が指摘するような依存症ではない。楽しむことはできるけど、いつでも切り替えることができる、という意味では、依存症ではまったくないから、ご安心を、御同輩。

<3>につづく 

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2014/04/14

シリーズ「ありがとう」<7>来たるべき地球人

<6>からつづく

シリーズ「ありがとう」<7>来たるべき地球人

 これは、正確には誰にありがとうを言えばいいだろう。言いたいことの真意をまず、先に書こう。

 ひとつ、私はOSHOのサニヤシンであり、その流れにいることを喜びとする。そのネットワークにいることも楽しい。しかし、それってなんだ、という問いかけもある。それがどうした、それが何だってんだ。

 それに対して、ネグリ&ハートが提示するところの、マルチチュードという概念がある。これって、起きている現象を、そのように理解する、という解釈であって、あらかじめ先行する概念ではない。つまりそう捉えることも可能である、という仮説であるにすぎない。

 この二つの間には、限りなく近似値を感じさせる何かがある。それを繋ぎとめるのは、ソーシャルネットワークなどの、新しいテクノロジーだ。

 OSHOネットワークは誤解されがちだが、実に組織ではないし、ネットワークでもないだろう。オーガナイゼーションというより、オーガニズムに近い。それぞれが独立しておりながら、全体として機能している。そんなイメージだ。

 しかし、私の見る所、このOSHOオーガニズムは、まだ開発されていない。可能性としてはキチンと醸成されつつあるが、まだ適齢期になる前、というイメージだ。

 ネグリ&ハートのマルチチュードという概念は仮説である。そういう実態があったらいいのにな、という推論である。その実態を彼らは探し続けている。それは、おそらく、まだ自覚していない。そして、永遠に自覚しない。

 これは可能性だ。OSHOオーガニズムは、実体を伴っているが、その機能が完全に開花しきっていない。そして、ネグリ達はマルチチュードという仮説のもとに、理想像を明確にしながら、実像を求め続けている。

 さて、OSHOオーガニズムは、自閉的になった時には、死滅する。常に外に向かってオープンであり続けながら、異種なるもの、同類なるもの、新種なるもの、まったく反対するものを、取りこむエネルギーを持ち続けてこそ、その生命は維持される。

 ネグリのマルチチュード、つまり「ネグリ」チュードは、<帝国>に対峙する勢力と規定されている。しかし、それではいずれ限界は来る。この<帝国>をも飲み込む力、共存し、変質させ、進化させる力を、OSHOマルチチュードに学ぶ必要がある。

 この二つの流れが合流するとき、そこに私は、来たるべき地球人の、本質と原型を見る。このような可能性がまだ、残っていることに、私は、ありがとう、と言いたい。そして、ここのところが、今、当ブログのキモの部分となりつつあるのである。

 そういう可能性に対して、そのような可能性を準備し、残してくれている存在に対して、ありがとう、と感謝したい。

つづく

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シリーズ「ありがとう」<6>耕作おじいさん

<5>からつづく

シリーズ「ありがとう」<6>耕作おじいさん

 義理を返すなら、まず遠くから返せ、って誰かに言われたように思う。身内への感謝は後回し。当たり前のことなんだから。まず他人に対してお礼をいいなさい、っていうのは当然だと思う。だから、この回の内容は、一番最後あたりに来るべき人物ではある。

 しかし、内容から言って、それは、身内とか他人とかいう問題ではないと思う。私の人生でも、ちょうどそんなタイミングだった。そして、それは、別に他人でも、身内でもないところから、来たのだと思う。

 私には、当然のことながら、祖父が二人いる。父方と母方の祖父は、ちょうど年頃も同じくらいで、仏教への崇敬の念の持ち方も似ていた。私が20前後の時に父方の祖父は80を超えて亡くなり、母方の祖父だけになった。

 その頃、私は雀の森を出て、印刷会社に務める前で、叔父が経営する造園会社でアルバイトをしていた。耕作おじいさんは、その名前の通り、農業の人で、それ一本で家族を養ってきた人だった。花も作っていた。叔父はその子どもであるが、次男で他家の養子になり、造園業を営んでいた。

 私は人生の岐路に差し掛かっていた。明日、どの方向に足を踏み出すか、迷っていた。人生ってなんだろう。人生で一番大事なことってなんだろう。

 母親に聞いてみた。それは金だろう、ということだった。人生で一番大事なことは金だよ。働いて金を得ることが大切だ。そのとおりだ。ふらふらしている末っ子息子に、夫を亡くした後の働き盛りの母親の答えとしては当然のことだっただろう。早く一人前になってほしい。

 造園屋の叔父、つまり母親の弟に聞いてみた。誠実、ってことだろうな。学校時代に、誠実さが一番大事だって聞いた。確かに彼の仕事は繁盛していた。決して華美ではないが、彼の誠実さが、多くの客の心をつかんでいた。誠実さ、か。

 祖父、耕作おじいさんにも聞いてみた。なんだ、そんなことも分からないのか。それは、自未得度先度他だ、と一喝した。自らはいまだ悟らず、この地に留まって、先に他の人たちを悟らせること、これに尽きると。

 このじいさんは、20過ぎに結婚して、すぐに子供が出来た。長女につけた名前が、さとり、だった。つまり私の母親だ。彼は、若くして禅寺に参じ、農民でありながら、仏典にも造詣が深かった。

 彼に当時、私達のカウンターカルチャーで評判になっていたチベット仏教やミラレパの話をしてみた。ズバリではないにせよ、許容的であった。彼は、菩提達磨と慧可の出会いを話し、釈尊の前世の話をした。維摩経つまりビマールキルティの逸話を話した。数え上げたらキリがない。彼は、来客があれば、事あるごとに、仏教を引き合いに出して、話しをした。

 死後、いくつかのノートが残され、手帖も残された。まるで宮沢賢治の「雨ニモマケズ」でもないが、その手帖の中には、「施無畏」という文字が残されていた。遺族が遺品を見ながら、誰もその深い意味を理解しなかった。私もよく分からないものの、なんだか気になり、私は自分の手帖に、「施無畏」と転記しておいた。

 これまでのところ、この言葉について、誰に聞いたこともなければ、教えてもらったこともない。だけど、いろいろ調べてきたから、今では私なりに理解するようになっている。

 そんなこんなで、ここに書ききれることではないので、いつか再燃されるとして、いまは、その時のためのきっかけになるように、このメモだけ残しておきたい。

 耕作おじいさんの仏教徒としての法名は、衝天院釣月耕雲居士。天を突き、月を釣り上げ、雲を耕すような人だった。ありがとうございました、っていうのもなんだか変だが、今は、とにかく、ありがとうございました、って、書いておきたい。

 あのタイミングで、あの言葉を聞くことができたことは、私は幸運だった。そして、一生の教えになった。今でもいつも心に留めている。

<7>につづく

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シリーズ「ありがとう」<5>東光印刷

<4>からつづく

シリーズ「ありがとう」<5>東光印刷

 1975年に「星の遊行群」での「失敗」のあと、私は印刷修行の旅に出た。実際は印刷会社に務めたわけだが、そこに永住する気はさらさらなかった。しかし、謄写版とカッティングシートのシルクスクリーンの技術しかない自分があまりにもさびしかった。

 将来の夢として、ジャーナリストか印刷屋さん、なんて思っていた小学生時代は、とうに過ぎていたが、印刷、ってやつはなかなか魅力的ではあった。写植を打ち、版下を作り、写真で製版し、オフセットで印刷し、裁断機で裁断して、製本し、一冊の本にするなんて、なんて素敵な商売だろうと思っていた。

 東光印刷との出会いは、至って簡単だ。雀の森が「終わって」実家に帰った私は、新聞折り込みの求人ハガキを出しておいた。ほどなく返信があって、印刷会社が一社だけ書いてあった。さっそく行ってみると、すぐ採用になった。

 場所は、貨物駅裏の小さな平屋の工場。イメージとしては、寅さんの実家の裏にある、タコ社長が経営する印刷会社と思えば、まず間違いはない。そこは小さかったが、あらゆることを教えてくれたし、やらせてくれた。

 勤務期間は、なんとたった一年半だったが、私は堪能した。社長がまたよかった。社長夫婦には、子供がいなかったから、私は養子になって、この工場を継いでやろうか、なんて、勝手にひとり思っていたこともあったりする(笑)。

 ここでの勤務期間は短かったけれど、想い出は限りない。今回、いちいちは数え上げないでおこう。少なくとも、私は、この工場を辞めることになる。それはこちらの理由というか、私の人生上の、一大事による理由であった。期せずして起こったことである。

 東光印刷の東光は、社長の名前、伊東暁さんの暁からきたものだと思う。甥が、伊東竜俊で、ニュートンの葬式の際に、社長の消息を尋ねたが、すでに数年前に亡くなっていた、ということだった。もうすこし聞き出したかったが、時が時だっただけに、いずれ次回に回すことにした。

 ところがどういう訳か、それから二カ月もしないうちに、その竜俊も逝ってしまった。だから、私としては、東光印刷がどうなっていたのか、社長がどういう人生だったのかを、聞くチャンスを失ってしまった。

 私は、寝ていると大体夢を見る。同じ夢のパターンを多く見る。その中でも、トップランクに位置するのは、アトランティスの津波と、東光印刷だ。幼少時はアトランティスだけだったが、長じては、東光印刷になった。同じストーリーはない。何回も何回も、手を変え、品を変え、さまざまなバージョンが再演される。これが実にリアリティに富んでいて、面白い。

 大体は、工場の内部が変わっていて、新しい機械が入ったり、スタッフが入れ替わったりしている。古びた感じで、モノクロなのは変わらない。そして、いつも私は出戻り社員だ。社長、またよろしくお願いします、とお願いする。

 社長はいつも、禿頭にちょこんと毛を生やして、目を閉じて諒諾する。目を閉じるというより、彼特有の表情で、ダブルウィンクみたいな表情だ。大体、私は社長に怒られたことがない。いちど、版下を作っていた時に、確か前日は徹夜かなんかで眠くて、大きな口を開けてアクビをした時、斜め前で写植を打っていた社長が、「阿部君」っと言って、口を閉じたまま、ほっぺをふくらました。それくらいだ。

 あの時代、楽しかったな。あの年の年末、仕事納めが終わったあと、工場を出て、近くの線路脇のガードまで来た時、私は、振り返って片膝ついて、ありがとうございました、って挨拶して帰ってきた。真っ暗な雪道だった。

 私が会社を作った時、年賀状の返信に、社長は「なんの会社ですか?」って一言書いてよこした。あれは、恥ずかしかったな。実際、私が作った会社は何の会社だったのだろう。あれから20数年続いているが、結局、約款に書いてある10番目の目的と、11番目の目的だけで成り立っているような会社でござります。当初の目的は、一向に達成されないまま、20数余年が経過したのでありました。

 私は社長にありがとうございました、と、あらためて言いたい。結局、ものになる印刷技術を教えてくれたのは暁社長しかいなかった。私は印刷屋にはならなかったけど、あの時学んだことは、今でも身についている。ノート一冊にまとめて、いまでも保存している。

<6>につづく

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シリーズ「ありがとう」<4>宮城県中山平温泉郷「星の湯」

<3>からつづく

シリーズ「ありがとう」<4>宮城県中山平温泉郷「星の湯」

 1972年に雀の森の仲間たちと、日本のカウンターカルチャー巡りをして、たくさんの情報をつかんだ。その中に、東京の「蘇生」というグループがあった。蘇生は、合宿というミーティングを好んで行ない、私達も積極的に参加した。

 73年の夏に伊豆の農家を借りて行なった合宿は、とても啓発的だった。「ぼくらもやりたいね」、と、仙台で、そのような場を探し始めた。なんせ、まだ高校出て1年の私なんぞに、そのような適地を探し出す能力は限られていた。

 一泊では終わらない。おそらく数泊から一週間以上に渡る長期滞在になる。しかも全国から来るとなると足代がかさむ連中も多いだろう。出来るだけ安く泊れて、合宿できるところはないだろうか。

 その頃、コンビニもなければ、旅行ガイドがあるわけでもない。インターネットなんて想像もつかない時代のことである。頼るのは、電話帳と電話だった。電話だって、通常は道端の公衆電話ボックスを使っていたのだが、ようやく雀の森にも黒電話がついた頃だった。

 分厚い電話帳は、世界への窓口だった。まだイエローページなんて言ってなかった。職業別もあったかどうか。とにかく、県内で、しかも安く泊まれそうな所をいくつもピックアップしていった。その中で、一番安かったのが、鳴子温泉より更に西に数キロ入った中山温泉郷の「星の湯」だった。

 電話で快諾を得て、流峰のバイクに二人乗りして、秋の鳴子路を走った。ほどよく古びた半分農業しているような、湯治場だった。部屋数はそうとうあったが、裏の方は寂れていて、全部屋満室とは思えなかった。それでも、一泊五百円とか、布団持ち込みなら350円とかだったと思うが、とにかく、私達の希望にかなっていた。

 秋の内に下調べをし、チラシを作って告知し、仲間たちに連絡し、実際に宿泊するころには、冬の入口になっていた。県北部が雪深いことは知っていた。鳴子はスキー場があるくらいだから、雪が多いこともなんとなく知っていた。しかし、中山平はさらに奥深く、こんな雪見たことない、という位、深い雪だった。

 私達は(ほんとうはここは、ぼくらは、と書きたいところだが)、ほとんどがシュラフを持ちこんで、布団を借りることはなかった。食料も、ほとんど米や野菜を持ち込んだ。味噌も、そして暖房用の炭も持ち込んだのではなかっただろうか。ご飯や食事の煮焚きも炭で行なった。

 障子は多少破れていて、隙間風が入ってきたが、外側にガラスサッシ窓があるわけでない。木製の雨戸があったきりだ。外は雪が深く積り、寒さ除けに雨戸も要所要所締めていたので、部屋の中は暗かった。そこに20人ほどの仲間たちが集まり、思い思いに毛布をかぶったり、炭火鉢に手をかざしたりしながら、話しあった。

 何をそんなに話しあうことがあったのか、今では不思議でならないが、とにかく話題がつきることはなかった。寝床があり、屋根があるとすれば、あとは温泉郷の湯治場だけに、温泉が楽しみだった。今思えば、広くもなく、決してピカピカの清潔な湯船ではなかったが、楽しかった。

 ここでの合宿はとても楽しかったらしく、私達は何回もここを使った。ここには確かおじいさんかおばあさんがいたと思うけれど、お父さんは亡くなったばかりだったように思う。私と同年輩の娘さんがよくしてくれて、ヒロコちゃんと言ったかな。だれかお嫁さんに貰えばいいのに、と思うような優しくて綺麗な人だった。

 私のおおざっぱな想い出はこのくらいである。ひとつひとつの合宿の想い出はいずれ書くかもしれない。しかし、今回、このシリーズ「ありがとう」で、この星の湯を思い出したのは、なんとなく、別な理由によるものと思われる。

 宿帳には、嘘偽りなくキチンと住所を書いたので、あれから何年かは、星の湯から年賀状が届いていた。宿賃もキチンと払ったし、多少ハメは外したが、大きく迷惑をかけてしまったなぁ、という記憶はない。帰る時には、ありがとうございました、と挨拶をしてきた。

 でも、あれから40年も経過してみると、いまだに星の湯が話題になる、ということはどういうことだろう、と思う。みんなそれぞれに成長し、もっと小奇麗なところに泊るだろう。リッチなリゾートとまでは言わないまでも、楽しいところをいっぱい知っているはずだ。

 だが、あれから何年経過しても、いつか誰かが星の湯に行って泊っている。別段、あそこでなければ体験できない、ということでもなさそうなのに、話題は、いつも星の湯になる。なんでだろう。

 私は今回、むかし言い逃したから、ようやく今言いたい、ということではなくて、今、星の湯にありがとう、と言いたい。期せずして星の湯は、私達の風景の一部になった。県内で一番安い、というそれだけの理由で引きつけられた私達は、実は、もっと別な理由で、ここに通ったのだと思う。

 3・11後にも、私達夫婦は星の湯に出かけた。私達が昔泊った旧館はすでに廃屋となり、まだ解体はされていなかったが、昔の面影を残したまま朽ちていた。その代わり、代替わりして、ヒロコちゃんのちょっと年下の弟がすでに50代の宿の亭主になっていた。こちらのことはあまり覚えていないし、特段に懐かしい風でもなかった。(って、これがいいんだよなぁ)

 いつかさ、みんな、星の湯で、同窓会やらないか、生きてるうちに。って、これ何年も前から、何回も言っている気がするが、どうも実現しない。私自身が本気じゃないからだろうな。もしも、あの当時、もっと目覚めていて、近くに土地でもすこし買っておいて、もっとずっと根づいた文化を作り得たら、日本のゲーリー・スナイダーになり得たかもな、なんて思わないでもない。

 星の湯が、あってくれてありがとう。さもない、田舎の寂れた湯治場なのに、もし星の湯、という共同性がなかったら、私達の人生は、今よりは、すこしばかり貧しいものになっていただろう。

<5>につづく

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2014/04/13

シリーズ「ありがとう」<3>会津坂下町のお寺さん

<2>からつづく

シリーズ「ありがとう」<3>会津坂下町のお寺さん

 僕がヒッチハイクを始めたのは16才の時だった。もともと、純農村地帯の生家の隣に、パイパス道路ができたのは、1960年代初めから。東京オリンピックに向けて、日本は高度成長時代に向けて、走り出していた。

 バイパス工事は何年もかかった。田んぼを測量し、埋め立て、ダンプが何度も往来し、砂利や玉石がどんどん積み上げられた。ブルトーザーがならし、パイプが埋められた。掘には大小の橋が掛けられ、ヒューム管が埋めらた。

 道路はまだ舗装されず、あちこちが工事中で、ブツブツ切れていた。だんだん繋がって、なんとか一本道に見えないこともない、というところまできた。その頃から、どこからやってくるのかバイクや自転車の旅行者たちが目につくようになった。

 道路は、歩道はなかったが、とうとう舗装道路として開通した。ロードサイドには、土が埋められ、工事待ちの空き地がどんどんできた。どこからやってくるのか、自転車の青年たちが、夕方には、空き地に小さなテントを立てて、泊った。

 小学生の目には、奇異なものと、憧れと、混ざり合ったものが見えるようになった。敷地に泊めたこともあったし、自宅に泊っていったヒッチハイカーたちもいた。そんな風景の中で、私には、旅に出る、というストーリーが当たり前のものとなっていった。文通をしたヒッチハイカーもいた。

 高校二年生の秋。自分もヒッチハイクにでることにした。なぜ秋なのか。一年生の夏は、バスケットボールの練習で忙しすぎた。二年生の時は、新聞部に移籍したし、時代もさらにオープンになっていた。夏休み、クラスメイトが東北一周をしてきた、と自慢していた。それを聞いた私は、いいなぁ、と思った。

 彼が夏休みに東北一周なら、私は、秋休みの5日間に、佐渡島にしようと思った。なぜに佐渡だったのだろう。誰か先輩は、房総半島を回ってきたと言っていた。私は、まだ日本の日本海側に行ったことがなかった。ひとつの目標としては、ちょうど手ごろだったのだろう。

 前の日に思いついた。学校に通っていた自転車で、体育で使う運動着を来て、荷物はリュックにつめて荷台に縛りつけた。朝起きて、母親に、佐渡に行ってくる、と告げた。驚かない筈はない。息子はそう言っているが、本当にそうするとは思っていなかっただろう。隣町まで行って、きっと、戻ってくると思っていたという。

 自転車で旅することは割と快適である。一時間も踏めば、いままで見たことのないような風景を走っている自分に気づく。どれだけ踏んだだろう。どんどん風景は変わった。いつの間にか福島に入り、西に向かって上り勾配になり始めた。

 私は誰かに聞いたように、ロードサイドで左手を上げ、親指を上げた。西の空はだいぶ暗くなり始めていた。寒くはなかったが、ちょっとさびしくなりつつあった。一台の、地元のトラックが止まってくれた。ヒッチハイクの始まりである。

 そのトラックが山を越えるのならば、そのまま乗っていたかったが、地元のトラックなので、しばらくして降ろされた。もう山道だった。細い薄暗い山道だったが、運ちゃんに聞いたら、近くにお寺があるよ、と教えてくれた。

 私は、重い足を引き、荷物を積んだ自転車を手で押しながら、寺を訪ねた。もう夕方で、暗くなりつつあった。お寺には、50年配のご婦人が一人しかいなかった。こちらの事情を聞いて、一泊させてくれることになった。

