「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<2>

「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <2>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行
★★★★★
瞑想の旅の始まり
アパートは仙台市郊外の住宅街にあり、近くの東北薬科大学の緑地公園内には日本に初めてニーチェを紹介した、高山樗牛が瞑想したという銘木「瞑想の松」が残されていた。共同生活のスペースは実験的コミューンとして当初この銘木にちなみ「瞑想の松ビューロー」と名づけられ、私が「瞑想」という言葉を意識しその神秘の響きにひかれたのは、この時の縁があったのだろう。
取り立てて方針はなかった私達は、とにかく日本一周して全国各地の運動や共同体を見てこようと、ヒッチ・ハイクなどで3ヵ月間の旅に出ることになり、これを機会に「雀の森の住人達」と改称した。この72年に私達が北海道の網走・利尻・礼文島から本州・四国・九州、沖縄諸島まで、村や都市や山や海を走り回って見た日本の状況は、後々まで心の中に原体験として強烈に残るものであった。
旅をしていると、よく山尾三省やサカキ・ナナオ率いる日本ヒッピー・ムーブメントの元祖「部族」の話題が出たが、すでに政治的な視点を捨ててドロップ・アウトし切っている姿は詩的ではあったが、安易な無責任さを感じなくもなかった。山岸会などの共同体も覗いてみたが、何処となく疲労していて、こちらもエネルギーはもはや私達の時代のものではないと感じた。
全国各地で同世代による実験的なコミューン活動が展開されており、のちのSwアディナタは兄弟で福島の山中で農場開発をしていたし、同じくのちにSwプラブッタとなった然(ぜん)は熊本で加藤清正ゆかりの花園神社境内に自然食レストラン「神饌堂」を開いていた。竹や萱で作られた店内にはインド音楽ラビ・シャンカールのシタールが流れ、床にはバクミンスター・フラーのドーム建設の雑誌があったり、人なつっこいカラスが室内で飼われていたり、この旅で私の見た一番センスのよいスペースの一つであった。
沖縄はまだアメリカから2ヵ月前に「復帰」したばかりで、右側通行、ジャミの音色、むせ返るような泡盛の味、そしてコザの街角にたたずむ長身の米兵達の姿に、私は強いカルチャー・ショックを感じた。島の一番綺麗なところに広がる緑地は全て米軍の基地であり、ここからベトナムに向かって轟音を伴って爆撃機が飛び立っていた。
首里城のところには沖縄人のひとりが書いたのであろう「ヤマトンチュウ、クルスンドウ」という落書きがあり、日本人め殺してやるという沖縄語ウチナーグチに、虚栄の国からやってきた「戦争を知らない子供たち」世代の私はこの瞬間初めて民族・国境・国家を感じた。思えばこの時「ハイサイおじさん」の大ヒットの中で、のちのSwウパニシャッドことロック・シンガー喜納昌吉はドラッグで獄中の人となっていたのである。
東京ではあぱっちの編集する「なまえのないしんぶん」がゲバ文字のアジビラに代わって登場し、旅をする各地で読むことが出来て、政治の時代に硬直してしまった私達の頭をマッサージしてくれた。旅から仙台に帰った私達はそれぞれのミニコミ誌を発展的に解消する形で、この旅で見た日本のカウンター・カルチャーを特集した若者文化雑誌「時空間」をスタートさせた。
これをきっかけに人の出入りも多くなって全国の細かい情報が手に入るようになり、以前として方針の立たない暗中模索の真っ只中ではあったが、たくさんの人々が同じ探求の道にいることを確信したことは大きな収穫だった。次第に新しいカップルが参加したりして十人も増え、手狭になったアパートから、やがて伊達政宗ゆかりの禅寺・覚範寺境内の一軒家に引っ越すことになった。
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