「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<3>
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <3>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行
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仏様の子供たち
74年頃になると都市コミューン「ミルキー・ウェイ」(元・蘇生)の大友映男率いる東京のグループと連携することが多くなり、その冬に仙台の私達が主催して鳴子温泉で行なわれた全国叛文化運動合宿は、翌年の「星の遊行群」に結実して行った。沖縄から北海道まで半年かけて徒歩で縦断する75年全国叛文化キャラバンには多くのカウンター・カルチャー・グループが参加し、東大の高橋徹教授(社会学)などインテリ層をも参加した。この年に特筆すべきことは二つあり、一つは国内のみならず、インド、スリランカを初め世界に仏舎利塔を建立し続けている日本山妙法寺の人々とのふれあいである。
政治の時代には必ずしも宗教の世界は親しみはなかったが、サイケデリック・ムーブメントの中で精神世界に関心を持ったり、インドやアジアの旅に出る人々が増え、日本山の人々と付き合うことも多くなり、そんな関係からこの年のキャラバンのスタートの地点といて静岡の富士見仏舎利塔の境内がコンサート会場に提供されたのだ。
「仏様の子供たち」という主催者名でロック・コンサート「花まつり」が行なわれ、南正人や横浜のアシッド・セブンやポンなどが中心になって夜中まで歌い踊りの大行進が行なわれ、やや乱痴気ぎみの花まつりに驚いたのか、地元の警察がおっとり刀でパトカーを連ねてやって来た。
この時対応したオレンジ色の衣を着た出家姿のお坊さんは、落ち着き払ってにこやかにこう言った。「ホラ、御覧なさい。あんなに平和に歌って、踊って、あの笑顔。あの人達はみんな、仏様の子供たちなんですョ」 ポカンとした顔で聞いている警察官のかたわらで、私は深く感動していた。「私は誰か」という問い掛けに、一つ目の答えが当たられた感じだった。
思想界の流れは学生運動イデオローグの吉本隆明から太田竜などのゲバリスタ世界革命浪人達に移って行ったが、のちのSwビバーツこと片桐ユズル兄弟達の紹介するボブ・ディランなどのアメリカ文化もまぶしく、またウッド・ストック・フェスティバルに刺激されてロックコンサートも多く開かれ、至るところで村上龍の「限りなく透明に近いブルー」に書かれたロック・ドラッグ・セックスの世界が展開されていた。アメリカのビートニク詩人アレン・ギンズバーグの詩「吠える」の一節を借りれば、「僕は見た。僕の世代の最良なる精神たちを」という言葉がピッタリの時代であった。
この年を象徴するもう一つの事件とは、前年よりインドに行っていたSwプラブッダが帰国し、OSHOの講話録を翻訳し発行し始めたことだった。夏に北海道で開催されたコミューン祭りに参加するため仙台に立ち寄った時、彼が置いていった一日分の講話を訳した手書きの「存在の詩」一冊が、私の人生を大きく変えてしまった。
自然に題材をとったOSHOの言葉は、まだまだ抽象的な四角い文字にこだわりを持っていた私の体にジワジワと染み込み始め、次第にコミューンに対する情熱も、結局12号まで続いた来た季刊誌「時空間」に対する情熱も失わせて行った。
文章を書くにはこだわりを持ち続ける必要性があり、「存在の詩」を読むとこだわりが消えて、書くことも、「運動」することも出来なくなっていったのだ。
コンサートや展覧会、温泉での合宿、みんなで勉強会をして行なわれた自宅出産など沢山の素晴らしい体験もあったが、経済的基盤の不確かさと、対関係を基とするカップリングの問題は解決されることなく、青春時代の4年間をかけた私の実質的な大学であったコミューン実験は、75年12月に終わった。
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