 夕飯をご馳走になり、風呂にも入れてくれた。ただ、泊るのは、本堂や庫裡から離れた、小さなお堂。仏像や額縁などがあるが、明かりはない。真っ暗だ。木の扉を閉めてしまえば、漆喰の闇。でも、疲れた体を休めるには十分だった。シュラフを開いて、寝た。

 なかなか寝付かれなかった。あの奥さんには息子があり、東京に行って警察に務めているという。この前あった、安田講堂でも、警備で出動していたという。機動隊だったかもしれない。あるいは、あとでちょっと考えたが、彼女はこちらを警戒し、すこし話しを膨らませて、こちらを威嚇したのだったかもしれない。いずれにせよ、その晩、彼女は、人気のない山の中の小さなお寺で一人で過ごしていた。

 私は、お堂の木の扉を開けて、外にでてみた。その晩は、月のない晩だった。側に大きな柿の木があった。赤い柿の実がなっていた。その柿の木の枝を通して、星が見えた。月もなかったが、その晩は雲もなかった。満点の星空がひろがっていた。これが、私の一人旅の最初の夜だった。

 16歳の私は、この時、一宿一飯のお世話になった、このお寺さんの住所を聞くこともなく、次の朝、出発した。でも余りにも感動したので、町の名前だけ覚えていた。会津サカシタ町。いつか、同じところを通ったら、正確な位置は分からないけれど、いつか、ありがとう、って言いたかった。きっと同じところにまだあるだろう。

 だが、最近ようやくこの町の名前が会津バンゲ町、という名前だと知った。会津坂下町。あれから44年が過ぎた。お世話になった小母さんは、まだ御存命だろうか。御存命なら、おそらく百歳になられることだろう。息子さんが警察官だったというから、訪ね歩けば、その所在は、さもなく、分かるに違いない。

 いつも行きたいな、と思いつつ、まだ行ったことがない。そのうち何時か行く機会が来るかもしれないが、まずは、このシリーズ「ありがとう」の第一回目のあの小母さんのことが思い出されてきた。

 会津坂下町のお寺の小母さん、ありがとうございました。あれは、私の旅の始まりでした。

<4>につづく

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2014/04/12

「遥かなる山の呼び声」 高倉健, 倍賞千恵子, 吉岡秀隆, 武田鉄矢 監督: 山田洋次

「遥かなる山の呼び声」
出演: 高倉健, 倍賞千恵子, 吉岡秀隆, 武田鉄矢  監督: 山田洋次 1980/03松竹 [DVD] 124分
Total No.3212★★★★★

 ちっとも面白い映画ないなぁ、なんて嘆いていたってしかたない。時代はどんどん進んでいる。なにか面白そうなものを探すしかないんだな。 

 

 とかなんとか思っている時に、テレビで始まったこの映画、いいねぇ。古い男には、古い映画があっているようだ。

 高倉健と倍賞千恵子、山田洋二監督、寅さんシリーズと同じ構成だ。渥美清も人工授精師として客演している。やっぱり日本人は、日本の映画がいいね、なんて思うけど、実はこれって、あの「シェーン」って奴の日本版だ。

 同じストーリーでも、日本もアメリカもない。みんな感動する映画は感動する。

「ケーーン、カンバ~~ック」

 悲しいストーリーだね。「幸せの黄色いハンカチ」の別ヴァージョンだ。

 脇役の青年として登場する武田鉄也のカーラジオから流れてくるのは、ゴダイゴの「モンキー・マジック」。そうそう、あの頃、私も農業学校で農業を学んでいたのだった。あのままだったら、私も、このような映画のシーンの中に溶け込んでいったかもしれない。

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シリーズ「ありがとう」<2>目次

<1>からつづく

シリーズ「ありがとう」<2>目次

1)はじめに
2)目次  
3)会津坂下町のお寺さん
4)宮城県中山平温泉郷「星の湯」  
5)東光印刷  
6)耕作おじいさん 
7)来たるべき地球人
8)菅原秀さん  
9)生きてあることに
10)ヒッチハイクの運ちゃん達   
11)スティーブ・ジョブズ  
12)桜花咲く日本  
13)飯沼勇義  
14)小出裕章

<3>につづく

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シリーズ「ありがとう」<1>はじめに

シリーズ「ありがとう」<1>はじめに

 今日テレビをみていたら、終活ノートには、あまり悪口は書いておくな、ということだった。思えば、当ブログは、終活ノートの意味合いもある。結構、言いたい放題を書いてきたから、これから少しづつ読み返しながら、修正しておこうと思う。

 それはそれとして、あまりにも断片的になってしまうので、メモするのを忘れてきたが、私は、これまでいっぱい、たくさんの人々のお世話になって生きてきた。口べた、っていうだけではなくて、億劫がって、何の御礼の言葉も言わないできてしまったことが沢山ある。

 いまから、ここにこんなことを書いたって、どうにもなるものではないが、折に触れ、思い出されたことを書いておきたい。そして、最後にひとこと、ありがとうございました、って、感謝したい。

 思い出した時にメモするだけだから、順不同になるし、ああ、勘違い、ということもあるだろう。当のご本人はすっかり忘れておられることもあろう。いまさら、遅いよ、今さら、ナニを言う、と言われかねない。

 それでも、記憶が少しでも残っている間に、メモだけしておこう。私とて、いつまでも元気な訳じゃないし、そのうちどんどんボケてくるかもしれないしな。

 さて、どっから始めるか。

<2>につづく

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「憲法九条を世界遺産に」<3>太田 光&中沢 新一

<2>からつづく 

「憲法九条を世界遺産に」 <3>
太田 光   (著), 中沢 新一 (著) 2006/08 集英社 新書 170ページ

 すごい話になってきたなぁ。「憲法9条がノーベル平和賞」の候補に、というニュースが流れている。

 よくよく考えてみると、九条が世界遺産になるのと、ノーベル平和賞受賞するのとは、意味が違うね。

 佐藤栄作が平和賞を受賞した時は、ビックリしたけど、オバマの平和賞は、嬉しかった。でも、どうかね、核なき世界なんて、彼はもはや忘れている。

  ダライ・ラマ、マザー・テレサは受賞、ガンジーは、何度か候補になったが、受賞はしなかった。

 私なんて、戦争放棄、九条維持が当たり前、と頭から信じて疑わないできたが、別な意見も割と多いことに驚く。

 世界遺産なら、すでに廃墟となったとしても、歴史的価値があるなら、登録されることもありうる。ただ、それを誰が保全維持して行くかが、問われるであろう。

 私は、何が何でもこうしなければいけない、なんて思わないし、世の大勢が、一つの方向に流れるなら、一億三千万分の一として、従うだろう。

 あるいは、70億分の一として考えて行動するだろう。でも、意見が複数あって、お前も意見を言え、と言われるなら、やはり同じような感性と意識を持っている勢力に接近し、加勢するだろう。

 私は脱原発に賛成であり、原発と核兵器がセットであるなら、当然、核廃絶は当然だと思うし、戦争には反対だ。戦争に反対なら、憲法九条は維持すべきものと考える。

 ところで、アントニオ・ネグリ「<帝国>」の中で、マルチチュードは、自らのものとして、憲法、貨幣、武器を保持すべきだと、述べている。

 今、日本国憲法という枠組みの中でのみ、九条を考えるとするなら、おそらくアナクロで、チグハグなものにならざるを得ないだろう。今、視点は、一国的な立場ではなく、グローバルに、しかもマルチチュード側からの捉えなおしが、必要であろう。

 ネグリが三要素として、憲法の他に、貨幣や武器をあげているなら、これらについても考えなければならない。貨幣はビットコインなどの仮装通貨が風穴をあけるかもしれない。

 三要素の中では、武器について考えることが、最も難しい。地域間、国家間が争う必要があるうちは、マルチチュードが武器全体をコントロール下におさめ、縮小過程に向かうということはありえないであろう。

 つまり、憲法の一部がどうの、貨幣がどうの、そして、武器がどうのと言う前に、まずは、地球の上に生きる人間としての自覚、意識が、地域や国家を超えて、互いに理解しあい、共通項を広げ、同一のものとして、認め合うことが必要であるのだ。

 一国の憲法のわずか一条文だけがどうのこうのと議論されるのは、本来、抜本的ではない。山尾三省のように、憲法九条を全ての国の憲法に入れるべきだ、という発想も分からないではない。

 しかし、近未来においては、地域や国家を超えた価値観、人間のあり方が、まずは問われ、生きられる必要がある。

 そのような方向にあるものとしての、世界遺産なり、ノーベル平和賞ならば、大いに語られ、賞賛されるべきであろう。

 このテーマは、当ブログの、現在進行形の「来たるべき地球人スピリット」の進行に大きくかかわる。政治でもなければ、武器でもない。国家や、憲法でもない。国家間の紛争でもなければ、紛争解決でもない。ノーベル賞でも、世界遺産でもない。

 まず、その前に、世界市民でもなければ、地域村民でもなく、ひとりひとりの地球人として、生きる、そのスピリチュアリティこそ、まずは 生きられる必要があるのだ。

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2014/04/11

森の生活2011春

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「蘇生」16号 蘇生&幻の叛文化戦線 1974/11/16

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「蘇生」16号
蘇生&幻の叛文化戦線 1974/11/16 手書きオフセット(あるいはFax印刷)B4 p16
Total No.3211

 蘇生。さぁ、どれだけの人が知っているだろう。73年頃に私らが知った時は、蘇生だった。どうやらその前は、ルネッサンスというグループで、竹中労の事務所に間借りしていたという。その前は、砂川反戦祭コンサートに繋がっていくのだろう。

 その後は、石神井コミューンとか、谷原ファミリー、と言われたりしながら、やがてミルキーウェイという大きな施設の共同体に発展していく。中心の1人となったのはトモこと大友映男。

 カッコよかったね。ギターを抱えて歌も歌う。たしか、あれからタイチの先生になって、八百屋さんもやってらっしゃると聞いている。

 あとは、いっぱい仲間がいたね。どこまでが純組員で、どこまでが一家なのか、分からなかった。私なんぞは、準構成員の位置。まぁ、軽い舎弟関係(笑)だな。

 おや、この号にも、おせっかいな私が一頁に渡って書いている。あ~~、恥ずかしい。もういいでしょう。赤面。

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「オーム」11号 C.C.C.(宇宙子供連邦)国分寺大使館 40074/11

Ccc197411
「オーム」11号
C.C.C.(宇宙子供連邦)国分寺大使館 40074/11/10 雑誌 108p 2000部発行
Total No.3210

 ガサゴソやってたら、こんなのもでてきたよ。まぁ、当時の私らにとっては、みんなご存じの印刷物で、日常的な風景だが、あれから40年も経過したのか、と思うと、ちょっと感慨だね。

 スナイダーとか、ポンとか、ナナオ、三省、クリス、ギンズバーグ、マイケル・マクルーア、ヤドカリ族、ムー、アキ、サタン、ジュン、バク、サーコ、タシ、などなど、たくさんの投稿がある。ポンの文章とか、結構長いよ。転載するのも、ちょっと骨が折れる。

おゝ若者よ 浄らかな大自然は

最高の修行場であると仏陀は言われた

もし、こうした聖地を汚す者を黙認するならば

彼らは文目もつかぬ闇路に落ちるのみか

聖地の真価は失われてしまう

私たち、身、口、意を正して生きる求道者は

彼らに断固とした態度をとるべきである

それによって真理を求めることの

正しさと意義がはっきりすると同時に

愚か者たちをたしなめられるだろう

さぁ 若者よ 共に歌おう

     11世紀 ヒマラヤにて ミラレパ   p1

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2014/04/10

「来たるべき地球人スピリット」<14>現在、そしてこれから

<13>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<14>現在、そしてこれから

 私はブログ派、結構、自閉的で、粘着派である。あちこちのSNSに書き散らすと、自分で何をやっているのか、わからなくなる時がある。

 3・11後に、一ヶ月ツイッターでつぶやいていたことがある。それを何処かで見ていたヨシローが、最近になって貴重な記録だから、どこかにアップしたらいい、と言って来た。そう思うが、後でまとめるのは、ちょっと面倒。勿論、個人的には散逸しないように、あの直後に紙にプリントアウトしておいたけど。

 そもそも、私はこの人生の総括にかかっている。あまり文章らしきものも書いてきていないけれど、文章として自分の人生をまとめるとすれば、三つの文章になる。1974年「雀の森の物語」、1992年の「ロータス・スートラ」、そして今書いているブログの2014年「ダイジェスト版」である。

 「ダイジェスト版」はすでに進行中であるが、これではあまりにまとまりがないので、さらにエキスを絞りだすにはどうするか検討中。

 第一部、第二部、第三部を通じて、一貫した内容を維持するにはどうすればいいか、思案中。そのためにも「物語」の再掲が必要だったし、「スートラ」の見直しても始めている。もちろん、もっとも大事なのは第三部であり、全体を締めくくり、第一部へと円環していくように工夫する必要がある。

 「星の遊行群」の文章は、その三部作の隙間を埋めてくれるパーツではあるが、主軸ではない。そのような意味で、他にいくつか再掲したい文章がいくつかある。全体の構想を知らない人は、何がなんだかわからないだろうが、今はしかたない。自分の直感で今はすすめておこう。

 実際にこの作業を始めると、実に「一貫性」のない人生だな、と思う時と、実に「一貫していたな」と自己満足する時と、交互にやってくる。つまり、内容的には、自分が納得できるようにまとまればいいわけで、よそ様が、最終的に読むか読まないか、評価するかしないか、等は、本来、どうでもいいことなのである。

 そうはいいつつも、結局、他者との関わりの中で人生があったわけだから、自分の記憶違いや思い違い、そして見落としなどが散見されるわけなので、結局は、「まとめ」などは、結局、暫定的なものでしかない。暫定的と知りつつ、まずは、今回はここまで、とまとめておくことは必要だろう。

 第一部も、第二部も暫定的なものであったし、第三部も、まさに暫定そのものでしかない。しかし、第三部をまとめようとしている現在、全体三部の見直しをかけているのであり、その隙間に漏れてしまっているものを、ひとつひとつ拾い上げておく必要も感じる。第三部は、とくに読書ブログ3000冊の記録。

 あまりにも膨大すぎて、ある一定の長さにまとめようとすると至難のわざである。ざっと計算すると、3000冊の全部をメモするとしたら、そのタイトルと著者名、出版年と出版社をメモするだけで、一冊の新書本ができあがってしまう。そんなモノにどれほどの意味があるだろうか。

 ここは、恣意的なまとめが必要だと判断した。そして、本にフォーカスするのではなく、人物にフォーカスする。つまり、テーマを科学、芸術、意識に三分し、しかも、それぞれのテーマから、アイコンとなるべき人物を三人づつピックアップする。そして、その人物たちを、現代の地球人の生き方として認め注目する。

 科学をさらに三分するとしたら、ひとつはコンピュータ・サイエンスだろうし、ひとつは原発だろうし、ひとつは人間意識への科学側からのアプローチ、ということになろう。そこで、アイコンとしてピックアップしたのは、スティーブ・ジョブズ、小出裕章、茂木健一郎の三人。異議はあるが、まず、いまはこの三人。

 スティーブ・ジョブズは、私と同時代人である。当初はあまり情報がすくなかったし、仕事柄、パソコンは不可欠であったが、いつもウィンドウズ環境を要求されたので、私はマック派ではなかった。しかし、最近に及んではマックも仕事に使えるようになってからは、積極的にマックに切り変えている。

 映画「スティーブ・ジョブズ」を見て、私は彼が大好きになった。デフォルメされているとは言え、私の同時代人として、彼を推挙する事に、なんら疑念をもたない。彼がこの世にいてくれたことをを心から感謝する。実際に隣にいれば、いやな奴、と思う面もあっただろうが、それは、他の友人にも言えることである。

 なにごとにおいてもコンピュータ科学は現代の象徴であるが、そのコントロールを持ってしても人間のコントロールが及ばないのは核科学、原発問題である。専門家ならぬ私などは信頼できる専門家の意見を聞かないわけにはいかない。しかし諸説流布するなか、信頼できる専門家を探し出さなければならない。

 最も信頼できる同時代の身近な原発問題の専門家といえば、小出裕章を除いていない。彼は原発を研究しつづけた科学者であったが、いちども推進派として原発を製造したことはない。また、その原点は、私の足元の女川原発にあり、また、1971年の「朝日ジャーナル」で、私も同じリストに掲載された。

 そういう親近感から、彼の一連の著書というより、一生を助教という身分に甘んじながら、反原発に身を投じてきた姿は、見事である。科学者というだけではなく、表現者として、精神的存在として、立派な方だと思う。私が推薦し、見習うべき科学者がいるとするならば、現代日本において、彼をはずことはできない。

 縦横に発展する科学のメスは、人間そのもの、人間の内面、人間の意識そのものへとアプローチし続けている。そのレポートは数多いが、あえて現代日本で「意識」をテーマにしているのは茂木健一郎だろう。彼の著書は堂々巡りで、科学が意識を切り開く事はないが、その確認のためにも彼に注目しておこう。

 現代の科学はさまざまなテーマを抱えているが、もうひとつあえて言えば「宇宙」があるだろう。宇宙の果てはどうなっているのか、宇宙全体はどうなっているのか、そして、人類は、この地球を離れて、宇宙で暮らすことができるのか。この問題については私の手にあまる。

 あえていうなら、エドガー・ミッチェルは、そういう意味で、宇宙飛行士でありながら、最終的に「意識」にフォーカスした人であり、注目に値するが、いかんせん、関連の著書が少なすぎる。そしてまた、原寸大の人間像がなかなか見えてこない。4人目として彼をメモしておくことはやぶさかではない。

 こんな調子で、芸術、意識、へと続いていく予定。

<15>につづく

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「来たるべき地球人スピリット」<13>友人たちの死

<12>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<13>友人たちの死

 この世にやって来て、すでに多くの知人、親戚、友人をあの世に送ってきた。知っていた人たちの半分は、もうあの世に行っただろう。誰もがあの世に行く。

 3・11直前に、ミー坊が亡くなった。3・11直後、加藤哲夫さんが亡くなった。そして、3・11後に演劇チームを率いて被災地を回ったニュートンも亡くなった。その盟友、伊東竜俊も亡くなった。どういうことか10代からの沢田石まで逝った。

 ニュートンは確かに経済的には恵まれなかった。結構有名人で、名誉も得た。みんなに愛された。岸田戯曲賞を得るチャンスもあった。でも、彼は積極的にそれを拒否した。やっぱり夢を見ていたんだと思う。そして、あそこまで行ってしまえば、まぁ、夢を見たままこの世を去るのも、一つの道かなと思う。

 戦死したり、波に呑まれて死んだり、いつどういう終わり方をするかわからないので、やりたいことをやって、一生を全うするのも、立派な道なのかな、と今は思う。

<14>につづく

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「来たるべき地球人スピリット」<12>3・11

<11>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<12>3・11

  3・11について言うなら、私は護られていたと思う。揺れた瞬間は、ちっとも恐い想いをしなかった。当日は、新築の高層ビルの大きな会議室にいて、リスクマネジメントの専門家達、約100人と一緒だった。ビルは揺れた。だけど、私は机の上のコーヒーカップがこぼれないように手に持って、立ち上がって、揺れているだけだった。

  実は、高層ビルで会議なんてタイミングは、私の人生の中では、ごく限られた時間でしかない。普通は、もっと地ベタに近いところで暮らしている。だいぶ揺れた。いやはや、ビルとは地震には弱いもんだな。だからビルなど嫌い。やっぱ、私は地ベタがいい。 そんな呑気な自分が、実は、大きな勘違いをしていたことは、すぐにわかった。

 確かに、会議のため、大きな窓は全面ブラインドがかかっていた。外はまるっきり見えなかった。あの時、ちょっとでも外が見えたら、その地震の大きさにすぐ気づいただろう。 大きな会議室ってのも、良かったのかもしれない。

 空間には、机とイスと、ちょっとしたスクリーンしかなかった。棚もなかったし、棚から落ちるものもなかった。危ないと思ったのは、テーブルの上の紙コップに入ったコーヒーだけだった。 数分の揺れがおさまって、すぐ館内放送が流れた。速やかにビルのそばに出ろと、叫んでいた。

 エレベーターは止まっていた。非常階段に回って下り始めた時、新築のビルとはいえ、すでに幾つも壁に亀裂が走っていた。 不思議なことだと思う。いつもなら、会議に行くのに車を使う。ところがあの日だけは車にするか、電車にするか迷ったのである。

 結局電車で行ったわけだが、あの時、車で行ったら、いつも停める立体駐車場が停電でマヒし、そこから脱出するために、大きなエネルギーが必要だったに違いない。 普段から鍛えていた自分の足のウォーキングで、自宅まで戻った。ビルにいたからこそ揺れを感じなかったのであって、地ベタは遥かに大変だったことが、街の風景を見ながら歩いていて、わかった。

 道端に留めた工事車がドアを大きく開けて、カーラジオのニュースを 流していた。三陸に津波が押し寄せていることを叫んでいた。でも、私はそんなことより、自分の我が家が倒壊していないか、火事になっていないか、そのほうがはるかに心配だった。

 歩いていると、雪になった吹雪の中、川を越えた。あとで気付いたことだが、その川の橋を超える頃、ちょっと下流まで、津波が押し寄せていたのだ。そんなことなどつゆ知らず、ただただ歩いていた。

 自宅に戻り、避難所となっている小学校の体育館に急いだ。ケータイのワンセグや、スマホで、私達が今、どのような状況に置かれているのかを、だんだん理解した。とてつもないことが起きていた。

<13>につづく

 

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「来たるべき地球人スピリット」<11>森の生活

<10>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<11>森の生活

 ヴァーチャルなライフスタイルが深化すればするほど、リアルなアナログ生活がバランスをとることになる。そもそも、一時は農業大学校に入って、農業を目指した人生である。大病を患い、肉体労働はドクターストップがかかってしまったために、断念したとは言え、どこかアウトドアライフにあこがれを持つのはどうしようもない。

 山尾三省やゲーリー・スナイダー、あるいは宮沢賢治と言った人々が、本当に農業をやっていたかどうかは、意見が分かれるところであろう。現実的な生活のかかった産業としての農業は、そう甘くない。甘くはないが、農業が魅せる世界は大きい。

 病弊していく農村、東北の主なる産業の農業は、もはや完全に斜陽になっている。そもそも金では換算しきれないのが、農業であり、農村暮らしである。いつか、何かのきっかけで、農業回帰できないか、という思いの中で、一つの可能性がやってきた。

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 2010年に見つけたひとつのきっかけは、私に大きな可能性を与えた。標高700メートルの山地とはいえ、数万坪の敷地は、かなりの魅力を持っていた。夢が膨れ上がった。それまで読んできた本と、リンクした。ソフトとハード、うまくかみ合う筈だった。

 雪が溶けたら、ベースを作り、年間計画通りイベントを行ない、数年かけて、完全にこの地を機能化できるのではないか。夢は広がった。そして、その夢は、決してすでに萎んでしまった、と決めつけるわけにはいかない。いずれはそういう方向に行かざるを得ないことは分かっている。

 春になって、現地で仲間たちとミィーティングを行ない、さぁ、スタート、というタイミングで、あの3・11がやってきた。

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<12>につづく

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「来たるべき地球人スピリット」<10>SNS

<9>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<10>SNS

 ネット環境ならそれほど臆せず参加してきた。80年代初頭から、マイコン情報にはちょっとうるさかった。専門家ではないにせよ、そういう時代が早くこないかなぁ、と、情報化社会に夢を持っていた。95年にインターネット元年を迎え、勢い、Eメールやパソコン通信のフォーラムなど、どんどん時代は進んでいった。

 でもどこか、疲れてしまっていたのも事実。足元では一般家庭へのパソコン普及率は10%程度だったし、ネットでいくら地球村が拡大しても、隣の家や、地域の人々が見えないのでは、どうも片手落ちだろう。

 21世紀になっての初めの頃は、むしろ、私はネット社会への参加は少しブレーキぎみだった。浮ついたバーチャルなつながりは、面白そうでもあり、危うくもあったやがて、いつの間にかパソコンの普及率はどんどん尻あがりに拡大していた。家庭内でも、一台のパソコンが鎮座ますます時代でもなくなった。

 2005年春。一本の電話は、私を新たなる情報のルツボに引っ張りこんだ。すでに十年前のことであり、あまり細かいことを書くのはやめとこう。ざっくり言えば、mixiで炎上ネタが勃発していたのだ。それまで、私は2chなどにも参加していたが、もう、飽きていた。覆面の罵り合いは、もういやだった。

 その中ではあったが、ソーシャル・ネットワーク・サービスという新しい概念は、私の心を優しくなでた。炎上ネタは、約一ヶ月で落ち着いた。私は、そこでまた元の生活にもどろうとしていた。その頃一方では、旧知の友人たちは、新たにネットにつながり、自分のブログを作り始めていた。

 私も、2005/08に無料ブログを登録をしたが、特段に書くこともなかった。すでに会ってもいない友人たちの前で、どのような顔をしたらいいか、もう忘れていた。ぎこちなく、気軽に動くこともどうもできなかった。

 そんな私を解き放ったのは、2006年春に出版された「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる 」(梅田望夫 ちくま新書)だった。極めて挑発的な内容だった。ブログを登録していたものの、ネタに困っていた私は、この本を熟読し、その感想を逐一書いてみることにした。ブログ・ジャーナリズム、あるいは読書ブログ、という当ブログが存在しているとするなら、スタートであり、ここが原点である。

 ほほ一ヶ月かかった。そして、そこから派生して、よく本を読むようになった。その頃、一般図書館も使いやすくなっていた。ネットからリクエストすると、あらゆる種類の本がお手軽に読めるようになった。最寄りの図書館になければ、他の市内でも県内でも、時には国会図書館からだって、取り寄せてくれた。

 新しいライフスタイルが始まった。あれから7年ほどで3000冊ほどの本を読むことになるとは、一体誰が予想できたであろうか。今回のこの一文は、読書ブログとして読んだこの3000冊の本がベースになっている。そこから見えたもの、そこにつながっていくもの、そして、今後の在り方。それらが、ガサゴソと動きだした。

 ツイッター、フェイスブック、さまざまな新しいサービスが始まっていた。時間の経過とともに、私はこれらの新しいたツールにすっかり虜になってしまっていた。セカンドライフというヴァーチャル・ゲームや、オンライン・オセロにもハマった。キンドルやタブレットにも関心を持ち始めた。

<11>へつづく

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「来たるべき地球人スピリット」<9>人生とはなんだ

<8>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<9>人生とはなんだ

 あの頃の私を支えていたのは何だろう。なかなか業績が上がらないからと言って、業務を放棄するわけにはいかない。家族を支えるのも、もう精一杯と言ったって、家族を放棄をするわけにはいかない。仲間も友達も、あるようなないような、フワフワしながら、生きていた。

 ドロップアウトする奴はドロップアウトして行った。どんどん、あいつもこいつもどんどん消えていった。おいおい、どうすんだよ。ひとりひとりに声をかけたかった。慰めたかった。とめたかった。しかし、立場としては同じことだった。自分だって、おんなじことだったのだ。

 私は、友達を縮小した。一段落したインターネットからは、それとなくドロップアウトした。ネットのバーチャルな世界は、夢がありそうで、どこまでも夢だった。お前らはいいな。ドロップアウトできる。オレは無理だ。日々やらなければならないことがある。やらなければならないことがあることを、よしとしなければならない。私は、やるべきことを絞りこんだ。

 朝起きて、仕事して、飯食って、経済活動して、あとはちょっとだけボランティア。もう夢なんて、本当に限られた範囲にとどまっていた。子供たちの成長、子供たちの進路。ロールスロイスに乗るなんて夢の夢。1000CCのリッタカーセダンに乗るのがせいいっぱい。ヨーロッパ旅行なんて夢の夢。インドだって、行けるわけがない。

 日々、焼酎でもくらって、なるしかないだろう。歯磨かないと虫歯になって、どんどん抜けてしまうよ。部分入れ歯も一個二個増えた。目も悪くなった。楽しみと言えば、安上がりの回線使ってネットサーフィンするのが関の山。50才の大台を越えて、もう人生なんて、決まってしまったようなものだった。

 そんな時、仕事の客人でもあった、古い女性友人を訪問した時、彼女はタロット占いをしてあげるよ、と切り出してきた。ええ?、タロットは私のほうが専門でしょう。私のほうが占って上げたいくらいだ。星占いだって、イーチンだってできるよ。

 いえいえ、私がやっているのはカモワン・タロットよ。タロットの本家本元よ。って私も実は勉強中なの。私はこれから、この腕を磨いて、これで食べていこうと思うの。だから、ちょっと実験台になってね。なんでもいいから、なにか悩みごと、言って。

 あらあら、ぼくには悩み事なんて、う~~ん、あるかなぁ。でも、う~~ん、ないよ。やっぱり。あらあら、そんなこと言って。なんでもいいから、悩み事言ってみて。そうだな、なかったら、なんか作って。

 そこまで言うならなぁ~~。私は考えた。なんか作ろう。そうだな、じゃぁ、こういうことにしよう。ぼくは今、ふたつの道の分かれ道にいる。ひとつはこのまま、仕事に精出し、このまま行ってしまうこと。これは簡単なんだ。今のまま、このまま、もうまっすぐ行けばいいだけだからね。

 そしてもう一つの道がある。それは、もともとぼくが行こうとしていた方向だ。それには仲間がある。仲間とはもうだいぶ離れてしまった。連絡も細くなった。もうこのまま切れてしまっても構わない。っていうか、切れる方向に歩いてきている。

 だけど、どうかなぁ、と思わないでもない。これでこのまま自分の人生がフェードアウトしたら、それって何? と、そう思わないでもない。仕事は順調だ。子供たちもまずまずだ。オレの子供としては、まずまずだろう。それ以上、言ったってしかたない。それほど人生を楽しくするなんてできるかな。とにかく、どっちにいけばいいか、じゃぁ、そこんとこ占ってよ。

 それを聞いた彼女が、本当にカモワン・タロットの筋書きをキチンと読んでくれたかどうかは分からない。タロット占いでは私のほうが先輩だが、カモワンは知らない。面倒だから、今さらカモワンを学ぶ気にもなれないし。答えは、後者だった。仕事もいいけど、自分の体験を分かち合う方向に行ったほうがいいよ。

 後日、業界団体で、温泉旅館で総会があった頃のことである。背広に古びたネクタイをぶら下げた男たちと、タバコ臭い空間に居て、私はどこにもいそうな初老の男にすぎなかった。もうこれでいいじゃん。これはこれで楽しいんだよ。この老人たちの中では、私は若手だけれども、このようなクダらん老人の一人になっていくのも、なかなかいいじゃん、それも道だろうが。

 そんな時、一本の電話が、私をSNSに引っ張り出し、私の人生は、急旋回することになる。

<10>へつづく

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2014/04/09

「来たるべき地球人スピリット」<8>9・11という21世紀幕開け

<7>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<8>9・11という21世紀幕開け

 どれだけ21世紀という言葉語られただろう。21世紀は輝いていた。21世紀はユートピアだった。21世紀は、すべてがかなえられるべき想郷だった。なにもかにもが21世紀へ向けて、なびいて行った。あらゆることが解決された黄金郷。でもでも、そんなことはなかった。それは見事に裏切られ、否定された。

 ある夜、家族はそれぞれの部屋に入り、茶の間で遅くまでテレビを見ていたのは私だけだった。そろそろ寝ようかな、と思った時、深夜テレビニュースで、奇妙なシーンを映していた。アメリカの高層ビルの最上階あたりに、干物か、目刺のような小さな飛行機が突き刺さっていた。

 飛行機が突っ込んで行くシーンが何度も何度も再映されていた。おいおい、こりゃぁなんだ。こんなシーンみたことない。私は、階段を駆け上がり、家族みんなを叩き起こした。見ろ見ろ、こんなシーン見たことないだろ。これは歴史的シーンだ。これは見ておくしかない。

 唖然と見ながら、それに続いて起こるシーンを想像することは誰にもできなかった。タワー・インフェルノは、やがてビル全体に火は回り、白煙をばらまいて、高層ビルは倒壊したのだ。いわゆる9・11世界貿易センタービルの事件である。

 世界経済の要所要所とつながりのあるこの建物の崩壊は、さまざまな派生的影響を生み出した。日本企業も何社か破たんした。何度も聞かされた21世紀、という輝いていたイメージは、この事件によって、大きく傾いた。これが21世紀の幕開けだったのだ。

 それにしても、10代の子供たちを抱えた、中年男になにができる。子育てに必要な環境もつくり、そのローンに追われ、日々重なる重責の中で、世界情勢など考える余裕などあったものではない。ああ、なんという21世紀なんだ。

 あれからだって、もう長いこと経過した。やっぱり、そんな甘いものではなかった。でもだからと言って、悲観してばっかりもいられない。自分が生きているこの時代をなんとか生き延びるしかない。矛盾だらけのこの世界。戦争がこの世からなくなるなんてない。国境がなくなるなんて、夢ばっかり。殺人もあるし、貧困もすすむ。経済も落ちこみ続ける。世の中、真っ暗闇じゃん。

 これが21世紀か。結局、なんにも変わらないじゃん。こんな世の中、生きる価値があるのか。かつては、高度成長時代に、暴走する急行列車からドロップ・アウトしようと、フォークシンガーたちは歌った。しかし、今や21世紀には、中年化した同輩たちが、なぜか、この世に夢を持てなくなり、どんどんドロップアウトして行った。おいおいお前ら、そんなに早く諦めてどうする。なんとかしなければならないのではないか。そういう私の心も、どこかで、すっかり干上がり、渇いてしまっていた。

<9>につづく

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「来たるべき地球人スピリット」<7>ボランティアってなんだ

<6>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<7>ボランティアってなんだ

 そもそも私は特別に公共心にあふれていた人間だとは思ない。公共性のない人間とも思わないが、まぁ、まずまず平均的な人間だろう。小学校時代は「道徳」の時代がそれとなく好きだったし、中学校時代は、バスケット部や、新聞部と同時に、「JRC」つまり子ども赤十字クラブに属していた。所詮校内のゴミ拾いをしていた程度であるし、特段に目立っていたわけではない。

 そんな私がボランティアを意識して始めたのは85年ころからの、某自殺防止機関の電話聞き取りサービスである。キチンとしたボランティア活動であり、一定期間の教育を受け、手弁当持ち出しの活動だ。自分達で維持するための努力を重ねていかなければならない。

 この時点で、私は、ボランティアという意識より、電話相談員という意味合いのほうに重きを感じていた。その活動は、瞑想カウンセリングや、産業カウンセリングという概念の中で、ややボランティア性を薄めていった。

 私が、ボランティアという基本に戻ったのは、93年の、社会性の希薄性に起因するダークサイドへの落とし穴に気づいた時あたりからである。私はそれから、積極的にボランティア活動をした。自らの思考の可能性を拡大し、行動範囲をさらに広げた。

 最初は、偶然やってきた、子供たちの登校時における交差点での旗振りだ。PTA活動の一環ではあったが、母親達に混じって、子供たちを見送っているだけで、なんだか、とてもいいことをしているような気になった。次にやってきたのは町内会の班長さん。資料の配布、ごみ収集場の清掃、お祭りの準備、かたづけ、年中行事の裏方さん。自らの世界に閉じこもっていては見ることができない景色を、たくさん見ることができた。

 まもなく40代を迎えようという時に来たのが、町内会に青年部を作ってほしいという話だった。中年になって青年部とはこれいかにとは思うが、壮年、老年が多い町内会活動においては、40才前後で活動的な青年は貴重である。私は、積極的に参加した。これがなかなか面白かった。意外や意外、結構、手を上げて参加する若者たちも多くいたのである。

 下の子がまもなく小学校を卒業しようという段になって、登場したのが、子供たちの父親による、父親の会である。これも面白かった。いたずら小僧が、そのまま大きくなったような父親たちが、続々湧きだした。ミニ四駆大会。学校キャンプ、ミステリー・トレイン、まぁ、よくもこれだけアイディアが続くものだ。父親たちは、子供たちと遊ぶのが大好きだ。そしてもちろん子供たちも父親と遊ぶのが大好jきなのだ。

 そんな動きを誰かが見ていたのか、今度私にやってきたのは、中学校のPTA活動だった。そんな~~~。そろそろ仕事に戻ろうと思っていたのに~~。個人的な趣味もやりたい。遊びたい。だけど、PTAもやってみれば面白い。また、参加しているからこそ分かってくるということもたくさんあった。もちろん、校内の不祥事もあった。ひとつひとつが、想い出である。そして、学びであった。

 私は高校PTAでも深くかかわることになった。中学校ほどではないよ、と、誘われ、仕方なく関わったものの、なぜか、わが高校の野球部は、県内大会で優勝して、甲子園に乗り込むことになったのである。それにしても、その資金が必要でしょう。私は、甲子園出場支援実行委員会の委員長として、資金集めに奔走することになった。

 そして大会後、余ってしまった資金で、野球部の雨天練習場を作ることになったのだから、物語はどこまでも続く。公共事業の建設に準ずるようなプロセスで、私は入札行為の主体になって、建設計画を全体的に進める立場になってしまったのだった。

 もうその頃は21世紀になっていた。高校PTAの後も、経歴を見込まれたか、県の教育委員会外部委員として、校長さん達や教育委員会の幹部連に意見を求められる立場になっていた。子供が巣立っても、なかなか、この動きから離脱することができなかった。

 同時期においては、業界団体のボランティア活動も待っていた。そもそも別段避けようと思っていたことではない。私は積極的にその渦の中に入っていった。事務的な会議の他に、河原清掃や、交通安全キャンペーン、他のイベントへの参加など、楽しむネタは沢山あった。

<8>につづく 

 

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「来たるべき地球人スピリット」<6>インターネットがきりひらく時代

<5>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<6>インターネットがきりひらく時代

 95年という年は、それまでに地下に蓄積されてきたエネルギーが噴出した年であるし、また、それからの未来の方向性が大きく舵を切った年であった。ひき続く96年以降は、ある意味、ほぼ決定づけられた道を、ひたすらひとつひとつ駆けあがっていくプロセスでしかなかった。

 70年安保における連合赤軍事件が、政治の時代にくさびを打ったように、95年の麻原集団事件は、スピリチュアリティの時代に、大きな影を落とした。物質から精神へ、という掛け声のもとに、何でもかんでもスピリチュアルにまとめてしまおうとする風潮に、大きなブレーキをかけた。

 その時、登場したインターネットは、勢い、科学が切り開く新しい時代、というイメージを拡大した。90年代の半ばにあっては、パソコン文化はまだまだごく一部のものだった。パソコン自体は、80年代初めからスタートしており、私なども、アルビン・トフラーの「第三の波」が書くところの情報化時代に魅力を感じつづけてきたから、すっかり虜になってしまった。

 この時代の情報化のイノベーションは、語っても語りきれない。この文章を書いている2014年にも続いてくる伏線であるし、また、いわゆるこの文章の元となっている「読書ブログ」の実質的なスタート地点でもあった。

 私の同時代人としては、スティーブ・ジョブズがいる。人物としては毀誉褒貶ある存在である。ビル・ゲイツなどと共に、一時代を引っ張り続けていた存在であるが、彼らが大きく大きく、未来を開けてしまったのだ。

 ワープロ通信はパソコン通信となり、インターネットとなった。ワープロ専用機は、国内専用OSパソコンとなり、やがて世界標準のウィンドウズやマックOSへと互換性を広めていった。ハードディスクなしのパソコンはなくなり、フロッピーディスクのような記憶媒体は、ドッグイアーと言われるような、あまりにも急激な発展を遂げ続けた。

 このような時代であればこそ、ネット社会が膨大につながり出し、新たな知のコラボレーションが拡大し続けた。ひとつの可能性が、新たなる多くの可能性を広げた。可能性は可能性としてとどまらず、次の日には、確たる事実として登場してきた。ひとつひとつが当たり前のこととなり、人間社会の在り方を、これほど変えてしまった時代というものは、人類史の中でも、そう多くあるまい。

<7>につづく

 

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「来たるべき地球人スピリット」<5>1995年という年

<4>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<5>1995年という年

 人は未来において、1995年という年をどういう年だったと振り返ることだろう。この年には、重要なことがいくつか起きた。それぞれがどう評価しよう、それまでの経過が噴出した年であり、これから以後の未来を、良くも悪くも暗示する年であったことは間違いない。

 93年に引き続き、94年もまた私にとっては、足元を固め、関係性をひとつひとつ再確認するタイミングだった。大きな動きはなく、むしろ、小さな動きの中で、やがてやってくる芽吹きを待つ、地中の成長のプロセス時期であった。

 95年。1月17日。阪神淡路大震災は起きた。西日本で起きた災害ではあったが、友人知人が多く住む地域である。そもそもこのような時代の予兆があったからこそ、リスクマネジメントも学んできていたのだ。その予感が当たってしまったという不思議な高揚感につつまれた。

 どんな震災であっても、突然起こることではない。それまでのひずみが限界を超え、やがて、一瞬のうちに、その全てのエネルギーをリリースするのである。地表に住む人間たちの知性を越えた、大きな地球の動きが浮かび上がってきていた。

 そしてまた3月には、あの忌まわしい事件が起きた。当ブログにおいては、その集団名を記したことさえ忌まわしく思え、常に麻原集団事件と表記してきた。オウムというマントラは、矮小な集団が扱えるようなエネルギーではない。

 4月のある日の早朝、私は春眠を打ち破るような電話の音で目が冷めた。電話の向こうで古くからの女性友人は叫んでいた。「OSHOがテレビにでているよ」 どういうことかいな。私はいぶかりながら、テレビのスイッチをいれた。そこにあったのは、あることないこと、何でも並べてゴシップを楽しむワイドショーの歪曲報道だった。

 テレビ、新聞、雑誌、週刊誌、月刊誌、スポーツ紙、単行本、突出した麻原集団の猥雑性と、OSHOムーブメントの混同は、あらゆる混乱を生んでいた。他のあらゆるカオスの中で、身に降る火の子は払わなりゃならん。サニヤス・ネットワークが動きだした。

 こまかいことはすでに既報である。この時の活躍はやがて、冊子や印刷物として記録されている。この時学んだこと。それは、これほどにスピリチュアリティが世に広がっているということ。そして、その真の意味が理解されている範囲は、決して広くはないのだ、ということだった。ますます、自分達の意志を明確にし、強く持ち続けることを痛感した。

 この時、全国に散らばった仲間たちの連絡方法は、固定電話と、ファックスだった。そもそもが手弁当のボランティア活動だった仲間たちは、翌月にやってくる通信請求書に頭を痛めた。ネットワークの連絡は必要なのに、その費用は、自分達が支えきれないほど高額なものとなっていた。

 そして95年の12月に販売されたのがウィンドウズ95というパソコンOSだった。それまで、ワープロ通信とか、パソコン通信はすでにでていた。電話線を通じてのチャットなどは、極めて興奮するものだった。その普及率は、まだごくごくわずか。数パーセントの、先モノが好きな人々が手掛けていたにすぎない。

 しかし、このOSの販売で、ワープロ専用機から、一気にパソコン時代へと突入していった。未来において、1995年は、阪神淡路大震災、麻原集団事件、そして、ウィンドウズ95の発売された年として、思い出されるに違いない。

<6>つづく

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「ダライ・ラマ in 仙台」 3・11を乗り越える愛と瞑想の道 

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「神道 東日本大震災祈りの会」ダライ・ラマ法王14世の講演と法話
2014/04/07 東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館) ダライ・ラマ法王14世を仙台へお迎えするための特別委員会(代表:川上廣子出羽三山教司) 企画・運営:2014 祈りの会実行委員会
Total No.3209

 行って来た。率直に言って、良かった。これで、子々孫々に生ダライ・ラマを聞いたことある、と言える。(アハ) ^_^;

 最初の、出羽三山神社と竹駒神社の儀式が、そもそもなんであるのかは、よくわからない。これは別途書く。

 ダライ・ラマQ&Aのなかの、一番お気に入り部分のわたし的理解。

Tu
 「解決出来ない困難はありません。探求し、前に進み続ければ、必ず解決します。
大切なことは希望を持って前に歩き続けることです。だから、絶望する必要はないのです。

しかし、探求し、努力し、前に歩き続けたとしても、解決しないということはあり得ます。
それであっても、この世に、解決出来ないこともあるのだ、と見極める所まで歩いて行けた訳ですから、
絶望など、する必要がないのです。

 人間として大事なことは二つあります。ひとつは日々研鑽し、ハート・スートラで言う「空」 を求め続けること。
もう一つは、利他のこころを持って、菩提心を持って、人々と暮らして行くこと。
この事がとても大事です。」

Jize

 つまり、愛と瞑想ってことですね。

         

        「正装」でお出迎え(笑)                               

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2014/04/08

「来たるべき地球人スピリット」<4>転び石

<3>から続く 

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<4>転び石

 1993年春、仕事に精を出し、家庭人としてもますます磨きがかかるべき時期であった。仕事のために、ワンボックス車から、ステーションワゴン車に乗り換え、家族とともにディズニーランドで遊んできた直後に、私はひとつの転び石に見舞われた。

 基本的に、すでに起きていた事件であったし、あれから20年以上も経過しても解決していない迷宮入りした事件であれば、ここにあまり細かい事を書いておくのは適当ではなかろう。デフォルメして、概要だけ書いておく。

 つまり、遡ること一年前に、ある殺人事件が発生していたのである。目撃者はいなかったが、遺留品は多くある事件である。おそらく早晩犯人はつかまるだろうと推測された。私はその事件を知っていたし、そんなこともあるのか、と他のニュースとともに、気になる話題ではあった。

 この事件、難解だった。なかなか解決しなかった。捜査当局は、捜査範囲を広げ、あらゆる手掛かりを求めて活動を続けていた。そんな捜査状況など知るよしもない私は、この事件が私に関わってくるとは、まったく想像だにできなかった。

 それは起こった。ある朝、彼らはやってきた。その真意を伝えないまま、別件の容疑で、捜査に応じるよう求めてきたのである。何も知らないまま、私は彼らの意に従った。私の知っていることを述べ、求められている資料を全て提供した。それらが、それほど、大きなことにつながっているとは思いもしなかった。

 数日、彼らと付き合っているうちに、私は気付いた。あきらかにこの人々は、私の些細な行動と、あの事件との関連性のあるなしを調べ上げようとしていたのである。いくら小説も読まず、別段にサスペンスのファンでもない私でも、容易に想像がつき始めた。

 もし冤罪事件というものが起こるとするならば、このようなタイミングで起こるのであろう。彼らは確かにこちらの弱い点をついてくる。時には取引さえ申し出てくるに違いない。しかし、途中で私は彼らの黒い意図に気づいた。明らかに私は、一つの事件の主犯に仕立て上げられようとしていたのである。

 図書館に行って、過去一年間の新聞記事を調べてみた。そう多くはなかったが、要所要所で報道は続いていた。そして、なるほど、彼らには彼らなりの言い分がありそうだ、ということも分かってきた。つまり、どうも、この事件は、日常の私の行動と多く重なる地域で起きていたのである。

 ひとつひとつを関連づけようとすれば、これはイケる!と思うほど、限りなくクロにさえ見えてくるのだから、不思議だ。自分でも、これはイケる、と思ってしまう。もし私に小説を書く才能が与えられているのなら、いつかはこの事件の詳細を書くだろう。なかなか面白いに違いない。

 彼らは調べるだけ調べあげていた。手を回すだけ回していた。それは仕方ないだろう。彼らの仕事だ。あちこち嗅ぎまわるのが彼らの習性だ。そのような業務が、この世に存在することは知っている。その業務があればこそ、私たちもまた社会の中で安心して生活できるのだ。彼らには彼らの仕事をやってもらう以外にない。

 しかし、その中心ターゲットとして、この私が狙われたのでは、たまったものではない。周囲の人たちもその異変に気付き始めた。周囲の者達とて、私のシロを疑う人たちさえあったのである。あ~~、そんなものかねぇ。そんなに私は信用がなくて、疑惑の多い奴だったのか。私さえ、「自白」してしまえば、私はひとつのストーリーの主人公になることができたのである。

 でも、まさか、そんなことができるわけがない。私は私自身が、まったくのシロだってことは知っている。どんなに調べられても、どんなに事実をねつ造されても、私は私を律することができる。明白に拒否する以外にある筈がない。

 この体験から、多くを学んだ。物事は、急激にシロからグレー化し、やがてクロと見分けがつかないくらいにダークサイドに行ってしまうことがあり得るのだ、と。それは権力とか陰謀とか、敵意、悪意、と言った類ともちょっと違う。人生が、どうも何かとクロスするのである。そのような状況を呼びこんでしまうのだ。危ない危ない。

 私は、人生の前半で結構危ない体験をした。ほとんど死亡事故と思えるような交通事故も体験した。まかり間違えば、死亡していた。思えば軽微な怪我で生き延びたことも不思議であった。病気もした。いくつも病院を回され、国立病院で余命半年と宣告され(その事を知っていたのは家族だけ)、がんセンターで半年過ごした。だけど、死ななかった。

 事故死、病死、そして次に準備されていたのは、社会的「死」だった。私は、おそらく、この場面でも死を味わっていた。人はこのようにして、社会を後にする。社会との関わりと断ち切られ、孤立し、迷妄の中にさ迷い出てしまうタイミングというものが、確かにあるのだ。

 今言えることは、私はこの社会的死からもあっと言う間に回復した、ということであろう。そして私は学んだ。マーケットプレイスで生きるには、しっかりとしたベースを作らなければ駄目だ。ふらふらしていたのでは、いつ彼らに足元を狙われて、彼らの無意識の餌食になるか分かったものではない。

 私は、資格を多くとり、社会的集団性の中に多く参加し、足がかりをつくり、ネットワークの中に積極的に入っていった。地域活動の役員を引き受けたり、公的機関の内部カウンセラーを務めた。私なりの危機意識、リスクマネジメントである。身辺を整理し、余計な誤解を招かないように、より懐を広げた。

 この体験がやがてやってくる更なる大事件に対処する心構えを作ってくれた。この世で生きるとはどういうことか。社会で生きる。マーケットプレイスにいる。市場での瞑想とはどういうことか。時間とともに自分も周囲も成長し、心構えは着々と整えられていた。

<5>につづく

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「来たるべき地球人スピリット」<3>市場での瞑想

<2>から続く 

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<3>市場での瞑想

 90年代初め、1954年生まれの私はすでに30代も後半。仕事を持ち、妻と子供二人を持つ、中堅どころの男として、仕事に精出す日々が続いていた。日々仕事に追われ、時には、経済的に、精神的に、大きな負担を味わうことさえあり得る日々だった。

 80年代の好景気、いわゆるバブル景気の余韻もあった。バブル経済の余禄をいっぱい受けたわけじゃないが、回りがにぎわっていれば、当然こちらにも回ってくる。やはり金は天下の回り物だ。多少の緩みはあり、全体の中での仕事を見つめる余裕もあった。

 いつの間にか、こういう日々がずっと続いていくのだ、と思っていた矢先、経済はダウンした。いわゆるバブル経済の崩壊である。崩壊してみれば、それほどの恩恵をうけてきた身ではなかったが、周囲がスケールダウンすれば、次第次第にこちらも疲弊していく。そもそも清貧主義とまでは言わなくても、節約生活ある。成長盛りの子供を持つ家庭生活を支えるには、一定程度の安定経済が必要となる。

 そのような背景の中で、この時代の私に立ち起こった大きなことは二つあるだろう。一つは、青春時代から人生を賭けて探しだしたOSHOが亡くなったことだ。1990/01/19、マスターOSHOは、自らを灯として生きていきなさい、という言葉を残して、肉体を離れていった。

 OSHOのメッセージそのものが、市場での瞑想であってみれば、私はこの機会にさらなる街の中へと歩もうとしていた。決して社会が嫌いでも、避けてきたわけでもないのだが、妥協点をみつけ、だましだまし自分を社会に合わせていた、という部分はなきにしもあらずであった。

 しかし、それではいけない。積極的に社会の中に溶け込んでいき、しかも、自らの主張をしっかりと伝えなければいけない。前年、喜納昌吉とチャンプルーズのコンサートの企画に成功し、この年にもやりたかった。しかし、同じスタイルの単独コンサートだけでは面白くない。なにか、当時はやっているようなシンポジウムに絡ませたコンサートはできないか、そういう思いが高まっていた。

 そんな私のアンテナに引っかかったのが国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」の企画だった。実際は1991年の11月に実施されたわけだが、準備段階が長く、一転二転して、実施されrうまでに半年もかかった。

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 なぜにそれほどの期間が必要だったのだろうか。企画がどんどん大きくなって行って、歯止めをどこに掛けたらいいか、分からなくなるほどの連鎖運動を起こしてしまったからだった。なぜにこれほどまでに拡大したのだろうか。

 ひとつには、当時のバブル経済の余韻があった。崩壊したとは言え、各企業、行政には、まだ内部留保の余裕があった。また、国際センター建設などの箱モノ行政は、一端企画を立てたら、いくら崩壊したとしても、急ブレーキはかけられない。つまり、急ブレーキがかかるには、多少のタイムラグがあったということである。

 そして、仙台のカウンターカルチャー・シーンでいえば、他の地域に比べると、ちょうどタイミングが離れていて、さあ、今度は仙台で、何をやるかな、という空白期でもあったのだ。当時のぐりんぴいすの加藤哲夫率いる活動も、どんどん大きな牽引力を持ち始めていた。

 スタッフにも恵まれた。小さなグループだけではなく、その枠を超えて、何か大きなことをしようという心構えが、各グループにわき起こってきた。ネットワークからさらなるコラボレーションへと発展し、壮大なスケール拡大が起こっていた。

 そして、一番考えられることは、すでに団塊の世代と呼ばれた年代も、社会の中枢の中核に位置しており、自らの意思と、自らの力を、しっかり行使できるポジションを勝ち得ていた、ということであろう。つまり、ここでやらなきゃ、いつやる、という環境はすべて整っていたのである。

 「スピリット・オブ・プレイス」についての詳細なレポートと分析、そして継続に関しての細かいプランについては、別途メモしよう。ここで大事なことは、あまりに拡大したために、その全体像を、企画に参加したひとりひとりが把握しきれなかったということと、若さゆえにできたことではあったが、また若さゆえの勇み足もあったということだ。

 とにかくこのシンポジウムは成功した。多くの成果を得た。企画に参加したひとりひとりがその成果を、自分の現場に持ち帰ったはずだ。また参加した多くの一般メンバーも、そのスケールに、何事が起こっているのか、と割目したはずである。

 私は私なりに、他の友人たちと同じように、自分の仕事を法人化し、より社会性のある活動へと止揚し始めた。そしてまた、それに対応して、自らの瞑想を高めることに精を出した。OSHOの肉体なきあとの、社会への進出も、思いのほか、順調に滑り出したのだった。

<4>につづく

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「知恵の三つ編み」 ポーラ・アンダーウッド著、 星川淳・翻訳


「知恵の三つ編み」 
ポーラ・アンダーウッド著、 星川淳・翻訳 1998/08 徳間書店 単行本: 286ページ
Total No.3208 ★★★★★

 コンパクトで読みやすい三つの物語。すでにこの本、再販リクエストに登場するような希少本になりつつあり、著者のポーラ・アンダーウッドもすでに90年代最末期に亡くなっている。

 どことなく「まんが日本昔ばなし」を彷彿とさせるような、なんともいえない懐かしさを感じる。日本の民話なら、そこに農耕民族の生活の影響や、仏教にまつわる逸話の引用などがあるものだが、この物語は、れっきとしたネィティブ・アメリカンの口承詩だけに、それらとは一線を画した凛とした存在感がある。

 「火種の扱い方」について、自分も小さいときに囲炉裏にすわりながら、祖父から物語として教えてもらったことがある。生まれた家は築350年ほどの茅葺の家だったが、この話も何世代もの間、語り継がれてきた話だったに違いない。

 しかし、親から子へ、子から孫へ、という伝承文化は、現代においては、次第に消えつつある。そんな中にあって、物語の後継者として注意深く育てられた著者が、前の世代から引継ぎ、次の世代へと残した物語は、ネィティブ・アメリカンだけではなく、地球に生きる人、誰にとっても、貴重な生きた知恵として生かされていくべき、大事なものに思える。

(2006/03/08記) mixiコミュより転載

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「環太平洋インナーネット紀行」―モンゴロイド系先住民の叡智 星川淳

環太平洋インナーネット紀行」―モンゴロイド系先住民の叡智
星川 淳 1997/09   NTT出版 単行本 331ページ
Total No.3207★★★★★

 97年発行だから、すでに10年近い年月が経過している。前半、「師」とのかかわりの断片がいくつか書かれている。ネィティブ・アメリカンやイロコイ連邦との出会い、屋久島での生活、「インナーネット」への思い。

 軟弱な評論や評価を根元から打ち崩してしまうほどのリアリティの連続。こまかいことを言う気が喪失してしまう。あとは個々人の生き方の問題だな。

 第三者がどうこう言う問題ではないが、著者を「4つの扉」的に解釈すると面白いな、と思った。

 百科全書派的な知識の展開はともかくとして、話題をイロコイ連邦のことに絞るなら、やはりこの本を読んでよかった、と思える。

(2006/03/06記) mixiコミュより転載

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「一万年の旅路」―ネイティヴ・アメリカンの口承史 ポーラ アンダーウッド著 星川淳・翻訳


「一万年の旅路」―ネイティヴ・アメリカンの口承史
ポーラ アンダーウッド著 星川淳・翻訳 1998/05 翔泳社 単行本: 545ページ
Total No.3206 ★★★★★

 この545ページにわたる書物をゆっくり読むことはしなかったが、その成り立ちからして、とても貴重な本のように感じられた。文字を持たないイロコイの人々が口から口へ、親から子へ、語り伝えてきた口承史の、正当な継承者の女性による英訳出版だ。「人類共有の財産」との評価もある。

 「The Walking People」を「一万年の旅路」とするあたりに、かつて「Supreme Understanding」を「存在の詩」とした翻訳者のセンスが光る(イヤミっぽいかなw)。

 話は変るが、最近、害獣駆除で地元の山中で仕留められたというイノシシの肉のおすそ分けがあった。話のネタにと、さっそく塩焼きにしていただいた。決して悪臭ではないが、特有のハイテンションを感じるにおいが細く残り、肉そのものは脂肪分や筋が多く、なかなか噛み切れない。しかし、山々の植物や小動物たちの存在が、どことなく感じられた。

 この本、表紙の絵もバッファローの群れがデザインされているが、まさに、イノシシ肉にも通じるような、原始の野生の香りのする本だった。

 「ネィティブ・アメリカンの口承史」とはいうものの、一般的には、「東日流外三郡史」(つがるそとさんぐんし)にも通じるような「偽史」に分類されかねない分野の本だが、この物語から何かを学べるとすれば、その魂は祝福されている、と思える。

(2006/02/22記) mixiコミュより転載

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「暴走する文明」―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ ロナルドライト著  星川淳・翻訳

「暴走する文明」―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ
ロナルド ライト   (著), Ronald Wright (原著), 星川 淳 (翻訳) 2005/12 日本放送出版協会 単行本 221ページ
Total No.3205 ★★★★★

 こちらは、翻訳者たるプラブッタの仕事だ。2005年12月25日発行だから、ごくごく最新の仕事といっていいだろう。ハードカバーのキチンとした本だが、歴史と科学のコラージュみたいな本は、どちらかというと苦手なので、パラパラっとめくって終わりにしようと思った。

 かつて、アルビン・トフラー、カール・セーガン、ライアル・ワトソン、フリチョフ・カプラなどなど、その内容の真偽は一読者として検証しえないものが多いので、一般に、その本の成り立ち、つまり出版社の信頼性や書評などからその本の価値をあらかじめ決めてしまうことが多かった。

 このロナルド・ライトについても、僕はその本の価値についてはよくわからない。NHK出版からでていて、プラブッタが訳しているから良い本なのだろう、程度の判断しかできない。でも、実際に原書と読み比べたわけではないが、翻訳の文章は、なんとも読みやすい僕好みの文章であるといえる。あるいは、長年のうちに彼の文章にならされてしまったというべきか。

 ネアンデルタール、ノイマン、ニューマンが同じ言葉だと初めて知った。(ネアンデルタールはニューマン谷の意味)。よくコンピュータの歴史などにでてくるノイマン型コンピュータのジョン・フォン・ノイマン。そのノイマンが実はニューマンという意味だったのか、となんだか少し親しみを覚えた。訳者は、さらに本文を「新しい人」と書いてわざわざカタカナで「ニューマン」とルビを振るあたり、なんだか、こちらの嗜好を見透かされ、挑発されているようで、ちょっと訳者としてやりすぎじゃないか(笑)なんて思ってしまったりもした。

 本文は、158p程度のコンパクトなものだが、あとは、訳者のあとがきと、50pほどの検索・原注がつく。ほんの初期の彼の翻訳したOsho本にも、親切にも長文の注釈がついていたものだが、それは彼の好みなのだったのか。現在では、そのようなOsho本はみあたらなくなった。

 いずれにせよ、本書の意味するところ、「「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ」を思う時、もう残りの人生を穏やかにすごせればそれでいいや、程度に考えてしまうのだが、やっぱりそれじゃ、まずいのかも知れない。

 前書>18の78pのタイトルだが、インディアン達の知恵「すべては7世代後を考えて決める」くらいの責任と誇りを持って、人生を終わるべきなのだろうと、襟を正す気分になった。

 イロコイ連邦については、p139あたりに、重要な未来への方向性を示唆する部分に引用されている。

(2006/02/19記) mixiコミュより転機

 

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「アイ・アム・ヒッピー」 日本のヒッピー・ムーヴメント’60-’90 山田 塊也<3>

<2>からつづく

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「アイ・アム・ヒッピー」 日本のヒッピー・ムーヴメント’60-’90 <3>
山田 塊也 (著) 1990/05 第三書館 単行本: 324p
★★★★☆

>「ヒッピー」という言葉

もともとしっかりした概念があったわけではない筈だが、日本のメディアを通じてこの言葉が紹介された60年代後半に、すでにさまざまに脚色されていたと思う。当時のフラワーチルドレン、カウンターカルチャー、スチューデントパワー、ドロップアウトなどなどと、いろいろまぜこぜに紹介されていた。もちろん自覚的なヒッピーもいたわけだけど、ファッションとしてヒッピーを取り入れていた層も相当厚いと思う。

ポン(山田塊也)は、まさに日本のヒッピー・ムーブメントの中心地近くにいた代表的な人だけど、それぞれユニークなパーソナリティの中にあって、ポンは必ずしも標準的(??)なヒッピーとはいえないよね。

70年代後半にはすでにヒッピーという言葉は死語となっていたのだけど、90年になって、ポンが敢えて「アイ・アム・ヒッピー」と言い切って、過去30年を総括してみせたのは、素晴らしかった。

しかしそれは、たとえば唐十郎がテント演劇などが下火になってから、敢えて再び「アングラ」という原点に復帰しようとしたのと似ていて、時代的背景がすっかり変わっているのだから、アイディンティティの再確認という意味はあっても、再び何かを明確に取り出すには、ふさわしい言葉にはならなかったと思う。

>他の言葉が欲しいよね。

さて、どんな言葉がとびだすか楽しみ。

(2006/02/28記 mixiコミュより転載)

<4>につづく

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「モンゴロイドの大いなる旅」 星川淳


「モンゴロイドの大いなる旅」 
星川 淳 1997/09 同朋舎 単行本: 118ページ
Total No.3204 ★★★★★

 こちらは、プラブッタの旅行家・写真家としての面目躍如ともいうべき本だ。こちらも120ページほどの本だからすんなり読めた。特に写真が美しい。いくつかの写真を複写してここにアップしたいくらいだが、でもそれらはコピーレフトの写真とはいえないので、一応やめておこう(笑)

 タイトルのごとく、アメリカ大陸のいわゆる先住民、インディアン、ネィティブ・アメリカ、あるいはファースト・ネイションズといわれる人々を尋ねる旅が中心になっている。月刊「GEO」に連載した文がベースになっているらしい。月刊「GEO」はググって見たが、どのような書物なのか浅学にして知らない。

 「いま感じているのと同じ感動を胸に、いつかここを歩いたことがある」というデジャ・ヴ(既視感)は、その土地を訪れた作者の感慨だけではなく、作者の感動を通じて、ひとりの読者として、同じ感慨をもつほどだ。

 日常のテレビや雑誌などを通じて一般に知られている「アメリカ」とはまた別なアメリカを映し出す。この本、97年出版だが、この本の中でもイロコイ連邦についても多く語られている。「イロコイ族は朝鮮半島の北から出発した!?」なんてページもあり、ハラハラする。

 あるいは「ホピ族は地下世界から出現した!?」なんてところもあり、ちょっぴり別コミュ「アガルタ」のことを思い出しては、ドキドキする。

 さまざまなインディアンの族名がでてくるが、よく覚えられない。それほどたくさんのネイティブ達の文化がある。このような本を読んでいると、自分も同じような旅にでたくなってしまう。でも地元密着型の仕事をもっている身としては、数日の旅のスケジュールもなかなか立てにくい。

  もちろん、旅をすることはできても、このような旅のレポートは簡単に書けるものではない。旅行作家たる著者が旅することによって、このような本ができあがり、その本をよむことによって、一読者として、その境地を味わえるのはすばらしい体験だ。

 この本の中で彼が「精霊の橋」という小説を書いていることを初めて知った。その小説がこの本の発端になったということである。

 2006/02/19記 mixiより転記

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「魂の民主主義」―北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法 星川淳


「魂の民主主義」―北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法 <1>
星川 淳   2005/06 築地書館  単行本: 142ページ
Total No.3203 ★★★★★

 星川淳という名前で本の検索をしてみたら、20冊ほどの著書・翻訳書がでてきた。プラブッタ、という名前も追加したら、もっともっとたくさんあるのだろう。さっそく近くのローカル図書館に行って、検索パソコンで調べてみたら、6冊の蔵書があったが、実際には全部貸し出されているのか、一冊も手にとることができなかった。

 思えば、彼のことを知っているような気分で長いこと暮らしてきたが、まともに彼の本を読んだことはない。彼のOshoの翻訳については当然ほとんど目を通しているし、そのまえがき、あとがきに書かれた彼の断章は、きわめて印象深く残っているものが多い。

 しかし、だいぶ前にだされた「地球感覚。」以来、きちんと、彼の著作に向かいあったことがなかった。それは、たぶんに、もともと僕が多読派ではない、ということと、僕とは微妙にその関心の中心がずれている、ということが影響しているのだろうと思われる。

 にもかかわらず、彼のことを知っている気になってしまうのは、本などに限らず、直接に彼の風聞が伝わってくるからだろう。どこかここかのネットワークで、なにかかにかのエピソードやゴシップがつたわってくることが多かった。

 そもそも、高校生時代にべ平連のデモで知り合い、のちに共同生活や雑誌つくりをした二つ年上の友人Rが、かつて、東京の高校で彼と同級生だったことが、一番最初の始まりだ。18歳の時、初めて会った。彼は20歳。彼は九州熊本の花園神社境内で「神饌堂」という自然食レストランをやっていた。 「虹のブランコ族」とも呼ばれていた。

 その3年後、彼はOSHOの「存在の詩」の小冊子を携えて、僕らの仙台の共同生活の場を尋ねてきた。僕はその場にはいなかったが、お土産に置かれたこの一冊が、僕の人生を大きく変えた。

 そして更にその2年後、僕は、高田馬場の合気道場で行われた瞑想会で、彼のリードで初めてダイナミックとナダブラフマを体験した。そしてその半年後、彼をコンダクターとするツアーでインドに旅立ち、プーナにいった。一ヶ月後、彼に通訳をしてもらい、Oshoのサニヤシンになった。1977年12月のこと。うーむ、それから考えただけでも、更に更に30年近くの時間が経過したのだった。

 栴檀は双葉より芳し、とはいうけれど、本当に、世に優れた人はいるものだ。僕とは誕生日も2日しか違わない(年は彼が2つ上だが)、同じ星座のもとに生まれても、これだけ高く聳え立つ人がいるのだなぁ、といつも感心する。

 80年代前半のアメリカのコミューン時代、すでに彼は、Oshoムーブメントの中心からは外れていた。意識的にそうしていたのだろうし、彼には彼のワークが見えてきていたのだろう。87年当時、彼は、Oshoの遺伝子などの発言に対する批判を契機として、一時、アンチ・グルイズムとも言われる動きの中で、さらにOshoとの距離を広げた。

 Oshoが肉体を離れた90年以降、僕は、「世間」に積極的にかかわる道を選んだ。僕の交際範囲は大きく変化し、かつての友人たちとも次第に距離ができることが多かった。もともと、それほど親しい関係ではなかったので、彼のことも次第に僕の視界からはかすれていった。

 95年以降、インターネットの普及でますます僕の本離れはすすみ、Oshoの本すらあまり読まなくなった。まして他の本もすっかりご無沙汰、という状態になった。唯一読んだのは、パソコン関係くらいか。

 2000年、9.11が起き、新たな問題提起が始まってしまった。僕はなんの手がかりもなく、今日まで、うろうろ歩き、涙をながしてきた、というところ(って宮沢賢治の例の詩がベースなのだが)。今、こうして、news23に彼が出演したことをきっかけとして、再び彼の偉業をまざまざと見ることになった。すべての彼の視点を検証することはできないが、せめて、今回話題になった「イロコイ連邦」周辺については軽くおさえておきたいと思う。

 って、実は、僕の直前の生は、アメリカの、しかもネイティブであったらしい。断片はすでに分かっている。ただ20才そこそこで夭折したので、ネイティブ・カルチャーを深く学ぶ機会はなかった。今回、女性天皇問題なども含め、憲法問題が各方面から話題提起されている。いち国家の問題というだけでなく、人間が地球に生きる、とはなにか、ということを、イロコイ連邦などの知恵をヒントとして、とらえなおすことができればいいな、と思う。

(以上 2006/02/10記 mixiより転載)

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 図書館から借りてきて読んで見た。はっきり言って面白かった。プラブッタ(という呼び名のほうが呼びやすいので、このままにしておこう)は、僕が生きた時代の書き手としては、山尾三省などと並んで、本当に有数の存在だと思う。すくなくともそう身近に感じられる書き手がいるということは、とても幸せだ。

 わずか142ページほどの小冊子とも言うべき本だから、簡単に読めてしまった。番組では「作家」と紹介されていたプラブッタだが、このような本をなんと言うのだろう。学術書でもなければノンフィクションでもない。ルポルタージュでも思想書でもないだろう。小説?エッセイ?講話録?レクチャー? ちがうなぁ、思いあぐねたうえで、僕はこの本を「プラブッタからのラブレター」と名づけることにした。

 この本がラブレターだとしたら、彼はこの本を誰に向けて送ったのだろう。結論を急げば、「結びに」の一番最後に書いてあった文がヒントになろうか?

 「いまからでも遅くない。日本国憲法を本気で活かそう。
 一人ひとりがピースメーカーになろう。」


 彼は現代日本に生きていて、平和を求める一人ひとりにメッセージを送っているのだと思う。イロコイ連邦のワンパムなどのくだりは感動的だ。もちろん130p「本書は民主主義をインディアンの独創だと主張するものではなく・・・」とあるように、決してひとつの政治的信条や立場を固持するために書かれたものではない。

 筑紫哲也の番組new23では、フランス革命やアメリカ独立に影響を与えた「自由・平等・博愛」という言葉がでてきて、ちょっとドキっとした。俗本などでは、これはフリーメーソンの陰謀であり、ぜったい成立しない罠である、というようなコメントが付け加えられていることがある。5本の矢の話なども、どこかで聞いたことがあり、回りまわって、イロコイ族の話になったのであろうか、などと邪推してしまいかねない。でも、これらの話をもしイロコイ連邦・発の話だとしたら、それはそれで新しい視点をもらったな、とうれしい気分だ。

 僕らの教育は「自由と民主主義」の日本国憲法のもとで行われた。九条の問題も、古くて新しいテーマだ。現在は改憲運動の動きもみられ、なかなか目が離せない。日本国天皇の問題も、女性天皇、女系天皇の可能性も、いずれは再燃する問題だ。

 過去120数代の天皇の半数は側腹(そばはら)から生まれているという。明治天皇も大正天皇も側腹から生まれているという。皇太子が新たに側腹をもうければ、雅子さんに対する期待もプレッシャーも薄らぐというものだが、現代社会はそういう制度を許す時代ではない。だが、すくなくともそういう制度のもとで「日本の伝統」が守られてきたのであったということを記憶しておく必要がある。

 本書p133にあるように「天皇制温存」「戦争放棄」「米軍駐留(とくに沖縄の要塞化)」のトライアングルを、今、簡単に解決することはできない。なかなか難しい問題だ。この、「お困りご近所」の解決策はあるのだろうか?

 「それが、あるんです!」とは簡単にいえないのは残念だが、イロコイ連邦の視点や、沖縄、アイヌの視点から、この戦後日本の民主主義を見直してみることは、とても大切だと思う。そういう意味でも、あらたに次の彼の作品を読みたくさせてくれるよい本だった。

(2006/02/19記 mixiより転載)

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「来たるべき地球人スピリット」」<2>目次

<1>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<2>目次

1)はじめに
2)目次  
3)市場での瞑想 
4)転び石  
5)1995年という年
6)インターネットがきりひらく時代
7)ボランティアってなんだ
8)9・11という21世紀幕開け  
9)人生とはなんだ  
10)SNS  
11)森の生活   
12)3・11   
13)友人たちの死   
14)現在、そしてこれから
15)スティーブ・ジョブズ
16)飯沼勇義 
17)茂木健一郎 
18)山尾三省 
19)村上春樹 
20)石川裕人 
21)ゲーリー・スナイダー 
22)OSHO 
23)エックハルト・トール  
24)小出裕章
25)もし僕らが生き続けるなら  
26)4枚の名刺
27)コンシャス・マルチチュード

<3>へつづく

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「来たるべき地球人スピリット」」<1>はじめに

「来るべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<1>はじめに

 若い時代、一時は余命半年と宣言された私の人生だったが、どういう訳か、まだまだ仕事が残っていたと見えて、とうとう還暦まで来てしまった。孫もまもなく4人になる。人生、この辺で振り返って、一度まとめておくのも悪くないだろう。

 ということで、自分の人生を振り返った場合、それほどの文章を残してきたわけじゃないが、3つの文章を残しておけば、あとで孫たちが成長して読んでくれて、うちのじいさんはこんな人物だったのか、と分かってくれるに違いない。

 一つは1974年に書いた「雀の森の物語」(1974/10 時空間編集局)という文章だ。生まれから成人までの、大体のわが人生のアウトラインが、それと分かる。そして、その時点では、精神的探求者でありながら、まだ、本当に欲しいものが見つかっていないようだ。

 二つ目は「湧き出ずるロータス・スートラ」(1992/06 ツクヨミ・プロジェクト)。カウンター・カルチャーの流れの中で、インドのマスターOSHOと出会い、その流れの中で、成長し、仕事をし、家庭をつくり、仲間をつくりながら、やがてOSHOが肉体を離れたことを契機として、より社会の中に入っていこうとするところまで書いてある。

 そして、三番目は、現在進行中のこのブログをまとめるしかない。そういう意味で、すでに「地球スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版」 を書き続けてきた。これを読めば、約8年間のネット生活の話しから、その当時の私の生活が類推できるようになっている。

 しかし、このダイジェスト版はあまりにも網羅的でありながら、細かいディティールがよくわからない。ましてや、上のふたつの文章に比べたら、読み物としては、あまりにも箇条書き的で、面白みがない。

 そこで、ブログがスタートする前の10年を含め、以前の二つの文章につながり、そして完結させるような形で、一文にまとめておきたいと思う。読み物としても、適当な量に納める必要もあろう。

 タイトルは「来たるべき地球人スピリット」だ。ごく分かりやすいタイトルだが、書き進める上で、結局は、私の三部作の最後のタイトルは、これ以外にない、ということが明確になってくるだろう。

<2>につづく

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2014/04/07

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<49>「無窮のアリア」カテゴリについて

<48>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<49>無窮のアリアカテゴリについて

 そもそものこのカテゴリ名は石川裕人の戯曲集「時の葦舟」三部作の第二部のタイトルにあやかったものである。未来編、過去編、現在編の三部作の中の、過去編にあたる。悠久の過去から連想して、恐竜や神話の世界とクロスさせるべくスタートの時点では、戯曲とホツマツタエの二層構造で予定調和的にはじまった。

 しかし、中ごろより、結局は現在進行形のSNS、とくにFaceBookとの連動が始まり、恐竜でもなければ、神話でもない、自分自身の「無窮のアリア」へと進展していった。戯曲、神話とも、煮詰めは甘いが、そもそもが、当ブログは、戯曲論や神話を中心としたものではない。当然の帰結であったと言えるだろう。

 このカテゴリこの三冊は、結局、自分がまとめようとしている、自分の人生三部のうちの二冊を含むものとなった。

「雀の森の物語」 阿部清孝 1974「時空間」8号 

「存在の詩」OSHO 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い スワミ・プレム・バヴェシュ 1992 ツクヨミ

 書かれた期間は、2014/01/01~2014/04/07。

 次は、「来るべき地球人スピリット」-読書ブログから見るポスト3・11-となる。

<50>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「無窮のアリア」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊

「無窮のアリア」

Photo1_3
「雀の森の物語」
阿部清孝 1974/10 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 表紙シルクスクリーン p164


「存在の詩」
OSHO1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ

Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

後につづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>

<7>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <8>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 ツクヨミの時代

 日本のアイディンティティ探しをして行くと天皇制を中心とした神道に突き当たるが、日本オリジナルとされている伊勢を中心とした神道は渡来人の影響の色が濃い。一説に歴史の中に消えたユダヤの一族が中東よりシルクロードや半島を渡って、この列島に天孫族として君臨したとも言う。

 日本にOSHOが入るとは日本の純粋なスピリット、渡来文化に影響されない前の古神道や縄文人の自然との共存から生まれたエコロジーに、現代に生きるOSHOの純粋な100%ピュアな覚醒が入り、未来の全く荒らしいグローバルな宗教性が開かれることではないだろうか。

 「古事記」「日本書記」の神話には、イザナギ、イザナミの夫婦の間に生まれた三貴子が登場するが、太陽の出ている地上を司るアマテラス、海の世界を司るスサノオに比べ、夜を司るツクヨミについてはきわめて簡単に紹介されているだけで、詳しく述べられてはいない。元来、権力や寛大な愛を現わす太陽、広大さや力強さを現わす海に比べ、月はどの神話においてもより女性的に表現され、より精神的で時には神秘性の象徴として登場することが多い。

 日本神話においてもツクヨミが名前のみで多く語られないのは、言葉やストーリーを越えた次元で活躍するファクターとしての役割を与えられているからである。ちなみに日(か)を読むからカヨミとなり、転じて日常を司るコヨミとなる。ツクヨミは月読みと書き、人々の精神を司るインスピレーションを表している。

 英語でローソクを現わすキャンドルはもともとサンスクリットで月を表わすチャンドラであり、これがヒンドゥやインドゥに変化してインドとなり、教典において月を象徴とする精神的民族として月氏国を表記されている。OSHOとは日本語の和尚であり、アメリカの詩人ホイットマンの造語Oceaning(海に溶け去る)から、海に溶け去った人の意味も込められているが、本命チャンドラ・ラジニーシ・モハンが示すとおり、月の神秘的な精神性を象徴しているのである。

 この経緯を見て、今こそ日本神話の中のツクヨミを呼び戻すことが日本とOSHOのスピリットを繋げることになるのだという直感から、京都の翻訳家Swモンジュは90年夏にミニコミ「ツクヨミ」プロジェクトの活動を開始している。エソテリックな世界に関心のある彼の動きには根強いファン層があり、最近は新しい時代を感じさせる全国的なフォーラムを提供している。

 高まるエソテリックな雰囲気のなかでミステリー・ワークとして、「私」は誰か、なぜ私はOSHOムーブメントに関わるのか瞑想して行くと、直感としていくつかのことがおぼろげながら解ってきた。最初は断片的な夢やビジョンや思い込みの羅列だったが、客観的な裏付けはないものの自分の転生歴に整合性を持たせると、次の様な概略のストーリーが出来上がる。

 かつて私はムー大陸に生まれ、かがり火を祀る若いミコになったが、ひたすら踊り祈るだけでムーの情念の文明が地震や噴火の「火」のエネルギーで滅びつつあることを知らなかった。

 やがてレムリア大陸に転生して都市計画者になった私は、球体を基礎とする理論を打ち立て功名を得たが、心の何処かに隙間を感じていた。晩年になって山中のコミューンに隠遁して土と汗にまみれながらも満たされた人生を送り、陰と陽の融合の文化を理解したものの、箱庭的平安に終始し「小乗」のカルマを残してしまった。 

 転じてアトランティス大陸の科学的探求者となった私は、打ち続く自然の異常現象に危機感を持ち、海岸の岸壁にあった石窟寺院で仲間達と瞑想して文明の危機を救おうとしたが、すでに時期遅く、知性に偏った文明は「水」によって滅びていく運命にあった。

 押し寄せて来た大きな津波から海岸を走って避難中、砂に足を取られてころび波に飲み込まれた。溺れて気を失い始めた時、忽然とムーよりやって来た一体の龍が天空に現われ、こんな約束をしたのだった。

 「ムーもアトランティスも偏った文明で滅びてしまった。何時か遠い未来にあなたはまた同じ様に文明の危機の時代に生を受けるだろう。再びその日が巡ってきたら私はその時にこそ必ず来たって最大限の助力をするだろう。しかし、今回はこのまま行きなさい。」

 やがて700年前のチベットでは、OSHOの過去生である菩薩が、未来にもう一度だけ転生することを約束し106才で入滅する時、私は熱心な信者家族に生まれ16才の少年になっていた。菩薩の死を悲しみながら、まだ十分に彼の教えを吸収理解していなかった私は、彼がやがて最後の肉体を持ったならば、仲間達とともにいち早く駆け付けようと心に誓うのだった。

 そして1931年ネイティブ・アメリカンとして生まれた私は、インドに転生していたOSHOが最後の光明を得て、惑星全体に約束のヴァイブレーションが起きた53年、そのショックで思いも寄らぬ事故に巻き込まれ、数十日の間、意識を失い冥府をさ迷うことになった。無意識の中でもう一度生き返ることも、このまま死ぬことも選択する自由が残されていたが、事の次第を理解した私の魂は、もう一度転生して彼の元に駆けつけることにしたのであった。

 56億7千万人のマイトレーヤー達

 最近は、HIV1、HIV2以外にの新たに存在が確認されたエイズ・ウィルスまでも人類の行く手に立ち塞がり、今やキスでも感染することが分かり、国際保健機構(WHO)の発表によれば、毎日5000人のキャリアが増え続けていると言う。

 また地球そのものも動き出し、何人ものおノーベル賞受賞者を要する研究所の代表でもあり、「スピリット・オブ・プレイス」でも来日した天体物理学者エリザベス・ローシャー女史は、最近三陸沖でも起きている群発地震は、阿蘇山噴火やカリフォルニアの地震とも連動し始めており、独自の地磁気データ研究を元に今年9月にはアメリカ西海岸を巨大地震が襲うだろうと予言している。

 日本の海岸には人食いザメが押し寄せて海水浴客を襲い、社会的にも共産主義圏の経済崩壊ばかりではなく、最近のアメリカの黒人暴動の多発に見られるように、地球上の人類はまったく悪夢のようなこの世紀末についに突入したのである。

 このような危機に際してもブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された「地球サミット」では、結局は南半球と北半球の責任転嫁と、欺まんに満ちた物と金のぶんどり合戦が演じられた。今こそ人類と地球のスピリットこそがテーマの中心になる時であり、ちなみに「スピリット・オブ・プレイス」のシンポジウムの最終回は93年1月末に、ニューヨークの国連を会場にして開催される方向で準備がすすんでいる。

 リオでも「昨年、仙台で素晴らしいシンポジウムが開かれた」と話題になていたそうで、三万人サミットの総合プロデューサーを務めたダイアン・シャーウッド氏も協力を申し出て、実行委員として全面的に協力してくれることになったのである。喜納昌吉とチャンプルーズを初め、昨年スタッフとして参加した私達も招待され発言のチャンスが与えられている。

 一方、今年12月に国連で開かれる「1993年国連原住民年」のオープニングのセレモニーを、ネイティブ・アメリカンの儀式とメッセージでと、副事務総長からホピ族の長老トーマス氏に要請があり、現地の若い人々は国連のドアがついに開いたと興奮していると言う。

 最近日本ではPKO法の制定により、国連主導型の世界平和維持軍の必要性が説かれているPeace Keeping Operationだが、何時までも地球人が地球人に銃を向けることで地球上の平和が維持されると考えているとしたら、あまりにも滑稽で、あまりにも寂しい。

 オウム真理教、幸福の科学、愛の家族、原理統一教会と、マスコミは次から次へと新宗教、新新宗教をネタにブームを作りだしているが、彼らの一体何処が新しいと言うのだろうか。古い教典をこね回し、メシアを立て、人々を組織する。この構図の中には何ら変わることのない旧態以前とした人類の無意識と無責任の上塗りしかないのではないか。今回はもうそんなことでは抜本的な解決にはなりはしないのだ。

 国連から危機に瀕している地球と人類にOSHOのメッセージを届けるとしたら、今こそかつてOSHOが国連に出した報告書「私達の共通の未来」について語った「大いなる挑戦---黄金の未来」をもう一度再検討してみるべきだと私は思う。ひとつの世界政府やコミューンの世界あるいは能力主義といった極めて画期的な方策について語られたこの本に、私達は今だにとてつもないインパクトを受けるとともに、OSHOの人類に対する愛と信頼を感じるのである。かつて出版当時に批判も多かった「受胎調節と遺伝子工学」の部分も含め、今こそここで語られた真意について、耳と心を傾ける時ではないだろうか。

 あらゆる精神世界に言及したOSHOは特に仏教に多く触れ、般若心経をハート・スートラ、金剛経をダイヤモンド・スートラとして語り、古びた教典に全く新しいエネルギーをそそぎ込んだ。最晩年は法華経をロータス・スートラとして語る準備をしていたが、幸か不幸か、大いなる存在は彼にその時間を与えはしなかった。

 OSHOが残した夢はもはや言葉の次元を超え、インスピレーションとなって私達を激しく優しく誘い続けている。私達に溶け込んだ彼のエネルギーは、全く新しいロータス・スートラとなり、地球のスピリットとなって湧き出すことだろう。

 環境運動も国連もノーベル賞も近代オリンピックも、全てユダヤの秘密結社フリー・目―損の陰謀であるとする人々もあるが、大和魂もユダヤ・マインドも過去の狭い条件付けを受けない地球人としてのニューマンの登場によって受け入れられ、瞑想によって洗い流されて行くことだろう。

 日本とOSHOの出会いが生み出すもの、それは人類一人一人が覚醒し、56億7千万人のマイトレーヤー達となって作る、黄金の未来である。

 

(完)

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>

<6>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <7>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 マイトレーヤの完成

 この頃、OSHOの肉体はますますデリケートになり、危機を感じた多くの客人たちが彼との貴重な面会を求めて世界中からプーナを訪れ続けた。高齢を押してプーナを訪ねた鎌倉市仏眼宗の太母さんに、OSHOはバラの花をふりそそいで彼女の悟りを祝福し、そしてさらなるもう一歩次のステップのあることを指摘した。

 90年1月初旬、自室で瞑想していた私は自分の中から龍が生まれ、長い尾を引きずりながら出て行くビジョンを見た。その後不思議な体験がいくつも連続し、20日未明睡眠中に台所のカス漏れ警報器が静寂の闇を破ってけたたましく鳴り出した。目が覚めて起き出し原因を調べていると、今度は更にけたたましく電話のベルが鳴った。

 それは東京の友人サニヤシンからの緊急連絡で、たった今インドから入った情報によると「OSHOが肉体を離れた!」ということであった。

 OSHOが肉体を離れたという。その可能性は十分あったが、今やそれがその時となったのである。プーナでは最大限のセレブレーションが起こり、日本のサニヤシン達は号泣したり呵々大笑したりしながら、様々なバイブレーションに巻き込まれ、彼の死について毎日新聞やテレビの番組なども報じた。

 あれ程までに覚醒の必要性を説き、眠りから目覚めのために働き続けた私達の愛するマスター、市内なる友人OSHO、彼は今「あなたがたに私の『夢』を残していくよ」との最後の言葉を残して、存在の中に溶け去って行った。覚者の夢というパラドックスに、私はOSHOらし最後のチャメッ気を感じるとともに、グルと弟子とのマスター・ゲームという最後の悪夢から目を覚ます時が来たことを感じた。

 ミステリー・スクールがスタートして以来、神秘の扉が開かれてスピリットの高まりは一気にピークに達し、「チベットの死者の書」の言うところのバルドの最終日、つまりOSHOが肉体を離れて49日目の3月中旬まで打ち続いた。

 一方、明治、大正、昭和を駆け抜けた日本の巨大な神秘家・出口王仁三郎は日本は世界の雛型であり、大本教に現われた自分はいずれやってくる弥勒菩薩の雛型で、まことの人が美濃か尾張の国の中に現れたら大本も終りである、という遺書を残している。また水墨画「弥勒神真像」も残しているが、それは一般的に弥勒像に見られるような女性形ではなく、長く髭をたくわえた禿頭の達磨像であり、その人は56才と7ヵ月以から本当の仕事をするであろうと予言している。

 美濃・尾張と言えば現在の岐阜や愛知あたりになるが、これを国魂学にしたがって世界地図に伸ばしてみるとインド大陸西北部に当たりOSHOの出身地のグジャラート屋プーナもその一体に入り、また美濃・尾張(みのおわり)とは言霊で言えば「身の終り」であり、その肉体の終りから新しい次元が始まる、と解釈することが出来るであろう。

 OSHOは56才と7ヵ月で尾張・名古屋の展覧会に現われ、伊勢に伝わることによって日本の神道に深く潜行し最後の本当の姿を見せ始めた。「弥勒神真像」を実際に見た人によればそれはOSHOそっくりだということだ。弥勒菩薩・マイトレーヤーは友人を意味し、友情のような親しみの中で、生きとし生きるあらゆるものを救うためにやって来るという。

 1931年11月インドに転生して最後の肉体を持ったOSHOは88年8月日本に渡り、やがて「みのおわり」に肉体を離れることによって、多くの友人達の中に溶け込み、究極の旅を完成したのである。

 その後Swビノードを中心としてマルチバーシティの企画書作りは進み、九州のクリスチャン大中氏や、アジアとの文化交流をはかる波多野流峰氏などサニヤシン以外の協力者にも恵まれたのだが、法人格を取得する段階っでサニヤシン達のコンセンサスを得ることが出来なかった。

 ようやく用地のめどがたって三重県の県庁に91年4月に提出された日本マルチバーシティの建設計画は、結局宙に浮いてしまい、その後も長い模索が続いている。日本経済は前代未聞のバブル経済絶頂期まっ只中だったとは言え、不動産を取得し希望する構造物を建設するには、日本のOSHOムーブメントはまだまだ若すぎたと言えるだろう。

 しかしながらこの時、特筆すべきは宗教としてOSHOを組織しようとしたのではなく、「古事記」「日本書記」以前の古代日本の歴史書と言われる「ホツマツタエ」の編集者であったクシミカタマを最新に挙げたことである。 

 奈良の大神山に縁のある「ホツマツタエ」はかつて数万年前に編集されたとも言われ、そうだとすれば縄文時代に遡るkとになるだろう。この書を長年研究している人びとにとって、神々の住んでいるタカマガハラは今の仙台地方にあったことは常識となっているようだが、こうして私達は少しづつ神話や伝説の世界へといざなわれて行ったのである。

 マーケット・プレイスにて

 足は裸足で、胸ははだけ
 私は世間の人々と交わる
 服はぼろぼろで埃まみれでも
 私はつねに至福に満ちている
 自分の寿命を延ばす魔術など用いない
 いまや、私の目の前で樹々は息を吹き返す

「私の門の中では、千人の賢者たちも私を知らない。私の庭の美しさは目に見えないのだ。どうして祖師たちの足跡など探し求めることがあろう? 酒瓶をさげて市場に出かけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう」
      OSHO「究極の旅」10 「世間にて」より

 思えばMaシャルノに託された、この十牛図の十番とは何だったのだろうか。OSHOは自分の肉体を離れた後のために、21人からなるコミューンの運営機関「インナー・サークル」を残したものの、有機的なゆるい連動性を持った宗教性をこそ説いたのであり、サニヤシン一人一人が彼の後継者として自覚して生きることを望んでいた。

 OSHOの肉体は火葬され、遺灰はサマディとして瞑想ルームに安置され、打ち続いてやって来た世界中かrなお参拝者にまじって私もプーナを訪問し「神秘のバラ瞑想」に参加しながら、またまた新たな時代が始まっていたことを確認したのだった。

 帰国後、OSHO著作の装丁も手掛ける女性画家Maミーラが来仙して「アート・グループ」のワークショップが行なわれ、また7年振りに新譜「ニライカナイ・パラダイス」を出したSwウパニシャッド(喜納昌吉)のコンサートが仙台生年文化センターで行なわれ、静かな北日本でもOSHOのムーブメントは深くその渦を広げて行った。

 91年になると中東では湾岸戦争が勃発し地球的な危機感がなお一層たかまりつつあった。そんな中で仙台では環境心理学国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」の規格が持ち上がり、ボーダーを越えて多くの人々と触れてみたいと思っていた私は積極的にこの企画に参加した。もともとアメリカの環境心理学者らが中心となって始まり、年に一度各パネラーが手弁当形式で行なわれて来たもので、第4回目に当たる仙台退会の企画が協力者を募って進んでいたのである。

 この動きに参加することによて、自分の仕事や日常生活の活動範囲に自閉しがちであった私の生活圏は一気に拡大し、行政や企業や市民運動グループの中にもスピリット・ネットワークがつながって行き、十牛図の十番に説かれている意味を深く感じていた。

 11月に仙台国際センターで開催されたシンポジウムでは、たくさんの内外のゲストや参加者が集い、OSHOの理解者である清水芳孝東北大名誉教授(生物学)は足もとからのエコロジーを訴え、鎌倉からは元気な太母さんも登場して世界に向けてメッセージを送った。コンサートではこの年も沖縄よりチャンプルーズが参加し「アース・スピリット」を銘打って縄文の熱い風を吹かせた。

 この過程で私は沢山の人々がOSHOのビジョンを必要としていることを確認し、また全国から駆け付けたサニヤシン達も大いに元気であることに勇気づけられた。このシンポジウムについてはパネラーとして参加した、おおえまさのり氏の近著「スピリットの森」や、山尾三省、加藤哲夫といった人々の著書にも報告がある。

 その後Swウパニシャッドは、芸能人の国民歌手としてのステータスである91年歳末NHK紅白歌合戦にOSHOの大きなサインを胸につけて登場し、ヒット曲「花」を歌い上げ、最後に世界に向けて「ヤフー!」とOSHO流の挨拶を送って新しい年と新しい時代の幕開けを宣言した。

<8>につづく

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2014/04/06

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<6>

<5>からつづく
Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <6>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 開かれた神秘の扉

 87年夏、OSHOに会うため家族とともに10年振りの懐かしいインドに向かった私は、もう何時の間にかプライベートな旅にもネクタイを帯行し、妻と二人の子供を連れたちょっと太った日本人のお父さんになっていた。

 インドのボンベイ空港に到着すると、ああ、ここはやはり熱風とバクシーシのインドであった。久し振りのOSHOとの再会を喜ぶ間もなく、紙おむつをリックに詰めてプーナにたどり着いた私たちを襲ったのは強烈な下痢と伝染病だった。一才半の下の子はみるみる針金のように痩せて行き、3才の上の子は遊んでいてぶつけて出来た頭のコブが化膿して、現地の病院で手術を受けることになった。

 しかし、その手術も日本の医療レベルに比べるとだいぶずさんなものであり、過酷なインドの気候と生活環境の中で憔悴し切って行く子供たちの姿を見ていると、ここまで来て私は一体何をしているのだろうか、と思う程であった。

 それでもどん底の精神状態をくぐりながら、一ヵ月もすると幸いにもインドの民間療法によって回復し、その後は4ヵ月間のトレーニング・コースに参加することが出来て、家族みんなでインド・スタイルの生活を満喫したのだった。

 その半面、アメリカ滞在中にキリスト教原理主義者達によって害されたOSHOの肉体はますますデリケートになって行き、インド国内における彼のあり方は身体的にも法的にもまったく不安定なものだった。

 世界の21ヵ国に入国を拒否されながらワールド・ツアーを終えてようやく自国に帰り、ゴルバチョフが率いるソビエト連邦の革新に愛を送り、日本における東洋と西洋、精神と物質の出会いの可能性に讃辞を送る彼には、世界の何処でもよいから早くゆっくり休める場所が必要であると感じられた。

 プーナ滞在を終えて日本に帰国することになった時、ネパールの王族に属するサニヤシンのインスピレーションによるものとして、「OSHOはまもなく東に移るであろう」という誠しやかな噂が流れた。「東」とは一体何処であろうか、インド国内のカルカッタであろうか、それとも考えてみれば日本も「東」であるし、もし本当に可能なのであればぜひ日本に来て健康を回復して欲しいと思った。

 日本に来るとすれば、それはやはり富士山の近くであろうかと考えた人々は、彼を迎える地の準備として静岡県伊豆の保養地のもと民宿だった建物を借りて、Swシャンタン・Swリンザイを中心としたスペース「ユニティ」の活動を始めた。

 文化的な特殊性と英会話のギャップなどで、世界でもやや遅れ気味だった日本のOSHOムーブメントが、その感性と技術力でOSHOの絵を元にシルクスクリーンの版画を制作販売し始め、世界に向けて一気にユニークな運動を展開できたのは、「ユニティ」に関わる人々がその大きな使命に気づいたからである。

 イラストレーター横尾忠則氏などの協力もささやかれながら、展覧会は日本のニューエイジを含めた精神世界のメッカになりつつあった奈良県の天河神社で最初に行なわれ、客観芸術としてその純粋性が高く評価された。この時OSHOはインドの神秘的な芸術家として日本神道に入って多くの新しい出会いを作り始め、88年3月3日の桃の節句に寄せてインドから数万年前の隕石とメッセージを送り、柿坂宮司の口を借りて、ついにマイトレーヤ宣言をしたのである。

 続いてOSHOの展覧会は4月8日から三日間、仙台のサニヤシンが経営するフラワーショップ「花天竺」で行なわれ、新聞やラジオのニュースにもなり瞑想やOSHOの世界が広く求められていることを確認した。プーナの出会いの中で起こったこの新しいムーブメントは、やがて日本のみならずドイツやアメリカなどにも展開し、さらに多くに人々との出会いの機会を作り豊かな個性が混じり合うきっかけを作った。

 そのころ、仙台でも珍しい春雪の降った「花祭り」をお祝いしている時、プーナではモンスーン地方特有の雨期の暴風雨に、一万人収容のブッダホールの大きなテントが裂け、講話の音声がかき消される中、OSHOとともに人々は笑い転げ泣き叫び、混沌たつマインドから静寂な世界へと誘われていた。

 「ある日突然私は行ってしまうだろう。ちょうど嵐が行ってしまうように。私が行ってしまう前に私はあなた方に出来る限り大きなバラとなって花咲いてほしい。私にとって自分自身の肉体を保持するのは困難なことだ。私はいかなる瞬間にも消えてしまい得る。そうなってしまったら、あなた方の涙は私を呼び戻しはしない」OSHO 1988/04/09

 「神秘のバラ瞑想」や「ノーマインド瞑想」などの新しい瞑想を紹介しながら、彼は好んで多くの禅を語り、弱った目にサングラスをかけながら、一瞬たりとも目の離せないワークを用いて一人一人に働きかけ、神秘の扉はひとつひとつ開かれて行くのであった。

 ミステリー・コミューン

 やがて日本にいる私達も遠くプーナから離れていても、何時の間にかコミューンのブッダホールに居るような感覚を持つ瞬間が多くなった。それは新しいミステリー・スクールがスタートしてより一層一体感が高まったことと、各国のコンピューターを国際電話回線で繋いだパソコン通信ネットワークが完成して、電子のコミューンが機能する時代へと突入したからである。日本では、「創造的科学と芸術と意識のための世界アカデミー」の日本事務局にもなったSwアナンドボーディ達の「ユニティ・ソフトウェア・ブレーンズ」がホスト局になった。

 世界アカデミーの創設計画にあたって、OSHOはその代表に人類の成長に益する放射線研究をしていた日本の超科学研究家・通称ドクター村越氏に白羽の矢を当てた。しかし、OSHOのラブコールに反して、ドクター村越はプーナまでおもむいたものの、OSHOのアメリカの風評などを気にしたのか結局前面に出ることはなく、やがてアカデミーは尻切れとんぼにに終わった。

 この頃長い間地にもぐっていた日本のカウンター・カルチャーの流れは、86年のチェルノブイリ原発事故をきっかけとして息を吹き返し、88年8月におおえまさのり氏らを中心として八ヶ岳のスキー場で行われた「いのちの祭り」として見事に復活した。

 精神世界の進行とともに長い間視点が内向化し、結婚や子育てに集中していた団塊の世代が、思春期を迎えた二世達の行動範囲の拡大とともに、再び目が社会や環境問題へと外に向かい始めたのだ。一体この子供達に原発と核兵器と荒廃した地球以外の何が残せるのか、危機感は再び人々のハートに火をつけたのである。

 日本を代表するセンターである横浜の「OSHOイア・ネオ・サニヤス・コミューン」のSwヤスヒデ達スタッフも参加し、ここで再びOSHOの流れとカウンター・カルチャーの流れは交流したかに見えた。こんな時、鹿児島の屋久島に住んでいたSwプラブッダは、OSHOの遺伝子操作についての積極的推進と取れる発言を批判し、いわゆる彼の言う「グルイズム」からの離脱宣言の声を上げた。

 OSHOは少年期より7年サイクルで自分の人生のワークの局面を変え、成人してからも哲学教授からジャイナ教の指導者へ、また心理学的セラピーを駆使する精神世界のマスターへ、あるいはまた自立したコミューンに住まう沈黙の来訪者へと幾度も劇的な変貌を遂げ、そのたびに一部の人々は失望して去り、そしてより多くの人々が真実を求めてやってきた。

 彼はこの時その7年のサイクルの転換期にあり、地球人類を盲目的な自殺へと追い込む無意識から、より自由と愛に満ちた意識を招く旅の中で、「ヤフー!」のマントラとともにまたまた新しいステージへと私達を誘っていたのである。

 丁度この88年8年頃名古屋でOSHOの絵の展覧会があり、それがきっかけとなってOSHOについてのニュースがやがてキーパーソンの一人となる三重県伊勢市に住む石田カツエ女史のもとに届いた。仙台近郊に生まれ、結婚して北海道に渡った彼女は20数年前に、近い将来ある人物を通じて21世紀が導かれるというビジョンを見ていた。

 彼女は真珠販売と関わりながら70年代末に三重県の伊勢神宮の近くに居を移し、ローマ法王、ダライ・ラマ、桐山靖雄といった人々に想いを託すが失望するだけだった。そんな彼女はOSHOの写真を見て「この人だ!」と深く打たれるものがあった。さっそくインドに送られた彼女のメッセージを受け取ったOSHOは、彼女をプーナに招待するとともに、彼女の予言どおり数週間の間に4度名前を変えた。

 この時からかつて「セックス・グル」や「リッチマンズ・グル」のバグワン・シュリ・ラジニーシとして知られていた彼は、インドに滞在していた日本人サニヤシン達の提案もあって、和尚ラジニーシとなり、また親愛なる友人として単にOSHOと呼ばれるようになった。そして89年1月に和服を着てインドに渡った石田女史はサニヤシンとしてMaシャルノになり、OSHOのメッセージを日本に伝えるOSHO日本大使に任命されたのだった。

 個人面接の時、OSHOは彼女の手をとり涙ながらに「わたしの仕事をやりなさい」と3度繰り返したという。OSHOの見るところインドから日本にはかつて達磨大師や他の祖師達によって確実に仏教の禅が伝えられたが、講話録「究極の旅」にもあるように十牛図の十番目、酒瓶を携えて巷に出て子供や人々と交わるという最大のポイントが伝わらずに中国で止まってしまっているので、これを日本に届けてほしいと言うのである。

 Maシャルノはインドで受けたバイブレーションを日本の中心に入れるために伊勢に帰り、彼のメッセージを伝えるための学校を作ることをOSHOに提案、日本マルチバーシティと新しく命名された学校作りの可能性を模索し始めた。

 彼女の想いは、インドのOSHOを、すでに干からびてしまった宗教という形ではなく、学校という形で日本に伝えたいというところに結実した。計画にあたってはサニヤシンを初めとして多くの人々の意見を取り入れたいと希望し、候補地については三重県の数十万坪の可能性があると言うことであった。

 日本スピリットとの葛藤

 マルチバーシティとは、大学としてのユニバーシティが巨大化して統一性を欠いたものという概念もあるが、OSHOはこれを積極的な意味にとらえ、かつて人類が精神性を探求してきた全ての方法について、賛成であれ反対であれ、誰もが体験できる場として、この時初めて創案されたものである。

 一方、Maシャルノの言っていた日本マルチバーシティの要点は、大きく3つのポイントに搾ることが出来る。幼稚園から大学まで一貫した教育形態が必要であるという点。次にその敷地に大きなブッダ・ホールを用意しOSHOも招待して滞在できるようにする点。そして大事なポイントは音楽から始めることで、プーナの音楽を日本に入れることによって、音は言魂(ことだま)だから、日本に最も入り易く一般の人々にも理解されるという点であった。

 かつて最初、若者文化やカウンター・カルチャーに瞑想マスターとして受け入れられ、次に絵を通して純粋な客観芸術家として再認識されたOSHOは、今や21世紀を拓く鍵を持つ神秘家として、日本神道の裏の天河神社から表の伊勢神宮へと抜けようとしていたのである。

 87年のある時、OSHOは天皇ヒロヒトをプーナに呼ぼうと言ったことがあるが、この世紀の対面は結局実現せず、また20世紀を揺るがした二人はもうすでにこの世の人達ではないが、ひょっとすると、今頃彼らは黄泉の国でゆっくりと対談でもしているかも知れない。

 Maシャルノは伊勢神宮に祀られるアマテラスの太陽エネルギーを、月のマスターOSHOに入れようと、10年はかかると言われる学校法人設立に向けて正面突破の意向だった。彼女のもとに全国から期待が集まったものの、多くの日本人サニヤシン達にとって、アマテラス大神を中心とした日本神道に対して天皇制批判を抜きには進めなかった。周囲の期待はふくれあがっても組織形態や資金作りがはっきりしないまま、混沌とした状況の中で計画はスムーズに進まなかった。

 89年4月にもまた仙台のフラワーショップ「花天竺」で展覧会が開かれ、より緻密なリーラ・シリーズやMaミーラの水彩画が展示され、Maシャルノも来仙し生地に帰って再スタートする姿勢を見せた。彼女はなかなか進展しない建設計画について沖縄や長野などいくつかの国内の候補地も考え始め、自分の関わりのある仙台近郊の土地も模索していた。

 そんな時、映像作家アライタダヨシのちのSwニラーブの紹介で、宮城県内のある土地が一気に浮上し、北上川沿いの一万坪の土地に周辺のサニヤシン達の期待は集まった。ここはMaシャルノの予言にも適合する土地でもあるし、OSHOの健康状態から見て早期の着工が必要であり、最小の状態から始めてコミューンなどに向けた最大の拡大の可能性があった。

 周囲の住民達は源氏ボタルの保全やシベリヤからの白鳥を迎える自然環境運動を行なっており、歴史的にも隠れキリシタンをかくまった慈悲心や、明治時代に大勢してカナダに渡航を企てた先祖の村民達の冒険心を受け継いでいた。

 普段は比較的に言葉も少なく静かな仙台周辺のサニヤシン達は大いに関心をひかれ、OSHO弓道のSwアサンガなども加わり、私達一家も住民票を移しコミューン建設に向けて準備を始めた。

 しかし役場や町長や地元の有力者などへMaシャルノとともに挨拶回りをし、正式のゴーサインを待ったが、結局交渉はなかなかはかどらなかった。マルチバーシティを作るという動きの中で、OSHOと日本の出会いが形を持つことに対する有形無形の霊的な葛藤が起きていたのである。

<7>につづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<5>

<4>からつづく
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「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <5>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

「オレンジ白書」をもう一度

 勢いついて仙台に帰った私を待っていたものは、冷めたカウンター・カルチャー・シーンと就職し結婚した仲間達で、飛び上がった私だけが戻るべき大地を失い、さまよっている風だった。しかし彼らから見れば、帽子から靴下までオレンジ一色に染まり切って帰って来たドン・キホーテを誰もがどのように取り扱ったら良いか戸惑っていたのだ。今や日本にも何万人もいると推定されるサニヤシンも、当時はまだ数十人しかおらず、東北では私が最初だった。

 インド・プーナではオレンジ一色が当たり前になっていたとしても、日本には現色は強烈すぎて、理解できる仲間やサニヤシンのいない中で、自分だけが愚かに見えるのだった。こんな現象は全国的に起きており、当時アメリカ西海岸から帰国して翻訳でトランスパーソナル心理学を紹介し始めていたC+Fの吉福伸逸氏にもからかわれた記憶が残っている。

 「やさしいかくめい」創刊号では、OSHOの「ダイヤモンド・スートラ」が紹介されていたが、編集長のあぱっちもやや狂信的ではないかと批判的になっており、日本のラジカルな人々にとってもOSHOはなかなか受け入れ難いものであった。

 私は仙台での瞑想センターの足掛りをつかむことが出来ずウロウロしている間に、周囲の機転で県の全寮制の農業大学校に入学することになった。午前中はエコロジーから経営マネジメントまで学び、午後は農場に出て実践的に農業を学ぶこの学校は、時折インド時代のフラッシュ・バックが続いていた私にとってリハビリとして結構快適な空間であった。だが中心となる農薬体系・機械化体系は、本当に私が学びたいと思っていた農業とは違っていた。

 この時、近くの禅寺に通い寮の座禅愛好会の仲間達と瞑想したことは、私にとって忘れることの出来ない一座となった。寺の裏の竹林が風に吹かれ笹の葉が触れ合い、田植え直後の蛙の合唱の中での瞑想。この時の仲間の一人がつれあいのMaゲーハである。

 私の心の中には流れるままに流れなさいというOSHOの声が聞こえ、松任谷由美の「『いちご白書』をもう一度」が何度も響いて、時代が変わってしまったのを感じていた。・・・・就職が決まって、髪を切って来た時、もう若くないさと、君に言い訳したね・・・・

 しばらくして甲状腺を煩ったのか頸部リンパ線炎になって、国立病院で半年の余命と診断された(当時は家族しかしらなかった)。思えば結構自由にやりたい放題やって来たし、その帰結として身を持ち崩したのなら全責任は自分にある。ここで人生が終わるならそれもまた一つの運命だろうと、入院したベッドの上で私なりに覚悟を決めた。

 この頃、ひとりの宮城県出身のサニヤシンが帰国後の社会適応に苦しんで井の頭公園で首をつり、ある友人は多量のドラッグを服用してプーナの河に消えて行った。死は身近にあり、もう死んでもいいと嘘ぶいてみても、高熱でうなされ悪夢に襲われると必死にもがいて逃げようとする自分に、なるほど、まだ私はしにたくなのだナと悟った。

 血液製剤と放射線治療で体力が衰え髪が抜け落ちながらも周囲の献身的な介護のお蔭で一命を取り留め、有難いことにタイム・リミットであった筈の半年後にはなんとか回復退院することが出来た。

 その後さらに半年自宅で療養し農業大学校も無事卒業、体調が少しづつ回復して社会復帰したいと思っていた時、一人のサニヤシンが仕事をもってやって来た。忙しいから気軽に手伝って欲しいと言われ腰掛けのつもりで始めたのだが、この家庭用ミシン関連の仕事を現在に至る迄10年以上に渡って続けているのだから、人生とは何処でどうなるか分からない。 

 後に数十人のサニヤシンが関わるこのとになったこのサニヤス・ビジネスはやがて年商数億円に膨れ上って行き、これに勢いづいて私達は、市内のビルにあるサウナ風呂を借りて全面的に改造a happy new year 2018 http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/a-happy-new-yea.htmlし、ようやく本格的に瞑想センターを始めることになった。

 静かな確信

 この時期OSHOは沈黙に入りインドからアメリカに旅立ち、インドのコミューンに滞在していた人々が続々と帰国し、各地で瞑想センターを開始し、活況を呈した。Swソメンドラがやって来ておおきなセラピーのワークショップをやったり、テレビの「知られざる世界」で二週に渡ってプーナや日本のサニヤシン達が報道されたり、シルク・ロードの喜多郎がサニヤシンSwセトゥになったりと、日本におけるOSHOムーブメントのピーク時のひとつであった。

 アメリカのコミューンは急ピッチで工事が進み、仙台からも82年ワールド・フェスティバルに21人で参加した。アメリカのコミューンはとても素晴らしいものであったが、その運営に当たりOSHOの筆頭秘書であるMaシーラが人材や経済力をアメリカのコミューン一極に集め始め、日本の瞑想センターは少しづつ運営が苦しくなり、やがて東京のシャンティ・ユガひとつにまとめられることになった。

 またアメリカからの意向で、京都のSwトシヒロが中心となって日本ラジニーシズムとして宗教法人化の模索が行なわれたが、政治家や弁護士を通じてロビー活動をするに留まり、実際に組織されることはなかった。

 29年3月29日3時29分生まれの私は3と29という数字が好きで、自分が29才の時に画期的な何かが起きるのではないかと思っていた。ブッダは29才で出家し、キリストは29才で人々の前で説法を始め、日蓮は29才で一寺一宗の主たらんと誓いを立て、道元は29才で禅を求めて中国へ渡った。

 私にもきっと宗教的な回心が起きるに違いないと期待していたが、この時期に私は結婚し子供をもうけ経済的に自立するために葛藤していた。別段特別なことも起きはしなかったが、29才の誕生日に近くの河原で瞑想していた時、私は一生OSHOと生きて行くだろう、という静かな確信を得たのであった。

 やがて日本のサニヤシンの草分けのひとりだったswアディナタは、アメリカのコミューンにあるクリシュナムルティ湖え水泳中に心臓マヒで死亡、コミューン発表によれば彼はエンライトして肉体を離れたという。ジャイナ教の開祖マハビーラに先立つブッダ達24ティータンカラの最初のブッダの名前を持つアディナタは、OSHO下で日本人として最初のブッダになったのだろうか。

 同じ頃、公衆に対して沈黙中だったOSHOは、人々の話題に上り始めたエイズについて秘書を通じて大きな警戒を発した。日本にいる私達にとってははなはだ突拍子もないことで、大半の才に野心が戸惑ってしまったが、アメリカの成人男性の100人に一人がエイズに冒され、日本においてさえすでに8000人の潜在患者がいることを厚生省が認めている現在となれば、その先見性は高く評価されなければならない。

 OSHOとサニヤシンによるオレンジ革命は静かに世界中で着々と進行していた。月食のあった85年9月の満月の夜、私はSwシャンタンと山形の月山に登っていたが、アメリカではOSHOがいわれなき罪によって逮捕された。アメリカのコミューンから次々に帰国する人々のレポートから、秘書ミーラのもとコミューンでは沢山の矛盾を抱えていたことが分った。

 OSHOは釈放された後、数少ない十数人のスタッフ達と自家用ジェット機で世界の旅に出て弟子達の目の前から姿を消し、ワールドツアーの中の21ヵ国から入国を拒否されながら旅を続けた。この機を見てかつての側近ガードマンSwシバがかつてのキリストの直弟子達のような心境に落ち込んだのであろうか、裏切り者ユダのような役割を演じて「堕ちたグル」を米国で出版した。

 ようやくOSHOがインドのプーナに戻ったのは87年初頭、長いこと彼に会えなかった世界中のサニヤシン達が新しい友人たちを連れて昔懐かしいインドに向かい始め、私達もスバガット再開の手続きを取って瞑想会をスタートし、このチャンスを逃すまいと1才と3才の子供たちを連れてインドへと向かった。

<6>につづく

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2014/04/05

OSHO「存在の詩」第1号 1975/08 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター 編集スワミ・プレム・プラブッダ

<5>からつづく 全68ページ一挙掲載(長文注意)

 

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第2号につづく

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2014/04/03

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<4>

<3>からつづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <4>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 インドからの招待状

 コミューンは解体し雑誌も存続出来なくなったが、ほのかにインドに行ってみたいという気持ちが次第に大きな新しい目標となっていった。日本山の影響やOSHOにひかれたこともあり、また国内は何度も旅していてもまだ外国に行ったことがないことと、精神世界に旅立つにはどうしてもインドへの旅は欠かせないように思えたからだ。

 ところが印刷会社で働き始めると、技術も身につき自分の生活にそれなりに満足し、旅行資金がたまってもインドに行く必要性を感じなくなっていた。マクロビオティックにも関わっていた社長は漫画家の石ノ森章太郎の同郷の友人だったりして、毎日の仕事がそれなりに楽しかったのである。

 そんな晴れたある朝に、私は出勤途中で九死に一生を得るような大きな交通事故に巻き込まれ、一命は取り留めたものの仕事で一番大事な右手の人差し指の筋を21針縫うけがを負った。数ヶ月しか乗っていない新車はオシャカになり、仕事は出来なくなって自宅で休んでいると、何度も事故の瞬間が思い出された。

 どうしてあの事故は起きたのであろう、ほとんど死亡事故だった。どうせあの時死んでしまったのなら、やりたいことをやろうと決心し、一番何をやりたいのか自問自答してみると、それはやはりインドに行くことであった。77年の7月のことである。

 ようやく周囲の反対を押し切り環境を整えてインドに旅立った11月、政治的活動家は地下に潜伏して行き「東アジア反日武装戦線・大地の豚」の加藤三郎ことのちのSwデバムは最後の個人的爆弾闘争を決行していた。彼がもう少し早くOSHOに触れていたらのちに獄中の人になることもなかったかもしれないし、また私がOSHOに触れなかったら、もうひとりの加藤三郎になっていたかもしれない。

 この頃Swプラブッダはあぱっちと同居し、日本にただ一つの瞑想センターは石神井の「ミルキー・ウェイ」に間借りしてSwアディナタガリードしており、OSHOは日本において先ずカウンター・カルチャーに受け入れられたと言うべきであろう。

 ようやくインド・プーナにたどり着き、彼の前に行くと、OSHOは、議論をしている人間には神が宿ることはない、愛と瞑想を通じて神に至りなさいと語り、彼の弟子・サニヤシンとして私につけてくれた名前は愛と感性の神という意味であった。

 ある時瞑想をしていて、何故私は今ここにいるのだろうと思われ、ふとあの交通事故出出来た手の傷を見ていると、OSHOの写真の入ったマラ(数珠)の大きさと合致することに気付いた。あの事故は実はインドからの多少手荒い招待状で、このマラを握るためにここに呼ばれてきたのだ、という不思議さに、納得する私だった。

 インド生活が丁度一ヵ月過ぎた日にOSHOとの個人面談ダルシャンがあり、この日は満月のクリスマスでもあった。この夜は私の生涯の中でも特別な人なり、打ち続く頂上体験から来るエクスタシーを一晩中全身に感じていた。しかし、この個人的な内面の世界に起きたことを翌朝になってルームメイトに話そうとしてもうまく伝えることが出来なかった。瞑想の道を歩む人にはきっと誰にもこんな神秘が起こっているのだろうが、他人に語ることなくひとり旅を続けているのだろうか。

夕焼けに昇る満月

 78年の正月に当時プーナに滞在していた20数人が集まり日本人パーティをすることになった時、みんなで星占いをしてみたら、驚いたことに約70パーセントの人が偶然三月生まれであった。西洋占星術では三月はユニークさを表す魚座と、冒険を表す牡羊座にあたるが、なるほど確かに日本に飽き足らずに飛び出してしまうようなユニークな人々や、海のものとも山のものとも分からないOSHOと直観的に旅を始めた冒険的な人々がプーナに集まっていたことは間違いない。

 Swプラブッダ、Swアディナタ、Swシャンタン、Swアイコ、その他沢山の人々とともに私も三月生まれであったが、また多少無鉄砲な次男坊体質のサニヤシンが多いようだった。世界から集まってきたサニヤシンの平均年齢は30歳位であったが、日本人の平均は5歳位低く、社会経験の少ない学生上がりという感じの人達が主流だったように思う。

 この頃プーナではアメリカのエサレン研究所などから大挙してやって来たセラピスト達によって、世界で一番最先端のセラピーの実験が行われていた。東洋の伝統的な瞑想と西洋で開発され発展してきた心理セラピーが見事に融合しており、私は初めての海外旅行から受けるカルチャーショックも相まって、「私は誰か」という問い掛けの中で自分の仮のアイディンティティが一挙に崩壊して行く体験をしていた。

 やがて三ヶ月が過ぎてビザ延長申請が不許可となり、一週間以内にインド国外に退去するよう命令され、これを幸いと吸引力の強いプーナを離れて空路スリランカへと向かった。私がインドに来たのは日本山妙法寺の人々に触れるという目的もあり、丁度この時に山主であり日本仏教界の最高峰とも目される藤井日達上人がスリランカの仏足山に仏舎利塔の建設竣工法要のために長期滞在していたのだ。

 サニヤシンになったとは言え、まだまだその意味を知らず自覚も足りなかった私は、もし可能ならばこの高僧の元で出家して、法華経の行者になりたいと思った。ところが同じオレンジ色の衣を纏い数珠を首にかけているとは言え、彼らは激しい断食をしたり、火の着いた一束の線香を大腿に縛り付けて長時間に亘り題目を唱えるなどの難行苦行の修行を行ない、OSHOの瞑想法とはまた違う世界であった。

 歓迎されて彼らとともに一ヶ月間その行に参加しているうちに、私の中では一つの理解が起こった。日本山の出家者たちはオレンジ色の衣を着るが、それは美しくもまぶしいが夕焼けの美しさであり死体を焼く炎のまぶしさだ。

 OSHOのサニヤシン達もオレンジを着るが、それは朝日のまぶしさであり、誕生に伴う鮮血の鮮やかな美しさだった。仏教はその使命を終えつつあり、最後の法華経を奉じる彼らがインドに沈もうとしていた。その時水平線上からかすかに新しいOSHOの光が上り始めたのだ。

 法華経や大集月蔵経にあるように、日の国・日本の仏法を月国・インドに返すために、1931年、藤井日達上人はインド・ボンベイに渡った。こうしてインドの誕生した仏法は中国・日本に渡り、二千五百年の後に日達上人によって再びインドに帰ったのである。この年、ボンベイの北部ウチワダでOSHOは最後の肉体を持って誕生した。

 仏足山でうちわ太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」を唱えていた満月の夜、私はひとつの不思議なビジョンを見た。地球、月、太陽が一直線に並び、その延長線上に私は立っている。それは私とOSHOと日達上人のことであり、時に私23才、OSHO46才、日達上人92才、この数字の中に合わせ鏡の様に共振するエネルギーが存在していた。彼らは私の父であり、祖父でもあった。

 私は再びインドにもどりポンジェシュリーのシュリ・オーロビンドのコミューンを訪ねたり、北インドの仏跡を回ったりしながら世界からやってきたジャンキー達と旅を続けたが、やはりOSHOの持っている重要性は動かし難いと感じ始め、再びプーナにもどり瞑想をしたりセラピーを受けた後、一年間の旅を終えて帰国することにした。

 法華経にあるごとくゴータマ・ブッダが肉体を離れてから500年サイクルを5回繰り返し終わって、今や人類のエネルギーはOSHOを通じて新人類を生みだしつつある。再びインドに宿された種子は、再び日本に渡り満開の花を咲かせることだろう。

 以前は帰国後あぱっちの新しい雑誌「やさしいかくめい」の編集を手伝いたいと思っていた私は、だんだんと仙台に帰って瞑想センターを始めようと思い始め、OSHOから「スバガット」の名前をもらった。スバガットとはウェルカムというサンスクリット語で、全ての宗教は私達に属するという意味であった。

<5>につづく

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OSHO「存在の詩」マハムドラーの詩<5>スワミ・プレム・プラブッダ 手書き・イラスト及び編集

<4>からつづく 

OSHO「存在の詩」マハムドラーの詩<5>
スワミ・プレム・プラブッダ 手書き・イラスト及び編集

Nl1  第1号 1975年8月10日発行 部数300部 印刷C.C.C印刷局

Nl2_2
  第2号 1975年10月20日発行 部数300部 印刷C.C.C印刷局

Nl3  第3号 1975年11月30日発行 300部 印刷C.C.C.印刷局

Nl45  第4・5号 1976年2月1日発行 500部 印刷C.C.C.印刷局

Nl67  第6・7号 1976年5月1日発行 部数 印刷C.C.C.印刷局

<6>につづく

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2014/04/02

「ぼくは深夜を解放する!」続もうひとつ別の広場<2> 桝井論平 & 冬崎流峰

<1>よりつづく

Sinya
「ぼくは深夜を解放する!」 続もうひとつ別の広場<2>
桝井論平 & 冬崎流峰1970/05 (株)ブロンズ社 単行本ハードカバー 180p

 
 そろそろ返却期限が近付いた。名残惜しいが、一旦は返却することにしよう。パラパラめくってみると、それなりの当時のことが思い出されて、しばし手を休めて瞑目してしまうことになる。もっといろいろ書きたいことはあるのだが、また次の機会に譲ろう。

 今時、おそらくこの本を手にとって眺めている者はそう多くあるまい。論平本人も、流峰本人も、すでに忘れている可能性すらある。いまさら、小さいことをつついて、どうのこうのと云っても、もはやお仕舞いである。

 この本を読めば、なるほど、あの時、流峰がああいう態度を取ったのはこういうことか、とか、ここから、こういう志向はずっと続いていたんだな、とかいうことが分かる。ある意味、貴重な本である。

 さて、いつ再開するか分からない.。次回までに忘れてはいけないので、ちょっと気になる部分を箇条書きだけしておく。

Ry3 週刊雀の森バックナンバーを見ながら、執筆中の流峰 1974年頃

1)流峰は、石橋湛山のブレーンで、東洋経済新報の創立関係者・高橋亀吉の孫である。雀の森時代に、亀吉翁は文化勲章を受章した。亀吉爺さんは、流峰が大学を経済専攻にしたので、とてもうれしがっていたという。

2)流峰は、立原道造や、カミュ、あるいは、短命だった詩人を多く愛した。自ら、遺書集として「東雲(しののめ)」と銘打ったノートを書き続けていた。私は、それを覗いたことはないが、いつか、この男は早晩亡くなってしまうのだろう、と覚悟していた。また、彼はそう周りに「公言」していた。

3)残された遺書集を出版するのは、私の役目だと思っていた。だから、多少は覚悟して、付き合っていた。つまり、彼との関係を維持する原動力の一つは「死」にあったと言える。

4)しかし、彼は「死ななかった」。悪次郎が雀の森を離れていったのは、可笑しな話で、残酷な話ではあるが、この流峰の「死」が完結しないことも、一つの要因になっていた。私自身も、最終的には、流峰の「死」とやらが、結局は、青年の感傷に過ぎないのだ、と断定することによって、1975年暮れ、雀の森を離れた。

5)後年1988年ころになってからだが、流峰に、あの「遺書集」はどうなったか、と尋ねたことがある。当時はすでに関東圏に転居していた彼だが、その答えは驚きのものだった。あの遺書集をゴソッと一式バックに入れて、電車に乗ったところ、降りる時に網棚に忘れてしまい、それで紛失してしまった、という。

6)なんと不条理なことだろうか。彼の青春のすべてがつまり、彼ひとりだけではない、回りの人間の人生もかかっていた一遍の原稿たちは、杳として、電車とともに消えたのである。捨てたとか、燃やしたのではなく、紛失した、ってところに、まぁ、僕らの人生の不条理さを感じる。

7)1989年頃、彼は縁あって、インドのOshoコミューンを関係者とともに訪ねているが、サニヤシンになることはなかったし、特段、その思想に影響を受けた、という風には、私個人は感じていない。

8)今でも、密とは言えないが連絡はあり、やはり、私の人生を彩る、大切な友人であることには変わりない。云い過ぎたところは、友人のよしみで、許してほしい。LOVE

<3>につづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<3>

<2>からつづく

Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <3>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 仏様の子供たち

74年頃になると都市コミューン「ミルキー・ウェイ」(元・蘇生)の大友映男率いる東京のグループと連携することが多くなり、その冬に仙台の私達が主催して鳴子温泉で行なわれた全国叛文化運動合宿は、翌年の「星の遊行群」に結実して行った。沖縄から北海道まで半年かけて徒歩で縦断する75年全国叛文化キャラバンには多くのカウンター・カルチャー・グループが参加し、東大の高橋徹教授(社会学)などインテリ層をも参加した。この年に特筆すべきことは二つあり、一つは国内のみならず、インド、スリランカを初め世界に仏舎利塔を建立し続けている日本山妙法寺の人々とのふれあいである。

 政治の時代には必ずしも宗教の世界は親しみはなかったが、サイケデリック・ムーブメントの中で精神世界に関心を持ったり、インドやアジアの旅に出る人々が増え、日本山の人々と付き合うことも多くなり、そんな関係からこの年のキャラバンのスタートの地点といて静岡の富士見仏舎利塔の境内がコンサート会場に提供されたのだ。

 「仏様の子供たち」という主催者名でロック・コンサート「花まつり」が行なわれ、南正人や横浜のアシッド・セブンやポンなどが中心になって夜中まで歌い踊りの大行進が行なわれ、やや乱痴気ぎみの花まつりに驚いたのか、地元の警察がおっとり刀でパトカーを連ねてやって来た。

 この時対応したオレンジ色の衣を着た出家姿のお坊さんは、落ち着き払ってにこやかにこう言った。「ホラ、御覧なさい。あんなに平和に歌って、踊って、あの笑顔。あの人達はみんな、仏様の子供たちなんですョ」 ポカンとした顔で聞いている警察官のかたわらで、私は深く感動していた。「私は誰か」という問い掛けに、一つ目の答えが当たられた感じだった。

 思想界の流れは学生運動イデオローグの吉本隆明から太田竜などのゲバリスタ世界革命浪人達に移って行ったが、のちのSwビバーツこと片桐ユズル兄弟達の紹介するボブ・ディランなどのアメリカ文化もまぶしく、またウッド・ストック・フェスティバルに刺激されてロックコンサートも多く開かれ、至るところで村上龍の「限りなく透明に近いブルー」に書かれたロック・ドラッグ・セックスの世界が展開されていた。アメリカのビートニク詩人アレン・ギンズバーグの詩「吠える」の一節を借りれば、「僕は見た。僕の世代の最良なる精神たちを」という言葉がピッタリの時代であった。

 この年を象徴するもう一つの事件とは、前年よりインドに行っていたSwプラブッダが帰国し、OSHOの講話録を翻訳し発行し始めたことだった。夏に北海道で開催されたコミューン祭りに参加するため仙台に立ち寄った時、彼が置いていった一日分の講話を訳した手書きの「存在の詩」一冊が、私の人生を大きく変えてしまった。

 自然に題材をとったOSHOの言葉は、まだまだ抽象的な四角い文字にこだわりを持っていた私の体にジワジワと染み込み始め、次第にコミューンに対する情熱も、結局12号まで続いた来た季刊誌「時空間」に対する情熱も失わせて行った。

 文章を書くにはこだわりを持ち続ける必要性があり、「存在の詩」を読むとこだわりが消えて、書くことも、「運動」することも出来なくなっていったのだ。

 コンサートや展覧会、温泉での合宿、みんなで勉強会をして行なわれた自宅出産など沢山の素晴らしい体験もあったが、経済的基盤の不確かさと、対関係を基とするカップリングの問題は解決されることなく、青春時代の4年間をかけた私の実質的な大学であったコミューン実験は、75年12月に終わった。

<4>につづく

 

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<2>

<1>からつづく 

Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <2>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

瞑想の旅の始まり

 アパートは仙台市郊外の住宅街にあり、近くの東北薬科大学の緑地公園内には日本に初めてニーチェを紹介した、高山樗牛が瞑想したという銘木「瞑想の松」が残されていた。共同生活のスペースは実験的コミューンとして当初この銘木にちなみ「瞑想の松ビューロー」と名づけられ、私が「瞑想」という言葉を意識しその神秘の響きにひかれたのは、この時の縁があったのだろう。

 取り立てて方針はなかった私達は、とにかく日本一周して全国各地の運動や共同体を見てこようと、ヒッチ・ハイクなどで3ヵ月間の旅に出ることになり、これを機会に「雀の森の住人達」と改称した。この72年に私達が北海道の網走・利尻・礼文島から本州・四国・九州、沖縄諸島まで、村や都市や山や海を走り回って見た日本の状況は、後々まで心の中に原体験として強烈に残るものであった。

 旅をしていると、よく山尾三省やサカキ・ナナオ率いる日本ヒッピー・ムーブメントの元祖「部族」の話題が出たが、すでに政治的な視点を捨ててドロップ・アウトし切っている姿は詩的ではあったが、安易な無責任さを感じなくもなかった。山岸会などの共同体も覗いてみたが、何処となく疲労していて、こちらもエネルギーはもはや私達の時代のものではないと感じた。

 全国各地で同世代による実験的なコミューン活動が展開されており、のちのSwアディナタは兄弟で福島の山中で農場開発をしていたし、同じくのちにSwプラブッタとなった然(ぜん)は熊本で加藤清正ゆかりの花園神社境内に自然食レストラン「神饌堂」を開いていた。竹や萱で作られた店内にはインド音楽ラビ・シャンカールのシタールが流れ、床にはバクミンスター・フラーのドーム建設の雑誌があったり、人なつっこいカラスが室内で飼われていたり、この旅で私の見た一番センスのよいスペースの一つであった。

 沖縄はまだアメリカから2ヵ月前に「復帰」したばかりで、右側通行、ジャミの音色、むせ返るような泡盛の味、そしてコザの街角にたたずむ長身の米兵達の姿に、私は強いカルチャー・ショックを感じた。島の一番綺麗なところに広がる緑地は全て米軍の基地であり、ここからベトナムに向かって轟音を伴って爆撃機が飛び立っていた。

 首里城のところには沖縄人のひとりが書いたのであろう「ヤマトンチュウ、クルスンドウ」という落書きがあり、日本人め殺してやるという沖縄語ウチナーグチに、虚栄の国からやってきた「戦争を知らない子供たち」世代の私はこの瞬間初めて民族・国境・国家を感じた。思えばこの時「ハイサイおじさん」の大ヒットの中で、のちのSwウパニシャッドことロック・シンガー喜納昌吉はドラッグで獄中の人となっていたのである。

 東京ではあぱっちの編集する「なまえのないしんぶん」がゲバ文字のアジビラに代わって登場し、旅をする各地で読むことが出来て、政治の時代に硬直してしまった私達の頭をマッサージしてくれた。旅から仙台に帰った私達はそれぞれのミニコミ誌を発展的に解消する形で、この旅で見た日本のカウンター・カルチャーを特集した若者文化雑誌「時空間」をスタートさせた。

 これをきっかけに人の出入りも多くなって全国の細かい情報が手に入るようになり、以前として方針の立たない暗中模索の真っ只中ではあったが、たくさんの人々が同じ探求の道にいることを確信したことは大きな収穫だった。次第に新しいカップルが参加したりして十人も増え、手狭になったアパートから、やがて伊達政宗ゆかりの禅寺・覚範寺境内の一軒家に引っ越すことになった。

<3>につづく

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「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<1> 

Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 ドロップ・アウトする若者文化

 OSHOが日本に紹介されて早20年近くが経ち、講話録もすでに60数冊発行されたが、彼とともに生きた人々について、あまり語られて来なかった。比較的早く彼の著書に触れ、瞑想センターの運営にも関わってきた立場から、私なりのアウトラインとして、この20年間を走り書きしてみたい。

 日本の社会的現象と個人的な体験を切り口としてOSHOを模索することは、すでにOSHOが大きな現象になっていることを思えば、群盲象を撫でるの喩えどおり、全体の把握は出来ないとしても、一人分の真実を語る試みにはなるだろう。

 第二次世界大戦後の日本は見事に経済を復興させ、東京オリンピックやビートルズ来日などに象徴されるような華々しい文化の成長を遂げていたが、60年代後半になると様々な矛盾が噴き出し、政治や文化に大きな問題として現れるようになった。

 私が高校に入学した69年には東大安田講堂事件が起こり、大阪万国博覧会の盛り上げる高度成長のムードの反面では、70年安保を象徴とするいわゆる学生運動がますます激しさを増してエスカレートして行った。

 私たちの高校でも上級生たちが政治的主張から、職員室のバリケード封鎖を企てる事件が起きた。マスコミは数週間トップ記事で大きく報道したが、現場を知っている私達はどの新聞を見ても問題の本質に触れていないことや、マスコミ同士の報道自体に食い違いがあることにも、深く失望した。

 この事件を学校新聞部としてカメラ取材していた私は、犯行グループの一員と目され、不当に連行されて取り調べを受けた上に、登下校の際に私服刑事達の尾行がつくことになった。小学校時代からずっと新聞部に属し、将来はジャーナリズムに進みたいと思っていた私の幼い正義感は、メチャメチャに打ちのめされてしまい、これをきっかけとして自己表現の個人ミニコミ誌「すくりぶる」を発行することにした。

 この誌名は英語で三文文士を意味し、価値観多様の中で見失いがちな自分自身のアイディンティティを模索しようという、ひとつの小さな究極の旅の始まりであった。友人たちには好評で、やがてNHKや「朝日ジャーナル」などマスコミでも取り上げるところとなって、それなりの手答えと自分の世界の拡大を感じることは出来たが、本当のことを知りたいという漠然とした想いが心の中から消えることはなかった。

 このような70年安保と言われた社会現象の中で、社会的問題から目をそらして受験勉強に狂奔する気にはなれず、将来のために現在を犠牲にするなんて考えられなかった。そんな時、沖縄反戦ディに全国全共闘の秋田明大や「ベトナムに平和を!市民連合」の作家・小田実が仙台にやって来て、大きな集会やデモが展開され、いつしか私もフォーク集会やフランス・デモに参加して行った。

 時代は過激ではあったが、ジェネレーション・ギャップから壮大な親子げんかををしているような一面もあり、ちなみに機動隊の武装車の上から学生たちに警告を発していた中央署々長の息子は同じクラスの友人であり、そばでデモ隊の救援活動をしていた。

 そんなある日の集会で、当時共通のスタイルとなっていたヘルメット・軍手・Gパンというゲバ学生姿の群れの中で、ひときわ異様な男に出会った。そこら中に「安保粉砕、闘争勝利、沖縄奪還、世界革命」などの四角い文字が乱舞する立看板をよそに、彼は長髪に段ボールで作った4本の角を生やし、そこに一文字づつ「人・間・解・放」の文字を掲げていた。

 これが私の青春に大きな影響を与えた冬崎流峰との出会いであった。東京出身の彼は新宿フォーク・ゲリラやTBS深夜放送・桝井論平の「パック・イン・ミュージック」で名前を馳せたあと、東北大学の学生として仙台に来たばかりであったが、一向に勉学にいそしむ風はなく、むしろ東京脱出を親に納得させる手段として仙台に進学したのであった。

 彼はアルベール・カミュの小説の主人公の名前をとって「ムルソー」というミニコミ誌を発行していて、後で分かったことだがswプラブッダと同じ高校の同期生だった。

 日米安保条約は批准延長されアパート・ローラー作戦などの展開で学生運動は次第に鎮静化し、全体的な敗北感の中で一部の過激派はよど号ハイジャックや浅間山荘事件などで孤立して行き、心情的な共感とは裏腹に、全体的な方向性は失われ、運動としての広がりを持てないものに変質して行った。

 高校を卒業した私は進学も就職もせず、行先知らずの暴走急行列車からドロップ・アウトし、勇気を持って自分の足で歩こうと、流峰らハイティーン4人でアパートを借り、共同生活を始めることにした。まだだま燃焼し切っていない私たちには頼りになる方針は何もなく、むしろ新しい運動の模索のための根拠地作りを目指したのだった。

<2>につづく

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2014/04/01

「アイアムヒッピー」 日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 2013増補改訂版<2>

<1>からつづく

Po

「アイ・アム・ヒッピー」  日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 増補改訂版
著=山田塊也 2013/10 発行=森と出版 単行本A5/363p
Total No.3202
★★★★★

 贈本である。当ブログとしては珍しい数冊目の一冊である。贈っていただいた経緯はいずれ書こう。何はともあれ、とても嬉しい。贈っていただいた方には心より御礼申し上げます。感謝。

目次:プロローグ-ヒッピーとは何者か?/1.ヒッピー前史”新宿ビートニク”/2.ヒッピーコミューン運動”部族”/3.南の島のコミューン”無我利道場”/4.反日思想とインド放浪/5.まつろわぬ山の民からの逆襲/エピローグ-結び合う心 地球療法/

 この本は増補改訂版であり、元本がある。当ブログでもすでに読み込み済み。どうやらあれからあっという間に20年以上が過ぎ、在庫なしの品切れ状態が続いていたようだ。今回ゆえあって増補改訂された。どんな風に変わっただろう、と並べてみた。

Po7

 表紙の感じはだいぶ違うな。ページをめくってみると、イラストなどもだいぶ増補されているみたいだ。増補改訂版とは言いながら、かなり手が加えられているので、これはあたらしい別な本として、読み直してみる価値があるかもしれない。

 それに新しいこちらには、ハードカバーケースもついている。

Cov2_2
 これは段ボールでできていて、なんだか三省の「聖老人」(1981/11プラサード書店)に似ている。どうやら編集に同じ人が関わっているかもな。

 よくよく見ると、出版社が変わっている。初版本は第三書館からだった。私はこの出版社を好きじゃない。「堕ちたグル」なんて本を、喜び勇んで出版したところである。

 本は出ないより出たほうがいいわけで、いろいろな本がバランス取れていた方がいい。だがあの出版社は当ブログから見ると、すこしく奇をてらった本が多かったように思う。

 さて、今回は「森と出版」というところである。この本が改訂されるプロセスにどういういきさつがあったのかは、これから読んでいけば少しは分かってくるだろう。内容的にはすでに読んだ本なので、おおよそイメージがつくが、さて、この本を2013年に再出版するところの意味は、どんなところにあったのだろう。

 すこし落ち着いて読んでみようかな。

<3>につづく

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